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彦根城の主な文化財の紹介です。国宝は天守と附櫓及び多聞櫓(1棟)の2点、重要文化財は、次の6点です。天秤櫓、太鼓門及び続櫓(1棟)、西の丸三重櫓及び続櫓(1棟)、二の丸佐和口多聞櫓と馬屋です。

2017暮、滋賀と京都の日本百名城(8/17):彦根城(8/11):楓紅葉、西の丸、西の丸三重櫓

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2017/12/02 - 2017/12/02

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旅人のくまさん

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彦根城の主な文化財の紹介です。国宝は天守と附櫓及び多聞櫓(1棟)の2点、重要文化財は、次の6点です。天秤櫓、太鼓門及び続櫓(1棟)、西の丸三重櫓及び続櫓(1棟)、二の丸佐和口多聞櫓と馬屋です。

交通手段
新幹線 JRローカル
  • 『西の丸三重櫓』の中に展示された、現存天守12城の模型紹介の続きです。<br />『宇和島城』<br />愛媛県の宇和島市にある藤堂高虎築城の平山城、前身は、中世期にあった丸串城(板島城)です。現在の天守は、独立式層塔型 3重3階です。日本百名城の84番に選定されています。西側半分が海に接している『水城』です。

    『西の丸三重櫓』の中に展示された、現存天守12城の模型紹介の続きです。
    『宇和島城』
    愛媛県の宇和島市にある藤堂高虎築城の平山城、前身は、中世期にあった丸串城(板島城)です。現在の天守は、独立式層塔型 3重3階です。日本百名城の84番に選定されています。西側半分が海に接している『水城』です。

  • 『松山城』<br />愛媛県松山市にある連立式の層塔型3重3階地下1階 の天守群です。日本百名城の81番に選定されています。2009年のミシュラン観光版(ギード・ベール)日本編では、二つ星に選定されました。姫路城(兵庫県姫路市)、和歌山城(和歌山市)と並んで、三大連立式平山城とも呼ばれます。

    『松山城』
    愛媛県松山市にある連立式の層塔型3重3階地下1階 の天守群です。日本百名城の81番に選定されています。2009年のミシュラン観光版(ギード・ベール)日本編では、二つ星に選定されました。姫路城(兵庫県姫路市)、和歌山城(和歌山市)と並んで、三大連立式平山城とも呼ばれます。

  • 『丸亀城』<br />香川県丸亀市にある平山城です。高石垣と一緒に眺めないと、少し寂しい姿の天守です。日本百名城の78番に選定されています。亀山城や蓬莱城の別名を持ちます。現在は独立式層塔型3重3階の天守です。起源は、室町時代初期(14世紀頃)に遡りますが、現在の城郭は、1660年に築城され、1877年の改築です。

    『丸亀城』
    香川県丸亀市にある平山城です。高石垣と一緒に眺めないと、少し寂しい姿の天守です。日本百名城の78番に選定されています。亀山城や蓬莱城の別名を持ちます。現在は独立式層塔型3重3階の天守です。起源は、室町時代初期(14世紀頃)に遡りますが、現在の城郭は、1660年に築城され、1877年の改築です。

  • 『備中松山城』<br />岡山県高梁市にある山城です。山城としては、唯一天守が残ったお城とされます。日本百名城の68番に選定され、岩村城、高取城とともに日本三大山城にも数えられています。標高430メートルの臥牛山山頂にあり、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。

    『備中松山城』
    岡山県高梁市にある山城です。山城としては、唯一天守が残ったお城とされます。日本百名城の68番に選定され、岩村城、高取城とともに日本三大山城にも数えられています。標高430メートルの臥牛山山頂にあり、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。

  • 『丸岡城』<br />福井県坂井市にある平山城です。平山城としては、現存する天守では最古との説があり、日本百名城の36番に選定されています。別名は霞ヶ城です。五角形の内堀は現在埋め立てられていますが、この内堀を復元する計画があり、天守の国宝指定を目指しています。

    『丸岡城』
    福井県坂井市にある平山城です。平山城としては、現存する天守では最古との説があり、日本百名城の36番に選定されています。別名は霞ヶ城です。五角形の内堀は現在埋め立てられていますが、この内堀を復元する計画があり、天守の国宝指定を目指しています。

  • 『弘前城』<br />青森県弘前市にある独立式層塔型3層3階の平山城です。東北で唯一現存の天守を持つ、津軽氏歴代城主の居城でした。日本百名城の4番に選定されています。小説家の司馬遼太郎は、紀行文集『街道をゆく・北のまほろば』で、弘前城を『日本七名城の一つ』と紹介しました。桜が綺麗で、岩木山とのコラボも絶景です。

    『弘前城』
    青森県弘前市にある独立式層塔型3層3階の平山城です。東北で唯一現存の天守を持つ、津軽氏歴代城主の居城でした。日本百名城の4番に選定されています。小説家の司馬遼太郎は、紀行文集『街道をゆく・北のまほろば』で、弘前城を『日本七名城の一つ』と紹介しました。桜が綺麗で、岩木山とのコラボも絶景です。

  • 現存する12天守の模型が展示してあった、国の重要文化財の『西の丸三重櫓』の内部光景です。2017年3月から12月10日まで開催されていた、『国宝・彦根城築城410年祭』での展示でした。

    現存する12天守の模型が展示してあった、国の重要文化財の『西の丸三重櫓』の内部光景です。2017年3月から12月10日まで開催されていた、『国宝・彦根城築城410年祭』での展示でした。

  • 『西の丸三重櫓』の一角では、『国宝・彦根城築城410年祭』の記念行事として、『プレイバック城下町彦根シアター(国宝・彦根城)』が放送されていました。開幕から7月までが第一部の『城づくり』、8月から12月までが第二部が『町づくり』でした。

    『西の丸三重櫓』の一角では、『国宝・彦根城築城410年祭』の記念行事として、『プレイバック城下町彦根シアター(国宝・彦根城)』が放送されていました。開幕から7月までが第一部の『城づくり』、8月から12月までが第二部が『町づくり』でした。

  • 『西の丸三重櫓』から眺めた、西方向になる琵琶湖方面の光景です。写真中央付近にお堀の光景がありました。縄張図を参照しますと、内堀の一部になるようです。あるいは、中堀と内堀が一体となった場所辺りかも知れません。

    『西の丸三重櫓』から眺めた、西方向になる琵琶湖方面の光景です。写真中央付近にお堀の光景がありました。縄張図を参照しますと、内堀の一部になるようです。あるいは、中堀と内堀が一体となった場所辺りかも知れません。

  • 『西の丸三重櫓』から見下ろした彦根城内の石垣光景です。彦根城の城郭部分の縄張りは、東西に長い形をしています。その西南付近の光景になります。紅葉が見える石垣の上は『出郭』のようです。

    イチオシ

    『西の丸三重櫓』から見下ろした彦根城内の石垣光景です。彦根城の城郭部分の縄張りは、東西に長い形をしています。その西南付近の光景になります。紅葉が見える石垣の上は『出郭』のようです。

  • 『西の丸三重櫓』からの眺めが続きます。中央の右端に見えるのが、内堀と中堀の間に位置する彦根西中学校のようです。写真左上には佐和山が、右上には琵琶湖南部が見えています。

    『西の丸三重櫓』からの眺めが続きます。中央の右端に見えるのが、内堀と中堀の間に位置する彦根西中学校のようです。写真左上には佐和山が、右上には琵琶湖南部が見えています。

  • 先程の写真で、右端に見えていた、佐和山方面のズームアップ光景です。お堀の内側に、テニスコートらしいものが見えました。

    先程の写真で、右端に見えていた、佐和山方面のズームアップ光景です。お堀の内側に、テニスコートらしいものが見えました。

  • 『西の丸三重櫓』の内部光景に戻ります。木造建築としては、万全の耐震対策が施されているように見えました。柱と同時期に施設されたらしい筋交いと横梁が露出していました。

    『西の丸三重櫓』の内部光景に戻ります。木造建築としては、万全の耐震対策が施されているように見えました。柱と同時期に施設されたらしい筋交いと横梁が露出していました。

  • 同じく、筋交いが満遍なく施された、『西の丸三重櫓』の内部光景です。1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)にかけて解体修理が行われていますので、この時の補強かも知れませんが、この時期ではあまり耐震補強の問題は顕在化していなかったようです。

    同じく、筋交いが満遍なく施された、『西の丸三重櫓』の内部光景です。1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)にかけて解体修理が行われていますので、この時の補強かも知れませんが、この時期ではあまり耐震補強の問題は顕在化していなかったようです。

  • 見学を終えて、外から眺めた『西の丸三重櫓』の光景です。この三重櫓は、浅井長政の小谷城の天守を移築したものと言われ、万治年間(1658~1661年)に建てられたものです。ただし、1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)にかけて行われた解体修理では、その形跡は見つかっていないとされます。

    イチオシ

    見学を終えて、外から眺めた『西の丸三重櫓』の光景です。この三重櫓は、浅井長政の小谷城の天守を移築したものと言われ、万治年間(1658~1661年)に建てられたものです。ただし、1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)にかけて行われた解体修理では、その形跡は見つかっていないとされます。

  • 野草で、野菊の一種のヨメナ(嫁菜)のようです。キク科シオン属の多年草です。かつてはヨメナ属でしたが、シオン属にまとめられました。古くは万葉集の時代から、若芽が食用とされました。

    野草で、野菊の一種のヨメナ(嫁菜)のようです。キク科シオン属の多年草です。かつてはヨメナ属でしたが、シオン属にまとめられました。古くは万葉集の時代から、若芽が食用とされました。

  • 『イロハカエデ」らしい紅葉のズームアップ光景です。ヨメナを見かけた場所の近くでの撮影です。紅葉の代表種で、このイロハカエデを基に作られた園芸種も多いとされます。

    『イロハカエデ」らしい紅葉のズームアップ光景です。ヨメナを見かけた場所の近くでの撮影です。紅葉の代表種で、このイロハカエデを基に作られた園芸種も多いとされます。

  • 西の丸への出入口の虎口の石垣光景です。辺り一面に楓の紅葉が散り敷いていました。次は、『西の丸』より、さらに西にある『出郭』の見学です。その間には、天秤櫓がある場所と同じように、『大堀切』が築かれています。

    西の丸への出入口の虎口の石垣光景です。辺り一面に楓の紅葉が散り敷いていました。次は、『西の丸』より、さらに西にある『出郭』の見学です。その間には、天秤櫓がある場所と同じように、『大堀切』が築かれています。

  • 『西の丸』への出入口になる虎口付近から、振り返って眺めた『西の丸』の光景です。虎口方面には、『玄宮園』への案内表示がありました。彦根城の縄張りの西側方面を見学した後に、『玄宮園』に向かう予定です。

    『西の丸』への出入口になる虎口付近から、振り返って眺めた『西の丸』の光景です。虎口方面には、『玄宮園』への案内表示がありました。彦根城の縄張りの西側方面を見学した後に、『玄宮園』に向かう予定です。

  • 『西の丸』の虎口付近から振り返って眺めた、『西の丸三重櫓』方面の光景です。三重櫓は、楓の陰になってしまいましたが、二方向に伸びる続櫓が見えました。彦根藩主井伊家の歴史を綴った『井伊年譜』によれば、築城当初、西の丸三重櫓は家老の木俣土佐守守勝に預けられていたとされます。初代藩主の井伊直政が関ヶ原の戦傷が元で亡くなり、家督を継いだ井伊直継が幼少だったためです。

    『西の丸』の虎口付近から振り返って眺めた、『西の丸三重櫓』方面の光景です。三重櫓は、楓の陰になってしまいましたが、二方向に伸びる続櫓が見えました。彦根藩主井伊家の歴史を綴った『井伊年譜』によれば、築城当初、西の丸三重櫓は家老の木俣土佐守守勝に預けられていたとされます。初代藩主の井伊直政が関ヶ原の戦傷が元で亡くなり、家督を継いだ井伊直継が幼少だったためです。

  • 右端に見えるのは、『西の丸』の石垣の下から眺めた、『西の丸三重櫓』の続櫓の光景です。直政亡き後の家老の木俣守勝は、徳川家康に相談の上、直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)に彦根城の築城を開始しました。築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられた天下普請でした。

    右端に見えるのは、『西の丸』の石垣の下から眺めた、『西の丸三重櫓』の続櫓の光景です。直政亡き後の家老の木俣守勝は、徳川家康に相談の上、直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)に彦根城の築城を開始しました。築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられた天下普請でした。

  • 『西の丸』の紅葉の楓の光景です。1606年(慶長11年)、2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に二代目藩主の直継が入城しました。1616年(元和2年)、彦根藩のみの手により第3期工事が開始されました。これは、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の影響があったためとされます。

    『西の丸』の紅葉の楓の光景です。1606年(慶長11年)、2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に二代目藩主の直継が入城しました。1616年(元和2年)、彦根藩のみの手により第3期工事が開始されました。これは、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の影響があったためとされます。

  • 『西の丸』の西端の石垣のズームアップ光景です。石材が揃わなかったのか、角の部分の算木積は、切込み接ぎと、打込み接ぎを折衷したような積み方でした。右下に見えるのが『出郭』です。第3期工事の時に御殿が建造され、1622年(元和8年)にすべての工事が完了し、彦根城が完成しました。

    『西の丸』の西端の石垣のズームアップ光景です。石材が揃わなかったのか、角の部分の算木積は、切込み接ぎと、打込み接ぎを折衷したような積み方でした。右下に見えるのが『出郭』です。第3期工事の時に御殿が建造され、1622年(元和8年)にすべての工事が完了し、彦根城が完成しました。

  • 『大堀切』に架かる木橋の光景です。木橋の先に見えるのが、馬出しの機能を持つ『出郭』です。出郭の石垣は、穴太衆が築いた記録が『井伊年譜』に残されているようです。打込み接ぎに見えました。

    『大堀切』に架かる木橋の光景です。木橋の先に見えるのが、馬出しの機能を持つ『出郭』です。出郭の石垣は、穴太衆が築いた記録が『井伊年譜』に残されているようです。打込み接ぎに見えました。

  • 『大堀切と出郭』のタイトルがあった説明看板の光景です。『大堀切(おおほりぎり)』は、『西の丸』と『出郭(でぐるわ)』との間に設けられています。『出郭』は、『馬出し』の機能を持ち、『井伊年譜』によれば、その石垣は石工集団の穴太衆により築かれました。

    『大堀切と出郭』のタイトルがあった説明看板の光景です。『大堀切(おおほりぎり)』は、『西の丸』と『出郭(でぐるわ)』との間に設けられています。『出郭』は、『馬出し』の機能を持ち、『井伊年譜』によれば、その石垣は石工集団の穴太衆により築かれました。

  • この辺りのイロハモミジは、ちょうど見頃でしたから、纏めて写真紹介します。『西の丸』の最西部付近になります。

    この辺りのイロハモミジは、ちょうど見頃でしたから、纏めて写真紹介します。『西の丸』の最西部付近になります。

  • 紅葉したイロハカエデのズームアップ光景です。日当たりの大場所が赤色、少し隠れた場所がオレンジ色に近い赤色でした。

    紅葉したイロハカエデのズームアップ光景です。日当たりの大場所が赤色、少し隠れた場所がオレンジ色に近い赤色でした。

  • 真っ赤に燃える楓の紅葉です。この辺りのカエデも、『イロハカエデ』のようです。一番の見頃でもあり、素晴らしい色付きでした。

    真っ赤に燃える楓の紅葉です。この辺りのカエデも、『イロハカエデ』のようです。一番の見頃でもあり、素晴らしい色付きでした。

  • 今度は、イロハカエデの黒い枝も入れての撮影です。自生するのは日本、朝鮮半島、中国、台湾などの東アジアです。日本では、本州以南の平地から標高 1000メートル 程度にかけての低山で多く見られるカエデです。

    イチオシ

    今度は、イロハカエデの黒い枝も入れての撮影です。自生するのは日本、朝鮮半島、中国、台湾などの東アジアです。日本では、本州以南の平地から標高 1000メートル 程度にかけての低山で多く見られるカエデです。

  • 『出郭』から眺めた、かつての彦根城下町の光景です。かなり落葉した楓の枝先でしたから、琵琶湖や、その先の山並みも見通せました。対岸は、京都市より北側の区域になります

    『出郭』から眺めた、かつての彦根城下町の光景です。かなり落葉した楓の枝先でしたから、琵琶湖や、その先の山並みも見通せました。対岸は、京都市より北側の区域になります

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