2024/06/03 - 2024/06/04
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この旅行記のスケジュール
2024/06/03
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信州そばナカジマ会館 長野駅のそば屋です
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善光寺口の如是姫像
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小坂善太郎像
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この旅行記スケジュールを元に
長野市に来るのは8年ぶりでした。
私がメニエール病を発症したその日に先輩であり友人であった長野市在住のIさんの訃報が届きました。私はまったく動けない状態で、葬儀にも出られませんでした。
それ以来、長野出張は控えていましたが、今回どうしても出向く必要があり、久しぶりに訪問しました。
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長野駅の善光寺口。
MIDORIの入口の脇に長野駅名物の駅そば店「信州そばナカジマ会館」があります。 -
入口付近に写真付きのメニューが貼ってあります。
店に入る前に決めましょう。
券売機で食券を購入してから席に座りましょう。
席の先取り禁止の貼り紙があります。 -
わかめきつね蕎麦を食べました。
この駅蕎麦はやっぱり美味いです。 -
お店の唐辛子は八幡屋礒五郎です。長野のブランド唐辛子です。
南米アマゾン河流域で食されていた唐辛子をコロンブスが欧州に持ち帰り、世界に広まりました。 -
信州そばナカジマ会館の由緒。
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長野の中心は善光寺です。そして、その御本尊は阿弥陀如来です。
明治21年(1888年)、官設鉄道信越線が長野を通る際、善光寺本堂から十八丁離れた現在地に駅を建設することが決まりました。
その理由は、阿弥陀如来の四十八願の中でも最も重要な十八番目の願い(第十八願)に因んだとされています。第十八願は、「南無阿弥陀仏をとなえる者を必ず極楽浄土へ生まれさせる」というものです。
因みに、四十八願を「よいなら」と読む地名があります。かつて偶然訪れた公園で驚いたことがありました。よろしければ、その時の旅行記もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11732236 -
善光寺口を出ると、如是姫像があります。
長野駅には背を向けていますが、これは善光寺を向いているためです。
明治41年(1908年)10月、善光寺の護摩堂前に建立されましたが、昭和19年の金属類供出令により台座を残して供出されました。
昭和23年(1948年)7月、信者の募金により、現在地に再建立。作者は東京美術学校彫刻科教授佐々木大樹氏。 -
善光寺縁起によると、如是姫は、昔々の天竺にあった毘舎離国に生まれました。月蓋という長者の一人娘として大切に育てられましたが、あるとき疫病に罹り瀕死の状況に陥りました。吝嗇で不信心な月蓋でしたが、この時ばかりは娘の命を助けてほしいと釈迦におすがりしたそうです。
釈迦は、西に向かい南無阿弥陀仏を唱えるように諭され、長者が教えに従って一心に御名を唱えると、阿弥陀如来が現れ、如是姫は回復しました。
この像は、病気の回復を感謝した如是姫が阿弥陀如来に香花を捧げ礼讃している姿です。
さて、そろそろ仕事をしないと怒られてしまいます。 -
仕事を終えました。
日没後10分ほどの空模様、ポツリポツリと雨が降り出しました。
今宵の宿は、県庁の向かい側にあるホテル国際21です。
いつも権堂から10分ほどのこのホテルに泊まっていました。 -
ちょっと安い別館に泊まりました。
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客室。
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県庁舎の後方には旭山(785m)が見えます。
武田信玄と上杉謙信の闘いで、取ったり取られたりした山で、頂上には城跡もあります。
もう少し暗くなったら、権堂に出かけましょう。Iさん馴染みの店は今でも続いているようです。 -
朝食ブッフェ。美味しくいただきました。
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ホテル国際21からは、善光寺へも長野駅へもほぼ同距離です。
本当は、早起きして善光寺にお参りするつもりだったのですが、起きられませんでした。 -
善光寺にお参りする時間はないけれど、帰りの新幹線には余裕があるので、歩いて駅へ向かいます。
昭和通りの日本生命ビルの前に小坂善太郎像がありました。政治家一族の出身ながら、外務大臣就任4回をはじめ 労働大臣 国家公安委員長 経済企画庁長官を歴任した実力者でした。平成12年(2000年)没。 -
大国主神社。
昭和通りに面している小さな神社です。
かつてはこの周辺一帯を大黒といったそうですが、大正時代に当地に遷座しました。以来、南県町の産土神となりました。
御祭神は大国主命です。また、善光寺七福神の一つで、大黒天を祀っています。 -
大国主神社の扁額。
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長野市のマンホール蓋。
市の花「リンゴ」の花と実を描いたカラーマンホール蓋。右下に「SEWERAGE(下水)」の文字。
設置間もないようで、とても綺麗です。 -
長野オリンピックのレガシーも残っていました。
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新田町交差点まできました。
善光寺参道です。この先に善光寺がありますので、ここからお参りしました。 -
善光寺表参道には丁石があります。
善光寺の本堂から十八丁離れた場所に長野駅を建設したことから、参道の一丁(約109m)ごとに丁石を建てました。
駅まであと650m余りです。 -
曹洞宗 黄梅山 栽松院(おうばいざん さいしょういん)。
両脇を旧裾花川(現在は暗渠)に挟まれた島の上に建てられているので、通称「しまんりょう」と呼ばれています。細長い境内です。 -
観音堂。
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観音堂の扁額。
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たくさんの観音様が祀られています。
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本堂。
200年ほど前に焼失し、現在の本堂は明治35(1902年)に再建されました。
御本尊は釈迦牟尼です。 -
栽松院の扁額。
額の文字は江戸時代の後期、愚禅(ぐぜん)和尚が96歳の時に書いたものです。 -
庚申塔。
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三畍墓霊。
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子育て赤地蔵尊。
赤は血の意味を表しているそうです。 -
子育て赤地蔵尊。
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嶋(しま)の天神。
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嶋(しま)の天神、扁額。
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表参道の十三丁。
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かるかや山 西光寺です。
手前に山門、奥に慈光門。 -
境内に入ると、右手に六地蔵尊。
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その奥に、大蛇・小蛇(おおにょう・こにょう)の塚。
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小林一茶、自筆の句碑。
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境内左手に六角石憧地蔵尊。
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大きな切り株が残っています。
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針塚。
使い古した縫い針を埋め供養したものです。 -
芭蕉塚。
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今回一番驚いたのがこれです。
宝暦3年(1753年)に出版された「干曲之真砂」によると檀田(まゆみだ)村(長野市の北東部の地区名、浅川左岸)という所に、 地中より油湧出る所有、これを集めて灯寸也」とあり、当時からすでに石油が利用されていました。
弘化4年3月24日(1847年5月8日)に発生したマグニチュード7.4(推定)の善光寺地震では、火災も多く発生 し、善光寺付近では約2,500人もの死者が出ました。
この地震の後、 浅川の河川敷から石油や天然ガスが湧出した記録が残っていて、安政3年(1856年)、浅川真光寺(長野市の地名)で石油産出に成功しました。
明治2年(1869年)、 新政府が鉱山開発を一般に開放すると、山岡鉄舟の縁者で、 尊王攘夷の志土として活動した石坂周造は、浅川周辺の採掘権を買い取り、 明治4年8月に長野石炭油会社を設立(本社は東京)しました。これが日本初の石油会社です。
その年にかるかや山西光寺の境内に、日本最初の石油精製所「長野製油所」を設置し、社名を「長野石油」に変更しました。
しかしながら浅川油田は産出量が少なく、品質も低いことから次第に閉鎖されました。 -
その当時の社員の墓が残されています。
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本堂の右手前に顔ハメパネルがありました。
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このパネルの元ネタが、かるかや対面の像です。
顔も知らぬ父・刈萱上人を尋ねて高野山に登った幼ない石童丸が、無名の橋にて父と対面した情景を銅像にしたものです。 -
刈萱道心と石堂丸像。
親子の対面を果たしながら、出家した父は我が子に親であることを告げることができませんでした。このとき石堂丸は14歳でした。 -
本堂。
浄土宗 苅萱山 寂照院 西光寺が正式な名称です。
正治元年(1199年)、善光寺如来に導かれて、高野山から信濃に下った刈萱道心が草庵を建て、開山しました。御本尊は、開祖刈萱道心とその子信照坊道念上人(幼名石童丸)が刻んだ二体の親子地蔵尊です。 -
本堂の正面には回向柱が建ちます。
これは善光寺御開帳の際の大回向柱と同じ木から造られたものです。 -
扁額は刈萱山。
法然の専修念仏事件に連座して越後に流されていた親鸞聖人が、建暦元年(1211年)に放免されて関東に向かう途中、善光寺を訪れました。
そして、兄弟弟子であった刈萱道心が勤める西光寺に50日間逗留したと伝ります。親鸞聖人は、刈萱道心とともに戸隠山に登り、両界山で三尊来迎の御影を合作したと云われています。
御本尊から五色の紐が伸びています。 -
御本尊は、親子地葳尊。
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回向柱は御本尊から伸びる五色の紐で繋がっています。
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小野篁(おののたかむら)作と伝わる、西光寺の韋駄天像です。写真撮影は出来ませんでしたので、ポスターの写真を複写しています。。
韋駄天像は庫裏の玄関に置かれた、高さ30cmほどの像でした。 -
5月と6月の限定御朱印。
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玉取稲荷社。庫裏の向かい側にあります。
別称、刈萱稲荷ともいいます。刈萱上人が加藤左衛門尉繁氏と名乗っていたとき、博多城中に祀っていましたが、後に現在地に勧請しました。商売繁感、家門繁栄、幸運を結ぶ等の御利益ありと伝われています。
名前からすると、九州三大祭に数えられる博多の玉取祭に関係があるような気もします。 -
真新しい額。
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向かって右の玉を持つお狐様。
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左側は巻物を咥えたお狐様。
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玉取稲荷社。
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苅萱塚(左から千里御前の墓、刈萱上人の墓、石堂丸の墓)。
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千里御前の墓。
出家した刈萱道心を追って高野山まで来た千里御前と石童丸ですが、高野山は女人禁制のため麓で待っていました。
しかし石童丸が下山する前に、32歳で亡くなってしまいました。 -
刈萱上人の墓。
石堂丸が父の菩提を弔うために九重塔を建立しましたが、善光寺地震で倒壊し、現在は五重塔が建っています。 -
石堂丸の墓。
母を失った石童丸は再び高野山に上り刈萱道心の弟子となりました。
一緒に生活しながらも、刈萱道心は真実を語ることはなく、石童丸は真実を知ることなく、やがて西光寺で生涯を終えました。 -
大師堂(園通殿)。
学業成就・合格祈願のお堂です。 -
善光寺七福神の第一番寿老人像。
福徳・財運・長寿の神とされます。
右手に杖を持ち、長寿の秘訣が書かれた巻物を捧げています。左手に不老長寿の水を持っています。 -
たくさんの地蔵尊。
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不動明王の板碑。
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小山田平太夫の墓石。
元禄14年(1701年)、徳川幕府は、善光寺本堂普請を真田藩に命じます。元禄16年(1703年)、藩主真田幸道は、惣奉行に家老の小山田平太夫を任命。平太夫は、西光寺を宿舎とし、宝永4年(1707年)に善光寺本堂が落成しまし。
後に善光寺仮堂が寄贈され、明治8年まで西光寺本堂として使われました。 -
小山田平太夫とその近親者ら5基の供養塔があります。
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表参道の十四丁。
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十五丁。
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十六丁。
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新しい道標もありました。
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歩いてきた善光寺表参道は、旧北國街道とも重なっていました。この道は善光寺を過ぎて、日本海に面する高田城下まで通じていました。
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旧北國街道(南方向)。このずーっと先には、昨日、一昨日に寄り道した海野宿や小諸宿があります。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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