2017/06/21 - 2017/06/29
190位(同エリア880件中)
ポポポさん
ドレスデンはザクセン王国の首都として繁栄を遂げた街ですが、第2次世界大戦末期の1945年2月13日から15日にかけて英米の戦略爆撃機の大空襲を受け壊滅的な被害を受けました。建物の85%が消失し、一説には15万人ともいわれる非戦闘員の人命が失われました。
被害を受けた歴史的建造物の多くは戦後修復または再建され、往時の繁栄を今に見ることができるようになりました。
さて、最近旅行記の作成が遅々として進まないため、後回しにしていた中欧5カ国の旅。後回しにすればするほど記憶が遠退いてしまうので少しづつ作成することにしました。
但し、ガイドさんの説明をメモっていた旅程表を紛失してしまい、思うように記事がすすみませんでした。そんな稚拙な旅行記ですが目を通してみてください。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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6月23日旅行2日目です。
午前中にベルリンを観光し、夕方ドレスデンに到着しました。
写真はノイシュタットにあるアウグスト強健王の黄金の騎馬像です。夕方とはいえ北ドイツのドレスデンはまだまだ明るいのです。 -
この金色の騎馬像は遠くからでも目立ちました。
第二次世界大戦中は岩塩鉱に隠されていたそうです。
アウグスト強健王はザクセン選帝侯のフリードリヒ・アウグスト1世とポーランド・リトアニア共和国の王アウグスト2世という2つの顔を持つ王でした。ザクセンのヘラクレスと呼ばれるほど力持ちで、馬の蹄鉄を素手でへし折っていたそうですよ。恐るべき腕力の持ち主ですね。
更に精力は絶倫、愛人は100人を超え成した子供は365人とも380人とも言われています。
ただし、これだけならただの色情狂ですが、マイセン磁器を誕生させたりドレスデンを華麗なバロックの街に発展させたりしています。
また芸術や文化に高い関心をしめした強健王は美術品の収集にも積極的でした。 -
ノイシュタットからエルベ川を渡り、川沿いに進むとブリュールのテラスと呼ばれる所に出て来ました。
ブリュールのテラス 散歩・街歩き
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ドレスデンはザクセン公国の首都として繁栄し、18世紀初めにアウグスト強健王によって華麗なバロック様式の街に発展しました。
第二次世界大戦末期の1945年2月13日から15日にかけて英米の戦略爆撃機の無差別爆撃を受け、町の85%が破壊され死亡者は3万人とも15万人とも言われています。世にいう「ドレスデン大空襲」ですが、多数の歴史的建造物も壊滅的被害を受けました。
ドレスデンは軍需施設も軍事工場もなく、ドイツバロック建築で知られた古都であるため、ドイツ人の誰もがよもやドレスデンが爆撃を受けるなどとは夢にも思っていませんでした。
そのため高射砲などの防空施設はありませんでした。もはや戦いの帰趨は見えていた時期でドイツの敗戦は時間の問題でした。この爆撃はドイツの非戦闘員を殺傷することが目的で、そのための方策が練りに練られていました。
爆撃は四波に分かれていました。第一波が爆弾を投下して建物を破壊すると防空壕から消火や救護のために市民が路上に出てきます。
その時期を見計らって第二が襲来し、路上の市民を標的にして爆弾や焼夷弾を投下しました。
米軍の爆撃ではB-17の爆弾投下の後に、路上に溢れた市民を標的にしてPー51ムスタングが機銃掃射を行い、効果的に市民を殺傷しました。
このような戦法は米軍の日本本土爆撃で頻繁に行われています。
ドレスデン爆撃はイギリスの議員の中からあまりにも非人道的な爆撃であるとの非難が起こり、以後は同様の爆撃は行われませんでした。
が、アメリカ軍は違いました。ドレスデンで行われた焼夷弾攻撃は木造建築に有効で、炎上で巻き起こる火災旋風が次々に建物を飲み込み大火災を起こしたという実証をもとに、これに改良を加えて1945年3月10日東京大空襲を実施しました。
作戦は焼夷弾を有効活用して火災を発生させる。混乱した都民の逃げ場を塞ぐため焼夷弾の投下地点は綿密に決められていました。こうして火災旋風を発生させて混乱する東京市民を火炎で囲み一夜にして10万人以上もの命が奪れました。
そのため米戦略爆撃司令部では関東大震災による火災炎上の検証を綿密に行って東京の下町を火の海にしました。夜間超低空爆撃だっため混乱する都民に対し機銃掃射も行われ以後の空襲で参考とされました。
さて、東西ドイツ統合前後に大戦で灰塵にきした歴史的建物が再建され始め、2005年に聖母教会の復元が完了することで、主要な建物の復元が終了しました。
我々のバスはザクセン州立歌劇場やツヴィンガー宮殿が面している劇場広場で停車しました。
ここでガイドさんと待ち合わせ。するとレズデンツ城のほうからやってきたのはガイドのマニュエラさんでした。小柄でやや小太りの女性ですが日本語が堪能でジョークを連発して我々を笑わせてくれました。日本には留学経験があり、その時日本が大好きなドイツ人になったそうです。
今でも毎年日本に観光に来ているそうで、今年は京都に2週間滞在するそうです。ガイドさんと合流したのでいよいよドレスデン旧市街観光の開始です。
見えているのは三位一体大聖堂とレジデンツ城です。劇場広場 広場・公園
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三位一体大聖堂です。
元は宮廷教会として建てられた教会で、現在はドレスデンとマイセンのカテドラル(司教座教会)です。カトリック旧宮廷教会 (三位一体大聖堂) 寺院・教会
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劇場広場に面しているドレスデン城(レジデンツ城)です。
ドレスデン城はザクセン公国の居城で、アウグスト強健王の時代に現在の姿になりました。
他の建物と同様第二次世界大戦の終盤に英米軍の戦略爆撃機の爆撃を受け破壊されました。
1985年に再建が始まり、忠実に復元されて現在は博物館になっています。
館内には「緑の丸天井」という宝物館があり、ここは必見の場所だそうです。
残念ながら我々はそこを観光する時間を持ち合わせていませんでした。ドレスデン城 (レジデンツ宮殿) 城・宮殿
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三位一体大聖堂(宮廷教会)です。
元々18世紀に宮廷教会として建てられましたが、現在はドレスデンとマイセンのカテドラル(司教座聖堂)です。
カテドラルと言うことはローマカトリックの聖堂ということですが、ドレスデンは新教徒の町です。
アウグスト強健王も元はプロテスタントでしたが、ポーランド王を兼任したいとの野望を持っていたため勝手にカトリックに改宗してしまいました。
その事がプロイセンなど他の新教国や正室との軋轢を生みますが、強健王は意に介せず己れの野望達成のため邁進するのです。
ザクセン公国は新教徒の国なのにカトリックのカテドラルがあるのはそのような理由からです。
結局はオーストリアやロシアの後押しもあってポーランド王になるのですが政治的にはさしたる成果はあげていません。
強健王はポーランドのワルシャワで死亡したため遺体はそちらに埋葬されましたが、心臓はこの教会の納骨堂に安直されています。
なお、アウグスト強健王の正室クリスティアーネは敬虔なプロテスタントでした。夫がカトリックに改宗しようと、信仰を曲げませんでした。夫とは袂を分かち孤高の人を貫きました。夫アウグスト2世のポーランド王戴冠式にも出席しませんでした。
クリスティアーネとアウグスト強健王は純然たる政略結婚でした。アウグスト強健王は名うての女たらしで、結婚した時すでに愛人がいました。クリスティアーネが袂を分かったことで水を得た魚のように女漁りに精を出したそうです。
それに比べクリスティアーネの結婚生活は非常に不幸でした。そのような中においても所領で親のない子の奉仕活動を行いながら領民に慕われながら静かに生涯を送ったそうです。私は孤高の王妃クリスティアーネに拍手を送ります。カトリック旧宮廷教会 (三位一体大聖堂) 寺院・教会
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劇場広場とドレスデン城。
ドレスデン城 (レジデンツ宮殿) 城・宮殿
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劇場広場と三位一体大聖堂、ドレスデン城。
反対側にはザクセン州立歌劇場やツヴィンガー宮殿があります。劇場広場 広場・公園
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ツヴィンガー宮殿です。アウグスト強健王によって1728年に建てられました。
手がけた建築家はペッペルマンで、この宮殿はドイツバロックの見本だと言われています。
1945年2月英米軍による無差別爆撃で瓦礫と化しました。1988年から再建が始まり、1992年に完成しました。
現在この宮殿にはアルテ・マイスター絵画館、武器博物館、磁器コレクション、数学・物理サロンがあります。我々はその内のアルテ・マイスター絵画館を見学しました。
写真は宮殿の王冠の門です。ツヴィンガー宮殿 城・宮殿
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ツヴィンガー宮殿の中庭です。写真左はニンフの浴場と呼ばれている噴水の一部分です。
ツヴィンガー宮殿 城・宮殿
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アルテ・マイスター絵画館です。ツヴィンガー宮殿の北側の建物の内、左側の建物が絵画館です。
一方、右側の建物は武器博物館になっています。
絵画館は写真中央のアーチを左に入ると入口が有ります。アルテ マイスター絵画館 博物館・美術館・ギャラリー
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アルテ・マイスター絵画館の入口です。
絵画館1階への上り口は反対の階段から。1階はチケット売り場とクロークとトイレがあります。
絵画の展示室は2階と3階でした。アルテ マイスター絵画館 博物館・美術館・ギャラリー
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ラファエロの「システィーナのマドンナ」がお出迎え。この絵を見たかった。
アルテ・マイスター絵画館は元々16世紀に時のザクセン選帝侯が設立しましたが、アウグスト強健王とその息子ザクセン選帝侯アウグスト2世の時代に拡充しました。
1720年代にポーランドの王室から不法に多数の絵画が持ち出され、コレクションに加えられていますが、この中にはレンブラントの名画2枚も含まれます。
こうして質・量共に充実したコレクションは欧州各国に認知されました。
第二次世界大戦末期、英米軍の戦略爆撃機による大空襲で美術館は爆撃を受けて壊滅的な被害を被りました。
美術品は岩塩鉱や炭鉱に避難していたため損害を免れましたが、運搬中のトラックが爆撃を受け相当数の絵画が焼失、散逸したそうです。
ドレスデンがソ連に占領されると疎開させられていた作品が探り出され、コレクションは全てソ連軍に持ち去られ、モスクワにある美術館の収蔵品に加えられました。
その後東ドイツに返還されましたが、多数の絵画が行方不明になっていたそうです。
持ち出したソ連の将校達が不法に私物化したとか、今もモスクワの美術館に眠っているとか憶測が飛び交っていますが、真実は分かりまん。アルテ マイスター絵画館 博物館・美術館・ギャラリー
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絵画の展示室は2階と3階です。
ガイトさんが真っ先に案内されたのがフェルメールの絵画。2階の一番奥にありました。
フェルメールの絵画は2枚あるはずですが1枚しかありません。
しかも見たかった「窓辺で手紙を読む女」がありません。この絵は修復中で見れませんでした。現在も修復が続いていて、いつ展示されるか分かっていません。
その為見たのは「取り持ち女」のみでした。「取り持ち女」は最近日本に来たので御覧になった方もいらっしゃると思います。
フェルメールとしては珍しい風俗画で売春宿の情景が描かれています。
左側の女性が取り持ち女と呼ばれ、娼婦と客との仲介をする女性です。
一番左端で鑑賞者の方を見ている男性はフェルメール自身だと言われているそうです。
この作品にはフェルメール自身の名前と製作年月日が記されているそうで、そのような作品はこの作品を入れてわずか3点しかないそうです。アルテ マイスター絵画館 博物館・美術館・ギャラリー
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フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」。
本来はこの絵があるはずでしたが修復中のため見れませんでした。最近TVで見たところでは女性の後ろの壁の中に絵があることが分かったので、上塗りした壁を削ぎ落として元の絵を取り出す作業をしているそうです。
壁の部分の表面を削る量は一日で0.03ミリだそうで、大変神経を使い途方もない時間がかかるそうです。
現在は壁の上部1/3の絵の具を取り除き元の絵を取り出していました。
そこには男性の姿が描かれていました。元絵の全容が分かるにはまだ何年もかかるそうなので絵画館に絵が戻るのはずいぶん先になりそうです。
絵の全容が分からないので誰が何のために絵を壁で塗り込めたのかは解明できないそうです。
絵はWikipediaから借用しました。 -
フェルメールの絵の鑑賞が終ると、「皆さんこれからは自由行動です。自由に好きな絵を見て下さい。」とガイトさんが言いました。でも誰も動こうとしません。
それはそうでしょう。わざわざ旅行前にどんな絵が何処にあるのか調べて来るような人はツアー客にはいないでしょうから。
誰も動かないのでガイトさんが有名な絵画を選んで説明することになりました。
我々はゾロゾロとガイドさんの後を付いて歩きました。
この絵はジョルジョーネの「眠れるビーナス」、ジョルジョーネ最晩年の作品です。
画題に裸婦の寝姿を選んだことでセンセーションを巻き起こしました。
背景や空は彼が亡くなった後にティツィアーノが加筆しました。 -
「眠れるヴィーナス」の次は宗教絵画でした。ボッチチェリの作品もありましたが、ガイドさんの説明だけでなく絵も全く覚えていません。
この絵は写真を撮っているので詳しく説明されたのでしょうが、誰の作品なのかも記憶がありません。完全に忘れてしまいました。
磔刑のキリストが下ろされる場面(キリストの降架)と思われますが、それ以外の事は分かりません。 -
ラファエロの「システィーナの聖母」。
ラファエロ最晩年の作品です。ラファエロが最後に描いた聖母で、かつラファエロ自からが一人で描いた作品です。そういう意味では非常に貴重な作品と言えましょう。 -
ガイドさんの話では「主要な作品のみを先に説明するので、残りの時間で他の絵を鑑賞するなり写真を撮ってほしい。」とのことでした。
そのため写真は後で撮るとこにしましたが、写せるところでは写しておきました。
「システィーナの聖母」で有名なのが絵の下の2人の天使。TVのCMに使用されたりしたので、マドンナよりも認知されていると思います。
この2人の天使の写真は後で撮ろうとしたのが間違いでした。絵画館の美術鑑賞は45分間、結局ガイドさんの説明が時間いっぱいになったため、後で写そうと思った写真は撮れませんでした。
そのためボッチチェリやティントレットやヴェロネーゼの写真はありません。
ツアーの参加者が30数名だったので、ガイドさんが絵画を説明されている時は絵画を取り巻く人々の頭がファインダーに入ってしまうので、実際のところ写真はとれませんでした。
それでも無理してでも撮っておけばよかったと後になって後悔しました。 -
ルーベンス「波を鎮めるネプチューン」。
ルーベンスの作品は「システィーナの聖母」がある部屋と同じ部屋に展示されていました。
この絵は大作と呼ぶべき大きな絵です。この部屋にはルーベンスの大作がいくつもありましたが、写真は撮っていません。ガイドさんが説明している間に写しておけば良かったと後悔しています。 -
ルーベンス「老女と石炭籠」。
ルーベンスはこの他にも大作がいくつもあったのですが、後から写せばいいと思ったのが大間違い。写真を撮る時間がなくなりました。
この絵はルーベンスにしては珍しい作品です。このような作品はいままで見たことがありません。
光と影の描写が際立った作品ですが、この絵はルーベンスがイタリアを訪問した後に描いたそうです。
光と影の描写で際立ったイタリアの画家はカラヴァッジョです。イタリアでカラヴァッジョの作品を目にして衝撃を受けたのでしょう。カラヴァッジョの技法を自分の物にして見事に描いた作品なんだそうです。 -
ベルナルド・ベッロットの「アウグスト橋下流のエルベ川右岸から見たドレスデン」。
ベッロットはヴェネチアの風景画で有名なカナレットの甥です。そして伯父カナレットによって才能を見出されました。ベルナルド・カナレットと呼ばれていたこともあるので、カナレットとベッロットを混同される方も多いそうです。
彼の手がけた風景画は大変写実的でありのままの姿をカンバスに映し出すといったものでした。
彼はザクセン選帝侯でポーランド王のアウグスト強健王に招かれドレスデンにやってきました。そしてドレスデンやその郊外で多数の風景画を描いています。特にエルベ川右岸からドレスデンを望む景色はドレスデンを代表する景色となっています。
この絵によって空襲で破壊される前のドレスデンの秀麗な風景を伺い知ることができます。
その後彼はポーランドのスタニスワフ王の招きを受けてポーランドの宮廷画家となり首都ワルシャワで人生の後半を過ごしました。
彼がワルシャワで描いた絵は膨大な数におよび、今もワルシャワ王宮でその絵を見ることができます。
ドレスデンもワルシャワも第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けました。特にワルシャワはドイツ軍によって計画的に破壊された町です。王宮や宮殿や教会、はては庶民の家屋に至るまで瓦礫の山と化しました。
ドレスデンもワルシャワも復興に際して写実的なベッロットの風景画が大変役に立ちました。ワルシャワではベッロットの描いた絵画に基づいて建物が建てられたそうです。
奇しくも2都市の写実的な風景画を多数残したベッロット。まさが自分が描いた多数の絵画が都市の復興に役立つことになるとは予想だにしなかったでしょうが、何か運命的なものを感じずにはおれませんでした。 -
エル・グレコ「盲人を癒すキリスト」
ガイドさんがアルテ・マイスター絵画館にはエル・グレコがあるんですよと誇らしげに話されていたいたことを思い出します。
この絵はエル・グレコが29歳ころの作品です。1567年にヴェネチアに移住したエル・グレコがヴェネチア様式で描いた絵です。
エル・グレコの初期の作品ですから円熟期の作品に比べると熱い情熱や迫力に欠けやや物足りなく感じました。絵も小さなものでした。
最盛期から晩年の大作に比べると小作品という印象です。 -
ヴァン・ダイクの肖像画。
このコーナーではヴァン・ダイクが描いた多数の肖像画がありました。そのうちガイドさんが説明された作品のいくつかを写しましたが説明は肖像画の絵ということだけでした。 -
ヴァン・ダイクの肖像画。
貴族の老夫婦です。下の老女と並べて展示してありました。 -
ヴァン・ダイクの肖像画。
貴族の老婦人 -
ヴァン・ダイク「貴族の夫婦の肖像画」。
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同じくヴァン・ダイクの肖像画。
上の男性と夫婦の肖像画で並んで展示されていたものです。
写真を個別に写したので別々の肖像画に見えますが、そうではありません。 -
ヴァン・ダイク「チャールズ1世の子供たち」
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レンブラント「赤い花を持つサスキア」。
レンブラント35歳の作品、この時サスキアは28歳です。21歳で結婚したサスキアは翌年29歳の時に亡くなります。サスキアの死以降レンブラントは凋落していきますが、この作品は二人の最後の幸福な時期の絵だといえましょう。 -
レンブラント「酒場の放蕩息子に扮するレンブラントとサスキア」
レンブラントがサスキアと結婚した翌年に描かれた作品で、いわば幸福と喜びの絶頂期の様子を描いた絵です。絵から溢れるばかりの喜びが感じられます。
これらの他にもレンブラントの絵はいくつもあり、別の部屋にも作品が集められていました。
こちらも写真を撮る暇がありませんでした。 -
ティツィアーノ「貢の銭」
マタイの福音書に書かれている聖ペテロに関するエピソード。
カペナウムの町を訪れたイエス様は収税使から神殿税を払うように申し渡されました。イエス様は聖ペテロにゲネサレ湖で魚を釣らせ、口から出た銀貨を神殿税として払わせました。
神殿税を払わなければ異端と思われ、かといって払えばパリサイ人に屈服したと取られるので奇跡を起こしたそうです。 -
2階にある彫刻の部屋。時間がないので詳しくは見てませんがローマ時代の彫刻やそのレプリカのようでした。
ガイドさんに一番勧められたのが3階にあるリオタールの「チョコレート娘」です。
ドイツ人が一番好きな絵なんだそうですよ。 -
リオタールの「チョコレート娘」。ドイツ人がこよなく愛する名画だそうです。絵はパステル画とのことです。
時間がなく私はこの絵を見れませんでした。ツアーの人で見たのは半数くらいでした。
チョコレートを運ぶ緊張感漂う少女の姿が凛としており、この緊張感がたまらないんだそうです。
(写真はネットから借用しました。)
以上で絵画館の見学は終わりです。 -
ツヴィンガー宮殿の中庭と武器博物館です。正面の建物の中が武器博物館。
ツヴィンガー宮殿 城・宮殿
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宮殿の中庭にあるニンフの浴場と呼ばれる噴水の池。
ツヴィンガー宮殿 城・宮殿
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マイセンのカリヨンが付けられた宮殿の南にあるカリヨンの門。
ツヴィンガー宮殿 城・宮殿
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宮殿の北門から外に出て街歩きを再開しました。
ツヴィンガー宮殿のすぐ北にあるゼンパーオーパー(ザクセン州立歌劇場)。1841年にザクセン王ヨハンによって建てられました。1945年英米軍の空襲によって破壊されましたが1985年に再建されました。
音響の良い秀麗な歌劇場だそうです。ゼンパーオーパー (ザクセン州立歌劇場) 劇場・ホール・ショー
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同じくゼンパーオー
ゼンパーオーパー (ザクセン州立歌劇場) 劇場・ホール・ショー
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劇場前に建つザクセン王ヨハンの騎馬像。
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歌劇広場にある三位一体大聖堂。
カトリック旧宮廷教会 (三位一体大聖堂) 寺院・教会
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ドレスデン城です。この城の中にある緑の円天井が見たいものですが、生憎ツアーのため見る時間がありません。残念です。
ドレスデン城 (レジデンツ宮殿) 城・宮殿
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ガイドさんはドレスデン城に向かって歩いていきます。
この城の中庭に入るのかな? -
中庭に入るのではなく城の前を進んで行きました。
中庭の入り口上部に掲げてあるにはザクセン選帝侯ヴェッティン家の紋章。 -
そしてこちらが中庭に入る通路です。通路を抜けたところの建物が緑の丸天井のチケット売り場だそうです。
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こちらの豪華な建物はアウグスト強健王の愛人の邸宅です。正面もその右の建物も愛人宅なんだそうで、そのような愛人の住まいがドレスデンのあちこちにあったそうです。
愛人が100人もいたそうですから、愛人一人一人に住まいを与えるにしてもすごい数ですね。
ガイドさんは強健王とは呼ばずに精力絶倫男と言ってました。 -
ザクセン上級裁判所。
裁判所の前にある銅像はザクセン公国の初代の王、「正義王」と呼ばれたフリードリヒ・アウグスト1世です。この建物はブリュールのテラスの建物で以前は旧議事堂でした。
我々は裁判所の前を通ってエルベ川沿いのほう(ブリュールのテラスの入り口)に向かいました。 -
シュロス広場の隣にあるブリュールのテラスの入り口にやってきました。
すでに夕方で日は西に傾き、我々は強烈な西日にさらされました。
テラスから写真を撮りましたが逆光のため建物は黒く浮かび上ってしまいました。 -
これは黒いシルエットの写真を画像処理したものです。
ブリュールのテラスから眺める景色は素晴らしいといわれていますが、西日が強烈すぎて本来の景色を眺めることができず残念でした。
さて、ブリュールのテラスですがアウグストゥス橋からカローラ橋の間に設けられた約500mのエルベ川沿いの遊歩道です。
選帝侯アウグスト2世の時代に首相であったブリュール男爵が、この場所にあったもと16世紀の城壁跡を譲り受けてバロック庭園や宮殿、ギャラリーなどが造られました。1814年にはこのエリアが市民に開放され、以降ブリュールのテラスと呼ばれるようになったそうです。
19世紀末には大規模な改築工事が行われ、旧議事堂、芸術アカデミー、アルベルティヌム(ドレスデン美術館、中にノイエ・マイスター絵画館があります。)などの建物が並んでいます。 -
ブリュールのテラスから眺めたエルベ川とアウグストゥス橋です。この橋を渡り切った先がノイシュタットで、そこにアウグスト強健王の黄金尾騎馬像があります。
画家ベッロットがこよなく愛したドレスデンの景色はエルベ川の向こう岸、アウグストゥス橋の左側から眺めた景色です。アウグストゥス橋 建造物
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ブリュールのテラスから眺めたエルベ川の景色とノイシュタット。
エルベ川に架かる橋はカローラ橋です。
対岸に見える建物はザクセンン州議会と州政府の建物。 -
ノイシュタットのザクセン州政府事務所とカローラ橋。
ブリュールのテラスの下、エルベ川河畔には船着き場がありました。 -
ノイシュタットのザクセン州議会の建物。
写真を撮っている所がブリュールのテラスです。ブリュールのテラスには庭園もありました。
今写真を写している真後ろが庭園で、中には噴水もありました。写真を撮っていないので実感が湧きませんよね。多分この時は反対側が西日の逆光なので、写真を撮る意欲が失せていたんだと思います。 -
奥に見えるのがブリュールのテラスにあるドレスデン美術大学です。
建物の前の道(遊歩道)がブリュールのテラスです。
ブリュールのテラスは旧議事堂に始まり、アルベルティヌムまで続いています。ブリュールのテラス 散歩・街歩き
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ドレスデン美術大学、右のガラスのドームは旧王立アカデミー、正面の建物が城館セクンドゲニチュア。ガラスのドームの奥にアルベルティヌム(ドレスデン美術館)があります。
ブリュールのテラス 散歩・街歩き
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ドレスデン美術大学の手前にある小路の階段を下りて再び町中にはいっていきました。
写真右の建物はホテルヒルトンで、中央にみえるドームがフラウエン教会(聖母教会)です。 -
フラウエン教会のところにやってきましたが、中には入りませんでした。
多分中に入る時間が無かったのでしょう。
フラウエン教会は1945年2月13日の夜無差別空襲で破壊され、たった一夜で瓦礫の山となってしまいました。
大戦末期ドレスデンはソ連軍の侵攻を受けたので、戦後ソ連が主導する共産主義国の東ドイツになりました。
共産主義は無神論で宗教否定の立場をとり、ソ連ではギリシア正教の聖職者は弾圧され、教会は閉鎖されました。そのため東ドイツの共産主義政権も宗教には否定的で、教会の再建には見向きもせず廃墟として放置されたままでした。
社会主義国家にとって教会は不必要な物で、教会を再建しようとするのは政府に歯向かうことだったのです。
一方東ドイツ政府からは教会の跡地を社会主義風の市民ホールにするとか、新都市計画が持ち上がりましたが「戦争の悲惨さを後世に残すため」という名目で教会の瓦礫や廃墟は守られました。
「いつかこの地に再び教会を建てたい。」というのが市民の夢で、瓦礫の廃墟を守ることが唯一共産主義政権に対する抵抗の意思表示だったんでしょうね。
教会の再建が始まったのはドイツが統一されて以降1994年になってからのことです。
瓦礫の中から使用できるものを選別し一つ一つをもとの場所に組み込んでいくという作業が始まりました。
足りない部分は新しい石材で補いはめ込んでいく作業はコンピューターでもとに位置を調べながら行われたため途方もない月日を要し、ついに11年の歳月を費やして2005年に完成しました。
フラウエン教会の黒い石は被災時のもの、その他は新しい石で復元されました。ジグソーパズルをはめ込んでいくかのような作業は「世界一難しいパズル」と呼ばれる難関工事でした。
ガイドさんはここから右に折れ、テプファー通りを進んで行きました。フラウエン教会 (聖母教会) 寺院・教会
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テプファー通りから振り返って見たフラウエン教会。
フラウエン教会 (聖母教会) 寺院・教会
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通りを進んでアウグストゥス通りに入ると左側の建物の壁に見えてきたのが「君主の行進」と呼ばれるマイセンの磁器タイルで描かれた大壁画です。
「君主の行進」は私も以前から知っていましたが、実物を見ると感動ものでした。「よくぞ焼け落ちずに残ってくれた。」もうこの一言でした。
「君主の行進」は1945年2月13日の大空襲で雨のような焼夷弾爆撃を受けたにも関わらず奇跡的に被害を免れました。
マイセンのタイルは1200度の高温で焼かれていたため、焼夷弾の高温に耐えることができたそうです。
宮殿や教会や劇場など多くの歴史的建造物が焼け落ちた中でこのタイル障壁画のみがオリジナルで生き残ったんです。実物を見て感動しないわけにはいきませんでした。君主の行列 文化・芸術・歴史
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この大壁画はドレスデン城のシュタールホーフ(武芸競技場)の外壁にザクセンの歴代君主の馬上行進を描いたもので、2万4000枚のマイセン磁器タイルが使用されており高さは8m、長さは102mもあります。
1876年にスグラフィット装飾で製作されましたが、耐強性を図るため1904年に同じ絵柄がマイセンの磁器タイルに交換されました。
馬に跨る選帝侯や大公、国王はいずれもヴェッティン家の人々、お付きの人や親衛隊の人達を入れると総勢93人です。君主の行列 文化・芸術・歴史
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選帝侯や国王らの下にはそれぞれ名前が書いてありました。
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行列の中で一際目立つのが強健王と呼ばれたアウグスト2世(ポーランド王、ザクセン選帝侯としてはアウグスト1世)とすぐ後ろの長男であるアウグスト3世(同じくポーランド王、ザクセン選帝侯はアウグスト2世)。
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アップしました。騎馬行列の中で馬が前足を挙げているのはアウグスト2世のみ。マントを翻し馬上高く勇ましい姿は行列の中で一番目立ちます。
この壁画が造られたのはアウグスト2世在位の時かと思いましたが、アウグスト2世および3世の死後に作られています。
ザクセン王国の子孫はドレスデンの黄金期を築いたアウグスト2世(強健王)に敬意を払ってこのような図柄にしたんだと推測しました。君主の行列 文化・芸術・歴史
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君主の行進の一部分。
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君主の行進はこんな具合でした。
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こうして見ると長いでしょう。本当に長いんですよ。
君主の行列 文化・芸術・歴史
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こんな感じですがこれがすべてオリジナル。すごーい。
君主の行列 文化・芸術・歴史
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アウグストゥス通りの片側は「君主の行進」で埋まっていまーす。
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再びシュロス広場に戻ってきました。ここでガイドさんともお別れでドレスデン観光は終了です。
今宵の宿泊ホテルは旧市街から離れているがホテルの前の電車道にトラムの乗り場があり、しかもトラムは乗り換えなしでここまで来れることは事前調査済み。
あとはチケットの買い方(発券機の有無と使い方、刻印の有無など)と乗り方ですが、これはガイドさんに教えてもらいました。
実はドレスデンは夜景がとても美しいそうで、夜トラムで旧市街の来ようかと計画していたんです。
チケットは運転手から直接購入したほうがいいそうです。行き先を事前に伝えておくと、下りる場所で声をかけてくれるそうです。
ここでガイドさんとお別れ。ツアーの中には関西からの人が何人もいて「京都に来るときは連絡して、私の家に泊めてあげるわよ。」とか「京都ならどこでも分かるので案内してあげるわよ。」というラブコールが沢山あってガイドさんも困った様子でした。
結局どうなったんだろう?私もその後聞いていないので分からないけど。 -
バスに乗って旧市街の近くにあるレストランで夕食です。
これはガイドさんから教えてもらったアウグスト強健王の愛人の住まいです。すごい建物ですね。これ宮殿じゃないのかな。
愛人には伯爵夫人もいたそうだから、その人の住まいかもね。
こうして短いドレスデンの観光が終わりました。小さな町でありながら見所満載、しかしながら時間が少なく大半が外観のみの観光でした。アルテ・マイスター絵画館ももっとゆっくり見たかった。緑の円天井と呼ばれる博物館(宝物館)やアウグスト強健王が収集した磁器コレクションはぜひ見てみたい。
磁器コレクションには古伊万里の一品が多数収集されているそうです。特に藩用窯で焼かれ海外に輸出された「色鍋島」は日本ではお目にかかれないほどの一級品が揃っているとか・・・。
ドレスデンはいつかぜひ再訪したい観光地でした。 -
旧市街を抜けてすぐのところのビール醸造所が今夕のレストランでした。
この醸造所大きいんです。今もビールを作っているそうです。
レストラン名は「Feldschlosschen-Stammha」。 -
この建物がレストランでした。
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この醸造所の商標らしい。
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レストランの内部です。
左側にビールのサーバーがありました。 -
レストランの様子。
この時の来客は我々のグループだけでしたが、まだ時間が早いのでしょう。外もまだ明るいし、ドイツ人にはまだ食事の時間帯ではないみたいでした。 -
前菜はサラダでした。
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メインは魚料理です。飲み物はもちろんビール、大変安いという記憶しかなくいくらだったか覚えていません。
旅程表にメモしたかもしれないのですが、その旅程表を紛失してしまったので確認のしようがありません。
旅行会社から沢山ツアー案内が来るので、それを燃えるゴミとして処分したときに紛れてしまったようです。
旅程表がないので料理の名前は分からないし、ホテルの名前も調べないといけないし、今後の旅行記の作成には苦労しそうです。 -
レストランの全景です。食事が終わると外は少しづつ薄暗くなり始めていました。
再びバスに乗車して今宵の宿泊ホテル、「ラディソン ブルー パークホテル」へ。
旧市街からバスで30分程度の距離でした。 -
「ラディソン ブルー パークホテル」に到着しました。写真は翌朝写したものです。
ホテルといっても低層階(3階建)のホテルでした。写真正面の左右の建物がホテルでその後ろに中庭があり、それを囲むようにいく棟もの建物があって、ホテルの背後の丘はブドウ畑で緑が大変多い素敵なホテルです。
ホテル内の0階には自動両替機がありました。
ホテルの前の道を真っ直ぐ進んで左に行くとドレスデン旧市街行きのトラムの駅があります。右に行くとスーパーがありますよ。 -
部屋の様子。大変清潔な部屋で掃除が行き届いていました。
私が宿泊したのは本館の方でしたが非常に静かでした。 -
部屋の様子。このホテルにはポットがあったので重宝しました。
机の上のミネラルウォーターは有料だったと思います。 -
部屋の様子。
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バスタブ付きだったので疲れを癒すことがをできました。
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洗面の様子です。ホテルの様子をまだまだ紹介したいと思いますが、一旦ここで中断いたします。
この続きは次の旅行記にて。次は一度は行きたいと思っていた百塔の町プラハです。
2年前の旅行で記憶が薄れ、しかもメモ用に書き込んだ旅程表も失くしたために思い起こすのに時間がかかってしまいました。
ドンガメのような旅行記になりそうですので、次回アップまでまたしばらくお時間をいただくことになりそうです、
ご訪問いただきありがとうございました。
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