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久しぶりに雨のあがった土曜の朝、中央線に乗って伊東忠太の作品である一橋大学のキャンパスを散策してきましたが、帰りに武蔵小金井で途中下車し、「江戸東京たてもの園」に行ってきました。<br />ここを訪れるのは2年ぶり。今回の目的は、隣接の小金井公園の梅と現在開催中の企画展「建物のカケラ」そして私の大好きな建物をじっくり見ること。<br />そんな中でも、もう一度じっくり見てみたい建物がこれ、建築家「前川國男邸」でした。<br />昨年、彼の師匠のル・コルビュジエが日本に残した唯一の作品である上野の国立西洋美術館が「ル・コルビュジエの建築と都市計画」として世界遺産の暫定リストに登録され話題になりました。<br />この国立西洋美術館の実施設計を手掛けたのが、彼の弟子である前川國男でした。<br />そんな日本を代表する建築家の家はこんな建物でした。

ル・コルビュジエの弟子 前川國男の家

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2009/02/28 - 2009/02/28

148位(同エリア482件中)

旅行記グループ 近代建築散歩(東京2)

2

30

ぬいぬい

ぬいぬいさん

久しぶりに雨のあがった土曜の朝、中央線に乗って伊東忠太の作品である一橋大学のキャンパスを散策してきましたが、帰りに武蔵小金井で途中下車し、「江戸東京たてもの園」に行ってきました。
ここを訪れるのは2年ぶり。今回の目的は、隣接の小金井公園の梅と現在開催中の企画展「建物のカケラ」そして私の大好きな建物をじっくり見ること。
そんな中でも、もう一度じっくり見てみたい建物がこれ、建築家「前川國男邸」でした。
昨年、彼の師匠のル・コルビュジエが日本に残した唯一の作品である上野の国立西洋美術館が「ル・コルビュジエの建築と都市計画」として世界遺産の暫定リストに登録され話題になりました。
この国立西洋美術館の実施設計を手掛けたのが、彼の弟子である前川國男でした。
そんな日本を代表する建築家の家はこんな建物でした。

交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩

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  • 江戸東京たてもの園へ再び訪れた目的はこれ、「前川國男邸」でした。

    江戸東京たてもの園へ再び訪れた目的はこれ、「前川國男邸」でした。

  • 建築好きな方でない限り、「前川國男」と言われても誰?<br />何やった人?<br />こんな感じでぴんと来ないと思いますのでまずは人物紹介から。

    建築好きな方でない限り、「前川國男」と言われても誰?
    何やった人?
    こんな感じでぴんと来ないと思いますのでまずは人物紹介から。

  • 前川國男は、1905年(明治38年)新潟県新潟市に生まれ、東京に育ち、1928年(昭和3年)東京帝国大学工学部建築学科卒業。

    前川國男は、1905年(明治38年)新潟県新潟市に生まれ、東京に育ち、1928年(昭和3年)東京帝国大学工学部建築学科卒業。

  • 東大卒業後、渡仏しパリのル・コルビュジエの事務所に入所しました。<br />ル・コルビュジエと言えば当時、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれていた世界を代表する大建築家。

    東大卒業後、渡仏しパリのル・コルビュジエの事務所に入所しました。
    ル・コルビュジエと言えば当時、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれていた世界を代表する大建築家。

  • 帰国後はレーモンド建築設計事務所に勤務の後、前川國男建築事務所を設立し、モダニズム建築の旗手として、戦後の日本の建築業界をリード。<br />東京文化会館、東京都美術館、世田谷区役所等の公共建築物を主に設計しています。<br />ちなみに、東京都庁を設計した丹下健三氏は前川事務所の出身です。

    帰国後はレーモンド建築設計事務所に勤務の後、前川國男建築事務所を設立し、モダニズム建築の旗手として、戦後の日本の建築業界をリード。
    東京文化会館、東京都美術館、世田谷区役所等の公共建築物を主に設計しています。
    ちなみに、東京都庁を設計した丹下健三氏は前川事務所の出身です。

  • 日本の近代建築の発展に大きく貢献した前川國男が住んでいたのは、JR目黒駅に程近い、品川区上大崎。

    日本の近代建築の発展に大きく貢献した前川國男が住んでいたのは、JR目黒駅に程近い、品川区上大崎。

  • そこに、1942年(昭和17年)に竣工したこの建物。<br />建築されたこの時期は既に太平洋戦争に突入し住宅の面積は30坪以内に制限され資材も統制され、金物類も入手が困難な時代でした。

    そこに、1942年(昭和17年)に竣工したこの建物。
    建築されたこの時期は既に太平洋戦争に突入し住宅の面積は30坪以内に制限され資材も統制され、金物類も入手が困難な時代でした。

  • 建物へのアプローチは、北側の大谷石積みの門を曲がって入ります。写真にはありませんが門構えだけで門扉の付いていませんが、玄関扉が見えないような工夫がされていました。

    建物へのアプローチは、北側の大谷石積みの門を曲がって入ります。写真にはありませんが門構えだけで門扉の付いていませんが、玄関扉が見えないような工夫がされていました。

  • 竣工から3年間は住宅として使用していましたが昭和20年に銀座の事務所を戦災で焼失し、この住宅は事務所としても使用されるようになりました。<br /><br /><br />

    竣工から3年間は住宅として使用していましたが昭和20年に銀座の事務所を戦災で焼失し、この住宅は事務所としても使用されるようになりました。


  • 仕事場としての居間と、2階に製図台を並べて、この書斎が仕事上の接客や所員の休憩の場として使われました。

    仕事場としての居間と、2階に製図台を並べて、この書斎が仕事上の接客や所員の休憩の場として使われました。

  • 1954年(昭和31年)、四谷の本塩町に前川事務所のビルが建築され、やっと前川夫妻の住宅に戻り、以降約17年、ご夫婦で住んでいました。

    1954年(昭和31年)、四谷の本塩町に前川事務所のビルが建築され、やっと前川夫妻の住宅に戻り、以降約17年、ご夫婦で住んでいました。

  • 当時事務所だった頃のこんな写真が展示してありました。

    当時事務所だった頃のこんな写真が展示してありました。

  • 室内に展示されている平面図と立面図

    室内に展示されている平面図と立面図

  • 黒のモザイクタイルに白い便器がくっきり浮かんだモノトーンのトイレ

    イチオシ

    黒のモザイクタイルに白い便器がくっきり浮かんだモノトーンのトイレ

  • 面積規制により、各個室は十分な広さが取れないが、空間だけでも贅沢にとつくられた、中2階と吹き抜けの居間。

    面積規制により、各個室は十分な広さが取れないが、空間だけでも贅沢にとつくられた、中2階と吹き抜けの居間。

  • この吹き抜けの空間にあるすべてものが良く見るとディティールの宝庫。何を見てもただただ感心するばかり。

    イチオシ

    この吹き抜けの空間にあるすべてものが良く見るとディティールの宝庫。何を見てもただただ感心するばかり。

  • この階段を登った中二階も、事務所の頃は製図台を並べて所員が仕事に励んでいたようです。

    この階段を登った中二階も、事務所の頃は製図台を並べて所員が仕事に励んでいたようです。

  • 中2階の手摺の吹き抜け側は、ガラスの付いた飾り棚になっています。

    中2階の手摺の吹き抜け側は、ガラスの付いた飾り棚になっています。

  • アールデコ調のこのサニタリースペースは、トイレも組み込まれていますが、かなりシックにまとめられています。<br />とても戦前にデザインされたものとは思えないほどモダンです。<br />

    アールデコ調のこのサニタリースペースは、トイレも組み込まれていますが、かなりシックにまとめられています。
    とても戦前にデザインされたものとは思えないほどモダンです。

  • キッチンも狭いスペースの中にうまくレイアウトされています。

    キッチンも狭いスペースの中にうまくレイアウトされています。

  • 1階の平面は図面で見るとこんな感じになっています。

    1階の平面は図面で見るとこんな感じになっています。

  • サロンの南側に設けられた格子の入った大きな窓と食卓を造りつけた北側の窓で、自然の風がうまくぬけるように作れていて、吹き抜けの大空間ですが夏もクーラー要らずだったのではないでしょうか。

    サロンの南側に設けられた格子の入った大きな窓と食卓を造りつけた北側の窓で、自然の風がうまくぬけるように作れていて、吹き抜けの大空間ですが夏もクーラー要らずだったのではないでしょうか。

  • キッチンのドアを通らなくても料理の出し入れができる小さな配膳口が付いています。

    キッチンのドアを通らなくても料理の出し入れができる小さな配膳口が付いています。

  • 北側の庭に面して設置された4人掛けの台形の食卓

    北側の庭に面して設置された4人掛けの台形の食卓

  • こうやって見ていくと、さすが日本を代表する建築家の家。小さいながらもいろんなところに前川國男の思いが詰まっていて、こんな家に住んでみたいと思いますね。

    こうやって見ていくと、さすが日本を代表する建築家の家。小さいながらもいろんなところに前川國男の思いが詰まっていて、こんな家に住んでみたいと思いますね。

  • ところで話は全く飛んでしまいますが、前川レポートで有名な日銀の総裁をしていた前川春雄さんは弟さんだそうです。<br />お兄さんは東大工学部、弟は東大法学部、進む道は違いましたがすごい業績を残したのは変わりません。

    ところで話は全く飛んでしまいますが、前川レポートで有名な日銀の総裁をしていた前川春雄さんは弟さんだそうです。
    お兄さんは東大工学部、弟は東大法学部、進む道は違いましたがすごい業績を残したのは変わりません。

  • 階段下のキッチンにつながるドアは、上部をアーチ型にして低くて通りにくいのを軽減させています。

    階段下のキッチンにつながるドアは、上部をアーチ型にして低くて通りにくいのを軽減させています。

  • このドアの吊元、よく見てください。一番コーナーでなく、少し内側にずれた位置にあります。

    イチオシ

    このドアの吊元、よく見てください。一番コーナーでなく、少し内側にずれた位置にあります。

  • それはなぜかと良く見ると、大きなドアをつけると吊元に負担がかかり、長い間には傾いてきてしまいます。その予防とドアを内側に開けた際に、少しでもドアが邪魔にならない工夫だと感じました。

    それはなぜかと良く見ると、大きなドアをつけると吊元に負担がかかり、長い間には傾いてきてしまいます。その予防とドアを内側に開けた際に、少しでもドアが邪魔にならない工夫だと感じました。

  • この建物は、1973年(昭和48年)に解体され鉄筋コンクリートの家に建替えられます。解体された前川邸は軽井沢の別荘として移築するつもりで部材を保存していましたが、藤森照信氏が探し出して、「江戸東京たてもの園」の目玉としてここに復元されたそうです。<br />前川國男邸 訪れるたびに新たな発見があったりして、いつも時間を忘れて魅入ってしまう、東京たてもの園で一押しの建物です。

    この建物は、1973年(昭和48年)に解体され鉄筋コンクリートの家に建替えられます。解体された前川邸は軽井沢の別荘として移築するつもりで部材を保存していましたが、藤森照信氏が探し出して、「江戸東京たてもの園」の目玉としてここに復元されたそうです。
    前川國男邸 訪れるたびに新たな発見があったりして、いつも時間を忘れて魅入ってしまう、東京たてもの園で一押しの建物です。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • ishicameraさん 2009/03/01 12:17:03
    理想の家
    ぬいぬいさんこんにちは。

    実は私、此処たてもの園が大好きで、よく通っております。
    その理由は・・・

    私の理想の家、「前川國男邸」があるからなのです。
    本当に、ここが大好きなんですよ。

    そして、銭湯に入った気分になって、路地裏の窓を開けてみる。

    拝見していて、また、理想の家を訪ねてみたくなりました。
    ありがとうございます。

    ishi

    ぬいぬい

    ぬいぬいさん からの返信 2009/03/01 19:45:16
    理想の家なんだ
    ishiちゃん  こんばんは

    ishiちゃんも前川國男好きなんだ。
    昨年彼の作品の学習院名物だったピラミッド校舎が解体されるニュースを聞いて、あわてて見に行ったけど、やっぱすごいよね。

    今度、ル・コルビュジエとのコラボの上野の国立西洋美術館をじっくり見に行こうと思ってます。
    建物がメインで絵はついでになりそう。

    前川邸もいいけれど、下町エリアのあの街並み、なんかデジャビューって感じで、すごくほっとする場所で大好きです。

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