wiz さんのクチコミ(5ページ)全448件
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映画 『サラの鍵』 でも出てきました 《plus jamais ca》 Memorial de la Shoah (4区)
投稿日 2015年09月11日
総合評価:4.0
第二次世界大戦下、ナチス・ドイツの占領下にあったフランスで1942年7月16日〜17日に行われた最大のユダヤ人大量検挙事件、ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件(Rafle du Velodrome d'Hiver)、略称ヴェル・ディヴ事件(Rafle du Vel' d'Hiv)を描いた映画『サラの鍵』でも出てきた、ショア記念館 Memorial de la Shoah。
Elle s'appelait Sarah
http://www.imdb.com/title/tt1668200/locations?ref_=tt_dt_dt
パリ4区の趣ある石畳の道バール通りや、中世の家が残っているフランソワ・ミロン通りのすぐ近くにある ショア記念館 は、ホロコースト記念館(無名ユダヤ人犠牲者記念堂)です。
仏オランド大統領は、アウシュビッツ強制収容所が解放されてから70年の追悼式典に参加する前、2015年1月27日に、ホロコースト記念館(ショア記念館、パリ)を訪れ、第二次世界大戦当時ヴィシー政権下で強制収容所に送られた75000人の在仏ユダヤ人に追悼の意を示し、「ホロコーストは制限なしに全世界に伝えていかなければならない。・・」と演説しました。
Hollande au Memorial de la Shoah
”La Republique francaise n'oubliera jamais ”
www.lemonde.fr
http://bit.ly/1KexzGL
今回は中に入る時間はなかったので、記念館の外にある 《Mur des Justes》(2693の諸国民の中の正義の人に捧げるオマージュ) を拝見・・。 私たちが訪問した時期は、2014年5月にベルギー・ブリュッセルのユダヤ博物館で銃撃事件があった後だったからか、ショア記念館を見張るようにパトカーがとまっており警官も監視しておられるような状況でした・・・。
Memorial de la Shoah
17 rue Geoffroy l'Asnier 75004 Paris- 旅行時期
- 2014年10月
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広場名は 中世ベネディクト派の女子大修道院長 (アベス Abbesses) に由来 Place des Abbesses (18区)
投稿日 2015年09月10日
総合評価:4.5
アベス広場 Place des Abbesses は、モンマルトル観光に便利なメトロ駅のひとつアベス駅(の出入口)がある広場。
モンマルトルにゆかりの画家ユトリロは、モンマルトルのあちらこちらの絵を描いていますが、ここアベス広場の絵も描いています。
また、2000年に完成した人気スポット ジュテームの壁 Le mur des je t'aime がある (昔モンマルトルの村役場があった) ジャン・リクチュス小公園 Square Jehan Rictus は、アベス広場の北側に、また、アール・ヌーヴォーの教会で有名なサン・ジャン・ド・モンマルトル教会は、アベス広場の南側にあります。
「アベス広場」 や、「アベス通り」 、「アベス駅」 の、「アベス Abbesses」 は 「女子大修道院長」 の意味で、12世紀にモンマルトルの丘の上に建立されたベネディクト派の女子修道院(Abbaye des Dames de Montmartre)の修道院長たちに由来する名前だそうです。
(※モンマルトル女子大修道院の建物のうち現存する唯一の建造物は、現在のサン・ピエール(ド・モンマルトル)教会。)
「アベス広場」 は、12月にはクリスマスマーケットの小屋が建ったり(1)、週末には街角ミュージシャンが演奏していたり(2)、また10月の第2週末にモンマルトルで開催されるモンマルトルのブドウ収穫祭のイベントであるパレードの経路上にあたっているので、その時はとても賑やかで楽しい雰囲気になっていました(3)♪
参考まで
(1)2008年12月 月曜午前、
(2)2012年10月 第1週末、
(3)2014年10月 第2週末 の写真を添付してみました !- 旅行時期
- 2014年10月
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スービーズ館で一番古い部分 「 クリソンの門 」 Hotel de Soubise (3区)
投稿日 2015年09月10日
総合評価:4.0
国立古文書館(スービーズ館)の住所(メインの入口)は、マレ地区の代表的な通りのひとつ フラン・ブルジョワ通り Rue des Francs Bourgeois となっているのですが、行きも帰りもフラン・ブルジョワ通りの出入口を使うと 「 クリソンの門 」 を見落としてしまいがちです。
国立古文書館(スービーズ館)の西側の アルシーヴ通り Rue des Archives と ブッラック通り Rue de Braque のT字路のあたりにも出入口がありますが、こちらの出入口を出て、T字路のあたりに出ると 2つの塔 が、よく見えます。
この2つの塔が見える部分が、(旧クリソン館 Hotel de Clisson / 現スービーズ館の一部 の) 「 クリソンの門 」 と言われる部分で、スービーズ館のなかで一番古い部分になります。
「 クリソンの門 」 は、14世紀(1380年)、デュ・ゲグランの戦友オリヴィエ・ド・クリソン元帥がこの土地で家(当時クリソン館)を建てた時の唯一の名残なのだそうです。
現在のスービーズ館のある場所は、位置的には、12世紀後半につくられたフィリップ・オーギュストの城壁のちょうど外側にあたり、クリソン元帥がクリソン館を建てた頃(1380年)には、右岸の城壁はひとまわり大きいもの(シャルル5世の城壁/1356-1383頃建造)が出来ていたので、ひとまわり大きくなったシャルル5世の城壁に組み込まれるような立地であったと想像できます。
ちなみに、フラン・ブルジョワ通りをはさんで、スービーズ館の向かいにある建物クレディ・ミュニシパル(パリ信用金庫)の中庭にも入ることができるのですが、この中庭に、フィリップ・オーギュストの城壁の一部をなしていたという塔、がありますので、これを見ると、スービーズ館がフィリップ・オーギュストの城壁のラインのすぐ外に位置することがよく分かると思います。
国立古文書館(スービーズ館) あたりを散策される際は、是非アルシーヴ通り側からの外観もご覧あれ !
◎ 建築の主流が 大君主の 「城郭宮殿」 や、 封建貴族や一部の富裕商人、銀行家の 「 邸館」 に移っていき、 従来ほとんど顧みられなかった都市の 「町屋」 、農村の 「住宅」 が記録にとどめられ 遺構 として今に伝えられるようになったのは 14世紀頃 からのようで、この類の建築としては、クリソンの門 は古い方かと思います。 パリの中に残る 「館建築」 としては、クリュニー館(クリュニー中世美術館)や、サンス館(フォルネイ図書館)が 古いものとされています(ともに15世紀)。
◎ オリヴィエ・ド・クリッソン wikipedia
(ブルターニュ貴族で、ブルトン人の戦士)
http://bit.ly/1O30BLW- 旅行時期
- 2014年10月
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映画 『地下鉄のザジ』 のロケ地、大革命までは郵便馬車の発着所だった Passage du Grand Cerf (2区)
投稿日 2015年09月08日
総合評価:4.0
” パッサージュ・デュ・グラン・セール(大鹿) Passage du Grand Cerf ” は、1825年に開通した屋根付きパッサージュ。
ここには、同名の宿屋(Hotel du Grand Cerf)があったそうで、これがパッサージュの名前の由来。
1960年のルイ・マル監督の映画 『地下鉄のザジ Zazie dans le metro』 のロケに使われたパッサージュでもあります。
地下鉄のザジ Zazie dans le metro
https://youtu.be/JxTUXPHrFc0
パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerf は、サン・ドニ通り Rue Saint-Denis を境に、 パッサージュ・デュ・グラン・ラベ Passage du Bourg l'Abbe と向いあっていますが、 フランスの写真家 ウジェーヌ・アジェ Eugene Atget (1857-1927) もこの2つのパッサージュの写真を撮っています。
Eugene Atget
Passage du Grand-Cerf, 145 rue Saint-Denis
http://classes.bnf.fr/atget/grand/124.htm
Eugene Atget
Passage Bourg-l'Abbe, 120 rue Saint-Denis
http://classes.bnf.fr/atget/grand/128.htm- 旅行時期
- 2014年10月
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1429年9月8日の 古戦場 (サントノーレ門) 近くに立つ ジャンヌ・ダルク像 Statue de Jeanne d'Arc (1区)
投稿日 2015年09月09日
総合評価:3.5
15世紀初頭、イングランド・ブルゴーニュ連合勢力の占領下にあったパリ。
1429年9月8日、そのパリを奪還しようと向かったのが、(1429年7月17日ランスにてフランス王として戴冠した)国王シャルル7世の軍隊で、そのシャルル7世の軍隊の前衛隊の陣頭に立っていたのが ジャンヌ・ダルク でした。
ジャンヌは、シャルル5世時代(14世紀)の城壁の数ある門のひとつ、西の重要な出入口であった サントノーレ門(現在のアンドレ・マルロー広場あたり/サントノーレ通り163番地) から攻めました。
当時、城壁(城門)の外には濠がめぐらされていたので、ジャンヌはまず、濠を浅くするために積んできたものを束ねて埋めさせますが、塔から敵の攻撃を受けて作業ははかどらない。
そこで、ジャンヌ自身が近づいて槍の柄で水深を測ろうとした時、一本の矢がジャンヌの太ももに突き立ち負傷します。
ジャンヌは屈せず、戦いの指揮を取り続けようとしますが、無理矢理に一軒の家にかつぎこまれ応急処置を受けます(現アンドレ・マルロー広場4番地)。
翌朝、ジャンヌ自身は、攻撃を再開するつもりでいましたが、国王と側近がそれに反対したので、やむなくパリ攻略を断念し、直ちに兵をロワールへと引き揚げ、間もなく軍隊も解散。 ・・・・・
・・・・・ と、こういった歴史があったわけなのですが、このジャンヌの古戦場の西(2-300メートル)に現ピラミッド広場があります。 ほとんど古戦場だった地と言ってもいいのではないでしょうか。 そこに、古戦場ゆかりの人物、ジャンヌ・ダルク の像が立っています。
ジャンヌ・ダルク像は、パリ市内では、 ◎ピラミッド広場(1区)の他、 ◎シャペル通り16番地(18区、シャルル7世の軍が陣をはっていたサン・ドニ・ド・ラ・シャペル教会)、 ◎サントーギュスタン広場(8区)、 ◎サン・マルセル通り41番地/ジャンヌ・ダルク通り(13区) にも建っているそうです。
Le siege de Paris en 1429 par Jeanne d'Arc
(1429年、サントノーレ門を攻略するジャンヌ・ダルク)
http://bit.ly/1UGeFdj- 旅行時期
- 2014年10月
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モンマルトルのブドウ収穫祭にて、ついに入ることができました ! Clos-Montmartre (Vigne de Montmartre)
投稿日 2015年09月08日
総合評価:5.0
モンマルトルのブドウ畑は、モンマルトル散歩の際には、今までいつも通っていたところで、いつか1度入ってみたい ! と思っていたのですが・・
2014年10月、モンマルトルのブドウ収穫祭にて、ついに入ることができました !
モンマルトルのブドウ収穫祭で、ブドウ畑訪問をするためには、まず、公式ホームページで 「 ブドウ畑訪問 Visites de la vigne de Montmartre 」 に登録します。
訪問日時は、ブドウ収穫祭開催中に何回かあるので、希望日時の入場の定数内に入れば、登録が完了し、ブドウ畑への招待状がeメールで送られてきます。 そのeメールの中のpdfチケットを自宅で印刷し、当日ブドウ畑に持っていく・・ という流れで、当日ついにブドウ畑の中に入ることができました !
おそらくブドウ畑に入れられる定数は30人くらいだったと思います。
Fete des vendanges de Montmartre
2014年10月8日(水)~12日(日)
http://www.fetedesvendangesdemontmartre.com/
2014年の場合ですが、公式ホームページ内の 「 S'inscrire(登録) 」 という項目から登録ページに移り、登録することができました。
私たちが予約したのは、登録初日、9月15日(月)午前9時(現地時間)の登録開始時間で、その日の夜(現地時間)には、Complet(残数なし)になっていました。
2014年の場合ですが、公式ホームページは、登録の時期前に、少しリニューアルされました(少し前まで、 「 S'inscrire(登録) 」 をどこでするのか分からない画面でしたが、登録前になると 「 S'inscrire(登録) 」 がすぐ分かる画面に変わりました)。
この時期(毎年10月第2週末)にパリ訪問される方はトライしてみては?
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2015年のモンマルトルのブドウ収穫祭は、10月7日(水)~11日(日)。
登録要のイベントの登録開始日は、9月14日(月)からのようです。
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- 2014年10月
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ローマ時代からの主要街道で、12世紀には城壁があり、16世紀にはアンリ2世の馬上槍試合が行われた Rue Saint-Antoine (4区)
投稿日 2015年09月08日
総合評価:4.0
” サン・タントワーヌ通り Rue Saint-Antoine ” は、ローマ時代にすでに盛土してセーヌの増水から守られ、パリとムラン Melun を結ぶ街道をなしていた (東部フランスへの主要街道だった) 通り。
12世紀には、フィリップ・オーギュスト王が城壁を建て、サン・タントワーヌ通りには、サン・タントワーヌ門がありました。
サン・タントワーヌ通りは、しばしば、国王が利用する通りで、14世紀には、すでに今のように尋常ではない幅員をもっていたため、散策や庶民の楽しみには格好の場となっていたようです。
また、教会の前では祭りが近づくと、道路の舗装がはがされて、代りに敷かれた砂の上で 騎馬試合 が行われる習わしがあったそうです。
その中でも、特に有名な騎馬試合は、アンリ2世の落命の原因となった馬上槍試合です。
1559年6月30日、アンリ2世は、王姫の結婚の祝宴の一環で、サン・タントワーヌ通りで馬上槍試合を催しましたが、その時に近衛隊大尉モンゴメリーの槍を目に受け、トゥールネル館で亡くなりました(7月10日)。
トゥールネル館 Hotel des Tournelles は、ロワイヤル広場(現ヴォージュ広場)にありましたが、アンリ2世が騎馬試合の事故後この館で亡くなったので、(王妃)カトリーヌ・ド・メディシスはこの館を嫌うようになり取り壊しを命じました。
アンリ2世の死は、当時の占星術師ノストラダムスが4年も前に予言していた、という説も有名です。
老いたる獅子に、若きは打ち勝たん。
いくさの庭のなか、一騎討のはてに、
黄金の檻のなかにて、双眼をえぐり抜かん、
二つの破片の一つは。 しかして死せん、酷き死。
また、バルザックは、『パリのブールヴァールの歴史と生理学』で、パリ人の主要な散歩道を次のように描いているそうです。
パリの命、あるいは顔ともいうべきものは、
1500年には サン・タントワーヌ通り、
1600年には ロワイヤル広場(現ヴォージュ広場)
1700年には ポン・ヌフ橋
1800年には パレ・ロワイヤル にあった。
最後に ブールヴァール には、独自の運命があった。 ・・- 旅行時期
- 2014年10月
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秋は黄葉も素敵な落ち着いた河岸 サン・ルイ島とマレ地区を繋ぐ橋 Pont Marie
投稿日 2015年04月08日
総合評価:4.0
マリー橋 Pont Marie は、サン・ルイ島とマレ地区を繋ぐ橋で、秋は黄葉もなかなかきれいな河岸が近いです。
ルーヴルやオルセーのあたりのセーヌに比べ、このあたりはセーヌの川幅が狭いこともあり、河岸に座っておしゃべりするには親密感が増しそう?!な少し落ち着いた雰囲気があると思います。 (お隣のシテ島もセーヌの川幅が狭いけれど、シテ島の南北の橋界隈は賑やかな感じ。)
マリー橋をマレ地区側に渡った近く(北東)には、中世の建造物 サンス館 Hotel de Sens や 中世の城壁跡(フィリップ・オーギュストの城壁跡)が見られる リセ・シャルルマーニュ Lycee Charlemagne 、橋の北西には、石畳の通りで有名なバール通り Rue des Barres、木骨組造りの建築が残る フランソワ・ミロン通り Rue Francois Miron、などの見所があります。
ちなみに、マリー橋の名は、最初にサン・ルイ島を分譲した開発業者の名前からきているそうです。
人混み(サン・ルイ島の中心やマレ地区の中)を避けて少しゆっくり散策するにはこのあたりの河岸はなかなか良いかも。- 旅行時期
- 2014年10月
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このあたりにフィリップ・オーギュストの城壁がありました! Place de la Contrescarpe (5区)
投稿日 2015年04月08日
総合評価:4.0
【 コントレスカルプ広場 Place de la Contrescarpe 】 は、パリ5区、カルチエ・ラタン地区にある広場。
《 コントレスカルプ Contrescarpe 》 とは、《 (堀の)傾斜した外岸、外岸の斜面 》 の意で、つまり、コントレスカルプ広場とは、日本語で 《 お堀の外側の斜面の広場 》というような意味になります。
この広場は、フィリップ・オーギュストの城壁時代の門のすぐ外にあたるところで、この広場のすぐ北に ”ボルデル門(サン・マルセル門)” という門が位置していたようです!
”ボルデル門 Porte Bordelle(サン・マルセル門 Porte Saint-Marcel)” は、パリから東南方に向かうローマ時代からの街道の出入口だったところで、城壁内に商品を運び込む入市税を取られるので、近在の農家の人たちが城門の外の街道沿い農産物を並べて朝市を開いたのが、時代とともに発展し、(コントレスカルプ広場に繋がる)食品街 ”ムフタール通り Rue Mouffetard” になったそうです。 6区の ビュッシ通り Rue de Buci も(ビュッシ門があった)同じような歴史を辿り発展、ムフタール通り同様、今日ではレストランやキャッフェの多いエリアになったようです。
ちなみに、”ボルデル門” の ”Bordelle” は ”娼館” の意。 佐藤賢一氏の「カルチエ・ラタン」等を読むとこの意味がよく分かります。- 旅行時期
- 2014年10月
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かつてのサン・ジェルマン・デ・プレ大修道院の敷地跡 ”パリで一番小さな広場” と言われる Place de Furstemberg
投稿日 2015年04月08日
総合評価:4.0
フュルステンベルグ広場/フュルスタンベール広場(Place de Furstemberg)は、6区のサン・ジェルマン・デ・プレ地区、ドラクロワ美術館のある広場。 ”パリで一番小さな広場”と言われているそうです。
サン・ジェルマン・デ・プレ教会の裏手にあるド・ラベイ通り(Rue de l'Abbaye=修道院通り)に大修道院長館 Palais Abbatial が建ち、そこからフュルステンベルグ通り Rue de Furstemberg が延びています。 フュルステンベルグ通りの途中にあるのがフュルステンベルグ広場。
フュルステンベルグは17世紀の枢機卿で、一時、大修道院長館のオーナーだったそうです。 また、フュルステンベルグ通り の近くにカルディナル通り(Rue Cardinale=枢機卿通り)がありますが、もちろんこのカルディナル=枢機卿とはフュルステンベルグ枢機卿のこと。
ひとりで2本以上の道に名を残しているのはアンリ4世、ルイ・フィリップなど数えるほどしかいないそうなので、フュルステンベルグ枢機卿(Guillaume-Egon de Furstenberg 1629-1704)、すごいですね。
フュルステンベルグ通り Rue de Furstemberg は、1699年(かつての)サン・ジェルマン・デ・プレ修道院厩舎の中庭に沿った収用地にフュルステンベルグ枢機卿によって造られ、カルディナル通り Rue Cardinale は1700年に同じくフュルステンベルグ枢機卿によって修道院の屋外球戯場沿いに開かれた通り、なのだとか。 パリの古地図を見てると、このあたり一帯がかつてのサン・ジェルマン・デ・プレ大修道院 Abbaye de Saint-Germain-des-Pres の敷地だったことが分かります。
また、映画「エイジ・オブ・イノセンス」のラストシーンは、フュルステンベルグ広場で撮影されていたそうです。 大修道院長館の建物を背景に撮影されていました。 → https://youtu.be/G97h69rCSA0- 旅行時期
- 2014年10月
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ノートルダム後陣とセーヌの眺望が美しい! パリの守護聖女ジュヌヴィエーヴ像が建つ Pont de la Tournelle
投稿日 2015年04月06日
総合評価:5.0
パリの守護聖女ジュヌヴィエーヴがセーヌを見下ろす橋、トゥールネル橋( Pont de la Tournelle )。 パリ4区サン=ルイ島とパリ5区左岸のカルチエ・ラタン地区をつないでいます。
ジュヌヴィエーヴ像はトゥールネル橋の左岸側に建っており、彫刻家ランドフスキー Paul Landowski によって1928年に作成された比較的新しい作品ですが、歴史的な意味は古く、885年ノルマン人の侵入によってパリが攻囲された際、聖女ジュヌヴィエーヴ(423-512)の聖遺物箱がお守りとしてこの場所に置かれたことを記念したものなのだそうです。
ちなみに、トゥールネルの名前は、12世紀のパリ市内にあった”フィリップ・オーギュストの城壁”の塔(現在の トゥールネル河岸 Quai de la Tournelle あたりにあった)の名前に由来しています。
そして、なんといっても、この橋から見るノートルダム大聖堂の後陣とセーヌの眺望はとても美しく、写真撮影スポットとしてパリの中でも一押しの場所です!- 旅行時期
- 2014年10月
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パリ子午線上にはアラゴのメダルが敷きこまれています! (パリ14区~6区~1区~2区~9区~18区)
投稿日 2015年04月06日
総合評価:4.0
新大陸発見によって、本初子午線の設定は、船乗りが経度を計るために必要不可欠のものとなり、海洋国家および植民地国家は各々時刻の設定を行い、1667年パリで天文台(Observatoire de Paris)の建設に取りかかると、そこがパリ子午線(Meridien de Paris)の零度と定められたそうです。
パリ子午線は国が定めたさまざまな子午線とともに200年以上続いたあとに消滅し、かわりにイギリスのグリニッジ子午線が用いられるようになったそうです。
やがて時が経て・・ 1994年11月、オランダの芸術家ヤン・ディベツは、パリ子午線の印として、直径12センチメートルのブロンズのメダル135個を地面に固定する作業にとりかかったそうで、このメダルには、天文台の所長を務めた天文学者であり物理学者でもあるフランソワ・アラゴ(Francois Arago)の名と、北と南の方角を示すNとSの文字が刻まれています。
このパリ子午線の印である”アラゴのメダル”(Medaillons de l'Hommage a Arago)は、パリ市内の(南から北にかけて)14区、6区、1区、2区、9区、18区の通りに敷きこまれており、下記のサイトなどで紹介されています。
http://lafrance.nlambassade.org/annexes/les_services/hommage-a-arago-de-jan-dibbets.html
私が添付した写真(アラゴのメダル)はリュクサンブール公園内でみつけたもの。
このフォートラベルのクチコミの写真で色々な場所のアラゴのメダルのコレクションが見れるとおもしろいなぁと思っております!- 旅行時期
- 2012年10月
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パリのノートルダム後陣が美しく見える小公園 Square Jean XXIII
投稿日 2015年03月18日
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フィリップ・オーギュストの城壁跡 (4区シャルルマーニュ通り) Enceinte de Philippe Auguste
投稿日 2015年03月18日
総合評価:5.0
12世紀のパリにつくられたフィリップ・オーギュストの城壁。
現在のパリの中で、この城壁跡が最も良く残っているのが、
パリ4区の シャルルマーニュ通り Rue Charlemagne の城壁跡です。
城壁跡には次のような説明がありました。
Enceinte de Philippe Auguste
Restes de la tour Montgomery
de la poterne Saint-Paul,
construile a la fin du XIIe. siecle
フィリップ・オーギュストの城壁
サン・ポール小門のモンゴメリーの塔の遺跡
12世紀末につくられた
パリのノートルダム(1163~)も建設中という時代につくられた城壁。
中世のパリに思いを馳せるにはもってこいの場所です!
ここの他に、5区のクロヴィス通りの城壁跡も有名ですが、
5区の消防署、6区の地下駐車場に残る城壁跡も中々面白いです。
・・このへんの詳細は旅行記にて。- 旅行時期
- 2014年10月
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2015年改修工事終了予定?! Cathedrale Notre-Dame de Chartres
投稿日 2015年03月06日
総合評価:4.0
シャルトルのノートルダム大聖堂 Cathedrale Notre-Dame de Chartres は、だいぶ前から外観の改修工事に入っていましたが、その後内装の改修工事に入り、2014年10月の段階では身廊(トランセプトの手前)が改装工事中でした。
内装の改修工事された部分の壁面がかなり白くてそれがとても気になりましたが・・改修完了後はどうなるのかな・・? (個人的には古い石の感じが残っていた方が良いと思うので・・。)
この大聖堂の中でも特に有名なステンドグラス『美しき絵ガラスの聖母 Notre-Dame de la Belle-Verriere』は問題なく鑑賞することが出来ました。
公式ホームページによれば、この改修工事は2015年に終わる予定?!のようです。 http://www.cathedrale-chartres.org/fr/restauration-les-travaux,32.html
ボーイスカウト?ガールスカウトさんたち参加中のミサをちょこっと動画に・・ → http://youtu.be/6zgK-Ij390s
※添付写真8枚目の円柱人像の詳細は・・
左:円柱人像(西正面中央扉口・1145-50年頃)
中:聖母のエリザベツ訪問(北正面左扉口・1220年頃)
右:聖テオドルス(南正面左扉口・1230-35年頃)と
聖ステファヌス(同・1210-20年頃)- 旅行時期
- 2014年10月
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投稿日 2014年12月16日
総合評価:4.0
旧岩崎邸庭園を見た後、無縁坂を歩き、東京大学の鉄門へ。 東大内の銀杏並木と三四郎池でも見ようかと歩いていたところ、ランチタイムとなったので、本郷キャンパス内の ”東大生協 第2食堂” に寄ってみました。
「麺類 NOODLE」、「丼類 DONBURI」、「ビュッフェ BUFFET CAFETERIA」(ビュッフェのサラダバー、ホットバーは 1g = 1.4円 [税込] 、お味噌汁・スープは一杯20円)などのコーナーがあり、好きなものを選びトレーに乗せ、最後にレジで精算・・ 食べ終わった後は「TRAY RETURN」にトレーごとベルトコンベアに乗せ返却・・ というシステム。
私は、学生さんがトレーに乗せていたのが美味しそうで真似をして、ハッシュドビーフオムライス(420円)にしました。 これは、季節限定メニューだったみたいです(なかなか美味しかったです!)。 相棒は、クリーミー味噌ラーメンを選んでいましたが、味噌が下に沈んでいたようで?後で気づいて失敗していました^ ^;
東大生協 本郷第二食堂 平日8:00-14:30
http://www.utcoop.or.jp/d2/index.html- 旅行時期
- 2014年12月
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ポワチエ駅から旧市街(小高い丘の上)へはエスカレーターを利用すると少し楽が出来ます!
投稿日 2014年11月25日
総合評価:4.0
パリ・モンパルナス駅からTGVで片道2時間前後で行けるポワチエへ、パリから日帰りの旅をしてきました。
ポワチエの旧市街は、小高い丘の上にあるとは調べていたのですが、中々凄かったです。
ポワチエの旧市街の中をどれくらい歩くかにもよりますが、(体力温存のためにも)駅からエスカレーターを利用すると少し楽が出来ます!
私たちは無理をせず、駅の東口の北側にあるエスカレーターを利用しました(添付写真の中央●)(06)。 ( ※ 列車利用の場合、プラットフォームから跨線橋にあがるとそのまま駅ビルに繋がりこのエスカレーターに辿りつく。)
このエスカレーターを利用するとソルフェリーノ通り(8)(9) * 、もしくは、その少し先の「階段(10)」に繋がります。 往路はエスカレーターを最後まで利用し行けるところまで上にあがり、その後、結局は昇らなければいけない「階段(10)」を昇って、ヴェルダン通りとアルチュール・ラン通りの交差点に到着(11)。
私たちは一番初めにノートルダム・ラ・グラン教会へ行きたかったので、アルチュール・ラン通りをまっすぐ歩き、アンリ・プトネ通りの方へ、そして、裁判所、ノートルダム・ラ・グラン教会と歩いていきました。
* 途中でソルフェリーノ通りを北へ歩いても裁判所に到着するのですが、(8)(9)と数字をつけた写真のようにソルフェリーノ通りはけっこう高低差のある通りでした。 (駅から旧市街へ向かう時は上り坂、旧市街から駅へ向かう時は下り坂。 帰路はソルフェリーノ通りを歩いて駅に向かいました。) ・・ちなみに、サント・クロワ美術館前のジャン・ジョレス通りもけっこうきつい通りでした(サント・クロワ美術館の方がクラン川に近く低い)。
旧市街へ向かう道はそれぞれに歩きたい道でもちろんOKなのですが、とにかく、ポワチエ駅から小高い丘の上の旧市街へ行くには、エスカレーターを使い少し楽はできますが、それでも結局昇らなければいけない階段を昇ったり、もしくは上り坂をあがったりしなければいけないので、もしも鉄道利用される方でポワチエに宿泊の場合は、駅前のグラン・セール通り Boulevard du Grand Cerf のホテルが良いのかもしれません。
【 添 付 写 真 】
1 パリ・モンパルナス駅 動く歩道
2 パリ・モンパルナス駅 発車プラットフォームを確認
3 パリ・モンパルナス駅 7番線TGV 出発!
4 ポワティエ駅到着! (ポワティエ駅西側風景)
プラットホームから跨線橋に上がり駅西へ行ってしまった^ ^;
5 跨線橋を反対側(駅東)へ^ ^; 駅ビルを歩き・・
6 ●エスカレーターが見えてきました!(=これで少し楽ができる!)
7 駅ビルを振り返って撮った1枚
8 ソルフェリーノ通り
(北側・帰路はこの通りを歩き駅へ戻った)
9 ソルフェリーノ通り
(南側・エスカレーター不使用の場合この階段を昇る)
10 エスカレーターを最後まで使っても昇る階段はあります!
11 アルチュール・ラン通りとヴェルダン通りの角(ここから街中に入る)
12 往路は初めにノートルダム方面へ
(アンリ・プトネ通りを歩き)裁判所に到着!
13 裁判所(西側)からコルドリエ通りへ
(コルドリエ通り=裁判所南側にジャンヌ・ダルク像あり)- 旅行時期
- 2014年10月
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(12) エミール・マールの本で紹介されていた柱頭彫刻と墓碑彫刻を見たかったので (コレクションは先史時代から近代美術まで) Musee Sainte-Croix
投稿日 2014年11月06日
総合評価:5.0
サン・ジャン洗礼堂に入場した後は、お隣のサント・クロワ美術館に入館しました。
クチコミのタイトルにあるとおり、エミール・マールの『ロマネスクの図像学』など他の本でも紹介されていた柱頭彫刻や墓碑彫刻を見たかったので訪問しました。
( ※ 「二人の老人の争い」(12世紀)は、後のゴシック時代の ”美徳と悪徳” につながるような図像です。 本では、この柱頭彫刻の中央部分(「争い」の部分)しか見れませんでしたが、実物をよく見ると、この柱頭彫刻の左は「和合」のような感じがします。 もともと「二人の老人の争い」のような図像は、サン・スヴェールのベアトゥス本などの写本に描かれた小挿絵などを模したようです。 )
ポワチエはロマネスク期の教会が多く残っていますので、それを見たく教会巡りを優先したため、もともと美術館での時間はあまり取れないな、と思っていたのですが、やはりここで(パリへ帰る列車の時間の関係で)見学時間が少なくなってしまいました。
正直いえば、もう10~15分しか見学時間がない、というタイミングで急いでここに入ったのですが、受付の女性が美術館の学芸員さん(男性)を呼びだし、私たちを『美術館早まわり』させてくれました(Chapiteau が見たいと懇願!)。 ほんとうにあの時の学芸員さんに感謝します。 おかげさまで、お目当てだった柱頭彫刻や墓碑彫刻を迷うことなく見学することができました。 柱頭彫刻がたくさんあって、もっとゆっくり見たかったと思いながら写真だけは撮っておきました。
はっきり言って、自力でまわれば、10分や15分で見たいものを見つけられる館内ではなかったです。 (けっこう広い。)
この美術館は、オーギュスト・ロダンとカミーユ・クローデルなどの彫刻も有名のようで、コレクションは、先史時代から20世紀美術まで、印象派の絵画も含めて盛りだくさんでした。 絵画の部分は、ほんとうに早足でまわったので残念なことをしました。 墓碑彫刻の展示のあたりも、非常に特徴的なものもあり興味深かったです。 常設入場料は4ユーロ。
美術館を見終えた後は、急いでポワチエ駅に戻りました。 美術館から駅までは(道に迷わないで行くとして)余裕を持って最低でも30分はほしい距離です。
(注・クチコミのタイトルの頭につけた数字はポワチエ駅発着で訪問した順番です。)- 旅行時期
- 2014年10月
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(11) 4世紀に建てられた西欧で最古のキリスト教建築のひとつ 12世紀の壁画も残る サン・ジャン洗礼堂 Baptistere Saint-Jean
投稿日 2014年11月06日
総合評価:5.0
サン・ジャン洗礼堂は、4世紀に建てられた西欧で最古のキリスト教建築のひとつであり、現存するフランス最古の洗礼堂でもあります。
また、内部にはロマネスク期の壁画も残されており、「コンスタンティヌス帝騎馬像」などがみどころ。
内部はほんとうに狭いので、見学する時間はそれほどかからないと思います。
入場できる時間が限られているので、時間を調べて行かれた方が良いと思います。 私たちが訪問した10月の金曜日は14:30から入場できるということだったので14:30過ぎ15:00頃にここへ来ました。
サン・ピエール大聖堂に近いので、ここに入場できる時間であれば、ポワチエ散策のはじめに(サン・ピエール大聖堂の後に)スケジュールを入れることができたのですが、入場時間が限られているためこのような訪問順になりました。 入場料は2ユーロ。
***** 「昇天」の使徒たちはサン・サヴァン聖堂のトリビューンの人物より柔軟な身体を示していて、この上部に配された幅広い帯状の鳥を廃する雷文のフリーズ装飾は古代モザイクを思わせ、「コンスタンティヌス帝騎馬像」(12世紀初頭)は見事な動きをしている。 (参考:世界美術大全集8) *****
(注・クチコミのタイトルの頭につけた数字はポワチエ駅発着で訪問した順番です。)- 旅行時期
- 2014年10月
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(10) 市庁舎の南 曲線を描く ブルカニ通り に残る遺跡は ローマ時代の円形劇場跡 Amphitheatre de Poitiers
投稿日 2014年11月06日
総合評価:4.0
ポワチエ旧市街の南西部に立つサン・ティレール・ル・グラン教会を見学し終えた後は、入場時間に制限のあるサン・ジャン洗礼堂(14h30~)に向かいました。
どうせ向かうなら来た道と違う道を通りたい と思い、ポワチエ情報を探していたところ、なんとローマ時代の円形劇場跡が残っているというではありませんか! これを知ったからには、この遺跡を通り道にしなくては と思い、遺跡の残るブルカニ通りを目指すことにしました。
市庁舎の南に位置するこの通りは、地図で見ても、曲線を描いていて、円形劇場跡の名残を見ているようです。
実際、ブルカニ通りに残る遺跡は添付写真のとおりです。
ふつうの民家の狭間にあるのでおもしろいです。
寄り道がてら、いかがでしょうか?
”Amphitheatre de Poitiers” でインターネット検索をすると、おもしろい記事に出会うと思いますので、ポワチエへ行かれる方、興味ある方は是非ご覧になってみてください。
(注・クチコミのタイトルの頭につけた数字はポワチエ駅発着で訪問した順番です。)- 旅行時期
- 2014年10月