マローズさんのクチコミ全143件
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投稿日 2015年12月23日
総合評価:4.0
四国屈指の植物園である牧野植物園は、五台山の各種僧坊跡に建てられています。故に今でも麓からいくつかの古道が通じているのですが、それらを辿って入園すれば、入園料を支払う必要がありません。但し、道以外へ立ち入る場合は、入園料を支払う必要があります。
地元住民らが辿る主な道は、「お馬路」と呼ばれる道(現在、何割かは車道化されている)で、起点はよさこい節で有名なお馬の住居跡(長江)。お馬はこの道を歩き、五台山南ノ坊住職・純信や慶全(かんざしを買った僧)に会いに行っていました。
植物園内には南ノ坊の井戸が保存されていますが、お馬路の途中の三叉路から北東に行った墓地内には、お馬と純信が逢引きしていた「お馬逢引岩」があり、その東方下には、お馬の父が墓守をしていた小倉家墓所もあります。
余談ですが、私は純信の曾孫の一人に会い、写真を撮らせて貰ったことがあります。→http://4travel.jp/travelogue/11088535
また、今年(2016)は、五台山南の集落・鳴谷(お馬一家が長江に移る前に居住していた集落)から戦前の「葬式専用道」跡を登ってからお馬路に合流し、植物園へ入りました。→http://4travel.jp/travelogue/11110371- 旅行時期
- 2016年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2016年10月01日
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投稿日 2016年10月01日
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投稿日 2016年10月01日
総合評価:4.0
この道の駅の良さはショッピング以外のところにある。道の駅ひろたは仙波渓谷から南に続く観光動線の最後の施設で、周辺の観光施設の拠点。周辺にはいくつもの砥部焼の陶芸舎や工芸館があり、陶芸体験ができる。
日本初の木造一等車道橋である神の森大橋から人道吊橋である神藤橋で回遊ウォーキングコースがあるが、道は玉谷川東岸の高所の崖沿いを走っている箇所もあり、高度感を感じられる。
陶芸舎の側には広田鉱山跡のトロッコ橋も残っており、車道橋、人道橋、トロッコ橋と見比べながら歩くのも楽しい。
道の駅は鉱山事務所や鉱石集散地跡に建っている。- 旅行時期
- 2016年05月
- トイレの快適度:
- 4.0
- お土産の品数:
- 3.5
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投稿日 2016年10月01日
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投稿日 2016年09月21日
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投稿日 2016年09月18日
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投稿日 2016年09月19日
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投稿日 2016年09月15日
総合評価:4.0
日本最長の林道は剣山脈の裏側を東西に走る「剣山スーパー林道」で、全長87.7kmに及ぶ。未舗装区間が長いため、起点から終点までは3時間半ほど要す。
最高所の標高は約1500mで、徳島県の最高峰・剣山や第二の高峰・次郎笈(ぎゅう)の登山口を始め、数々の高山の登山口がある他、林道の終点近くには徳島県一の紅葉名所・高の瀬峡もある。
ただ、台風や大雨時にはよく土砂崩れを起こすので、出かける際は当該自治体に確認を。
因みに西日本一の高所山岳道路は、以前クチコミ投稿した高知県の「UFOライン」。- 旅行時期
- 2012年10月
- アクセス:
- 2.5
- 未舗装区間が長いので時間がかかる
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 初夏のアケボノツツジやシャクナゲの時期、紅葉時期等は部分的に混雑する
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2016年09月14日
総合評価:4.0
踏切のない高架路線のJR湖西線は車窓の景色がいい。比良駅西側には田園風景が広がり、その後方には比良山脈が衝立のように連なっている。
また、東側には琵琶湖が広がり、特にそこの浜の水は澄み切っている。
駅からはかつて、比良登山リフト山麓駅に連結されるバス路線があった。中継地点の釈迦岳駅から山上駅まではロープウェイとリフトの二種類が運行されていたと思うが、リフトは急傾斜でスリルがあり、琵琶湖の眺望も素晴らしかった。
ロープウェイを利用して山上の八雲ヶ原湿原を訪れる観光客も多かったが、ロープウェイやリフトが2004年廃止されると、観光客の姿は消え、ハイカーや登山者のみが鑑賞できる景勝地となってしまった。- 旅行時期
- 1994年05月
- 施設の快適度:
- 4.0
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投稿日 2016年09月14日
総合評価:4.0
琵琶湖には水泳場(海でいうところの海水浴場)が多いが、北比良水泳場を訪れた時、水の透明度に驚いた。一般的な海水浴場の海よりはるかにきれいで澄んでいる。
北比良水泳場はネット地図によってはなぜか図示箇所が異なる。紙ベースの道路地図等では、比良川河口近辺に記載されているのだが、ネット地図によっては、JR比良駅のすぐ東の浜を図示している。私が訪れたのは後者。波打ち際近くに石灯籠があったのを覚えている。
その後者の浜近くには、マリンレジャー基地となっている「カーメルビーチクラブ」があるが、ここはウエイクボード発祥の地で、近年は水圧によって空を飛んだり、空中散歩ができるジェットパック、ホバーボード、フライボード等も導入されている。- 旅行時期
- 1994年05月
- アクセス:
- 4.5
- アクティビティ:
- 3.5
- 景観:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 水の透明度:
- 5.0
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投稿日 2016年09月12日
総合評価:3.5
寿永4年2月20日夕暮れ時、義経は馬の腹辺りまで海に乗り入れ、戦っていた。その内、平家軍の越中次郎兵衛盛嗣が船から熊手で義経に襲い掛かってきた。これは落馬させることが狙い。
義経は太刀で応戦していたが、脇に抱えていた弓を海に落としてしまう。それを見た盛嗣を始めとした平家の兵士たちは、熊手でその弓をからめとろうとしたが、源氏軍の小林新五宗行がそれを阻み、盛嗣が乗る船に飛び移り、格闘する。
その隙に義経は矢の飛び交う中、左の手に鞭を持って弓を引き寄せ、取り上げた。弓を取り上げようとする際、家臣からは危険故、「その弓、捨て給え!」と言われたが、義経は「軍将の弓とて三人張り、五人張りならば面目なるべし。されども平家に攻めつけられ、弓を落としたりとて、あち取りこち取り、強きぞ、弱きぞと披露せんこと口惜しかるべし。」と、弓を是が非でも取り上げたかった理由を語った。- 旅行時期
- 2007年08月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2016年09月12日
総合評価:3.5
寿永4年2月20日の屋島合戦二日目夕刻、平家軍は無抵抗の伊賀十郎家員を那須与一に射殺されたことに激昂、攻撃を再開する。
そんな中、平家方の悪七兵衛景清は牟礼大砂子で、馬を射られて落馬した源氏方の美尾屋(三尾谷)十郎を大長刀によって攻め、十郎の太刀を払い落とした。
逃げようとする十郎の兜を景清は熊手で引っ掻け、錣(しころ)を掴まえて引っ張り合いが始まった。その末、錣はちぎれて十郎は何とかその場から逃げることができ、味方の馬の陰に隠れて身をひそめた。
景清は大長刀の先にちぎれた錣を突き刺し、鬼のような形相で十郎の姿を探し回ったが、遂に見つけることができなかった。- 旅行時期
- 2007年08月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2016年09月12日
総合評価:3.5
与一が神明の加護を祈った祈り岩から北西数十メートルの所に、与一が鏑矢を発した駒立岩がある。
見事与一は扇の的を射ることができ、扇は空中へ舞い上がってひらひらと揺らめきながら海に落ちた。しかし本当に命中していたならば、扇は木っ端微塵に吹き飛ぶので、扇の要の際をかすめただけではないかとも言われている。
これには源平両軍共、喝采を送った。特に平家方についていた与一の兄・六郎実高の主、伊賀十郎兵衛家員は感動して舞を舞い始めた。
すると源氏軍の中から「あの舞を舞う者も射るべし」という声が上がり、与一は不本意にも家員を射ってしまう。
矢は家員の首に命中、海中へ落下した。
これに怒った平家軍は、一斉に攻撃を始める。その中に大長刀を振るう猛者がいた。悪七兵衛景清、「錣(しころ)引き伝説」の主役の一人である。- 旅行時期
- 2007年08月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2016年09月12日
総合評価:3.5
寿永4年2月20日、屋島合戦二日目の夕刻。両軍が海上と陸に分かれて対峙し、休憩していた所、舳先に扇を立てた一艘の小舟が源氏軍が布陣する浜に近づいてきた。扇の後ろには建礼門院の侍女で美人として知られた19歳の「玉虫の前(舞の前)」が立っており、源氏軍に扇の的を射るよう、促した。
義経は畠山重忠に射るよう、命じたが、重忠は固辞し、那須十郎を推す。しかし十郎も一の谷の戦い時の傷が完治していないことを理由に断り、弟の17歳になる与一崇高を推薦した。与一は伊勢三郎義盛等から「海上が暗くなる前に早く射よ」と急き立てられ、最早断れる状況ではなかった。
与一は覚悟を決め、海に馬を乗り入れ、「祈り岩」の前で瞑目し、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光大権現、宇都宮那須温泉大明神、願わくば、あの扇の真中を射させてたばせ給え。これを射損ずるものならば、弓切り折り、自害して人に再び面を向かうべからず」と祈った。
が、この時与一は、平家方についていた兄・六郎実高の主、伊賀十郎を、扇を射た直後、射ることになることや、昭和初期、自らの子孫が殺人犯として逮捕されること等、思いもよらなかった。- 旅行時期
- 2007年08月
- アクセス:
- 5.0
- 牟礼の観光客用駐車場の近く
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2016年09月10日
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投稿日 2016年09月11日
総合評価:3.5
寿永2年9月、平家は安徳帝を奉じて六万寺を行在所とし、この地に総門を建て、海防に備え、また、上陸拠点とした。
源平史跡の顕彰に努めた高松藩主・松平頼重はここに冠木門を建て、古跡を周知させた。
しかしここは占領した源氏軍が新設した総門跡だという説や、頼重が世間に周知させるため、庵治街道沿いに建設したという説がある。
本当の平家の総門跡は木戸集落にあったとか、六万寺鐘撞堂跡である等の見解もある。- 旅行時期
- 2007年08月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2016年09月11日
総合評価:3.5
屋島に攻め込んだ源氏軍を大軍と思い込んだ平家軍は一旦、海上に逃れるものの、源氏軍が実際には少ないことを知ると、沖と陸とで矢合戦が始まった。
「源平盛衰記」ではこの時、平教経率いる500人ほどの軍勢が灰燼に帰した平家陣屋の総門へと押し寄せ、教経は強弓で源氏軍の河越三郎、片岡兵衛、河村三郎、大田四郎等を次々と射貫いていき、佐藤継信も首の骨を射ぬかれ、馬から真っ逆さまに落ちた、と記されている。
他文献では、継信は義経をかばって矢面に立ち、教経の矢で左肩から右脇腹を射貫かれたとする。
その継信が射貫かれて落馬した地を後世、「射落畠」として顕彰した。
昭和6年には継信から30代目の子孫、佐藤信古氏が顕彰地を大改修し、池泉を造り、柵をめぐらし、射落畠碑と継信の愛馬の薄墨碑を建立した。- 旅行時期
- 2007年08月
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2016年09月11日
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投稿日 2016年09月11日