2026/07/24 - 2026/07/24
1位(同エリア10件中)
さっくんさん
さて、遂に今回の旅のメインコンテンツであるイスラーム最北の聖地を目指します。残念ながら、地球の歩き方には、地名さえ記されてはいませんが、現地の人々にとっては聖地ですから、こんなご時世ながら思った以上の巡礼者と共に旅立ちました。
聖地へは車でも行けますが、夏場なら水中翼船も運航されています。時間的には同じくらいなのですが、旅人にとってはヴォルガ川に触れられる数少ない機会でもありますし、時間も2時間と言う長過ぎず、短過ぎない手頃な時間だと感じました。またヴォルガ川は場所によっては海を感じさせる程川幅があり、現地の人が言う「母なる川」を実感する事が出来ました。
遺跡としての規模は然程では無く、信憑性の乏しい部分もありますが、併設された博物館も気合が入っており、其処で得た情報の数々は驚くべきものがありました。また、巡礼者たちに向けられ造られたホワイト・モスクの美しさも白眉なものがあり、2時間かけて向かった甲斐がありました。
イスラームにあまり関心が無い旅人さんも、水中翼船での移動自体良い体験になりますし、カザンを訪れたなら、是非参加して頂きたいエクスカーションだと思いました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
-
さて、今日こそ旅行記の題名にした聖地へ向かいます。今朝もビュッフェなのでしこたま胃に詰め込みます。バリエーションも豊富なので食卓を用意するのも捗ります。ご馳走様でした。
-
カザンはヴォルガ川岸の街と言う認識で訪れましたが、実際は合流するカザンカ川の方が、カザンっ子には身近な存在で、ヴォルガ川は交易や移動、工業等オフィシャルユースの性格が強いです。と言う事で二日目でヴォルガ川と初対面です。
-
ヴォルガ川はモスクワの北西に端を発し、カスピ海に注ぎ込む大河です。上流、下流とも運河や水路が設けられ、下流では黒海、上流では白海やバルト海に繋がっており、古くから交易路として利用されてきました。(昔は水路はありませんから、嘗ての交易は純粋にヴォルガ川での交易です。)
-
この事から、黒海を通じてビザンティン帝国や、オリエントと呼ばれた地方の周辺諸国と、バイキングを始めとした北欧の民族との間で交易が行われました。嘗てエストニア、タリンの博物館にてアラブの通貨であるディルハム硬貨を見つけ、なぜこんな場所で!と驚いたものですが、きっとヴォルガ川を遡り、更に陸路を経てタリン迄辿り着いたのでしょう。
-
そんな嘗てこの地を潤した交易路であるヴォルガ川を南下して、聖地を目指します。乗り組むべく船が到着しました。乗り込むのはなんと水中翼船です。日本では今、水中翼船は活躍しているのでしょうか?中々乗船する機会が無いので、ワクワクします。
さて、タタールスタンのルーツを巡る、マジカル・ミステリー・ツアーのはじまりです!
https://youtu.be/l8WMGBuNaus?si=IMJjZhudVJx79Iqj -
ボルガルへの水中翼船は想像以上に混みあっていました。ほぼ満員です。しかもインバウンドはほぼ皆無。(私だけ?)皆タタールの人々っぽかったです。
-
残念ながら、そんな訳で私の席は中央の席。子供じゃないのに窓際取れなくて涙目の私。
-
船内の前部の入り口の窓から景色を見る事が出来ますが、結構な倍率で人がいます。やっとの事でヴォルガ川を眺め、嘗て此処を行き来した交易の船に想いを馳せました。
-
そして聖地ボルガルに到着しました。水中翼船は早いから、快適ですが、速いからデッキが無い。船に乗る醍醐味のデッキからの展望が無いから、其処が残念と勝手に考えてしょげていたのですが、それは私の思い込み。後部デッキが解放されていたので帰りはデッキを満喫出来ました。
-
おっと、遺跡が見えてきました。ボルテージが高まりますが、慌てない!慌てない!先ずは説明を受けてからです。
-
先ずはボルガル文明博物館から見学します。この博物館、一階建てに見えますが、裏側は川岸まで多層の階を持つ、大規模な気合の入った博物館でした。そこで気合の入った説明を受けました。日本人にとっては馴染みの薄いこの地方の貴重な歴史の話を聞く事が出来、目から鱗の楽しい時間でしたが、ボリュームが多く、この先のお目当ての遺跡の時間が足りなくなるのではと、焦った程、素晴らしい解説でした。
-
ボルガルの歴史を解説するにあたって、日本では馴染みが薄い、遊牧民の解説を最初にしておこうと思います。我々日本を始め、先進国の殆どは農業を行う定住型の民族です。定住型なので、時に国が大きくなったり、小さくなったりしますが、基本歴史が変遷しても国の位置が変遷する事は少ないです。
農業を行うので、領土が固定され、国と言う概念が生まれます。計画的に農耕を行う事で、民主主義と言う時間を有する政治を行うゆとりが生まれます。 -
一方遊牧民が暮らす地域は、大抵乾燥帯とか砂漠とか、農耕民族が手を付けない、荒野である事が殆どです。彼等は過酷な自然環境の中、数少ない快適な環境を求め、移動を繰り返しながら暮らします。其処には会議をしている様な流暢な時間はありません。だから常にトップダウンの政治であり、首長の力量がその群れの力量となります。つまり、首長がいかに優れているかに依存します。語弊はありますが、ある意味遊牧民の政治体系は独裁であるのがデフォルトなのです。
-
そんな首長に依存したシステムである以上、強い首長の時は勢力は大きくなり、弱い首長の時は勢力は小さくなります。更に弱くなれば他の勢力に飲み込まれたり、さもなくば、他の地域に逃亡しなければなりません。遊牧民はそもそも移動する集団なので、そもそも国と言う概念がありませんでした。彼等にとって国とは、彼等の勢力でした。そしてその勢力は、移動を続け、首長の強弱により拡大縮小を続け、時に他の勢力に吸収され、吸収し、アメーバの如く離合集散を繰り返します。
そんなシステムなので遊牧民の暮らすサハラ砂漠や中央アジアの歴史を学ぶと言う事はとても難しい事です。年代別の勢力図を見ると、ある時此方にあった国が、違う年代には、有らん場所に移動しているなんて事は頻繁に起こるのです。 -
こうしたトップダウンな体系で暮らす遊牧民にとって、一神教で唯一神を信仰するイスラームは親和性が高いのです。この事が遊牧民の暮らす地域にイスラームが浸透した一つの要因ともなっていると思います。
-
この首長の強弱により、離合集散し勢力の増減を繰り返す遊牧民族ですが、時に強烈なカリスマが生まれる事があります。中央アジアの場合は、ジンギス・ハーンとティムールと言う破格のカリスマを持った首長が生まれました。
蝗は大量発生すると、体と体が触れ合う事で、体色が変わり、飛翔力が劇的に上がり、移動を続けながら、各地の農作物を食べ尽くしますが、強烈なカリスマに率いられた遊牧民も似た様なものです。彼等の勢力を食わせる為、荒野を走り回り、見つけた農耕民族の国を完膚無き迄破壊し尽くします。 -
しかし、遊牧民は首長の強さに依存するので、カリスマが死に、子の代に移ると、あっさり分裂を開始します。ジンギス・ハーンも、ティムールも、一代限りで、その後あっさりと分裂してしまいました。
しかし、領土を奪うだけ奪って、安定すると、遊牧民はもう一つの特性を発揮しだします。これも動物に例えるなら、その能力はカメレオン。即ち擬態です。 -
博物館一階にはタタールスタンの偉人たちの肖像画が展示されています。彼はクレムリンのスパスカヤ塔の前に銅像となっていた、第二次世界大戦時にナチスに殺害された国民に愛された詩人、ムーサ・ジャリールさんです。
-
彼等は移動を続ける遊牧民だけあって、農耕民族の様な一定の個所で長年培ってきた様な政治システムを持ちません。それは彼等も十分承知しています。だから、彼等は奪った国のシステムをまんま踏襲し、成りきってしまうのです。
モンゴル帝国の中国部分を受け継いだフビライ・ハーンは完璧に中華化し、国名も中華風に元としたのもその為です。
また西域を担当した中央アジアのチャガタイ・ハーン国、中東担当イル・ハーン国、そして北方担当キプチャク・ハーン国はモンゴルであるにも関わらず、すんなり元からそこにあるイスラームを信仰する国に成り切りました。 -
これはある意味合理的な方法だとも言えます。例えばヨーロッパの侵略の様に、対象国を徹底的に破壊し、キリスト教を強制し、自らの政治を押し付ければ、当然反抗され、鎮圧するの繰り返しで、征服する労力が半端無い事でしょう。一方、モンゴルの様に、まんま既存のシステムを踏襲してしまえば、其処に暮らす住民もストレス無く、反発も最小限に抑えられるのです。
嗚呼暴走して長くなってしまいました。だけど、遊牧民族が、農耕民族の我々とは、全く違ったシステムに生きる人達なんだと思ってくれれば幸いです。
では、本編に行ってみよう! -
博物館内には多くのパネルが展示されています。先ずはブルガリアから説明が始まりました。え?ブルガリア?なんでやね~ん!と突っ込みを入れたい私ですが、此処に暮らした人々の名前を思い出しました。彼等はヴォルガ・ブルガール…まさか?
-
昔々中央アジアのある所に、ブルガールと呼ばれたトルコ系遊牧民族が暮らしていましたとさ。しかし、同じトルコ系の突厥の拡大とか色々あって、彼等は西へ西へと移動を強いられました。やっと彼等が落ち着いたのはドナウ川の畔、現在のブルガリアの位置に定住、先程紹介した遊牧民スキル、擬態を駆使して先住民であるスラブ人と同化して、大ブルガリアを築きました。
何故此処にきて、ブルガリアの歴史の解説なんだ???訝る私。
因みに、突厥とは、現在のトルコの先祖にあたります。ブルガリアは以後、オスマントルコの支配を受ける運命にありますが、こう考えると、トルコとブルガリアは同族ながら、歴史的な因縁の間柄と言う事になります。 -
でも、大ブルガリアを建国したのは良いものの、やっぱり彼等は遊牧民。偉大なる首長クラフトが亡くなると、分裂の始まり、始まりです。クラフトの三男アスパルトが同地を相続、ブルガリア帝国を建国します。後に東方正教を受け入れ国教とし、スラブ人と同化しながら、ビザンツ帝国と凌ぎ合いを続け、ビザンティン帝国滅亡後は、今度は入れ替わったオスマン帝国の支配を受け、常に強豪の近隣と言う立ち位置で苦渋の歴史が続きましたが、なんとか現在まで存続し、今に名を残しました。
その様な経緯があり、今では東方正教会を信仰するスラブ系民族の国と捉えられがちなブルガリアですが、その成立にはトルコ系民族が大きく関わり、ヨーグルトを始めとする乳製品を多く摂るところに、遊牧民としての名残を残しています。
因みにブルガリア帝国は、スラブ社会に大きな変革を齎しました。キリル文字です。彼等がキリル文字を生み出し、キリル文字で執筆した聖書がスラブ社会全体に伝わり、ロシアをはじめとしたスラブ圏に広まりました。つまり、トルコ系遊牧民ブルガールの長の三男、アスパルトとその子孫がいなかったら、現在のロシアは正教じゃなかったかもしれないし、キリル文字も使っていなかったかもしれないと言う事です。 -
だからなんでブルガリアの歴史なんだ?いい加減にせい!と思うかもしれませんが、ちょっと待ってください!分裂した兄弟のひとり、コトラグは故郷を捨て移動を開始します。黒海沿いに移動し、クリミアを抜け東に移動します。そしてカスピ海北部からヴォルガ川を遡り、カマ川と合流する要衝に、自らの国を築いたのです。
それこそ、此処ボルガルと言う訳です。三男のブルガリア帝国がドナウ川沿いにある事から、ドナウ・ブルガールと呼び、次男コトラルの築いた国は、ヴォルガ川沿いにある事からヴォルガ・ブルガールとなるのです。 -
その後、ヴォルガ・ブルガールは勢力を拡大し、カザンも彼等の都市となります。更にイスラームを受容しイスラームを信仰する国となりました。その繁栄を支えたのは、勿論ヴォルガ川を利用した水運と東西に走るシルクロード交易路、即ち交易の十字路に位置した事です。
-
そんな繁栄を遂げたヴォルガ・ブルガールでしたが13世紀、全ユーラシアを震撼させたモンゴル軍の洗礼を受ける事になります。一時は押し返したブルガールでしたが遂にモンゴル軍に降伏。此処にヴォルガ・ブルガールは滅亡。首都はカザンに移され、更にモンゴル軍はキエフを陥落し、ここ周辺はキプチャク・ハーン国が支配する事になったのです。
-
いやぁ~目から鱗とはこの事です。大抵簡単な解説では、カザンはロシアに奪取される以前はカザン・ハーン国、それ以前を語ってもキプチャク・ハーン国止まりの事が殆どでした。だとすると色々と喉に魚の骨が刺さった様に、疑問点が浮かんでくるのです。
例えば、タタールスタンの人々のルーツはトルコ系と聞いていましたが、キプチャク・ハーン国がルーツなのであれば、キプチャク・ハーン国はモンゴル系じゃないか?とか。それにタタール人は全然モンゴル人っぽくないのはどうして?とかです。 -
そもそもブルガール人とはいったい誰なんだ?そもそも何処からやって来たんだ?そして、聖地とは聞いていましたが、どうして此処が聖地になったんだ?漠然としていたものが、此処でしっかり説明を受けて、点と線が結ばれた様な気がしました。
-
つまり、ブルガール人とは突厥に追われ現在のブルガリアに移動したトルコ系遊牧民でした。その後更に分裂後、故郷を離れ移動を繰り返し、此処ボルガルを第二の故郷として定住を始めた。そして彼等が現在のタタール人の直接的ルーツとなるのです。
-
私は、カザンを歩き(殆ど女性しか見ていませんが)、本当に白人に近い表情を持っており驚きました。アジア系の名残は薄いです。私は当初ロシア人との混血が進んでいるのかな?と思っていましたが、はるか昔、ブルガール人がドナウ川沿岸で大ブルガリアを建国した時点で、スラブ人とある程度同化していたのです。だからこそスラブ人に近い顔立ちをしているのもその為だったのです。
-
その後モンゴル帝国の支配を受ける事にはなりますが、これも先に紹介した擬態による征服によるものであり、支配層がモンゴル系の人々に置き換えられただけであり、民族自体はそれ以前のブルガール人主体の構成だったのだのです。故にタタールスタン人の民族のルーツの本流はトルコ系なのです。
これにて、彼等が何処からきて何奴だったのか?モンゴル支配だったのにトルコ系?と言う謎が無事解明されました。 -
そして、どうして此処が聖地か?と言う疑問です。この答えも、之だけ聞けば簡単に答えが導き出せるでしょう。
つまりタタールスタン人のルーツはブルガール。その次男のコトラルが此処に都を築いた事に始まるからです。即ち此処はタタール人にとって発祥の地なのです。
更にこの地は、此処に暮らすムスリムにとっても、この地に於けるイスラームの発祥の地と言う事でもあるのです。ですからボルガルは、タタール人にとって民族的にも、宗教的にも、大切な聖なる場所なのです。 -
それにしてもブルガールと呼ばれたトルコ系の遊牧民が、現在のブルガリアでスラブ人と融合し、大ブルガリアを建国し、彼等の血族の片割れが、ロシアを含む、スラブ圏全体にキリル文字と東方正教会に伝え、片割れがタタールスタンの開祖となりイスラームを受容した。
つまり現在ロシア正教を信仰するロシア人、ロシア連邦最大の異民族イスラームを信仰するタタール人。このロシアの大きな要素となる二大民族の方向性を決定づけたのは、なんとトルコ系遊牧民族が築いたブルガリアにあったとは!本当驚きです! -
上水道、下水道、スチームの三種の配管が設けられた、当時の高度なインフラが整備されていた事が伺えます。
-
この博物館自体素晴らしい展示だったと思いますが、ガイドさんの力量も素晴らしかったと思います。(この部分はボルガル専属のガイドさん)タタール人が何処からやって来て、どうやって此処に暮らすようになったのか?そしてボルガル遺跡の持つ意味が、朧気だった理解が、明確なものになりました。本当に感謝です。
-
最後に、残された遺跡の構造をチェックして、いざ遺跡に向かいます。
-
イチオシ
博物館を出てヴォルガ川を眺めます。説明を受ける前と受けた後では、ヴォルガ川の眺めさえ変わったものに見えます。タタール人の先祖は、これより下流、カスピ海、更にずっと先、ドナウ川の畔から、此処迄旅を続けてきたのです。そんな彼等の旅に想いを馳せます。
-
そして上流を眺めます。私はカザンから、ヴォルガ川を下って来ました。
-
文明は何時だって川沿いに生まれ、文化を紡いできました。ニジェール川、ナイル川、メコン川、チグリス川…ヴォルガ川もその一つです。この川がオリエントの世界と北欧を繋いでいたなんて、驚きです。
-
正直に言いますと、ボルガル遺跡自体は、残されている部分も少なく、フォトジェニックなものでもありません。見た目先行な遺跡では無く、学術的価値先行の遺跡です。ですから、朧げな知識のまま訪れてしまうと、「ふ~ん。」と言う感想に陥るかもしれません。で、先程の博物館の解説が重要になってくると思います。本当に感謝です。
-
黄金のドームは世界一大きいコーランを所蔵する博物館で、その奥に遺跡が残ります。何故かどさくさに紛れて正教会も存在します。
-
それにしても此処にブルガリアの末裔の歴史が残り、更に今ロシアの地でタタール人として繁栄していると何故想像出来るでしょう?これだから遊牧民族の歴史は侮れません。
例えば、今ウズベキスタンを旅行する旅人さんが多くなってきましたが、ブハラに残るイスマイール・サマーニー廟と言う建築が残ります。実はこの人物、ウズベキスタンの人物では無く、サマーニー朝の人物であり、その末裔であるタジキスタンの人々にとっては偉人であり、タジキスタンの貨幣にも登場します。 -
彼はブハラを拠点としましたが、歴史の変遷と共に民族は移動を強いられ、現在のタジキスタンに至ります。そうした経緯があるので、意図的では無いでしょうが、現在のウズベキスタンのガイドさんは、積極的にこの経緯を語らず、単に中央アジア最古の建物とだけ説明します。ですからユーチューブ等でも、この建物を紹介する旅人さんは数多くいるものの、それ以上を言及する旅人さんはまずいません。
この歴史的経緯を知ってこの建物を見学するのと、只最古の建物と説明を受けるだけでは、大きく印象は変わる事でしょう。 -
イチオシ
この様に、中央アジア等遊牧民のエリアを旅する時は、現在の国境のくびき等全く当てはまらない事と捉え、遺跡に対峙する必要があります。その遺跡に残された特徴、登場する人物名等と、その年代の勢力図を照らし合わせながら謎解きに挑めば、推理小説以上にスリリングな展開が待っています。今回、此処ボルガルの博物館に於ける、ブルガール人の謎解きも、極上の推理小説を読んだ様な気になりました。
-
それでは、黄金のドームの建物、コーラン博物館に入場します。世界最大のコーランを展示するメインフロアの外周には、ボルガルの歴史を表現した絵画が飾られていました。
-
それにしても、現在となってはちょっぴり存在感の薄い、ブルガリアと言う国(失礼)が、方やドナウ・ブルガールが、キエフ大公国にキリル文字の聖書を伝え、その片割れである、ヴォルガ・ブルガールが現在のタタールスタンの先祖となったとは考えもしませんでした。もし彼等ブルガールがいなかったとしたら、タタールスタンの歴史は勿論、ロシアの歴史も、大きく変わったものになっていたでしょう。
-
これだけ、ロシアの歴史を変えてしまい兼ねない、重要な歴史的案件を持つ物件でもあるにも関わらず、カザンでさえ情報が少ない現状の中、カザンから水中翼船で2時間かかる此処ボルガルには、東洋人は皆無に等しいのが残念な事です。あの地球の転び方にさえ、載っていないのです。一行すらも…。
-
この様な状態だから、タタールスタンのルーツは、それ以前にこの地を支配したキプチャク・ハーン国=モンゴル系と言う誤解が罷り通てしまうのです。タタールスタンのルーツは間違い無くヴォルガ・ブルガールにあります。そう言う私も、此処を訪れ、解説を受けなければ、間違った歴史を鵜呑みにしていたかもしれません。
-
そして、世界一大きいと言われるコーランと御対面です。他にも何処かで似た様なフレーズを…。嗚呼、こう言うのは深く勘ぐりするのは野暮と言うものです。やめましょう。
-
私はいつも不思議に思っている事があります。ユダヤ教の様に、民族限定の宗教でなければ、宗教は常に拡大を求めます。それ故、創設期は厳しい戒律を求めても、拡大を求める為、その姿を大きく寛容なものへと変えていきます。
例えばキリスト教がヨーロッパに齎された時、元々ビーナス等偶像崇拝を行っていたヨーロッパに合わせる為、キリスト教は大きくその姿を変えました。仏教もまた、偶像崇拝を嫌い、初期の仏教は宗教と言うよりは自己啓発の様な修行中心なものだったのが、大乗仏教の創設以来、大衆にも敷居の低い宗教となりました。 -
こうして入信に際する敷居を下げるのは勿論、積極的な勧誘を行う為に必須な事は、当時の識字率を鑑みても、絵画による解説が一番有効な方法となります。故にキリスト教でも、仏教でも、ヒンズー教でも、積極的に宗教画が描かれ、今ではそれらは芸術的価値をも含みます。勿論字を読める信者の為に積極的に翻訳も進みました。
-
しかし、イスラームに至っては、全くこれ等のスタイルを否定しているのです。イスラームは偶像崇拝を禁止している為、宗教画を描けません。また言葉を翻訳してしまうと、語彙はその度にズレが生じ、神の言葉が歪められてしまうので、翻訳も禁止されています。つまり、言葉の異なる、新規の入信者にとって、これだけ敷居の高い宗教は無いと思うのです。
-
然しながら現実的には、ムスリムはカソリックの信徒数を追い越す勢いで、現在も信徒数を増やしています。其処が私の不思議に感じるところです。勿論理由を挙げれば幾つか挙げる事は出来ますが、なんとも語彙が追いつきません。
只、口の悪い私が例えるなら、例えば、日常品では無く、お気に入りの一品を手に入れたいと思うなら、値段より、手に入れやすさより、本物であるかを基準にしたいと思う。そんなところだと思っています。 -
それでは遺跡に向かいます。一番目を引くのはミナレットです。ミナレットがあると言う事は、此処にはモスクがありましたが、本体は残されていません。
-
モスク跡からミナレットを見上げます。ミナレットは勿論修復されたものでしょうが、壮観です。
-
モスク構内の遺跡には柱の部分が残されていました。殆どが修復されたものですが、唯一一本、オリジナルが残されています。柱が中央に残されていると言う事は、ドームを持たないモスクだった事が解ります。
-
この先に、もうひとつミナレットが残されていました。
-
周辺の遺跡の修復具合、オリジナルの部分の残存具合から鑑みると、ミナレットの修復は余りにもアンバランスであり、その修復がどれだけ歴史的根拠に基づいたものであるのかが問われ、世界遺産認定の際、すったもんだがあったそうです。
-
質問するのをわすれてしまいましたが、モスク跡のミナレットがある反対側の角の遺構が残りますが、構造的に私的にはこれもミナレットの痕跡の様な気がします。しかし、この時代、この規模のモスクに二本ミナレットがあったのは疑問に感じます。ミナレットほど高くない、小ドーム等が築かれていたのかもしれません。
-
遺跡の各部にはマーキングが施され、修復部分とオリジナルの判別が出来る様になっています。
-
此方は霊廟だと考えられている建物です。こうした遺跡を考察する時、オリジナルは勿論の事、その後の歴史の変遷も考察する必要があります。ボルガルはその後キプチャク・ハーン国、カザン・ハーン国の支配下に入り、ロシアに組み込まれます。
その中でもキプチャク・ハーン国時代とカザン・ハーン国時代は、同じイスラームを信仰した国なので、その時に改造、改築を受けている可能性も高いです。この遺跡がボルガル所以なのは、間違いないですが、当時のままの姿がどれだけ残されているかは、論議が残されています。 -
棺の跡が残されていました。現在、日本に在住するムスリムの埋葬が問題視される事がありますが、これも移民を認めた政治家たちの知識の低さ、配慮の無さが明確になった事例だと思います。労働力が欲しいからと言うだけで、何の説明もせず、美味しい話だけして、彼等を受け入れる。いずれ問題が発生すると知りながら、後は野となれ山となれ。無責任過ぎませんか?
-
また、動物の例えで恐縮ですが、ペットですら、その動物の命を最後迄責任を持って面倒を見るのが飼い主の義務なのです。外国の人を受け入れると言う事は、受け入れる人の文化を理解し、そんな彼等をどう共存していくか?しっかり絵を描いてから招かねば、問題が起こるのは当たり前な事です。
「土葬などして疫病が流行りでもしたらどうなるんだ!」
そんな程度の低い質問を、真顔で言ってる人がいて、余りの馬鹿馬鹿しさに苦笑してしまった経験があります。
肌の露出を忌避するイスラームの国で裸になったり、豚肉の入った料理食べさせたりした下品で無教養な芸人がいましたが、無知な人間とは心底恐ろしいものです。お願いだから日本の恥を晒さないでくれ。 -
遺跡には何故か正教会が残されています。何故此処なのでしょう?ムスリムにとって聖地とされている事へのあてつけでしょうか?今となっては最早これも歴史的建造物であるから残されていますが、これを建造するのに、多くの遺跡の建材が奪われたかは容易に推察できます。
因みに聖堂の名前は生神女就寝聖堂、即ちウスペンスキー聖堂です。 -
此方は宮殿跡だったと考えられている遺構です。屋根で覆われ保存されています。
-
遺跡でも、ヴォルガ川を見渡せる絶好のポイントに位置します。
-
宮殿跡からヴォルガ川を眺めました。ヴォルガ・ブルガールを建国した大ブルガリアの次男坊コトラルも、この風景を眺めていた事でしょう。
-
東方正教会の教会と遺跡のコラボレーション。カザンのクレムリンも二つの宗教の聖堂がコラボしている訳ですから、此処ならではの光景なのかもしれません。
-
もう一つの霊廟がありました。此方はイスラーム建築の典型的なデザインです。
-
廟内には墓碑と思われる霊廟が残されていました。アラビア文字が刻まれています。
-
遺跡の建築物こそ、遺跡を見る醍醐味ですが、こうした人の手で刻まれた遺構を見ると、当時ここで暮らした人々の想いに触れた気がして、ホロリと感じます。
-
モスク跡を縦方向から眺めました。
-
目線を移して、コーラン博物館。
-
そして今度は横方向からモスク跡を眺めました。ドームを持たない、柱で支えるタイプのモスクとしては、創建された年代を鑑みれば大規模なモスクであったと思えます。
-
イチオシ
さて、一旦遺跡を離れて、現代建築であるホワイト・モスクを見学する為移動します。この聖地を巡礼する信徒の礼拝の為新しく築かれたモスクですが、遺跡の土地は世界遺産となる為、ある程度距離を取った場所に建てられています。
-
見えてきました。本当に美しいモスクです。
-
イスラーム建築の特徴に、シンメトリー(左右対称)が先ず挙げられます。視る者に安定感を与えるデザインです。礼拝者は心を落ち着ける必要がありますから、もってこいなデザインだと思います。
-
ですから、イスラーム建築、特にモスクを撮影する時は、真正面から写す事を基本としています。モスクの建築者も、真正面から眺める事を想定したと思うからです。建物にカメラを構えると、建築者と会話する様な気持ちになります。
-
北のタージマハールとも呼ばれています。左右にシンメトリーの付属建築物が建てられているのもタージマハールと共通しています。タージマハールはモスクでは無く霊廟なので、タージマハルを正面から見て左手の付属建造物がモスク。対面に建つ付属建造物は迎賓館となっています。此処ホワイト・モスクはショップやカフェ等が入っています。
-
イチオシ
モスクの前面に水盤を設けるのも、良く用いられる構造です。鏡面反射も加わり美しいです。
-
水盤はモスクに向かい、縦に二列用意されています。それでは参拝に向かいましょう。
-
私はモスクの静謐な雰囲気が大好きです。教会も、仏教寺院も、芸術的価値としては非常に美し感じるのですが、自分がいざ其処で祈れと言われると、はねっ返りの強い性格なので、拒否反応が出てしまいます。何故この人物に頭を下げねばならぬのかと(笑)
初めてモスクに入った時、静謐で、神秘的で、且つ何もない空間に身を委ね。嗚呼、此処でなら首を垂れられるかもと思った事は忘れられません。モスクにいると素直になれるんです。 -
人は兎角傲慢な生き物で、つい驕り昂ぶります。豚も煽てりゃ木に登ります。そうじゃなければ、交通事故なんて起こりません。互いが謙虚に譲り合えれば、大抵の事故は防げます。ついつい、自分ガーってなってしまう生き物です。勿論私もその一人の困ったちゃんです。
-
ムスリムは一日に五度(シーア派は三度)モスクにて首を垂れます。神に向かい身を伏せて、自らを征します。私はムスリムではありませんが、とても素敵な習慣だと思います。先にも述べましたが、兎角人は調子に乗ってしまいます。そんな自分を一日に数回、何もモスクでは無くとも、静謐な場所で、自分自身を振り返り、今までの行動を反省する。部下にきつく当たってしまったけれど、それで良かったのか?とか彼女にあんな発言してしまったけれど、やっぱフォローしておかないとな…とか。自分を征する事が出来ていたなら、こんな結果にならなかった…なんて経験誰でもあると思います。
ですから、一日数度、冷静になる為の時間を設ける、素敵な習慣だと思います。特に熱しやすく醒めやすい、私には最適な習慣かもしれません。 -
植物をモチーフとしたレリーフもイスラームならではの特徴です。此処でもシンメトリーが効果を発揮しています。
-
この回廊の造形もイスラームならではです。連続する造詣がこれまたシンメトリーにて施されています。
-
モスク建築は曲線を多用する事で、巨大な建築が与える威圧感を減衰しています。教会に比べ、ドーム構造が巨大化したのは、イスラームが集団礼拝を行う為、屋内に広大なスペースが必要な為です。一方、鐘を利用して礼拝の時間を告げる教会は、鐘を提げるスペースが必要な為、鐘楼はある程度の太さを必要としましたが、イスラームは人の詠唱で礼拝の時間を告げる為(アザーン)、建築技術が上がると、次第に細くなり、鉛筆状なものへと変化しました。
-
イチオシ
感無量です。
-
モスク前面の入り口には、小振りですがアイバーン(前門)が設けられています。アイバーンは俗界と礼拝所を区切る為に設けられ、ペルシャでこの様式が発展し、中央アジアのモスクでは、前から見るとドームが隠れてしまう程の大きさで設けられます。
-
此方は左右対称に築かれた付属建築です。回廊と重なって設けられたデザインも秀逸です。此方の建物は建物の大きさに対してアイバーンが大きく設けられ、その存在が解りやすいです。
-
タージマハルは左右でモスクと迎賓館として使い分けていますが、此処は明確には分けられておらず、ショップやカフェ等に利用されている様です。私は朝食を食べ過ぎてパスしましたが、ガイドさんは此処で軽食を摂っていた様です。
-
左右のアイバーンと回廊を従えて、シンメトリーの中央に聳える本堂。私の大好きなデザイン。タージマハルも、アブダビのグランド・モスクも素晴らしいけれど、それに勝るとも劣らない美しさだと思います。
-
イチオシ
まさかロシアの北の大地に、こんな美しいモスクがあるなんて、思いもしませんでした。感動です。
-
私もこれだけイスラームを旅してきて、もうそろそろ区切りをつけても良いんじゃね?と思う時もあります。で、こう言う場所を訪れてしまうと、やっぱり未だ見ぬ素晴らしさは無限大にあるんだなぁと思います。嗚呼寿命が足りな過ぎる。
-
回廊の端部迄歩いて来ました。丁度良く休めとばかりにベンチが設けられています。
-
イチオシ
回廊のアーチから除くモスクの本堂も私の大好きなアングルのひとつ。
-
名残惜しく、後ずさりする様に後ろを何度も振り返りながら、モスクを後にします。
-
建物は独立していますが、こう眺めると横に三つのドームが並びます。三連のドームや玉葱状のドームはムガル帝国発祥の様式ですが、今や御本家中東にも逆輸入され、玉葱状のドームは今やモスクを表すアイコンともなっていますし、三連のドーム様式は、アブダビのグランド・モスクにも採用されました。
-
大満足のモスクでした。あんまり眺め続けていると、バスの時間に遅れてしまいます。さぁ、サヨナラの時間です。
-
私は水中翼船に乗って港から直接遺跡に入りましたが、車で来れば此処が遺跡の正門となります。つまりモスクは遺跡の敷地外にあり、巡礼者はモスクで礼拝を終えてから、遺跡に向かうのでしょう。
-
バスが出発する直前、もう一度モスクを振り返り、お別れを告げました。
-
何も無い大平原を走り、遺跡に戻ります。
-
遺跡が、ミナレットが見えてきました。かなりボリュームはありますが、もしバスを逃しても、30分ほど歩けば辿り着けるのではないでしょうか?
-
遺跡の敷地内には数少ないですが暮らしている人々もいます。此処で働く人々と、立ち退きを拒否した人々もいる様です。
-
帰りの船の出発時間迄、周辺の散策を続けます。モスク跡が残る中心から離れた場所にも、遺構が点在します。
-
裁判所跡だったと考えられている建物が残っていました。
-
此方がその建物です。一見霊廟と余り外観は変わりませんが、内部構造は二階建てとなっており、二階内部ははテラス状になり、中央は吹き抜けとなり、テラスから一階部分を見下ろせる構造になっています。この構造から裁判所と考えられている様です。
-
内部から上部を見上げました。霊廟より明らかに採光窓が多いです。この事から内部が生きた人間のスペースだったと言う事が想像出来ます。
-
この遺構にもマーキングが施され、修復部分とオリジナル部分が分別されていました。
-
此方は明らかなオリジナル部分です。
-
印象的な木の実を見つけました。ガイドさんに尋ねると七釜戸だそうです。夏場なので気づきませんでしたが、冬になれば赤く身を染め、まんまクリスマスツリーになるのでしょう。
-
コーラン博物館がある場所まで戻ってきました。
-
発掘跡が残されています。囲まれた場所に何やら構造物が建てられていたのでしょう。
-
イチオシ
ボルガルの遺跡群とも、そろそろお別れの時間です。
-
タタールスタンのルーツと、この地にイスラームが到達した歴史を学ぶ事が出来ました。素晴らしい体験でした。
-
ヴォルガ川下流を臨みます。このまま下流迄流されれば、アストラハンの脇を抜け、カスピ海に流れ出ます。途中水路を西に抜ければ、黒海に辿り着き、ボスフォラス海峡を抜ければ地中海までも辿り着けるでしょう。
-
今度は上流側を臨みます。私がこの後向かう側です。ヴォルガ川はカザンを抜け、モスクワ北西で上流端に達しますが、水路を辿れば、サンクトペテルブルグ迄船で行けます。つまり白海やバルト海まで航行可能です。
-
船着き場迄やってきました。巡礼を終えた人々や、観光客が集結してきました。
-
続いて水中翼船も入港です。観察していたら、後部デッキを発見しました。普通の船に比べると狭いですから、出航したら早速デッキに出て場所を確保しましょう。
-
そろそろ乗船の時です。ボルガルともお別れです。感無量です。
-
水中翼船はゆっくりと離岸しました。早速私は後部デッキに出て後方を眺めます。やっぱり船はオープンエアに限ります。
-
ボルガルが離れていきます。切なくなるね!
-
水中翼船が、ゆっくり旋回をはじめました。
-
ボルガルが小さくなっていきます。
-
右から文明博物館、中央にコーラン博物館、そして左にミナレット。今日見た遺跡を構成する見所が総出で見送ってくれました。
-
イチオシ
そして水中翼船は、想いを断ち切る様にエンジン全開します。
-
流石水中翼船、一般の船と巻き上げる水しぶきの桁が違います。後方デッキの後部がガラス張りの窓が設けられているのも頷けます。結局船から身を乗り出せるのは、後方デッキの左右の僅かな空間です。
-
同じ思いの人も多く、皆、デッキに出てきてはデッキの解放感を楽しんでいます。
-
でも、水中翼船だけあって、スピードが一般の船より早いので、受ける風が半端無く強いです。ずっと浴びていると禿げてしまいそうです。
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル -
巨大な船が航行しています。すれ違った?いや、追い抜いた?ヴォルガ川は川幅が広過ぎて、大きな船でも見落としてしまいます。
-
今度はタグボートが何かを押して走っています。
-
続いて、タンカーの様な運搬船が、通り過ぎていきました。日本の環境から比べると、行き過ぎていく船の種類がまるで海を走っている気分になってきますが、此処は川です。
-
ヴォルガ川がこんなに広大だとは思いもしませんでした。流石ヨーロッパ最大、最長の川、母なる川と言う呼称がピッタリです。太っ腹です(小声)因みにヴォルガ川のヴォルガは、ナイル川同様、川そのものを指します。だからヴォルガ川を訳してしまうと川川になってしまいます。川の中の川、king of kings の様なものでしょう。
-
河岸にモスクのミナレットが見えました。こうした名も知らぬ小さな村落にモスクがあるのを確認すれば、此処にイスラームが定着している事が解ります。
-
私は、列車でも、船でも、大自然を眺めつつ、そんな中にポツンと集落を発見すると、なんか心がキュンとする気持ちになります。こんなところにも人の暮らしがあると思うと、なんか胸が熱くなる様な気持ちになります。
脳裏に流れる曲はこの曲。「信じ続けよう!街の灯り、そして人々を…」ってフレーズがたまらなく好き。JOURNEY DON'T STOP BELIEVING
https://youtu.be/1k8craCGpgs?si=iW4s2b75CISwwYXW -
船が集落を通り過ぎていきます。どんな街なのでしょう?どんな歴史の街なのかな?どんなドラマが繰り広げられているのかな?
-
大型観光船とすれ違います。あの船はもっと長距離を運航する筈です。第二次世界大戦、ナチスドイツと壮絶な戦いの舞台となったヴォルゴグラード(当時のスターリングラード)やカスピ海の河口付近の都市アストラハン迄行くのかもしれません。
-
この広大なヴォルガ川にも、橋が架かっています。カザンからボルガルの間に架かる唯一の橋です。この長大な川幅を橋を架けるのはさぞかし大変だった事でしょう。
-
それだけに、ヴォルガ川を車で渡ろうとするのなら、渡河するポイントが非常に限られるので、要注意です。とは言っても我々はそんな心配しなくてはいけないケースはほとんど無いでしょうが。
-
橋を過ぎれば、カザンももう一息です。これ以上風を受けていると禿げてしまいそうなので、船内に戻ります。あんまり戻らないので、風に持っていかれたかとガイドさんが心配しているかもしれません。本日は本当に貴重な一日になりました。美しいモスクも堪能しました。大満足です。
最後までご覧になって下さり、ありがとうございました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
シルクロードの旅
-
前の旅行記
イスラーム最北の聖地を目指した。 act6 カザン一人歩き1
2026/07/23~
カザン
-
次の旅行記
イスラーム最北の聖地を目指した。 act8 カザン一人歩き2
2026/07/24~
カザン
-
シルクロードを西へ!1序章西安その1
2009/04/16~
西安
-
シルクロードを西へ2西安2
2009/04/17~
西安
-
シルクロードのど真ん中 文明の十字路・ウズベキスタン1 サマルカンド
2009/05/30~
サマルカンド
-
シルクロードのど真ん中 文明の十字路 ウズベキスタン2 ブハラ
2009/06/02~
ブハラ
-
シルクロードのど真ん中 文明の十字路 ウズベキスタン3 ヒヴァ
2009/06/03~
ヒワ
-
シルクロードのど真ん中 文明の十字路 ウズベキスタン4 タシケント
2009/06/05~
タシケント
-
シルクロードを西へ3蘭州~嘉峪関
2010/10/26~
蘭州
-
シルクロードを西へ4惇煌
2010/10/28~
敦煌
-
シルクロードを西へ5トルファン
2010/10/29~
吐魯番
-
シルクロードを西へ6クチャ
2010/10/31~
庫車
-
シルクロードを西へ7カシュガル~ウルムチ
2010/11/01~
喀什
-
シルクロードを西へ8トランジット北京
2010/11/03~
北京
-
中央アジア5カ国を10日間で走り抜けた。出発編
2024/06/15~
タシケント
-
中央アジア5か国を10日間で走り抜けた タジキスタン編1
2024/06/16~
その他の都市
-
中央アジア5か国を10日間で走り抜けた タジキスタン編2
2024/06/17~
その他の都市
-
中央アジア5か国を10日間で走り抜けた トルクメニスタン編1
2024/06/18~
その他の都市
-
中央アジア5か国を10日間で走り抜けた トルクメニスタン編2~ヒヴァ
2024/06/19~
その他の都市
-
中央アジア5か国を10日間で走り抜けた ウズベキスタン・ヒヴァ編
2024/06/20~
ヒワ
-
中央アジア5か国を10日間で走り抜けた ウズベキスタン・タシュケント編
2024/06/21~
タシケント
-
中央アジア5か国を10日間で走り抜けた キルギス編1
2024/06/22~
ビシュケク
-
中央アジア5か国を10日間で走り抜けた キルギス編2
2024/06/23~
イシククル湖周辺
-
中央アジア5か国を10日間で走り抜けた カザフスタン編
2024/06/24~
アルマトイ
-
イスラーム最北の聖地を目指した。 act5 カザン市内観光
2026/07/23~
カザン
-
イスラーム最北の聖地を目指した。 act6 カザン一人歩き1
2026/07/23~
カザン
-
イスラーム最北の聖地を目指した。act7 いざ、聖地へ!ボルガル遺跡
2026/07/24~
カザン
-
イスラーム最北の聖地を目指した。 act8 カザン一人歩き2
2026/07/24~
カザン
-
イスラーム最北の聖地を目指した。 act9 スヴィヤースク もう一つの聖地へ
2026/07/25~
カザン
-
イスラーム最北の聖地を目指した。 act10 カザン一人歩き3
2026/07/25~
カザン
-
イスラーム最北の聖地を目指した。 Final act カザン一人歩き 4
2026/07/26~
カザン
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ シルクロードの旅
0
140