2026/04/26 - 2026/04/26
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FUKUJIROさん
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昨年10月に埼玉県熊谷市にある片倉シルク記念館を訪ねました。
そこで、大日本帝国の富国強兵を支えた日本の主要な輸出品が絹(生糸)であり、生糸生産で国内シェア70%超を誇っていたのが片倉工業株式会社であり、その発祥の地が信濃国諏訪郡三沢村(現在の長野県岡谷市川岸)にあった片倉家ということを知りました。
今回は、現存している初代片倉兼太郎の生家を訪ね、製糸業の歴史を学ぶ旅に出ました。
よろしければ片倉シルク記念館の旅行記もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/12012823
昨年2月にメニエール病を再発してからなかなか体調が安定しなくて、一人旅は1泊までに制限していましたが、今回は久々の2泊旅になりました。
1日目
パスタ新宿から岡谷へ、岡谷蚕糸博物館と初代片倉兼太郎の生家を見学、岡谷泊
2日目
旧林家住宅を見学、イルフ童画館で作品鑑賞。甲府へ移動して身延線に初乗車、富士泊
3日目
富士山かぐや姫ミュージアムを見学して帰宅
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
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岡谷市へは、パスタ新宿から高速バスに乗ります。新宿からあずさ号という選択肢も魅力的ですが、今回は格安なバス旅を選びました。
バスは乗車率95%位。予想以上に混雑していましたが、たぶんインバウンド客はいなかったと思います。 -
中央高速道の双葉SAで10分間のトイレ休憩がありました。
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岡谷市役所前バス停で降車しました。
長野県に入ると次々と降車していき、岡谷市役所前バス停では3人が降車、終点の岡谷駅前へ向けて4人の乗客を運んでいきました。
バス停の近くに蚕糸公園があります。 -
蚕糸公園の「はばたき」。清水多嘉示作。
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「はばたき」は昭和36年(1961年)10月15日に設置された母子像です。
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「風」。武井直也作、昭和33年(1958年)6月3日に設置されました。
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道路の向かい側には旧岡谷市役所庁舎があります。
昭和11年4月、製糸業と共に繁栄を続けてきた旧平野村は、町制を経ずに市制執行して岡谷市となりました。製糸のまち岡谷のシンボルとして建てられた建物です。 -
旧岡谷市役所庁舎。国登録有形文化財。
製糸会社の経営者だった尾澤福太郎はこの建物を建てて岡谷市へ寄付したといいますから、往時の繁栄ぶりは想像以上のものでした。
旧岡谷市役所庁舎は、鉄筋コンクリート造り2階建て、タイル貼りのモダンな建物です。昭和62年まで市役所として使われていました。岡谷市で最初に水洗トイレが設置された建物と言われています。 -
昭和恐慌により製糸業界も大打撃を受けました。製糸工場の休業・廃業が相次ぎ、失業者が続出する事態でしたが、平野村議会は、多角的工業都市へと転換するために、昭和11年(1936年)4月に市制施行を断行しました。
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平野村道路元標。
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尾澤福太郎翁寿像。
諏訪地方の製糸事業や電気事業の発展に尽くした尾澤福太郎は、岡谷市の市制執行に合わせて私財を投じて市庁舎を建設しました。
それを頌し岡谷市出身の彫刻家、武井直也がこの像を制作しました。 -
濱雪堂翁の碑。濱雪堂は江戸時代末期から明治時代にかけて平野村で漢学や書道を教えていました。
2代片倉兼太郎も濱雪堂に学び、10歳の時、雪堂のすすめで島田篁村の双桂精舎に入塾しました。 -
大威徳天神の碑。
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三波石(富岡市)。
昭和53年5月、姉妹都市5周年を記念し、群馬県雄川の渓流から採取された群馬県の特産の三波石が富岡市から寄贈されました。 -
あるき太郎の碑。
近代化産等道産待めくり創立50周年記念として、平成22年に岡谷ロータリークラブが建立しました。 -
さて、昼食を探してLAKE WALKに入りました。
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フードコートの中央に、DAMOND COCOONという刻々と色を変えながら光るオブジェがありました。
蚕と共に暮らしてきた岡谷の人々は、毎日桑と愛を届け、蚕は大きく大きく育ちました。やがて蚕は糸をつむぎはじめました。その美しい糸を宇宙の神秘を解き明かす鍵、素数の法則をもとに人々はアターン(繭)をつくりあげたのです。こうしてダイヤモンドコクーンが誕生したそうです。 -
久しぶりにリンガーハットの長崎ちゃんぽんをいただきました。
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現在の岡谷市役所。
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八重桜が満開でした。
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八重桜。
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カノラホール。
平成元年(1989年)11月3日に開館した岡谷市文化会館です。 -
入口の横に巨大な岩が置かれています。
中央部がやや窪んでおり、穴が開いていますが詳細は不明。 -
岡谷市民憲章制定50周年記念のマンホール蓋。
まちなかで市民憲章の存在を感じることができるよう、岡谷市の写真をプリントした50周年記念のマンホール蓋です。市役所の周辺に5種類あるそうです。 -
諏訪倉庫株式会社の巨大な倉庫群。
かつてはこの辺りには製糸会社の繭倉庫が建っていました。 -
シルクフェアの幟を発見。
右側は諏訪倉庫株式会社の巨大な倉庫群です。 -
岡谷蚕糸博物館。
かつて農林省の蚕糸試験場岡谷製糸試験所があった跡地に、実際の製糸場(株式会社宮坂製糸所)を併設する形で平成26年(2014年)8月にリニューアルオープンしました。 -
「のこぎり屋根」の看板。
かつての農林省蚕糸試験場岡谷製糸試験所の屋根は、のこぎりの刃のような形状から「のこぎり屋根」と呼ばれていました。「のこぎり屋根」は南側には窓を設けず、北側の天窓からの柔らかな光を取り入れる構造でした。
開館時間は9:00~17:00、 水曜日と祝日の翌日、年末年始は休館。
入館料は一般530円。数ヶ所を見学する場合には共通券がお得です。3館共通券(2日間)が970円でした。 -
蚕糸営繭の碑。
お蚕様が彫られた石で、興和工業株式会社会長の宮坂友武氏が寄贈しました。
宮坂氏は、岡谷に生まれ、家業の建設業である興和工業株式会社を継いでいましたが、製糸業に対する想いが強く、平成26年に岡谷蚕糸博物館がリニューアルしたことを記念し、寄贈しました。 -
3代片倉兼太郎像。
明治17年(1884年)、諏訪郡川岸村に生まれ、昭和恐慌後の昭和9年に3代兼太郎を襲名、昭和10年に片倉製糸紡績株式会社(後の片倉工業株式会社)会長に就任しました。
近代製糸の歴史を伝えるため昭和22年(1947年)に没するまで富岡製糸場等の製糸機械類を収集し、それらの資料は昭和33年に岡谷市に寄贈されました。昭和39年、これらの資料をもとに岡谷蚕糸博物館を開館しました。 -
片倉工業株式会社の信条。
人は品性、糸は品位、会社は品格。 -
岡谷市鳥瞰図。昭和11年(1936年)、吉田初三郎画。
岡谷市制施行の際に、観光パンフレットの原画として市の依頼で描かれた作品。
製糸工場の煙突や繭倉庫、同年に建設された市役所庁舎が描かれています。 -
中央に旧岡谷市役所が描かれ、いたるところに製糸工場が建っている様子が見えます。
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黒澤鷹次郎像。
嘉永2年(1849年)、長野県佐久郡崎田村生まれ、明治20年に第十九銀行(後の八十二銀行)の頭取に就任、製糸業の発展が重要と認識し、明治24年に平野村に第十九銀行の支店を設け、製糸業を支援しました。 -
10m四方の桑園から桑の葉70kgを収穫、約2,300頭の蚕を育てて4.7kgの繭を得ます。そして900gの生糸が生産されます。
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中国河南省青台村遺跡から5,500年ほど前の「羅」と呼ばれる目の粗い絹が出土し、さらに中国浙江省銭山よう遺跡からは、二重のように高い密度で織られた最古の平織りの絹が出土しました。
いずれも蚕の繭から繰った生糸が使われ、セリシンを取りのぞく処理も施されています。これらは、この時代にすでに養蚩から製糸、織りにいたる高度な技術があったことを物語っています。 -
諏訪式繰糸機。明治8年~明治中期(1875~1890年)。長野県有形民俗文化財、日本機械学会 機械遺産。
繰糸台、フレームは全て木製で、鍋は陶器製。欧米に比べて体格の小さい日本人女性が一人で煮繭・繰糸するのに合わせた作業しやすい構成と配置になっています。給水用の配管は木製で、カランまでは竹筒を用い、カランは木製及び竹製となっています。給蒸用の配管には鉄管・銅管が用いられ、三方弁になっている給蒸カランによって左右の鍋に給蒸する仕組みです。繰糸台に向かい座って作業する座線機の一種で、多条機や自動製糸機が登場するまで、条数等が改良されながらも「普通機」と呼ばれて全国的にもっとも普及しました。 -
諏訪式繰糸機は、平野村の武居代次郎がイタリア式とフランス式の技術を折衷して改良・開発しました。
イタリア式からは、「ケンネル式」と呼ばれる撚り掛け方式(複数の繭糸を1本に合わせる技術)を、フランス式からは、煮繭と繰糸を一人で行う「煮繰兼業」、繰糸した糸を小枠に巻き取ってから大枠に揚返す「再繰式」を採用しています。女性の1人作業を考慮した構成、フレームや配管に木や竹を使っていることも特長です。2条繰りから始まった諏訪式繰糸機は、その後条数を増やし、昭和の初期まで活躍しました。 -
「岡谷下諏訪有名店案内双六」は、岡谷、下諏訪の商店を紹介する双六。
昭和12年、株式会社南信日日新聞社。 -
江戸時代までの生糸づくりは「手挽き」が一般的でした。手挽きは、片手で糸を引き上げて撚りを掛け、もう一方の手で糸枠を回し、生糸を巻き取る方法です。
糸が切れた時は、途中で手を止めて接緒を行う必要がありました。
幕末に海外からの生糸需要が拡大すると、糸枠に歯車を組み合わせ回転数を速め、生産性を向上させた「上州座繰り」が広く普及しました。糸に撚りを掛けるなどの作業を手で行う必要がなくなったことで、片手で糸枠を回しながら、もう一方の手で接緒などを行うことができました。 -
江戸時代の道具。
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明治中期には諏訪式繰糸機の改良が進められました。
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水揚水車。明治時代(1870~1900年頃)、長野県有形民俗文化財。
天竜川流域の製糸工場で、用水を引き揚げるために使用された水車です。製糸工場では煮繭や繰糸の作業のために膨大な用水が必要です。諏訪湖から流出する天竜川の水は軟水で製糸用水に適していたため、天竜川流域には、数多くの製糸工場が立ち並び、製糸用水や機械の動力用として水車が利用されていました。 -
4条繰り諏訪式繰糸機。明治中期~明治末期(1890~1910年)、長野県有形民俗文化財、日本機械学会 機械遺産。
諏訪式繰糸機(2条繰り)の生産性を高めるため、条数を4条に増やした繰糸機です。煮繭と繰糸作業を一人が分担、撚り掛けは能率と糸歩を考慮したケンネル式です。熱源には汽缶(ボイラー)による蒸気、動力には水車や蒸気を利用しています。機械の材質を木製、煮繭・繰糸鍋は陶器製とし、設置の費用を抑えています。これらの特長は初期の諏訪式繰糸機から引き継いでいます。 -
6条繰り諏訪式繰糸機。明治末期~大正末期(1910~1920年頃)長野県有形民俗文化財、日本機械学会機械遺産。
大正時代に煮繭分業にともなって改良された諏訪式線糸機です。繭を煮る必要がなくなった機械からは煮繭鍋がなくなりました。
そのため、工女さんが繰糸作業に専念できるようになり、生産性が高まったため、条数が6条に増えました。それにともない繰糸鍋も大きくなりました。
撚り掛けにケンネル式を採用している点、機械の材質に木製、繰糸鍋に陶器製を採用し設置の費用を抑えている点などは、従来の諏訪式繰糸機の特長を引き継いでいます。 -
8条繰り諏訪式繰糸機。大正末期~昭和初期(1920 ~1930年頃)長野県有形民俗文化財、日本機械学会機械遺産。
6条繰りから7条繰りを経て改良された諏訪式繰糸機です。この繰糸機の特徴は索緒機が組み入れられたことです。繰糸者がみご箒で索緒を行わず、索緒作業の機械化により繰糸作業の効率化がはかられました。
さらに索緒機の横に回転スクリューを取り付け、繰糸湯が繰糸者の手前へ流れることにより、繰糸している繭と落繭とを区別し易くなり、繰糸作業が能率良く行なわれるようになりました。 -
水分検査器。
重さで取引する生茶は、水分を含みやすく、含有水分量は取引に大きく影響します。公平な取引のためには、生糸を乾燥させ、水分を含まない状態にして無水量を測定する必要があります。無水量に公定水分率(11%)をかけた値を生糸正量とし、取引を行いました。
この検査器では電気を利用し、まず、生糸を予備乾燥した後、器械本体の乾燥室内で熱風乾燥します。器械上部の秤量装置で重さを測定し、水分が除去され、重さの変動がなくなった時を無水量とします。 -
御法川(みのりかわ)式多条繰糸機。大正中期~昭和20年代(1920~1940年頃)長野県有形民俗文化財、日本機械学会 機械遺産。
明治40年(1907年)に御法川直三郎が開発した、従来とは全く逆の発想による画期的な繰糸機です。蚕が糸を吐くような低速で糸を巻き取れば、繭糸の品質を損なわない生糸ができるのでは、というのが彼の発想の根源でした。
速度を従来の1/5とする代わりに条数は5倍の20条に増やし、立って繰糸をしました。浮繰りから沈繰に変え、接緒は機械式の回転接緒器を導入しました。
片倉製糸紡績(株)でいち早く実用化され、その生糸はアメリカで絶賛されました。多条繰糸機は、わが国独自の開発技術として世界に普及し、その革新的技術は自動繰糸機へとつながっていきます。 -
織田式多条繰糸機。昭和初期(1930年頃)長野県有形民俗文化財、日本機械学会 機械遺産。
大正10年以降の御法川式多条繰糸機の普及にともない、国内の生糸消費にも対応するため、東京を拠点に事業を展開した中原工作所(昭和2年創業)が開発しました。諏訪式繰糸機と御法川式多条繰糸機の機能を持ち合わせています。
多くの多条繰糸機が沈繰・低温・低速での繰糸法であるのに対し、半沈状態で約80°Cの高温湯から繭糸を引き出し、高速で繰糸する機構を採用しています。また、糸に過剰な張力がかかると小枠が停止するという当時としては画期的な糸の切断防止機構も取り入れました。
戦後、御法川式、増澤式、郡是式などとともに普及しました。 -
増澤式多条繰糸機。昭和初期~昭和30年代(1930~1950年頃)長野県有形民俗文化財、日本機械学会 機械遺産。
増澤商店(明治29年創業、岡谷市)が昭和5年から開発に取り組み、戦後、全国に普及した多条繰糸機です。特長的な陶製の大きな繰糸鍋は、当時製作不可能とされていたのを、昭和10年に直営の滋賀県深川工場で完成させました。
自社産の多条繰糸機を設置していた片倉・郡是を除くと、全国の製糸工場の約70%に導入され、各県の繭検定所でも使用されました。本繰糸機は長野県繭検定所岡谷支所で使われていたもので、解じょ率※を求めるための接緒計数器と繭糸長を求めるための生糸糸長計が取り付けられています。
※解じょ率:繰糸中の糸の切断回数で糸のほぐれやすさを表す。指標値が大きいほどほぐれやすい。 -
足踏動力車。明治20~30年、長野県有形民俗文化財。
明治初期、機械製糸が始まった頃に使用されていました。大きな車の横についている横棒を足で踏んで回転させて動力を得るもので、横棒を手で握って回すこともありました。大きな車を回し、この回転を伝達させて機械を回す力としました。当時の動力は人力か水力でしたが、水力利用は工場の立地による制限があるため、水利不便の地は人力による他はなかったのです。
明治9年(1876年)4月に岡谷の青木増太郎は16人の人力動力の製糸を始めています。人力には数種類あり、また、江戸時代末期、増沢清助が考案した重力を利用して動力を得るものもあります。 -
スチームエンジン。大正時代。
明治20年代に製糸工場では蒸気力を動力源とするようになりました。スチームエンジンは火力でお湯を沸かして蒸気をシリンダに導きピストンを動かし、その往復運動を回転運動に変えて伝達し、小枠や大枠を回転させます。
岡谷では明治23年に小口組でスチームエンジンを設置したのが最初といわれています。
初めは水利に恵まれない工場で導入されますが、小規模な水車動力で出発した工場が大型化するにしたがい、水車ではまかなえないため、蒸気力を利用するようになりました。
このスチームエンジンはカネニ小松製糸場が大正時代から使用していたもので、およそ200の繰糸機を動かしていました。
大正期にはほとんどの製糸工場が電力に代わっていきます。 -
RM型自動繰糸機。昭和30年代(1960年頃)長野県有形民俗文化財。
昭和32年、プリンス自動車工業(株)(現・日産自動車)が、蚕試式繊度感知器を取り入れて開発した定繊式自動繰糸機です。戦後の自動繰糸機は定粒式から実用化しますが、定粒式では人による粒付け管理が必要でした。しかし、定繊式の本繰糸機ではその作業がなくなり、機械によるため接緒能力は格段に上がりました。さらに、繭の品質にもあまり左右されず、糸むらの発生も少なくなり品質の均一性も保てました。本繰糸機の登場により自動繰糸機の評価は高まり、その設置台数は急速に増加しました。このような自動繰糸機の普及にともない、新たな国際的生糸検査基準ができるほど、大きな影響を与えたのでした。 -
恵南式白動?糸機。昭和50年代。
恵南協同蚕系(株)(後の恵南産機)は、昭和21年に自動繰糸機の開発に着手し、昭和27年に定粒式のYM式恵南型自動繰糸機を完成させます。この繰糸機は、繰糸中の落繭を感知して、新たな繭を自動的に接する技術を備えたものでした。
同時期に、たま電気自動車(株)(現・日産自動車(株))が開発した「たま式」も定粒式です。
本繰糸機は、その後昭和33年、蚕試式繊度感知器を取り入れて開発した定繊式自動繰糸機です。定繊式は日産がすでに開発していましたが、本繰糸機は繊度感知器の位置・索緒方式・給繭方式などに特徴があり、日産式・グンゼ式とともに広く使用されました。
それにしても一つの機械に様々な工夫を重ねてきた先人の知恵と努力には頭が下がります。 -
ヤマサン林源治郎の玉糸仕切帳。万延元年(1860年)9月17日。
林源治郎は岡谷の小尾口村出身で、江戸時代末~明治初期にかけて名主などの村役や、高島藩の糸挽惣代の要職についていました。
この「玉糸仕切帳」には、横浜の生糸売込み問屋大和屋三造が源治郎から預かっ
た玉糸およそ7貫を異人に売り渡し、その代金洋銀89枚余りを源治郎へ支払ったという内容が記されています。岡谷からの輸出仕切書として最も古いものの一つです。 -
繭倉庫の招き猫。
製糸工場吉田館の5階建て繭倉庫の梁に開運招福のため置かれていました。
サナギを食べる鼠を梁の上から見張っていました。 -
岡谷市役所事務室の写真。
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岡谷市役所会議室の写真。
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昭和5年度夏挽閉業帰宅団体時刻表。
エ女さんたちは季節労働のため、冬になると一斉に故郷へ帰ります。
この時刻表によると、昭和5年12月28日~昭和6年2月28日までに川岸・岡谷・下諏訪・上諏訪駅から出発し帰宅した人は27,011人にのぼります。
※春挽・3月~5月下旬、夏挽・6月上旬~年末頃。 -
夜中に出発する臨時列車が出ていることや、一度に500~1,000人ほどが乗車する列車もある事がわかります。
製糸工場の社長たちで構成された諏訪製糸研究会は、工女さんたちをスムーズに帰郷させる計画を立てるのも、大きな仕事の一つでした。 -
全国中等学校優勝野球大会(甲子園)準優勝の盾。昭和5年。
諏訪蚕糸学校野球部は、春・夏・秋の養蚕の時期、その後の製糸実習の時期には練習や試合に欠席者が出るなど、蚕糸の実業学校ならではの苦労がありましたが、実習の合間を縫い工夫しながら練習を続けました。
御子柴三郎着任後、力をつけていった諏訪蚕糸野球部は県下の大会で勝利を重ね、大正末期には野球部が大きく注目されるようになっていました。昭和3年には諏訪蚕糸学校野球部後援会が発足し、物心両面での援助をおこないました。甲子園での試合には諏訪地域の人々が熱狂し、ラジオの聞ける店舗には人が押し寄せました。 -
ここからは、岡谷蚕糸博物館内に設けられている株式会社 宮坂製糸所の工場見学です。
昭和3年(1928年)12月、岡谷の製糸業が経済不況により衰退に向かうなか8釜の諏訪式繰糸機で創業しました。昭和16年には16釜に拡大したものの戦争により休業、昭和25年に出釜で再開、昭和38年には工場も再開しました。諏訪式繰糸機60釜、出釜約40人へと成長します。
宮坂製糸所でしか生産できない特徴ある生糸を製造する、わが国でも類まれな製糸工場となりました。 -
(上)極細生糸(自動繰糸機:10デニール)。
Super thine raw silk (Automatic reeling silk:10 denier)
(下)手繰り生糸(諏訪式繰糸機/生繰り)42デニール。
Suwa type reeling raw silk (Fresh cocoon: 42denier) -
増澤式多条繰糸機。
この機械は、岡谷市の増澤商店製で明治末~昭和30年代まで繭検定用に使用されていた多条繰糸機です。 -
ニッサンHR-II型自動繰糸機。
この機械は昭和51年に日産自動車株式会社が完成させた自動繰糸機です。通常の自動繰糸機は1セット400緒あるいは480緒型が主流ですが、これは80緒型であり、この機械の特徴は集緒器に生糸の節が詰まることにより、微小な張力変動を感知して小枠が自動的に停止する機構を取り入れている点にあります。
いまなお世界で使われている、わが国の最先端の自動繰糸技術といえます。 -
生きているお蚕様。
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ヤママユ(笑養)。学名 Antheraea yamamal。
長野県原村産、中谷勝亮氏作成(天蚕農家)。
ヤママユは日本原産の野蚕で、美しい緑色の繭を作るため、江戸期より養殖が始まりました。
その糸、天蚕糸(てんさんし)は”繊維のダイヤモンド”と評される美しい光沢をもちます。また、成虫の体色の多様性も愛好家を惹きつけます。 -
製糸業と味噌作り。
製糸業最盛期、岡谷には大小200あまりの製糸工場があり、当時の岡谷の人口の約半分の34,500人もの工女さんが働いていました。日本各地から岡谷に働きに来た工女さんは製糸工場の寄宿舎で生活し、寄宿舎の寝具や朝・昼・晩三食の食費は工場が負担して用意しました。
毎日の食事で提供される味噌汁に使用する味噌は膨大な量となるため、各製糸工場では味噌の原料となる大豆や塩、糀を仕入れて自家醸造を行い、味噌をまかなっていました。 -
堀川組の献立簿(大正15年)を元に再現した一日の食事。
工女さんの一日は、季節や工場による違いはありますが、起床の合図に始まり、朝食前から勤務に就き、食事や休み時間を入れながら仕事をするというものでした。
労働は長時間に及びましたが、大正時代になると「工場法」施行により、次第に待遇改善されていきます。 -
朝飯は、おつゆとご飯とお漬物。
野沢菜漬けとか大根漬けとか。味噌は工場でつくっていました。
(丸ト組製糸所・大正12年の証言) -
昼間はいいおかず、お魚とかお肉、天ぷらとか。
おひつにご飯が残るほどあって、お茶もちゃんとやかんに入れて横に置いてあった。
(山共岡谷製糸・大正11年の証言) -
岡谷へ行けばねえ、白いご飯がお腹いっぱい食べられるってゆう、それを楽しみに来たっていう方もいらっしゃったようです。
(丸九渡辺製糸・明治44年の証言) -
堀川組の献立簿(大正15年)。
堀川組は岡谷の川岸地区にあった約300人規模の製糸工場でした。
日付ごとに朝昼夕の献立と食材の量が書かれています。製糸工場の献立表を見ると、ほとんど毎食に味噌汁が出ています。1食に使用する味噌は1人当たり4匁(15g)となっています。
堀川組は約300人規模の工場なので、一度の食事だけで4.5kgの味噌を消費していたことになります。 -
明治初期の工女さんたちは平野村(現岡谷市)や近郊出身でしたが、製糸業の発展にともない、郡内県内はもとより、山梨県や岐阜県、新潟県などからも働きに来ました。明治38年の鉄道開通後は、全国各地から集まるようになり、沖縄や北海道出身の工女さんもいました。
工女さんの多くは、小学校を卒業後働きに出て、明治から昭和初期を通じて10代半ばから20代前半の割合が高くなっています。勤続年数は短く、5年以下が半数を占め、長く勤める熟練の工女さんたちは大事にされ、永年勤続賞などの表彰対象となりました。 -
大正時代、製糸工場での賄い用味噌を除き市場に流通していた味噌の産地は東京が全体の3割程度を占めていました。大都市東京の味噌需要は東京の味噌屋が満たしていたのです。
ところが大正12年(1923年)の関東大震災で東京の味噌屋が被災すると、地方の味噌を東京へ送り出すようになります。岡谷の製糸家も工場の賄い用の味噌を東京へ送り出し、長野県の味噌が美味しいと評判となり、しだいに信州味噌として人気になりました。
令和5年(2023年)には長野県産が43%を占めるようになりました。 -
昭和24年、岡谷の味噌業者が出資して岡谷味噌研究所を設立し、品質改善、酵母や乳酸菌などの微生物の利用、製法や機械の研究開発を行い、業界に大きく貢献しました。同年には、岡谷が長野県内の味噌生産量の1/4を占め、昭和30年代には、長野県自体も国内の味噌生産第一位へと発展していきました。
製糸工場から味噌醸造所へと変革を図った経営者もたくさんいました。 -
お蚕様の一生。
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お蚕様の身体。
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片倉製絲紡績株式会社(現・片倉工業株式会社) 松本製糸場の事務所で使用していた金庫。令和8年にイオンモール松本より寄贈。
「明治33年製造」、「鋼鐵第2号」と記されている事からこの種の金庫で2番目に製造されたと考えられています。高さ 160cm・奥行88cm・横幅 100.3cm。 -
岡谷市のマンホール蓋。
市の花「ツツジ」と市章をデザインしています。
この後、岡谷市のコミュニティバスに乗りたいのですが、バス停が見つからずに慌てました。 -
シルキーバスで中央印刷前バス停に移動しました。
バス停は長野県道14号下諏訪辰野線沿いにありました。 -
岡谷市のコミュニティバスは、1乗車150円です。
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この細い路地を上がっていきます。
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初代片倉兼太郎生家です。
長野県岡谷市川岸上1丁目21-6。 -
敷地の全周を黒塀で囲っており、中の様子はわかりません。
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西側の道路は坂道になっているため、塀越しに建物が見えました。
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黒塀の隙間から見えた建物正面。
片倉工業は明治6年(1873年)に片倉市助が長男の兼太郎(初代)とともに創業した座繰(ざぐり)製糸に始まります。 -
表札が出ていました。
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玄関内部。
これ以上は不審者になる前に撤退しましょう。 -
うなぎ松川。
築150年の古民家を改装して令和4年(2022年)3月に開店した「うなぎ松川」です。
岡谷市で長年続く歴史を持つ「うなぎ松川」は、箕輪町の母体会社から展開され、新店舗では、地元の伝統や文化を活かしつつ、新しい息吹を取り入れており、地元客から観光客まで幅広く人気を集めています。 -
中央印刷㈱ 岡谷工場。県道沿いに煉瓦造りの目立つ建物があります。
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実は、明治43年築の旧片倉組本部事務所だった建物です。
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上を通っているのは、中央自動車道から分岐した長野自動車道。
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成田山 蓮華不動院。
明治18年(1885年)、地元有志がこの山の祠のそばに不動尊石像を奉ったのが、当地の不動信仰の発祥とされ、明治21年、岡谷下町の、林源三郎、小林森太郎、小口百太郎氏らが埼玉県本庄から木造の本尊不動明王を迎え、成田山新勝寺で開眼供養しました。
和田峠を徒歩で山越えして、現在地に建てた不動堂に本尊を安置し、商売繁盛・家内安全・諸厄消除・所願成就のお山としました。
お山に上る力が残っていなかったので、遥拝しました。
ここまでお読みいただきましてありがとうございました。
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甲信越の旅
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2017/04/01~
新潟市
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小雨の松本市内をぶらぶら歩いて松本城を見てきた
2017/10/27~
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日本三奇橋の一つ「猿橋」を渡りました
2019/01/25~
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家族旅行で山梨県へ~昇仙峡と山中湖・河口湖
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石川雲蝶の作品を探して長岡市栃尾を行く
2021/05/14~
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2021/05/14~
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石川雲蝶が13年の歳月をかけて作った仏の世界
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魚沼・小出
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石川雲蝶を訪ねて南越後を走る。2/3(西福寺開山堂)
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石川雲蝶を訪ねて南越後を走る。1/3(瑞祥庵と龍谷寺)
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石川雲蝶を訪ねて南越後を走る。3/3(番外編)
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日本で唯一といわれる「穴城」跡、雨の懐古園を歩きました2/2
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真田・東御
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長野に出張したので少しだけ街歩きしたら、石童丸の故事を知りました
2024/06/03~
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新潟出張の帰りに長岡に寄って新潟県立歴史博物館を見学しました(1/2)
2024/06/06~
長岡・寺泊
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新潟出張の帰りに長岡に寄って新潟県立歴史博物館を見学しました(2/2)
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長岡・寺泊
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64年ぶりに前立本尊が御開帳された北向観音へお参りしました
2025/10/15~
別所温泉
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世界のシルク王の故郷を訪ねて岡谷へ行こう1/2
2026/04/26~
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世界のシルク王の故郷を訪ねて岡谷へ行こう2/2
2026/04/26~
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岡谷から甲府経由で身延線に初乗車。途中下車して内船温泉へ
2026/04/27~
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