国立・府中・稲城旅行記(ブログ) 一覧に戻る
国鉄下河原線と言ってもピンときませんがかつて国分寺駅から東京競馬場へ電車が走っていました。<br />国鉄下河原線は多摩川の砂利を運搬するために開業した鉄道で現在では一部の線路跡が下河原緑道として地元の散策路として残っています。<br />電車が走っていた廃線跡を国分寺駅から京王線の中河原駅まで散策しました。<br /><br />

下河原線廃線跡の散策

8いいね!

2014/12/26 - 2014/12/26

441位(同エリア719件中)

旅行記グループ 廃線探訪

0

50

アルプ・グリュム

アルプ・グリュムさん

国鉄下河原線と言ってもピンときませんがかつて国分寺駅から東京競馬場へ電車が走っていました。
国鉄下河原線は多摩川の砂利を運搬するために開業した鉄道で現在では一部の線路跡が下河原緑道として地元の散策路として残っています。
電車が走っていた廃線跡を国分寺駅から京王線の中河原駅まで散策しました。

  • JR国分寺駅から散策を開始します。<br />国鉄下河原線はこの駅が起点で東京競馬場まで路線が伸びていました。<br />

    JR国分寺駅から散策を開始します。
    国鉄下河原線はこの駅が起点で東京競馬場まで路線が伸びていました。

  • 国分寺駅では一番右側に路線跡らしきの敷地が見えますが線路は撤去され跡形もありません。

    国分寺駅では一番右側に路線跡らしきの敷地が見えますが線路は撤去され跡形もありません。

  • 都立武蔵国分寺公園があったので寄ってみました。<br />ここには中央鉄道学園がありましたが今は完全に取り壊して公園となっていました。<br />下河原線からの鉄道の引き込み線がありました。

    都立武蔵国分寺公園があったので寄ってみました。
    ここには中央鉄道学園がありましたが今は完全に取り壊して公園となっていました。
    下河原線からの鉄道の引き込み線がありました。

  • 中央鉄道学園がここにあった証で蒸気機関車の動輪がモニュメントとして置かれています。

    中央鉄道学園がここにあった証で蒸気機関車の動輪がモニュメントとして置かれています。

  • その経緯を示す案内板がありますが蒸気機関車の動輪の形式等の説明はありません。

    その経緯を示す案内板がありますが蒸気機関車の動輪の形式等の説明はありません。

  • 右側に中央線の線路があり写真の道路のカーブに沿って下河原線の線路があったようです。<br />付近はマンションが立ち並び痕跡は何もありません。

    右側に中央線の線路があり写真の道路のカーブに沿って下河原線の線路があったようです。
    付近はマンションが立ち並び痕跡は何もありません。

  • 痕跡が何も見つからないので北府中駅まで来ました。<br />左の塀は府中刑務所で道路は府中街道でその右奥に下河原線の線路がありますが今はJR武蔵野線に譲っています。<br />府中刑務所の写真を撮ろうとカメラ向けましたが刑務官に阻止されました。<br />府中刑務所にも引き込み線の線路が伸びていたそうです。

    痕跡が何も見つからないので北府中駅まで来ました。
    左の塀は府中刑務所で道路は府中街道でその右奥に下河原線の線路がありますが今はJR武蔵野線に譲っています。
    府中刑務所の写真を撮ろうとカメラ向けましたが刑務官に阻止されました。
    府中刑務所にも引き込み線の線路が伸びていたそうです。

  • 北府中駅から東芝府中工場方面を覗いて見ると何本もの線路が見えますが武蔵野線が営業を始めた時にも下河原線は残っていました。<br />東芝府中工場はかつては電車、機関車を製造していたので未だに引き込み線が残っています。

    北府中駅から東芝府中工場方面を覗いて見ると何本もの線路が見えますが武蔵野線が営業を始めた時にも下河原線は残っていました。
    東芝府中工場はかつては電車、機関車を製造していたので未だに引き込み線が残っています。

  • 武蔵野線の北府中駅です。<br />最近の駅は質素で何の趣もありません。

    武蔵野線の北府中駅です。
    最近の駅は質素で何の趣もありません。

  • 北府中駅から東芝府中工場を覗いて見ると103系、クモニ83、EF65が見えます。<br />103系の電車は以前は中央線を走っていたので整備して展示、公開を望みます。

    北府中駅から東芝府中工場を覗いて見ると103系、クモニ83、EF65が見えます。
    103系の電車は以前は中央線を走っていたので整備して展示、公開を望みます。

  • 北府中駅から西国分寺方面を見ています。<br />

    北府中駅から西国分寺方面を見ています。

  • 地図にはそれらしき線路跡があるのですがはっきりしません。<br />島忠の右の空き地が下河原線跡だと思われます。

    地図にはそれらしき線路跡があるのですがはっきりしません。
    島忠の右の空き地が下河原線跡だと思われます。

  • ケーズ電気の裏側にやっと線路が見えました。<br />ここから下河原緑道が始まります。

    ケーズ電気の裏側にやっと線路が見えました。
    ここから下河原緑道が始まります。

  • 下河原線広場公園と称し駅と駅票を模したモニュメントがありここに鉄道があったことを伝えています。

    下河原線広場公園と称し駅と駅票を模したモニュメントがありここに鉄道があったことを伝えています。

  • 下河原線の歴史<br /><br />ここは、かつて国鉄下河原線の線路敷でした。<br />明治四十三年(1910)、東京砂利鉄道が多摩川の砂利の採取運搬を目的に、国分寺から下河原(府中市南町三丁目)まで貨物専用鉄道を開通させました。その後、大正三年(1914)の多摩川大出水による被害で一時閉鎖しますが、大正五年(1916)に軍用鉄道として復活し、大正九年(1920)に国有化され、名称も下河原線となりました。昭和八年(1933)に東京競馬場が開設すると引き込み線がもうけられ、昭和九年(1934)より競馬開催日に限り乗客を輸送するようになりました。戦時体制が深まってきた昭和十九年(1944)に、国分寺〜東芝前間で通勤者用専用電車を運転、戦後の昭和二十四年(1949)からは国分寺〜東京競馬場前間の常時運転が開始されましたが、昭和四十八年(1973)の武蔵野線開通にともない旅客が廃止になり、昭和五十一年(1976)には貨物線も廃止され、66年にわたる歴史の幕を閉じました。<br /><br />この跡地は、府中市が国鉄から用地を受けて自転車・歩行車道、花と緑の緑道として整備し、郷土の森や市民健康センターなどを結ぶ、市民のための道として生まれ変わりました。<br /><br /><br />府中市<br />

    下河原線の歴史

    ここは、かつて国鉄下河原線の線路敷でした。
    明治四十三年(1910)、東京砂利鉄道が多摩川の砂利の採取運搬を目的に、国分寺から下河原(府中市南町三丁目)まで貨物専用鉄道を開通させました。その後、大正三年(1914)の多摩川大出水による被害で一時閉鎖しますが、大正五年(1916)に軍用鉄道として復活し、大正九年(1920)に国有化され、名称も下河原線となりました。昭和八年(1933)に東京競馬場が開設すると引き込み線がもうけられ、昭和九年(1934)より競馬開催日に限り乗客を輸送するようになりました。戦時体制が深まってきた昭和十九年(1944)に、国分寺〜東芝前間で通勤者用専用電車を運転、戦後の昭和二十四年(1949)からは国分寺〜東京競馬場前間の常時運転が開始されましたが、昭和四十八年(1973)の武蔵野線開通にともない旅客が廃止になり、昭和五十一年(1976)には貨物線も廃止され、66年にわたる歴史の幕を閉じました。

    この跡地は、府中市が国鉄から用地を受けて自転車・歩行車道、花と緑の緑道として整備し、郷土の森や市民健康センターなどを結ぶ、市民のための道として生まれ変わりました。


    府中市

  • どこかの地方駅の佇まいのようです。

    どこかの地方駅の佇まいのようです。

  • 線路がこの先で無くなってしまうのが残念です。

    線路がこの先で無くなってしまうのが残念です。

  • 下河原緑道は歩行者用と自転車用に区分され安全が確保されています。<br />先に見えている高架は京王線です。

    下河原緑道は歩行者用と自転車用に区分され安全が確保されています。
    先に見えている高架は京王線です。

  • 車道との交差点には線路が残っている箇所もあります。

    車道との交差点には線路が残っている箇所もあります。

  • 下河原線の歴史を示す案内板<br />案内板の両端が線路の枕木を利用しているのが気に入りました。

    下河原線の歴史を示す案内板
    案内板の両端が線路の枕木を利用しているのが気に入りました。

  • 下河原線の歴史を示す案内板<br />先ほどとほぼ同じ文面です。

    下河原線の歴史を示す案内板
    先ほどとほぼ同じ文面です。

  • こんな市街地に単行の電車が走っていたことを想像すると撮り鉄としては格好の被写体となるのですが。

    こんな市街地に単行の電車が走っていたことを想像すると撮り鉄としては格好の被写体となるのですが。

  • こんな碑もありました。<br />「下河原線事故 慰霊塔」 このこの交差点で事故に遭われたのでしょうか!

    こんな碑もありました。
    「下河原線事故 慰霊塔」 このこの交差点で事故に遭われたのでしょうか!

  • また、こんな案内板も見かけました。<br />「鹿島坂」<br /><br />坂の名は、大国魂神社の例大祭に深い係わりのある人名に由来するといわれます。五月の例大祭に「国造代奉弊式」という古式があります。これは、国造代(奉弊使)が神馬に乗って坪の宮におも向き、御輿渡御の完了を告げたあと、鹿島坂を上り、甲州街道を東上、御旅所へ参向して奉幣を行うというものです。この式は、古く社家の鹿島田家がその役を担っていたため、この坂を「鹿島田坂」と呼び、後に、名前の一部をとって「鹿島坂」となったようです。<br /> 昭和60年3月 府中市

    また、こんな案内板も見かけました。
    「鹿島坂」

    坂の名は、大国魂神社の例大祭に深い係わりのある人名に由来するといわれます。五月の例大祭に「国造代奉弊式」という古式があります。これは、国造代(奉弊使)が神馬に乗って坪の宮におも向き、御輿渡御の完了を告げたあと、鹿島坂を上り、甲州街道を東上、御旅所へ参向して奉幣を行うというものです。この式は、古く社家の鹿島田家がその役を担っていたため、この坂を「鹿島田坂」と呼び、後に、名前の一部をとって「鹿島坂」となったようです。
    昭和60年3月 府中市

  • これは旧鎌倉街道歴史散歩と称される案内板です。<br />府中は甲州街道の宿場町でもあり碑の設置場所も記されています。<br /><br />私も休東海道を少しずつ宿場内を散策しているので次は甲州街道を散策してみたいと思います。

    これは旧鎌倉街道歴史散歩と称される案内板です。
    府中は甲州街道の宿場町でもあり碑の設置場所も記されています。

    私も休東海道を少しずつ宿場内を散策しているので次は甲州街道を散策してみたいと思います。

  • 旧鎌倉街道の案内板ですが下河原線の廃線跡よりも鎌倉街道の方が歴史があります。

    旧鎌倉街道の案内板ですが下河原線の廃線跡よりも鎌倉街道の方が歴史があります。

  • 南武線を越えて行きます。<br />

    南武線を越えて行きます。

  • 久しぶりに見た下河原緑道の文字。

    久しぶりに見た下河原緑道の文字。

  • 下河原緑道は前方に二手に分かれます。<br />左側が東京競馬場方向で右側は砂利運搬用の貨物線です。

    下河原緑道は前方に二手に分かれます。
    左側が東京競馬場方向で右側は砂利運搬用の貨物線です。

  • 私は先ず左側の東京競馬場に向かいます。<br />微妙にカーブしているのが鉄道跡らしい。

    私は先ず左側の東京競馬場に向かいます。
    微妙にカーブしているのが鉄道跡らしい。

  • 要所には下河原緑道の案内板が設置してあり自分の場所が分かります。

    要所には下河原緑道の案内板が設置してあり自分の場所が分かります。

  • 「電車ごっこ」と称されるモニュメントがありました。

    「電車ごっこ」と称されるモニュメントがありました。

  • 電車ごっこ<br />軌道敷きの跡地が市民の憩いの場、子供たちの遊び場となった事を記念し電車ごっこをする子供達の像として表現しています。 府中市<br />

    電車ごっこ
    軌道敷きの跡地が市民の憩いの場、子供たちの遊び場となった事を記念し電車ごっこをする子供達の像として表現しています。 府中市

  • 終点の東京競馬場が正面に見えます。<br />ここは矢崎防災公園となっていて広大な広場となっていますが鉄道の跡の形跡は何もないようです。。

    終点の東京競馬場が正面に見えます。
    ここは矢崎防災公園となっていて広大な広場となっていますが鉄道の跡の形跡は何もないようです。。

  • 正面には南武線と武蔵野線が手前を塞いでいます。<br />東京競馬場へは地下道で行くことができます。

    正面には南武線と武蔵野線が手前を塞いでいます。
    東京競馬場へは地下道で行くことができます。

  • 先ほど二手に分かれた下河原緑道に戻りまっすぐ進みます。

    先ほど二手に分かれた下河原緑道に戻りまっすぐ進みます。

  • 下河原緑道は直線になっていて中央高速が見えます。

    下河原緑道は直線になっていて中央高速が見えます。

  • この辺りは畑が多く残っています。

    この辺りは畑が多く残っています。

  • ビール瓶が大量に置かれています。<br /><br />競馬場と中央高速とビール工場で思い出すのはあの歌です。<br />松任谷由実の中央フリーウェイを思わず歌ってしまいました。

    ビール瓶が大量に置かれています。

    競馬場と中央高速とビール工場で思い出すのはあの歌です。
    松任谷由実の中央フリーウェイを思わず歌ってしまいました。

  • 要所に下河原緑道の文字が

    要所に下河原緑道の文字が

  • 下河原緑道の地図には自分のいる場所とトイレの位置も図示されているので安心です。

    下河原緑道の地図には自分のいる場所とトイレの位置も図示されているので安心です。

  • ここはまだ下河原緑道です。

    ここはまだ下河原緑道です。

  • カラフルな帽子と襟巻を身に着けた子供たちの像がありました。

    カラフルな帽子と襟巻を身に着けた子供たちの像がありました。

  • 「下河原緑道」ではなく「ふるさと通り」と変わっていました。

    「下河原緑道」ではなく「ふるさと通り」と変わっていました。

  • 下河原緑道の案内板ではほぼ終着です。

    下河原緑道の案内板ではほぼ終着です。

  • 下河原の地名の由来を示す案内板がありました。

    下河原の地名の由来を示す案内板がありました。

  • 幼稚園の前にはかわいい子供の像がありました。

    幼稚園の前にはかわいい子供の像がありました。

  • この辺りが多摩川の砂利採取のための駅があった場所だと思われますが手がかりは何もありません。<br />下河原線は旅客営業としては東京競馬場までですが本来は多摩川の砂利を運搬する目的で開通した鉄道です。

    この辺りが多摩川の砂利採取のための駅があった場所だと思われますが手がかりは何もありません。
    下河原線は旅客営業としては東京競馬場までですが本来は多摩川の砂利を運搬する目的で開通した鉄道です。

  • 廃線跡らしき部分はここまでですが痕跡は見つかりませんませんでした。<br />遠方に見えるマンションの裏には京王線の中河原駅があります。

    廃線跡らしき部分はここまでですが痕跡は見つかりませんませんでした。
    遠方に見えるマンションの裏には京王線の中河原駅があります。

  • やっとたどり着いたのは京王線の中河原駅です。<br />万歩計を持参してなかったのですが2万歩位歩いたと思いますが北府中からの下河原緑道では車道を一歩も歩かないので心地よい散策でした。<br /><br />

    やっとたどり着いたのは京王線の中河原駅です。
    万歩計を持参してなかったのですが2万歩位歩いたと思いますが北府中からの下河原緑道では車道を一歩も歩かないので心地よい散策でした。

この旅行記のタグ

関連タグ

8いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

廃線探訪

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP