2026/07/23 - 2026/07/23
2位(同エリア6件中)
さっくんさん
今回からタタールスタンの首都、且つロシア連邦の第三の都でもあるカザンに舞台を移して、その周辺のエクスカーションも含めて旅を続けます。カザンでは、ガイドさんによる詳しい説明を受けたガイドツアー。そしてその後は自分の足で巡る自由散策と、二段構えでカザンを歩いていこうと思います。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
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カザンに到着しました。もう夜十一時過ぎの事です。泊まったホテルはジュセッペ・ホテル。隣に同名のピザ屋も経営しているので、間違いなくイタリア系のホテルでしょう。歴史ある建物を改装してホテルにしているので、バリアフリーには対応していませんし、エレベーターもありません。
然しながら設備は文句無し、従業員さんも皆笑顔が素敵。そして特筆出来る事はその立地。恐らくクレムリンから一番近いホテルだと思います。クレムリンの大手門、スパスカヤ塔からまっすぐ伸びる表参道沿いの歴史的建造物が並ぶ中に建ち、カザンの一番賑やかな通り、ボウマン・ストリートもすぐ其処です。カザンに泊まるなら是非是非泊って欲しい推しホテルです。 -
狭い窓からカザンの街を眺めます。深夜到着なので街の様子が解りません。どんな街なのでしょう?ワクワクし過ぎて、もう夜しか眠れません。しかし、この後猛烈な雷雨となって叩き起こされてしまいました。(実は滞在中、一度、空襲警報が発令されたそうですが、その時は爆睡していて気づきませんでした。勿論何もなかったですが、起きろよ!自分!)
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夜が明けました。昨夜の雷雨は?の様に止んでいて一安心。早速窓を開けて街の様子を確認します。本日はガイドさんと一緒に半日カザン市内を観光しますが、それまで時間があるので、それまで朝の散歩にクレムリンに出かけましょう。(本当すぐ其処なんです。)
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朝食のビュッフェも充実しています。思わずオーバーヒートしてしまいます(笑)
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クレムリンの大手門、スパスカヤ塔から続く表参道。日本で言えば官庁街的雰囲気。整然と由緒ある建物が並んでいます。
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此方が私のイチオシ、ジュセッペ・ホテルです。由緒ある建物を二棟連結してホテルとして改装しています。私は奥の棟の三階の一番奥の部屋。フロントから一番遠い場所です。喫煙は出口脇なので、其処だけが不便なところでした。
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さあて、クレムリンに向けて散歩開始です。スパスカヤ塔がもう其処に待ち構えています。
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クレムリンと、クレムリンに続く道の左右は標高差があります。つまり、クレムリンは街から一回り高い場所に建ち、其処から延びる表参道は、山で言えば尾根道の様な感じになっています。従って左右には階段が設けられ坂道になります。
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天子さん達も歓迎してくれている様です。遅ればせながら、カザンはロシア第三の都市であると共に、ロシア連邦内タタールスタン共和国の首都でもあります。イワン雷帝の包囲戦に敗れ、ロシアに組み込まれる以前は、カザン・ハーン国、その以前はキプチャク・ハーン国の首都であり、その歴史から、ロシア人とはルーツの違う、トルコ系の民族が多く暮らし、現在もタタールスタンとしてロシアに組み込まれながらも、共和国として独自性の強い国家運営が為されています。
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イチオシ
あっという間にスパスカヤ塔に到着しました。因みに、カザンのクレムリンは敷地内なら24時間開放されています。
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スパスカヤ塔の門から、既にクル・シャリーフ・モスクが見えています。
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クレムリンに入場しました。モスクワのクレムリンと違い、カザンのクレムリンは常時は政治機能は他に移され、記念式典時などでしか使用されません。
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クレムリンと言えば、モスクワのものがあまりにも有名なので、クレムリン=モスクワと考えられがちですが、そうではありません。クレムリンとは城砦を意味し、日本にも大きな街には大抵城跡があるものですが、ロシアも同様です。然しながらカザンのクレムリンが特別なのは、そのクレムリンの中に正教会と共に、モスクが存在する事です。
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やっと、ずっと、見たかった場所に到達しました。クル・シャリーフ・モスク。純白の本体と、空の色と同じ青のドーム。素敵です。思わず息を呑みます。また、一つ、私の想いが天に向かって昇華していきます。
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イチオシ
一見して理解できると思いますが、歴史ある建築ではありません。嘗て此処がカザン・ハーン国だった時、モスクが建てられた事は確実です。しかしイワン雷帝が此処を奪取して以来、モスクは破壊されました。モスクが失われ、長い月日が過ぎ、ソビエト時代は、正教会の教会さえ機能を停止しました。ソビエトが崩壊し、ロシア連邦に変わった時、宗教の自由が復活した時、ムスリムの多い、タタールスタンのクレムリンに、モスクが無いのはこれ如何に?と言う事でモスクが建設されました。
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サラッと聞いてしまうと普通の事の様に思えますが、実はこれがとても貴重な出来事だと思うのです。国の最重要機関に、二つの宗教施設が並び建つ。他にこんなところあったでしょうか?多くを旅してきましたが、思い返してもすぐ出てきません。日本の様に神社も寺院も…と言うのは例外中の例外で、キリスト教とモスクが平和的に並び建つ事は、本当に貴重な事なのです。そうした理由も加わり、カザンのクレムリンは世界遺産に認定されています。
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遠くに見えるはヴォルガ川でしょうか?カザン・クレムリンは地図を見れば一目瞭然ですが、ヴォルガ川とカザンカ川の合流する、即ち川と川に挟まれた部分の高台に聳え、自然の作り出した要衝に建てられています。イワン雷帝が苦戦したのも頷けます。
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モスクの脇には雪国らしい背高のっぽのとんがり屋根を持った尖塔が定間隔に建てられた城壁が永遠と続いています。
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モスク内部は、ツアーで訪れるだろうから、お預けです。
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先にはカザンのクレムリンの重要建築物が並び建ちます。
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後ですぐ戻って来ます。待っててね!
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やっぱり気になって振り返ってしまいます。
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今では公式行事時しか政治利用されなくなったクレムリンは、観光及び博物館的立ち位置となっているので、案内図も完備されています。
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場内から街を見渡せます。クレムリンが一際高い、高台に築かれている事を理解出来ます。
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クレムリンの大手門、スパスカヤ塔の直前に建てられた銅像はタタールスタン出身の詩人ムーサ・ジャリールです。第二次世界大戦中、兵役に出てナチス・ドイツに捕まり捕虜となりますが、獄中でも詩を書き続け、国を想いながら過酷な処刑で命を落としました。
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スパスカヤ塔の対面には、何やら歴史的な建造物が残されています。現在では博物館として利用されていますが、昔は百貨店だった様です。モスクワにはグム百貨店が健在で頑張っていますが、クレムリンの横に百貨店と言う構造は、スパスカヤ塔同様、ロシアの街造りのデフォルトなのかもしれません。
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一旦クレムリンを後にします。純白のスパスカヤ塔が天を突くように聳えています。モスクワのクレムリンが赤レンガで築かれたのに対し、カザンのクレムリンは木材に白漆喰、及び白い石灰岩で築かれており、白を基調としています。私は未訪問ですが、他の街のクレムリンも白を基調としている様で、首都だけ赤を基調としてモスクワの特別感を出しているのかもしれません。(私の推測)
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一旦ジュセッペ・ホテルに戻って一服します。ホテルは歴史ある建物二棟を連結しているので、少々複雑な作りです。私は奥の棟なので、長き道程です。
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再びスパスカヤ塔に凱旋しました。此処から市内観光の始まりです。
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歴史的な建物が建ち並ぶクレムリン城内を、説明を受けながら歩きます。一人なら行き過ぎてしまうポイントも説明してくれるので有難いです。一人なので質問もバンバン出来ますし。でも、私はちょっとズレていると言うか、マニアックなので、時にガイドさんを困らせてしまう時もあります。ガイドさんも真剣に調べてくれたり…。
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モスクワのクレムリンと比べて、緊張感が薄いと言うか、リラックス出来る雰囲気です・建物の色合いも優しさを感じます。
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イワン雷帝がこの地を奪取して以来、ロシアは急成長を遂げる事になります。それ以前はカザン・ハーン国、その前はキプチャク・ハーン国が此処を納めていました。日本ではキプチャク・ハーン国と呼ばれていますが、ロシアではジョチ・ウルスと呼ぶので、時に混乱してしまいます。歴史あるあるですが、困ってしまいます。
更に遡ると、もう一つこの地の歴史に重要な歴史があります。キプチャク・ハーン国はジンギス・ハーンのモンゴル帝国の分裂から派生した国ですが、それ以前に此処を納めていたのはヴォルガ・ブルガールと呼ばれる別の民族でした。彼等がはじめてこの地にイスラームを伝達する事になります。当時はカザンは首都では無く、地方都市に過ぎませんでした。彼等の事は後から詳しく述べる事となるので、覚えておいて頂けると嬉しいです。 -
幾つもの勢力がこの街にこだわり、此処を獲ったロシアが急成長を遂げた。その理由は、先にも述べたこの地の要衝としての価値は元より、この地が東西の貿易路シルクロードと連結していた事。更に南北に流れるヴォルガ川の水路による交易路も、加わり、即ち貿易の十字路として多くの富が此処に集中した事が大きな要素となりました。
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再びクル・シャリーフ・モスクに舞い戻りました。最早空には雲がうっすら広がっていました。早起きは三文の徳。朝早く訪れ、撮影しておいて良かったです。この天気のクルクルする程の変わり様は、本当に困りました。晴れ、曇り、小雨、雷雨、一日にすべての気象情報が詰め込まれているかの様で、天気予報など全くあてになりません。て言うか不可能に思います。
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クル・シャリーフ・モスクをいざ、拝観します。此処でカザンの歴史を簡単に纏めます。
1ヴォルガ・ブルガールがヴォルガ川を北上、ボルガルに都市を建設、カザンは地方都市となる。この時点で此処にイスラームが伝達される。
2モンゴル帝国の侵攻、後、分裂後はキプチャク・ハーン国(ジョチ・ウルス)となる。
3キプチャク・ハーン国が分裂、カザン・ハーン国となる。
4イワン雷帝がカザンを奪取、以降ロシアに組み込まれる。
5ソビエト時代が終わり、ロシア連邦内タタールスタン共和国の首都となる。 -
館内は白を基調とし、非常に清潔感があります。
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モスクの模型が飾られていました。此方は実物よりかなり落ち着いたトーンで彩色されています。
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マッカの壁画がありました。
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此方がメインホール。一階が男性用、後方の二階テラスが女性用の礼拝堂です。
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ドームを見上げました。
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カリグラフィも美しいです。
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クレムリンには、当然ながら正教会の教会が元から存在します。手の届く距離に二つの異なる宗教の礼拝堂が共存するにあたって、譲り合いは大切な事です。お互いを干渉してしまいかねない要素として、礼拝の呼びかけがあります。モスクがミナレットからアザーンを流し礼拝を呼びかけ、教会が鐘を叩き礼拝を呼びかけると、クレムリンはカオスになってしまいます。
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なのでモスクはアザーンを内部に流し、教会は鐘を内部に設けました。今ではご近所さんになった二つの宗教の礼拝堂が、互いの礼拝の呼びかけを内部に限定する事で、互いをリスペクトし、共存の道を図っています。
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クレムリンに二つの宗教施設を共存させました。そしてお互いの宗教的要素を譲り合い、共存の道を模索しました。これだけでも素敵な話ですが、それだけでは疑い深い私は信じません。だって権力者って時々やるでしょ?箱モノ造って「私達は共存共栄しています!」って。でもカザンは違ったのです。そして、これに至る過程はもっと私にとって魅力的な物語がありました。それは後々語っていこうと思います。
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モスクを出れば、当然の事ながら周囲はヨーロッパ風の建築が集合します。それでいてモスクが絶妙にハーモニーを奏でている事が不思議です。やろうと思えば出来るのです。くだらないしがらみにしがみついて皆ややらないだけで…。こんな光景、ヨーロッパでは見られません。ポリコレだなんだって、口先だけは猛々しいけれど…。
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続いて、プラゴヴェシェンスキー大聖堂を見学します。生神女福音大聖堂とも呼ばれます。ロシアの聖堂はなんでこんなに舌を噛みそうな名前ばかりなのでしょう。
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舌を噛みそうだけど、どこかで聞いたことがある名前…と思い、調べてみれば、モスクワのクレムリンでも同名の聖堂がありました。プラゴヴェシェンスキー、日本語で生神女福音大聖堂は受胎告知を指すそうです。それにしても生神女と言う訳は…。最初から受胎告知と言えば成程と思うのですが…。
教会内に入りました。カザン・クレムリン最古の建築です。ソビエト時代に破壊されましたが、ソビエト崩壊後に再建されました。 -
此方がこの教会の鐘になります。先程説明した通り、お互いの宗教をリスペクトする為、モスクはアザーンを内部の身に流し、教会は内部に鐘を響かせる。だから、こんな風に屋内に鐘が吊るされています。初めて見る光景です。
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時代による教会の変遷が模型で再現されています。
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天井全体を宗教画が埋め尽くします。壁面の淡いトーンが優しさに溢れています。ロシア正教のこの淡い色使い、大好きです。
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少女がイコンを発見する物語が、数枚の宗教画として描かれています。
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彫り上げられたイコンを神父様が手にしました。当時は言葉が解らない、字を読めない信徒も多かった筈です。こうした宗教画は芸術としてだけでなく、宗教を解き、広めていく為にも重要なファクターとなりました。仏教でも共通していると思います。只、イスラームは敢えてその道を選ばなかったに関わらず、カソリックに追い抜こうとするまで信徒を増やしています。
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そして皆が喜び、幸せになりましたとさ。と言うところでしょうか?ロシア正教は特にイコンを大切にする事が特徴です。
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イコノスタシスも壮観です。
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この天井の壁画はオリジナルのものが、そのまま残されたと言う事です。
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続いて訪れたのはスュユンビケ塔です。高い建築の強度を保つ為か、白が基調のカザン・クレムリンに於いて、例外的にレンガ造りであり、高さと共に色合いも含めて非常に目立ちます。
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塔の名前はカザン・ハーン国最期の王妃の名に因みます。彼女は非常に美しく、此処を奪ったイワン雷帝は、彼女に心を奪われて求婚しました。
しかし彼女は、国を奪った男と結婚する事を由とせず、1週間の内に七階建ての塔を作れれば、望みに応えようと返事を返しました。
しかし塔は完成してしまいました。すると彼女はこの塔の頂上に登ると、其処から身を投げてしまいました。
この様な伝説が、残されています。 -
スュユンビケ塔の脇にもう一つ、小さな教会がありました。
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カザン・ハーン国の要塞があった場所の遺構の展示です。
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さて、タタール人が暮らすタタール人って、一体どんな民族なのでしょうか?我々が一番馴染みある言葉で言えば、タルタルソースでしょうか?
タルタルソースのタルタルが、タタールに由来する事は間違い無いのですが、タルタルソースやタルタルステーキは、あくまでヨーロッパの人々が、タタール人の肉や野菜を、細かく刻む調理法にヒントを得て編み出したものなので、現地へ赴いても、タルタルソースにも、タルタルステーキにも巡り合う事は無いでしょう。
日本人が食べるナポリタンは、本場のナポリでは探しても見つからないのと同様です。 -
そもそも、タタールと言う言葉は、ヨーロッパの人々のモンゴル系の人々の蔑称です。昔、日本人が外国人を、オランダ人だろうとポルトガル人だろうと南蛮人と呼んだのと同様です。ですから、其処に民族学的考証は存在しません。
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そんな訳で、タタール人の分布は、タタールスタンを超えて、幅広く分布しますが、彼等に言わせれば、全くの別系統だと言う民族も含まれます。
今回の旅で指す、タタール人は、タタールスタンに暮らすタタール人の事です。彼等が何処からやって来て、此処に定着したのか?それにはドラマティックな彼等の旅があります。鋭意製作中なので楽しみにして頂けると嬉しいです。 -
スュユンビケ塔の隣に建つ淡い緑の建物は、モスクワのクレムリンなら元老院。即ち大統領官邸です。現在では、公式行事のみに使用されます。
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街頭に飾られている装飾は、タタール人の女性の耳飾りをモチーフにしています。風が吹くと、良い音を奏でます。
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イチオシ
プラゴヴェシェンスキー大聖堂と、その奥にクル・シャリーフ・モスク。
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クレムリンの壁越しに、カザンカ川を臨みました。この方面のカザンカ川沿いの通りは、カザンっ子の格好の余暇を過ごすゾーンとなっているそうです。是非行ってみましょう。
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カザンカ川の対岸に、巨大な茹で釜の様な建物があります。後で行ってみましょう!
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左右に羽を広げた建物は、なんとタタールスタン共和国農業課の建物、人呼んで農学者宮殿です。日本で言えば農林水産省。タタールスタンは農業国家なので、農業に対しては立派な建物を建てるのです。でも、ちょっとやり過ぎです。
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隣の小さな正教会、金曜日の聖ペラスケヴァ教会も一緒に。
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今度はプラゴヴェシェンスキー大聖堂と背後にスュユンビケ塔の組み合わせ。
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タタールスタンはロシアで最大の勢力を誇る少数民族であり、ロシア連邦の共和国の中で、国家指導者が唯一大統領を名乗る共和国でした。しかし人種差別主義者のプーチンは、大統領を名乗るな!とイチャモンをつけたそうです。これに渋々タタールスタンは、大統領からライスと呼称を変更しました。因みにライスとはアラビア語で大統領を指します。こうした反骨精神の塊的トンチ。大好きです。タタールスタンのライス(大統領)カッケー!!、プーチンに一本勝ちですね?
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プラゴヴェシェンスキー大聖堂を背景に立つ二人の男性の銅像は、特定の人物を指すのではなく、16世紀にこのクレムリンを建設したロシア人建築家とタタール人建築家であり、それぞれの民族衣装を身に纏っています。
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これにてカザン・クレムリンを後にします。戦いあった二つの民族が、力を合わせ共存への道を模索した素晴らしい歴史を拝見させて頂き温かい気持ちになれました。一方人種差別主義者のプーチンはロシア人のみを優遇、兵役を免除し、此処タタールスタンを始め、異民族、異教徒のみを不当に兵役に課しています。つまり殺しています。
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更にプーチンは、自分をピョートル大帝になぞらせる様な発言をしましたが、これは多くの民族からなるロシア連邦のトップとしての発言としては非常に悪手です。これではロシア人以外はどっちらけてしまい、戦意も糞も無くなってしまいます。老いて判断力も失ったのでしょうか?方や世界を二分した片割れのトップも老いてしまって日々日々言ってる事がコロコロ変わる支離滅裂さです。これから先、こんな具合で世界はどうなってしまうのやら?
ロシアのトップも、アメリカのトップも、貴方達がやるべき事は、政治じゃなくてデイケアへ行く事です。 -
そもそも、ロシアは核兵器は沢山持っていますが戦争はド下手です。これ迄勝った戦いでも、死傷者の数がずば抜けて高いです。いつだって人海戦術で、戦死者の数なんて全く気にしない。人の命を大切にしない無能な戦い方ではやがてボロが出ます。
アフガニスタンでは手痛い敗北を喫し、それがソビエト崩壊に繋がりました。チェチェン紛争でも敗北しました。そして今回のウクライナ紛争でもそれを全く繰り返しています。これでは優秀な国民が余りに可哀想です。
プーチン、貴方は負けるでしょう。男にとって大切な事は去り際です。自分のケツくらい自分で拭け!国民をこれ以上不幸にさせないでください。 -
と思っていたら、次に訪れたのは、ビッグボスの立っている広場でした。旧ソビエト連邦の国々ではリストラされたり、左遷されたり散々な扱いです。此処は自由広場と呼ばれ、カザンの政治、文化の中心です。過去にクレムリンにあった機能が、この広場に移転したと考えて良いでしょう。
レーニンさん、どうかプーチンを説教してください。あいつこの国をぶっ壊しますよ! -
共産党…。その思想は確かに人類のあるべき姿の理想の一つでしょう。人類みな平等に生きれるなら、そんな幸せな事はありません。しかしその平等を誰が、どうやって定めるのでしょう?結局それを人が行えば不平等が生じます。神でもない限り、完全に客観的にものを見る事は出来ないからです。
あ、いや、現代ならもしやすると、完璧に人類を平等な社会に暮らす事が出来るかもしれませんよ?神の代わりにAIに人類を支配して貰うのです。AIには感情がありませんから、誰かさんの様に人種を差別しませんし、日々コロコロ気まぐれででたらめな政策を行う事もありません。あらゆる側面から判断して、人類みな平等な社会を構築してくれるかもしれません。後は…そんな社会に暮らしたいかどうかです。 -
レーニン像の背後に聳えるのは、タタールスタン共和国閣僚会議(内閣)です。此処にタタールスタン大統領モトイ、ライス様がいらっしゃるのですね。
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此方はムーサ・ジャリール記念タタール国立オペラ、バレェ劇場です。モスクワで言えばボリジョイ劇場にあたります。ムーサ・ジャリールは今朝、クレムリン・スパスカヤ塔の前に立っていた銅像の詩人です。内閣府の対面に劇場がある事からも、タタールスタン(ロシア)のオペラやバレェに対する熱量が伝わってきます。
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此方はカザン市庁舎です。1854年に貴族の集会所として建設され、ソビエト時代は士官会館として利用されました。現在は市議会や現代アートギャラリーとして利用されています。
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カザンカ川が見える場所にやってきました。大きなМ字はミレニアムを意味しています。ミレニアムと言っても、2005年に完成しました。ズレてるじゃんと思いきや、二千年と言う意味では無く、カザンの都市創立1000周年記念だそうです。物凄い歴史ある街なんですね!
それ以前はクレムリン脇の橋しか無く、カザンカ川を渡る時常に渋滞が発生し、通学が大変だったとガイドさん曰く。 -
カザンカ川の向こう側は住宅地が広がっていますが川沿いには遊園地やスタジアム等の施設が集まり、2018年のワールドカップの試合もここで行われました。
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此方が2018年にサッカーワールドカップの会場となったアク・パルス・アリーナです。日本戦は行われていない様です。日本のキャンプはカザンにあったそうです。
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今度はタタールスタン共和国国立図書館を訪れました。ソビエトらしい無骨さとモダンさが融合した外観です。中に入って驚きました。夏目漱石の特集が組まれていました。「坊ちゃんは猫である」の作者ですよね?我々はタタールスタンの書物を読んだ事ありますか?アニメなら未だしも、タタールスタンの若者達が日本の書籍に興味を持っている…なんか自分が恥ずかしくなりました。
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カザンカ川の畔から、一気にカザンの東側に移動しました。其処には湖が広がっていました。カザン・クレムリンから遠く東に位置します。現在のカザンの街の中心部の東端に位置します。湖畔は現在進行形で歩道が整備されています。
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湖畔に何やら現代的で前衛的なデザインの建築がありました。新しく完成した劇場で、設計に日本人が加わっているそうです。
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カザン東部にカバン湖があり、その周辺はタタール人地区として、保全が進められています。そのカバン湖の畔に、タタールスタンの国民的詩人、ガブドゥッラ・トゥカイの石碑が残っています。イランでも同様でしたが、中央アジア等でも、詩人の愛され方が日本より遥かに高い事に驚きます。
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イワン雷帝によるカザン侵攻によりカザン・ハーン国は滅亡しました。それまでのカザンはイワン雷帝により破壊し尽くされましたが、生き残ったタタール人一般市民は、カザン中心から追い払われ、当時は何もない場所だったと言われるカバン湖、湖畔に居住しました。タタール人にとっては異民族に奪われ破壊されたカザンを、西方に臨みながら屈辱の想いに歯を噛みしめながら、街を復興させたに違いありません。この反骨精神が、数々の皮肉の効いたトンチを編み出したのかもしれません。
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タタール人地区は緑色の屋根で統一されています。緑はイスラームにとって聖なる色で、サウジアラビアのメディナにある預言者ムハンマドの墓地も、此処の屋根と同じ色合いの緑で彩色されています。
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イチオシ
此方のモスクは、タタール人地区に点在するモスクの中で、中心的なモスクで、一番由緒あるモスクである、アル・マルジャニ・モスクです。
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ミナレットの頂点、及び屋根が急角度の傾斜で築かれるのは、降雪量が多いからです。一方降雨量の多い、東南アジアのモスクでは、雨除けの為、庇の長い三角屋根のモスクが建てられました。雨や雪など、イスラームが生まれた中東では想定外の気象なので、イスラームの拡大につれて、ご当地の環境に合わせて、モスクの様式も変遷しました。
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カザンの要塞を失い、この地へ移り住む事となったタタール人達が、心の拠り所としただろう、このモスク。シンプルながら存在感を感じるモスクです。
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その後順調に発展を遂げたタタール人地区でしたが、現在に辿り着く迄新たな敵と戦う事になりました。近代化と言う敵です。発展と言う波に、伝統的な街並みは失われていきました。残念ながら地区毎旧市街の街並みが残されている訳では無く、アル・マルジャニ・モスクを中心とした通りが残されている程度です。しかし観光的にも、歴史的な価値が見直され、現在、保存、復元の方向で、新たなリニューアルが進行中と言う感触を受けました。
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マルジャニ・モスクが建つマルジャニ通りに建つもう一つのモスク、アパナイェフ・モスク。
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アル・マルジャニ・モスク周辺にはお土産屋さんや軽食屋さん、レストランが集まり、タタール料理を満喫する事が出来ます。
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お店に並べられたタタール人の民族衣装。
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タタール人地区の伝統的家屋がありました。非常にカラフルな色使いです。特徴的な事は一階部分を石材やレンガで、二階以上は木材で建てられている事。これはエカテリーナ二世に、三階建ての石像建築を建ててはならないと言われ、なら一階だけ石材で、それ以上を木造で三階建て建てちゃえ!ってなったとの事。大統領云々のトンチ同様、タタール人の反骨精神を表すトンチのセンスが素晴らしいです。
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無論これは一説に過ぎず、一階部分は防火、強度対策で石材を、二階以上は建設費や建築の重量の軽量化等、建物の機能的な関係で、この様なスタイルになったと言う説や、イスラームらしいプライバシーの確保の点から、このスタイルになった等、複数要因が考えられます。
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因みに、タタール人は独自の言語をしゃべります。だから彼等は誰もがロシア語とバイリンガルです。地下鉄や空港では二つの言語で表記があります。
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タタールの建築様式の家屋を復興して、お土産屋さんなどに利用されていました。思うより小さな家屋が多いです。
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解説版も設置されていました。
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大通りの向こうにヌルッラー・モスクを眺めました。
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タタール人地区を後にして、そのすぐ先から、クレムリンへと真直ぐ伸びる、ボウマン・ストリートを目指します。カザンの目抜き通りです。24時間、人並みが途絶えない、賑やかな通りです。
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ロシアとなりカザン・クレムリンを中心に拡がっていくロシア人のカザンの街並み。そしてタタール人地区もそれに負けず発展を遂げ拡がっていきました。やがて嘗ては大きく離れた両者の街が、最早接するくらい、二つの街は大きくなりました。嘗てこの街を奪った者と、奪われた者。新たな紛争に発展しても、何もおかしくない状況でした。
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しかし彼等は違いました。紛争を起こすどころか交易を始めたのです。違う民族、作るものも食べるものも違うなら、商売するしか無いっしょ!と言う事で、二つの街をつなぐ繋ぐこの路には市が立ち、二つの街の人々が集い、そして二つの街は一つの街になりました。このボウマン・ストリートは単なる道では無く、異なる民族、いや、嘗て奪った者と、奪われた者を結び合わせる懸け橋となったのです。
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本当に素敵な話だと思いました。目下紛争中のこの国にきて、戦争と言うネガティブな想いに苛まされ続けて来ました。しかし此処カザンを訪れて、こんな素敵な歴史もあるんだなんて、思ってもいませんでした。だって歴史を追う旅は、世界中何処だって争いの歴史で埋め尽くされているから…。簡単そうで決して簡単では無い事を、この道が、カザンの人々が乗り越えてきたのです。
本当に感動しました。もし、ガイドさんと一緒に歩かなかったら、只の賑やかな繁華街で終わっていたかもしれません。ガイドさんには本当に感謝です。一気にカザンが、そしてこの道が、大好きになりました。
https://youtu.be/4G-YQA_bsOU?si=oYV-3Wok8pMihbdV -
この一際高い鐘楼はエピファニー・大聖堂の鐘楼です。世界的歌手、フョードル・シャリアピンが洗礼を受けた教会として有名です。何やら鐘楼の天辺に観光客らしき姿が見えます。登れる様です。後で訪れましょう。
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ボウマン・ストリートは現在でも終始大勢の人々で賑わいます。私はクレムリンに、正教会の教会と、モスクが共存している事は、大変珍しい事ですが、そして喜ばしい事ですが、勿論二つの礼拝堂の美しさにも感動しましたが、それでも疑い深い私は、未だ僅かな疑念を感じていました。時にあるでしょ?権力者達が、上手くいっている事を強調したくて、自分達の功績を宣伝する為、箱モノを築く事もある事を。
でも、今、それは、この街の一般市民レベルで培ってきた共生の歴史の延長線上に、クレムリンの二つの聖堂の共存があった事を知り、私の心はマックスを超えたのです。本当にカザンを訪れて良かったです。 -
この石碑はカザンの街の中心を示しているそうです。エルサレムにも、街を覆う屋上の上に、同様の石碑があり、知る人ぞ知る存在となっています。(屋上にあるので歩いているだけでは辿り着けない。)
しかしエルサレムはユダヤ人のヒトラーのせいで台無し状態となっていますが、此処は違います。 -
石碑の周囲には、世界各国迄の距離が示されています。なんと東京もありました。これならキリル文字でも解ります。ボウマン・ストリート…争いあった両者を繋いだ一つの道。ウクライナ迄、いや世界中迄伸びて欲しいなぁ。
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ただこの石碑、ボウマン・ストリートを行きかう人が多過ぎて
、中々シャッターチャンスが訪れません。嗚呼オバチャン!止まってぇ~! -
このエピソードで私はこの道に心を鷲掴みにされました。市内観光くらい自力で十分だとも思いましたが、自力で歩いていたらこの大切なキーワードを見失っていた筈です。ツアーとしても、コンパクトながらカザンのポイントを良く抑えてありました。まさかこの大通りにクライマックスが隠されているとは思いもしませんでしたが…。
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歩みを進めれば、ロシアらしい重厚な建物が建ち並ぶ様になってきます。このまま進めばクレムリンですが、我々は此処を曲がり坂を登ります。ツアーも終局、この坂の上にゴールであるジュセッペ・ホテルが待っています。
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こうしてカザンの魅力にのっけから嵌ってしまった私ですが、残念ながら日本では情報量が少な過ぎる現状にあります。地球の歩き方ですら見開きたった1ページです。レストランとホテル合わせて3件しか情報がありません。本当に勿体ない事に思います。
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ボウマン・ストリートから坂を登ってジュセッペ・ホテルに戻る道中、ジュセッペ・ホテルのワンブロック下に、カザンでも重要な聖堂があります。最後に立ち寄ってみます。聖ペテロ・聖パウロ聖堂です。
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大きな鐘楼がありました。
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何度も書きますが、ロシア正教のこの淡い色使いが好きなのです。優しい気持ちになれます。ゴシック様式の権力を振りかざした様な威圧的なデザインは格好よく見えても、心が落ち着きません。礼拝施設としては相応しく感じません。因みにこの聖堂の建築用しいは、ロシアン・バロック様式と呼ぶのだそうです。
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ボウマン・ストリート方面を眺めました。クレムリン~ジュセッペ・ホテルのあるまるで尾根道の様な表参道に向けて、標高が高くなっている事が解ります。
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この聖堂は、ピョートル大帝のカザン訪問を祝って建てられたそうです。エカテリーナ二世も訪問したそうです。
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この聖堂でも壮観たるイコノスタシスに出逢えました。これにて市内観光ツアーは終了です。本当に価値あるツアーでした。でも、まだまだ、夏場のロシアは日があります。私の散策へのヴォルテージも十分過ぎる程満ちています。ホテルで仕切りなおして、次回は一人歩き編その1です。
最後までご覧になって下さりありがとうございました。
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