フランシスコさんのクチコミ全49件
- サムネイル表示
- リスト表示
- ホテル
- ショッピング
- グルメ・レストラン
- 交通機関
- 観光スポット
- 基本情報
-
投稿日 2004年11月15日
駅から市街の一番奥のトランシト教会までタクシーで上がり、あとは気ままに歩くつもりでした。カテドラルを中心に歩いたら大丈夫だと思っていたのですが、ものの見事に迷いました。
犬一匹いない炎天下、さんざん歩き回って、自分がどこにいるのか分からなくなった頃、いきなり日本語で話しかけられました。
「あなた、あなた、日射病になりますよ」
トレド在住の日本人画家でした。
「何をしているんですか?」
「グレコが好きでここに来たんですが、道に迷って、迷っていることを楽しんでいます」
と答えると変な顔をしていました。
ちょっと立ち話をして、絵描きさんは車で街におり、私は相変わらずさ迷い歩いていましたが、あんまり熱いのでカフェに入りました。
歴史散歩のようなスペイン人のグループが休憩しながら、案内役に説明を聞いていました。ぼんやり聞きながら、私は日射病のように見えるんだろうかと考えました。確かにぼーっとしていたのは確かです。
でも、本当に大変だったのはその後。迷いながら駅を目指した道のりの遠さ、炎暑。タクシーをつかまえようかなんて思っても、真っ昼間そんなものは通りやしません。
まさに日射病寸前の私でした。
アルフォンソホテルのレストランに飛び込んで冷たいワインとウズラのトレド煮にありついたときは生きていてよかった、と正直思いました。- 旅行時期
- 1998年08月
-
タイムスリップ
投稿日 2012年12月01日
-
投稿日 2004年11月12日
総合評価:1.0
トランジットのゲートでまたまたピー。携帯電話が反応したか。甘露飴の缶か、それとも煙草の銀紙? トカレフがばれたか? 冗談言ってる場合か。
すっ飛んできた空港職員の反応が、ひどく鋭敏で官僚的につっけんどんで、さすがロシアと思わせる。女エリティンのような顔して、古木のような巨大な女性が腰に拳銃ぶっこんで、顎であっちだと指図する。後ろには軽機関銃もった部下がスタンバッテいる。こっちが「ん?」という顔していると、凄い顔で再び顎をしゃくる。抵抗したら逮捕されそうだ。
テーブルの上に身体中のポケットに入っているものすべてを出させられて、こちらはホールドアップ状態。幸いチップを要求されるとこまでいかなかったから、職務の範囲内だったんだろう。- 旅行時期
- 1998年07月
- 利用目的
- その他
-
投稿日 2004年09月26日
アルハンブラ宮殿は添乗員以外に、現地の専属のガイドを雇わなければいけないようです。添乗員もここでは口がきけません。ガイドもおざなりで質問なんかには答えません。
チケットでは3か所見学できるはずなのに、ガイド、添乗員任せでぞろぞろ歩いていると、1か所ぐらいで終わってしまいます。
その後もぞろぞろツアーがあるんなら諦めてください。
「アルハンブラ見学の後は、グラナダの町中に送って、後はフリーです」
みたいなツアーだったら、
「自分はここでフリーにしてくれ」
と毅然と意思表示しましょう。
そして、順路逆行しても、庭園、フェネラルフェから何から、み~んな、悔いなくゆっくり堪能しましょう。だだし宮殿内の図は持って歩くこと。どこにいるかわからなくなると面倒ですから。- 旅行時期
- 1998年07月
-
投稿日 2004年09月30日
タクシーが門前まで上がってくれる。ここからのバルセロナの眺望は素晴らしい。カテドラルもサグラダ・ファミリアも港も一望できる。ビルなどもさほど多くない。街の中央に高く、そして踏ん張っているのはカテドラルだ。
中世の頃、ヨーロッパ中からイベリア半島の西北のはずれ、サンティアゴ・デ・コンポステーラへと向かう巡礼の列があった。星降る野に見つかったサンティアゴ(聖ヤコブ)の墓に詣でるための列だ。二度と帰らぬ覚悟で家財を引き払って出発をしたものも多かったという。フランスを4本のルートで横切り、ピレネー山脈をシセ峠かソンポルト峠で越え、プエンテ・ラ・レイナで路は1本に合流する。そこから一路サンティアゴ・デ・コンポステーラをめざす。巡礼路には巡礼達を宿し、決意を確かめ、救護し、行き倒れの巡礼を葬るための聖堂、教会、修道院があった。
ここカタルーニャ美術館は各地の朽ち崩れようとする教会、修道院の壁画を剥ぎ取って保存しようとする、特色のある美術館だ。そんな乱暴なことをしていいのかと心配にもなるが、巡礼路の荒廃ぶりや壁画の保存を考えると、こうでもしなければならないだろう。
ここでの圧巻は、なんといってもタウールのサン・クレメンテ教会の「全能者キリスト」と呼ばれる壁画だった。スロープをおりてサン・クレメンテの聖堂を模した空間に出ると、この壁画のある円天井の方へすーっと吸いよせられてしまう。不思議な体験だった。あの青さ。青は空の色で、超自然的なものを表すという。周囲に天使や福音書の作者(4人)や聖母、使徒に囲まれ、大きな眼をして、威厳と栄光に溢れた姿だ。
私はあちらこちらで見せつけられる、干物のような、十字架に架かったキリスト像にいつも当惑していた。これは何もスペインに来てからのことではない。いままでの多くもない教会体験の中で直視できないような気がしていたのだ。キリスト者というのはこういうものを通して神を礼拝する際、いったいどんな心境でいるのだろう、よほど残酷な、あるいはエゴイスティックな心情ではないかと思ってもみたりした。
サン・クレメンテのキリストは、十字架の上で醜く、無残にも歪み、血糊やクギの跡を見せ、土気色をした姿(たとえばグリューネバルトの「キリスト磔刑図」のような)とはまったく違う。サン・クレメンテのは12世紀、グリューネバルトは16世紀だ。
400年の間にキリストは生身の人間の姿に近づけられ、無残極まりない死の〈かたち〉をさらすようになった。犠牲者キリストの犠牲ぶりをこれぐらい醜悪、無残にしなければ絶対的な神の救いや無限の愛を人間は信じられなくなってしまったのだ。人間の方が変わってしまったのだ。
磔刑図(像)について、私が信者のエゴを想像したのも、あながち的外れではなかったかも知れない。
なお、美術館の丘の麓のバルは、ドライブインみたいで、気楽だが、あんまりいただけない。街中へ降りて食べるべし。- 旅行時期
- 1998年07月
-
投稿日 2006年09月26日
インペリアル・クイーンズ・パーク・ホテルにて。
夕食は済んでいましたが、ちょっと酒が飲みたくなり、おそるおそる最上階の日本食レストラン華頂に行ってみました。時間も9時過ぎと遅かったので、他に客はいませんでした。夜景を眺める絶好の窓際の席。
冷や奴、うざくなんかをつまみに飲み慣れた焼酎いいちこで一杯、二杯。豆腐は案外大豆の味が濃くてうまかった。うざくはお酢がちょっと甘めでタイ風だったかな。
それでも、和服を着た店員も、お姉さん格の人は日本語もまあま上手で、控えめで、気分よく飲めました。
お腹は空いていなかったけれど、メニューに「梅巻」というのを発見、「沢山じゃ食べられないんだけれど」と言うと「六つですから……」というので頼むことにする。頼む人が少ないのか、梅漬けは少し古い味がした。海苔、シャリはまあまあ。
これど占めて3000円。ここでまたーりした気分からすれば、けっして高いものではない。- 旅行時期
- 2006年09月
-
投稿日 2006年09月26日
インペリアル・クイーンズ・パーク・ホテルにて。
チェックアウトが夕方、飛行機が夜なので、夕食を簡単に取っておくかとチャイニーズ・レストラン「インペリアル」に突入。開店はしているが、まだ、店員の点呼をやっていた。
久々タイのシンハではないビールを飲み、2品とった。1品は北京ダック。お一人様だし、スモールと書いてあるから何とかなるだろうと思った。
ところが、テーブルに届いてたまげた。ダック半羽といったら大げさかも知れないが、十分3人前くらいはある。「これでスモール?」と聞いたら「スモールです」という。日本の北京ダックがいかにべらぼうに高いかということだ。
もう1品。それに広東風あんかけチャーハンも頼んでしまったことを、私は悔いていた。もっとも日本にいても、居酒屋なんぞでついつい頼みすぎる癖のある自分だった。
向こうの席で日本人のご婦人たち3人が、春巻き各1本とチャーハンをシェアして食べているのがずいぶん賢明に見えた。
ようやく三分の二を平らげて、動くのも億劫になって、やおら荷物のパッキングでもするかと部屋に戻った私でした。
写真はホテル裏手のベンチャシリ公園- 旅行時期
- 2006年09月
-
投稿日 2006年09月26日
アユタヤのバンパイン離宮は建築物はもちろん、グリーンや花々がみものだ。
ところが、離宮というだけあって見て回るのに案外制約がある。
たとえば、中国風建築の中は裸足、撮影禁止とか(ここはかつて事故があったそうな)、ポルトガル風天文台を見に行くには中国館の方から池を回っていかねばならない。洋館(スイス風?)の方には兵隊が立っていて、「こっちからは進入禁止だ」という。
マイペンライ、マイペンライ。
ま、何代目かの王様のロマンスの思い出だし、国賓や他国の王族なんかを泊めたりしている施設のようだからね。
写真はポルトガル風天文台- 旅行時期
- 2006年09月
-
投稿日 2006年09月26日
安くない料金払うのだからホテルライフも楽しまなければと思うようになった昨今です。
それで思い出すのは、香港・インターコンチネンタル・ホテルのプール。
屋上展望プールという趣で、発着する飛行機を見上げながら水面に浮かんでいるのは、最高に気持ちよかった。しかも目の前は海峡を行く船舶や対岸が一望。
部屋のバスローブまとって、ビールなんか取ってチェアで一眠りもいい。
スコールは少々冷たかったけれど、どうせ濡れついで……。快適ついでにイルカになって(トド?)思わずジャンプしてみました。
海へ行かなくても、海パンは必携ですね。- 旅行時期
- 2002年07月
-
投稿日 2006年09月18日
ホテルの裏のベンチャシリ公園はくつろげます。
朝食前後に歩けば、噴水や散水をしていて涼しいし、緑が多く、体操や瞑想(?)なんかやっている地元の人もいるし、かといってルンビニ公園ほど馬鹿広くないし、気持ちのいいところです。
ホテルの裏口には愛想のいい守衛がいて、宿泊客にはにっこりと門を開けてくれます。
公園がプライベートパークという趣です。
街歩きに疲れて早めにホテルに帰ったときにも、コーラ片手に日陰で休ませてもらいました。
陽気だけれど不思議な雰囲気の地元のおばさんに怪しい英語で時間を聞かれたり、熱心に植木の手入れをする市の(?)職員なんかを眺めてリラックスできました。- 旅行時期
- 2006年09月
-
投稿日 2006年09月18日
チャイナタウンはどこも同じようなもんだろうと思っていると
、バンコクはちょっと違う。
職種毎に路地が分かれているのは香港なんかと一書だが、バンコクの場合、鉄材やポンプ、バルブといった工業製品を扱う店の占める区画が広い。
町工場というか、部品屋という趣で油臭いしあまり面白いものではない。
その中をさまよっているうちに、いつの間にか自分がどこにいるのか分からなくなる。
しかもここらは普通のガイドブックなんかには、あまり詳しく出ていない。
船着き場ならともかく、一休みするカフェなんてありっこない。
川岸へ出てみようと思って家並みの間をすり抜けていったら葬儀屋だったり……。
仕方がないから、大通り目指してドロボウ市場を抜けて、やっと居所の分かるところまで戻った次第。
水を持っていてよかった。
ま、BTSや地下鉄の駅周辺だけじゃ、都会的過ぎてつまらないけれどね。
写真はチャイナタウン入口。
このきれいさ、整然とした感じにだまされてはいけない。- 旅行時期
- 2006年09月
-
投稿日 2006年09月13日
チャイナタウンのフカヒレの店・スカラ・シャーク・フィンは日本人中心に大もうけしているのだろう、デラックス・レストランに改築中。
営業はすぐ右隣の小さな素朴な店舗でしている。
ただし、1000バーツ(3000円)程度のフカヒレだと台湾のたとえば「新同楽」なんかの同金額の商品に負けて、フカヒレの姿もろくろくない。
味もそれなりだ。
それよりうまいと思ったのは蟹のツメの蒸し焼き。
これはビールのつまみにもいいし、上にかぶさったビーフンを飯代わりに食べてもいい。
メニューにお値段のランキングがはっきり書いてあるところは良心的だ。
それにしても小学6年生くらいのお嬢様が、一人で、フカヒレで食事をとっていたが、恐れ入った。- 旅行時期
- 2006年09月
-
投稿日 2006年09月13日
東京麻布にも支店のある茶芸館・竹里館。
私は王維の漢詩への憧れから行ってみたかったのだけれどもね。
台北の竹里館はガイドブックには載っているし、日本人スタッフもいるしで大人気のようだ。
ここに行くにはお茶のつもりではびっくりする。
茶請けという質・量ではない。
食事のつもりでないととても食べ切れたものではない。
しっかりしたアフタヌーン・ティーみたいなものだ。
それに諸々の茶葉が買えるだろうと思っても当てがはずれる。
プアール茶が中心で、あとはウーロン茶かジャスミン茶。
それほど高級な茶葉は店売りしていない。
茶葉専門のwebサイトの方がはるかに他種類の茶葉が入手できるだろう。- 旅行時期
- 2005年07月
-
投稿日 2006年09月13日
バンコクのトゥクトゥクはもちろんタクシーなどに乗って行く先を告げる時は、行きたいレストランなんかのある通りまでで我慢した方がよさそう。
あとはきょろきょろ歩くわけだ。
ドライバーに英語が通じるわけではないし、我々の話すカタカナのタイ語もほとんど通じない。
彼らはBTSの駅でもらえる地図を持っているが、それにはレストランやホテルなど書かれているわけではない。
けれども、通りや路地ならわかる。
通りや路地の名なら、あれこれ言い換えているうちにはドライバーも「オオッ」と気づくことになる。
トゥクトゥクなら、ここで料金交渉。
「ハウマッチ」だけは通じるから不思議だ。
そして、トゥクトゥクはひっくり返りそうな猛スピードで走り出す……ということに。
ドライバーさん、そんなに怒らなくても……。
(写真:トゥクトゥクで疾走中)- 旅行時期
- 2006年09月
-
投稿日 2006年09月13日
ハノイ大聖堂からホアンキエム湖にかけての通りは小さな画廊が多い。
いわゆるくだらない売り絵や民芸品を扱っている店も多いが、若手の作家などの意欲作を飾っている店もある。
こういう店はドンの残りで絵葉書や小さな肉筆の動物画でも買って土産にすれば喜ばれる。
見たところ質素だが、小さい画廊ほど内容がいい。
日雇いの仕事をしながら絵の具代にあてながら少数民族の風俗を描いている作家のミニ個展などは巡り会えてよかったという内容だった。
小さな画廊では経営者も若い人が多く、本当にアートを愛し、若手を育てようとしているんだなと感じられて好感が持てる。
英語で懸命に説明してくれる。
次に行ったら、ハノイでは画廊中心に歩きたいくらいだ。
できれば作品も購入したいとさえ思っている。- 旅行時期
- 2004年09月
-
投稿日 2006年09月12日
慢性的な渋滞がネックと言われていたバンコク市内だが、BTSと地下鉄(2004年開通)で移動はかなり楽で快適になった。
特にサイアム駅を中心に放射状にスクンビット線とシーロム線からなるBTSに地下鉄がつながって環状的に市内を巡れるようになった。
地下鉄がBTSと接続するのはモーチット、アソーク、サラディーン駅(いずれもBTS線での駅名)。
どこの駅にも路線図がもらえるし、日本語も併記されている。
となるとBTSはワンディパス(120B)で、地下鉄はお金で磁気コインを買って移動すれば無駄がないかも。
ただし車内のアナウンスはカタカナ発音とはかなり違っていてン?と思うこともある。
これは我々がガイドブックを見て地元の人にカタカナ読みしても通じないのとセットかもしれない。
また接続駅の駅名がBTSと地下鉄で違っているのもちょっとややこしい。
(写真はスクンビット線のフロームポン駅)- 旅行時期
- 2006年09月
-
投稿日 2004年09月27日
3年ぶりに訪れて、びっくり、がっくりしました。ウエディング中心とか、ネットで営業拡大とか、経営方針が変わったのでしょうか?
レストランが売りだったと思うのですが、素材はいいのに、まったく生かしきれていない感じ。しかも、皿上の景色が悪い意味で凝りすぎ。メインの料理を皿のハジにつけるなんてやりかたはないはずです。
それにサービスする人たちも、3年前とはまったく変わりました。若いけれども、不慣れな人が多い感じ。ワインの説明もできないっていうのは困ります。
約束の時間に着席して30分待たされました。しかも、ソースをつけ忘れているというお粗末。デザートになったら、カフェに追い出される。コーヒーはファミレスのみたいに煮きっています。
ランクが一気に3ランクくらい下がった感じです。
近江舞子・ホテル京阪、京都・天満・京橋・USJなどと兄弟ホテルだと聞きますが……。噂を聞いて来た人は、こういうホテルなんだと思って帰るでしょうが、3年前、高いけれど、料理の味、景色、サービス、ソムリエのかいがいしさ、落ち着き……全般的に十二分に満足して帰ったことを思うと雲泥の差、とても、残念です。
哀しいけれど、私は、もう、行かないでしょう。人にも勧めません。ミシュランではないけれど、名ホテル、名レストランも、常時チェックしないと駄目かも。- 旅行時期
- 2004年07月
-
投稿日 2004年11月23日
ホテルの裏が狭い路地で、その向こうがあのメスキータの壁だ。
ホテルの入口はさほど特徴はないが、ロビーに入ると大理石づくめのなかなか貫祿のある建物である。噴水のあるパティオもコルドバらしい。見上げると日差しを避けるためかカンバスを屋根にしているのが、少しばかり興ざめだ。イスラーム風のあずまやがある。名前が「コンキスタドール」(キリスト教徒による奪回)とは皮肉な命名だが。
部屋に入ると床も壁も天井も大理石。こんなに様々な色があるとは思わなかった。エアコンのせいばかりでなくひんやりしている。壁は厚く、鉄の格子にシェードのかかった窓は極端に狭い。内装の豪華なトーチカか幽閉獄みたいなものだ。
エアコンのコントローラーを見ると17℃に設定してある。マドリードで懲りているから、25℃位に設定し直して、早速ベッドにもぐり込む。昼食を抜いて腹を干すつもりである。実は前夜から腹の状態がG・クーパーだったのだ。
「遙かなる孤独のコルドバよ」とロルカが歌った憧れの地に来て、ここに生まれた哲人セネカを偲びもせず、メスキータも、憧れのグアダルキビール川も諦めて、まず腹を直そうと思った。
気がついたら3時近い。2時間半ほども泥のように眠っていたらしい。バスに湯を張って腹を温めようと思う。見事な大理石造りだ。それもスなんかの入っていない目の詰まった、きめ細かい石。
生ハムとクッキーを玄米茶で流し込んで、再びベッドにもぐり込む。
翌朝、北海道のAさんに会ったら、
−いや、ひどかったです。
とぷんぷんしている。
−どうしました?
と聞くと
−蟻がいませんでしたか?
−蟻ですか? 気づきませんでした。
−目地のところを行列でした。部屋はもちろん、洗面所、バスルームにもいたんです。
−そりゃひどい目に会いましたね。僕は腹下しで苦しんでいただけで、そんなことはなかったと思うけど。
−寝れませんでした。ひどいホテルです。
体調さえ悪くなければ、僕にはそう嫌なホテルではない。むしろその正統派ムデハル様式の造り、七色の大理石は豪華で気に入っていたくらいだった。
しかし、ムスリムのアリでなく蟻の行列に会ってしまったら、僕とてどんな印象を持ったかわからない。コルドバは砂漠に続いているのかもしれないななどと思った。
腹具合もどうにかおさまったようだ。- 旅行時期
- 1998年07月
-
投稿日 2004年11月23日
グラナダ駅の前をラ・コンスティチュシオン通りを抜けコロン大通り、カテドラルの角を左折するとヌエバ広場だ。狭いゴメレス坂にかかると両側にみやげ物屋が並ぶ。バス1台がやっとという狭さである。ザクロ(グラナダ)の門を通り抜けると、急にうっそうとした木立の中に入っていく。くねくね曲がりながら、アルハンブラのお膝下、ホテル・ヘネラリーフェまで一気に登っていく。アルハンブラ宮殿の城壁をぐるりと回ってヘネラリーフェ近くまで登っているはずだが、木立が深くて城壁は見えない。
ホテルも木立の外れに立っていて、眺望などはさほどよくない。とは言え、アルハンブラの離宮(フェネラルフェ)の懐の中である。
ロビーもどことなくごたごたしている。古い感じはするが、洗練されたとはいいがたい。とはいえ、大理石をふんだんに使ったやはり重厚な内装である。
部屋の窓を開けると、古城の空堀のようで、木立に面しているが、それとても格別趣があるという木立ではない。ここは二階の廊下をいくつも曲がったいちばん奥まった部屋である。石造りの内装だから空気がひんやりしている。夏の南スペインでは日当たりの悪いのは、むしろ歓迎である。
プールがあるというバルコニーを覗いたら、太った外国人のおば(あ)さんが2人ほどプールサイドに見えた。まだ、斜めだが強い日差しの下だ。
アルバイシンのフラメンコを見に行く前に食事をしておこうと思ってビュフェに行く。このホテル内にこんなにたくさんいたかと思われるほど賑わっている。スペイン各地、それに中南米からかと思われる人達の団体だ。ごたぶんに漏れず、おばさんのほうが圧倒的に多い。
食事半ば、ギターやヴァイオリンを抱えた若者が数人現れた。黒いマントに黒い頭巾だ。中央で1人が口上を述べはじめる。最初はスペイン語で、ついで英語でやる。
「僕たちはグラナダ大学の学生音楽サークルです。ふだん学内や町の広場で演奏などしていますが、週末にはこちらのホテルでもお食事中のみなさんに演奏を聴いていただいています」
というようなことを言う。なるほどそれで中世の巡遊学徒のかっこうをして現れたのかと思った。グラナダ大学なら、詩人ロルカの後輩だ。
演奏が始まった。ギターもフラメンコなどとは違って、のんびりした、素人っぽい演奏である。席のあいだを回りながら歌う。よく知られた曲目が多い。ララの「グラナーダ」とか「乾杯の歌」「バイア・コンディオス」その他、スペイン民謡だった。下手ではないがうまくもない。温かい感じだ。中南米のおばさんたちは巨体を揺すって一緒に歌っている。
1通り演奏が終わると、またリーダーらしき学生が話す。CDとテープを手にしている。
「これは僕たちの演奏を入れたCDとテープです。カンパだと思って協力してください。市内でも売っていますが1500ペセタします。今日は特別1200ペセタでお分けしますのでよろしくお願いします。」
なんてことを言う。学生らしいと言えば学生らしいが、流しと言えば流しだ。テーブルに来たが、僕もそっけなく「ノ、グラシャス」と断った。悪びれもせず、学生は他のテーブルに移っていった。元気のよかったおばさんたちも、みんながみんな
買っているわけでも無さそうだった。- 旅行時期
- 1998年07月
-
投稿日 2004年11月23日
どこを撮っても絵になりそうな、花いっぱいの路地の風景。
壁の花に負けないくらいピンクのシャツを派手に着込んだアメリカ人の老婦人2人が近づいてきた。カメラのシャッターがおりないのだと言う。
「どういうわけかわからない。あなた日本人? 見てもらえないかしら」
というようなことを言う。
「フィルムは入ってるんですか?」
と聞くと、
「新しいのを入れたのよ。入れた時から撮れないの」
と言う。ファインダーを覗くとバッテリーではなさそうだ。
「写真屋で入れてもらった?」
「いいえ、自分で」
「撮ったフィルムが2,3 枚ダメになるかもしれないけど」
というと、
「それでも構わないからやってみて」
と言うから、フィルムを装填し直したらシャッターがおりた。2,3 枚カラ押しして、
「直りました」
と言うついでにポーズをとった婆さんたちを1枚撮ってあげて
「はい」
と渡すと、大げさに喜んでいた。後も無事か分からないので、さっさとその場を立ち去ることにした。
集落のいちばん高いところまで上がって振り返って見ると、入り組んだ真っ白な町並みの隙間に青い海と、フエンヒローラの街だろうか、眼下に広がっていた。僕は、また、坂になった路地を下っていった。- 旅行時期
- 1998年07月


















