2017/12/02 - 2017/12/02
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旅人のくまさんさん
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滋賀と京都の名城巡りです。滋賀の彦根城紹介の締め括りは、国の名勝に指定されている大名庭園の『玄宮園』です。井伊直弼公が誕生したとされるかつての槻御殿、現在の『楽々園』の一部は修復工事中でした。
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『井伊直弼生誕地』の小さな石標と、その上の『平成29年楽々園建造物(地震の間ほか)保存整備工事の案内板です。江戸時代に造られた地震御殿は、それまでの和風建築技術の上に、さらに木造船の技術を導入して耐震性を高めています。彦根城の『地震の間』では、建造以来数百年間に起こった地震にも耐えてきたといわれています。剛構造型の耐震建築は、自然の力に抗して耐震性を持たせる考えですが、日本で開発され、最近多く使われるようになった、制振や免振による耐震建築は、地震力を、逃がして制する技術思想です。その考えが既に江戸時代にも使われていました。古くは、五重塔の心柱構造、あるいは三十三間堂の基礎工事などにも耐震性に対する工夫があります。三十三間堂は京都市東山区にあり、後鳥羽上皇が、1265年に再建した、1001体もの観音像を安置する長さ138メートルのお堂です。基礎は粘土や砂利など弾力性のある土壌で固め、柔軟性を持たせてあります。免震構造の考えです。
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槻御殿は、初めは黒門外(前)屋敷という名前でしたが、総槻(ケヤキ)造りであったことから『槻御殿(けやきごてん)と呼ばれるようになりました。現在は、建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けています。庭園部分が国の名勝に指定されています。
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槻御殿、今は楽々園と呼ばれている下屋敷跡の玄関光景です。随分と高く作られたように見える唐破風の車寄せでした。井伊直弼は、文化12年(1815年)10月に第11代藩主の直中の14男として、槻御殿で生まれ、17歳までここで過ごしました。隠居していた父の直中が亡くなったのが17歳の時でした。その後、直弼が暮らしたのが、中堀に面した『埋木舎』です。
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二つ並んだ立札の光景です。右の立札が『楽々園』と題された説明文です。戦後に埋め立てられた『松原内湖』が存在していた頃の景色が紹介されていました。左の立札が観光ルートを図示した説明文でした。現在工事中のために記された案内ルートのようでした。
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築造された時、その豪華さに諸大名が驚いたと言われる『槻御殿(けやきごてん)』の光景です。名前の由来は、『総桧造り』の建物にあります。第4代藩主の井伊直興が延宝7年(1679年)に造り上げた下屋敷です。
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側面からの『槻御殿』のズームアップ光景です。諸芸の道に親しんだ父・直中の影響により、文化的素養を身に着けていったのはこの槻御殿の時代とされます。特に能は、直中が屋敷に能舞台を設けて能楽師を召し抱えるほど造詣が深く、直弼にとっても能は身近な存在となりました。
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『槻御殿』の濡れ縁の前の踏み台の光景です。高、中、低と三段の踏み台が石段のように並んでいました。沓脱石(くつぬぎいし)とも呼ばれています。井伊家では、藩主の子であっても世子以外は、他家に養子に行くか、家臣の養子となってその家を継ぐか、あるいは寺に入るのが決まりとされていました。庶子である直弼はそのしきたりに従って、槻御殿を出て『埋木や』での部屋住みの身となりました。
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斜め前から眺めた、『槻御殿』の濡れ縁と障子戸の光景です。自身の行く末が決まらないまま、自ら名付けた『埋木舎』での文武に励んだ直弼の生活は、16年間続きました。32歳の時、13代藩主の井伊直亮(なおあき:1794~1850年)の養子となり、14代藩主としての道が拓けました。直亮は直弼の兄であり、養父となりました。
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『槻御殿』の離れbの建物も紹介しておきます。現在修復作業中でしたから、少し離れた場所からの撮影になりました。何棟かに分かれた、高床式の平屋建ての建物でした。
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同じく、高床式の離れの建物です。イメージ的には、かなり建て込んでいるようにも見えました。傾斜地に建つ、足の長い高床式の建物の光景です。
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離れた場所からのずーるアップでの撮影ですが、鮮やかな赤色の実を付けていたのは、『ナンテン(南天)』のようでした。メギ科ナンテン属の常緑低木です。葉は、南天葉(なんてんよう)という生薬になり、健胃、解熱、鎮咳などの作用があるとされます。
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『楽々園』の東側から眺めた、『玄宮園』の方面の光景です。左手になる北側には、常緑の高木や、紅葉の木が立ち並ぶ光景がありました。
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『楽々園』の東側から眺めた周りに庭石が配された庭園の光景です。右側に見える塀に向かって緩やかな傾斜地でした。庭園の南側の光景になるようです。築山とは少しイメージの違う、小高くなった部分でした。
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ゆるい傾斜部分に、ゆったりと配された庭石と石灯篭の光景です。その後ろには、松の庭木もありました。 御書院から望む庭園は、玄宮園の池泉を借景とする枯山水として作庭されています。
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『玄宮園』の池泉を借景として作庭された、『楽々園』の枯山水の庭園の光景です。『玄宮園』の池泉だけでなく、更にその背後の山並みも借景になっていました。
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『トベラ(扉)』の実の光景です。トベラ科トベラ属の常緑低木で、東北地方南部以南、韓国、台湾、中国南部までの海岸に自生します。枝葉は切ると悪臭を発するため、節分にイワシの頭などとともに魔よけとして戸口に掲げられました。そのため『扉の木』と呼ばれ、これがなまって『トベラ』となったとされます。
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『玄宮園』の側から、振り返って眺めた『楽々園』の光景です。『楽々園』には、『御書院』、『地震の間』、『楽々の間』、『雷の間』、『新東西の間』や『鳰の間』など、江戸時代後期の数奇屋建築が現存します。左端の大きな建物が諸大名を驚かせた『御書院』になるようです。
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根が露わになった、古木の周りに配された庭石の光景です。南天の赤い実が彩りを添えていました。平凡に見えた石組の中で、細長い尖った庭石だけが存在を自己主張しているようでした。
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複数箇所に、全く同じ内容の説明文があった『欅御殿』のパネルです。少し訂正して、その内容を紹介しておきます。『楽々園』の名前の由来です。『知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ』から採られたようです。論語の中の教えです。知者が物事を円滑に処理する様子を、水の流れに例え、仁者が欲に動かされぬ様子を、不動の山に例えたものです。
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回遊式の池泉の北側を通って東側に向かいました。その途中の光景です。庭園をゆっくり鑑賞できるよう、ベンチが並んでいました。その背後は自然林の趣がありました。
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『玄宮園』の回遊式の池泉の北側を通った時の光景です。池に架かる橋の光景がありました。北側の通り道は幅が広く、砂利が敷かれた場所と、下草が生えていた場所とが混在していました。
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回遊式の池泉に架かる橋の袂付近の光景です。この木橋は立入り禁止にされていました。遠くに彦根城の天守が見える場所でした。南側方面の景色になるようでした。
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自然林らしい場所をバックにした、紅葉の木々の光景です。自然林に見えましたが、『楽々園』の北部にあった『松原内湖』が戦後に埋め立てられたことにより、その目隠しに植栽された常緑樹かも知れません。紅葉の木々は、その彩り添えになっていました。カエデ(楓)のようです。
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イチオシ
薄っすらと白地にピンク色が入った、ツバキ(椿)の花の光景です。同じツバキ科のサザンカ(山茶花)の方だったようです。色といい、一重の花といい、可憐な花姿でした。
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イチオシ
玄宮園から見上げた、彦根城天守の光景です。カメラでズームアップした光景です。後楽園から眺めた岡山城天守の光景を思い出しました。玄宮園は国の名勝、後楽園は特別名勝です。大雑把に言えば、特別名勝が国宝クラス、名勝が重文クラスといったところです。
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崖を繋ぐ橋がある『飛梁溪』の光景です。『玄宮園』は、第4代と第7代の藩主、井伊直興が1677年に造営しました。近江八景を模して作られました。近江八景は、石山秋月(石山寺)、勢多(瀬田)夕照(瀬田の唐橋)、粟津晴嵐(粟津原)、矢橋帰帆(矢橋)、三井晩鐘(三井寺)、唐崎夜雨(唐崎神社)、堅田落雁(浮御堂)と比良暮雪(比良山系)の八つです。江戸後期の浮世絵師、歌川広重の絵も有名です。
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ここからは、回遊式池泉式の庭園の光景に戻ります。先程眺めた、立入り禁止になっていた木橋の側面光景です。くっきりとその姿を池泉に映していました。池には四つの島があり九つの橋が架かり、湖畔に臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物を配置しています。その建物の一部も見えています。
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庭園ですが、雄大な自然の景色を連想させる光景です。中国湖南省の洞庭湖にある唐時代の玄宗皇帝(685~765年)の離宮庭園のを参考に、『瀟湘八景(しょうしょうはっけい)』を『近江八景』に置き換えたとされます。『瀟湘八景』は、瀟湘夜雨、平沙落雁、煙寺晩鐘、山市晴嵐 、江天暮雪、漁村夕照、洞庭秋月と遠浦帰帆の八つです。
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イチオシ
玄宮園の庭園光景です。鏡のような水面に映り込んだ周りの景色です。景色を二倍以上に楽しむことができました。『近江八景』が、『近江十六景』になったかもしれません。
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同じように、二倍以上に景色を楽しむことができた光景です。青空も、白い雲も池に写り込んでいました。この種の景色では、スカンジナビア半島のフィヨルド航海を思い出します。
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