ローマ時代からの主要街道で、12世紀には城壁があり、16世紀にはアンリ2世の馬上槍試合が行われた Rue Saint-Antoine (4区)
- 4.0
- 旅行時期:2014/10(約11年前)
-
-
by wiz さん(非公開)
パリ クチコミ:82件
” サン・タントワーヌ通り Rue Saint-Antoine ” は、ローマ時代にすでに盛土してセーヌの増水から守られ、パリとムラン Melun を結ぶ街道をなしていた (東部フランスへの主要街道だった) 通り。
12世紀には、フィリップ・オーギュスト王が城壁を建て、サン・タントワーヌ通りには、サン・タントワーヌ門がありました。
サン・タントワーヌ通りは、しばしば、国王が利用する通りで、14世紀には、すでに今のように尋常ではない幅員をもっていたため、散策や庶民の楽しみには格好の場となっていたようです。
また、教会の前では祭りが近づくと、道路の舗装がはがされて、代りに敷かれた砂の上で 騎馬試合 が行われる習わしがあったそうです。
その中でも、特に有名な騎馬試合は、アンリ2世の落命の原因となった馬上槍試合です。
1559年6月30日、アンリ2世は、王姫の結婚の祝宴の一環で、サン・タントワーヌ通りで馬上槍試合を催しましたが、その時に近衛隊大尉モンゴメリーの槍を目に受け、トゥールネル館で亡くなりました(7月10日)。
トゥールネル館 Hotel des Tournelles は、ロワイヤル広場(現ヴォージュ広場)にありましたが、アンリ2世が騎馬試合の事故後この館で亡くなったので、(王妃)カトリーヌ・ド・メディシスはこの館を嫌うようになり取り壊しを命じました。
アンリ2世の死は、当時の占星術師ノストラダムスが4年も前に予言していた、という説も有名です。
老いたる獅子に、若きは打ち勝たん。
いくさの庭のなか、一騎討のはてに、
黄金の檻のなかにて、双眼をえぐり抜かん、
二つの破片の一つは。 しかして死せん、酷き死。
また、バルザックは、『パリのブールヴァールの歴史と生理学』で、パリ人の主要な散歩道を次のように描いているそうです。
パリの命、あるいは顔ともいうべきものは、
1500年には サン・タントワーヌ通り、
1600年には ロワイヤル広場(現ヴォージュ広場)
1700年には ポン・ヌフ橋
1800年には パレ・ロワイヤル にあった。
最後に ブールヴァール には、独自の運命があった。 ・・
- 施設の満足度
-
4.0
クチコミ投稿日:2015/09/08
いいね!:2票
利用規約に違反している投稿は、報告することができます。 問題のある投稿を連絡する