燕・三条・見附旅行記(ブログ) 一覧に戻る
コロナ禍ではありますが、新潟県に仕事があり、県境を越えて出張しました。仕事は金曜日のお昼でほぼ終わり、夜の打ち合わせまで時間が空きましたので、三条市内を観光しました。<br />三条市にある長久山本成寺は、永仁5年(1297年)に日印聖人によって創建されました。東京ドームの約2.5倍の敷地には本堂・客殿・鐘楼・千仏堂等があり、荘厳な寺院です。越後のミケランジェロと呼ばれている石川雲蝶の墓もあります。<br />また、十の塔頭が残り、そこには石川雲蝶の作品も残されています。<br />石川雲蝶は、文化11年(1814年)に江戸・雑司が谷に生まれ、江戸彫りの一流派・石川流の本流門人であり、20代ですでに彫物師として名を馳せていたと言われています。越後三条(新潟県三条市)の金物商で、本成寺の世話役だった内山又蔵に招聘されて、36歳で越後三条に来ました。その時の条件は「良い酒とノミを終生与える」と伝わります。<br />酒好き、女好き、博打好きの雲蝶ですが、気が向けば寝食を忘れてノミを振るったそうです。三条の酒井家に婿入りし、明治16年(1883年)に70歳で没しています。明治の大火で、菩提寺の本成寺も、雲蝶の住居も焼けてしまい、謎の多い彫刻師として、平成26年に生誕200周年を迎えました。<br />雲蝶の作品は、三条から長岡、魚沼、越後湯沢まで広範に残されているので、その中の数ヶ所を見て回りました。<br /><br />コロナ禍のため、帰宅後2週間以上経過し感染していないことを確認してから旅行記を公開しています。

石川雲蝶の菩提寺・本成寺、そして五十嵐神社へ

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2021/05/14 - 2021/05/14

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旅行記グループ 甲信越の旅

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FUKUJIRO

FUKUJIROさん

この旅行記のスケジュール

2021/05/14

この旅行記スケジュールを元に

コロナ禍ではありますが、新潟県に仕事があり、県境を越えて出張しました。仕事は金曜日のお昼でほぼ終わり、夜の打ち合わせまで時間が空きましたので、三条市内を観光しました。
三条市にある長久山本成寺は、永仁5年(1297年)に日印聖人によって創建されました。東京ドームの約2.5倍の敷地には本堂・客殿・鐘楼・千仏堂等があり、荘厳な寺院です。越後のミケランジェロと呼ばれている石川雲蝶の墓もあります。
また、十の塔頭が残り、そこには石川雲蝶の作品も残されています。
石川雲蝶は、文化11年(1814年)に江戸・雑司が谷に生まれ、江戸彫りの一流派・石川流の本流門人であり、20代ですでに彫物師として名を馳せていたと言われています。越後三条(新潟県三条市)の金物商で、本成寺の世話役だった内山又蔵に招聘されて、36歳で越後三条に来ました。その時の条件は「良い酒とノミを終生与える」と伝わります。
酒好き、女好き、博打好きの雲蝶ですが、気が向けば寝食を忘れてノミを振るったそうです。三条の酒井家に婿入りし、明治16年(1883年)に70歳で没しています。明治の大火で、菩提寺の本成寺も、雲蝶の住居も焼けてしまい、謎の多い彫刻師として、平成26年に生誕200周年を迎えました。
雲蝶の作品は、三条から長岡、魚沼、越後湯沢まで広範に残されているので、その中の数ヶ所を見て回りました。

コロナ禍のため、帰宅後2週間以上経過し感染していないことを確認してから旅行記を公開しています。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • 本成寺の三門(通称、赤門または南大門)。<br />天明6年(1786年)に竣工されました。本成寺はたびたび大火に遭っており、江戸期に再建された建物です。

    本成寺の三門(通称、赤門または南大門)。
    天明6年(1786年)に竣工されました。本成寺はたびたび大火に遭っており、江戸期に再建された建物です。

  • 赤門に掲げられている長久山の扁額。<br />本成寺は越後三条の領主であった山吉長久の寄進で造営されました。

    赤門に掲げられている長久山の扁額。
    本成寺は越後三条の領主であった山吉長久の寄進で造営されました。

  • 赤門の毘沙門天(多聞天)像。金網とガラスで2重に保護されていました。

    赤門の毘沙門天(多聞天)像。金網とガラスで2重に保護されていました。

  • 持国天像。ガラスが汚れていて、きれいに見えませんでした。

    持国天像。ガラスが汚れていて、きれいに見えませんでした。

  • 仁王わらじ。履き物を奉納すると、家庭円満、子育ての御利益があります。本来は、草鞋を2足作り、1足を奉納し、もう1足を自分で使う慣わしでした。

    仁王わらじ。履き物を奉納すると、家庭円満、子育ての御利益があります。本来は、草鞋を2足作り、1足を奉納し、もう1足を自分で使う慣わしでした。

  • 赤門から参道の様子。黒門へ通り抜けもできます。

    赤門から参道の様子。黒門へ通り抜けもできます。

  • 参道。参道の両側には左右に3つずつ塔頭が建っています。

    参道。参道の両側には左右に3つずつ塔頭が建っています。

  • 宝物殿。拝見する時間がありませんでした。

    宝物殿。拝見する時間がありませんでした。

  • 水門。水門の脇に売店があり、パンフレットなどを売っています。

    水門。水門の脇に売店があり、パンフレットなどを売っています。

  • 本成寺の境内。

    本成寺の境内。

  • 本成寺多宝塔(二重塔)。明和7年(1770年)建立ですが、その後の大火でほぼ焼けており、大正2年に事実上再建されています。

    本成寺多宝塔(二重塔)。明和7年(1770年)建立ですが、その後の大火でほぼ焼けており、大正2年に事実上再建されています。

  • 工事のため見えませんでした。境内にあった写真。

    工事のため見えませんでした。境内にあった写真。

  • 鐘楼堂。多宝塔と同年代に建立され、何度か改築されているようです。<br />梵鐘は、昭和27年(1952年)に鋳匠香取秀真・正彦父子により造られ、北陸随一の名鐘とも言われます。

    鐘楼堂。多宝塔と同年代に建立され、何度か改築されているようです。
    梵鐘は、昭和27年(1952年)に鋳匠香取秀真・正彦父子により造られ、北陸随一の名鐘とも言われます。

  • こちらも工事のため見えませんでした。境内にあった写真。

    こちらも工事のため見えませんでした。境内にあった写真。

  • 参道敷石改修の碑。

    参道敷石改修の碑。

  • 本成寺本堂。現在の建物は明治26年の大火後に再興されました。<br />法華宗総本山。

    本成寺本堂。現在の建物は明治26年の大火後に再興されました。
    法華宗総本山。

  • 日印聖人は正中元年(1324年)に日朗聖人から赦免状、立正安国論、釈迦像を授けられ、本門三大秘密の根本道場としました。

    日印聖人は正中元年(1324年)に日朗聖人から赦免状、立正安国論、釈迦像を授けられ、本門三大秘密の根本道場としました。

  • 本堂内に掲げられた額。

    本堂内に掲げられた額。

  • 客殿。こちらも明治26年の大火後に再興しました。<br />日印聖人をご本尊としてお祀りしています。

    客殿。こちらも明治26年の大火後に再興しました。
    日印聖人をご本尊としてお祀りしています。

  • お参りした後、本堂の右奥へ進みます。

    お参りした後、本堂の右奥へ進みます。

  • 写経塚。<br />本来の御朱印とは、私たちが納経した証としての預かり証の印で、それらが後に納められることになります。

    写経塚。
    本来の御朱印とは、私たちが納経した証としての預かり証の印で、それらが後に納められることになります。

  • 本堂の裏には墓地が広がります。

    本堂の裏には墓地が広がります。

  • 墓地の手前に石川雲蝶の墓がありました。

    墓地の手前に石川雲蝶の墓がありました。

  • 石川雲蝶の墓。石川雲蝶が婿入りした酒井家の墓石もありました。

    石川雲蝶の墓。石川雲蝶が婿入りした酒井家の墓石もありました。

  • 昭和54年に曾孫の酒井喜久さんによって再建されました。

    昭和54年に曾孫の酒井喜久さんによって再建されました。

  • 命日と戒名が刻まれています。

    命日と戒名が刻まれています。

  • 雲蝶の略歴が刻まれています。

    雲蝶の略歴が刻まれています。

  • いったん境内の東へ向かい、黒門から見ていきます。

    いったん境内の東へ向かい、黒門から見ていきます。

  • 黒門。境内の東側の門、小振りながらも重厚感があります。<br />東の参道にも4つの塔頭があります。

    黒門。境内の東側の門、小振りながらも重厚感があります。
    東の参道にも4つの塔頭があります。

  • 千仏堂。文化10年(1813年)再建。元の千仏堂は山吉長久が寄進しました。

    千仏堂。文化10年(1813年)再建。元の千仏堂は山吉長久が寄進しました。

  • 千仏堂。他に例の少ない六角円堂で、六角堂とも呼ばれています。<br />一辺が一間三尺(約270㎝)です。

    千仏堂。他に例の少ない六角円堂で、六角堂とも呼ばれています。
    一辺が一間三尺(約270㎝)です。

  • 千仏堂の内部。正面には釈迦牟尼木造坐像(全高92㎝・像高63㎝)が安置され、その左右に分身仏千体が安置されています。<br />

    千仏堂の内部。正面には釈迦牟尼木造坐像(全高92㎝・像高63㎝)が安置され、その左右に分身仏千体が安置されています。

  • 三十番神堂鳥居。千仏堂と向かい合わせに建っています。

    三十番神堂鳥居。千仏堂と向かい合わせに建っています。

  • 鳥居の額、「○番神堂」かな。

    鳥居の額、「○番神堂」かな。

  • 手水。

    手水。

  • 三十番神堂。天明元年(1781年)建立。

    三十番神堂。天明元年(1781年)建立。

  • 狛犬。

    狛犬。

  • 狛犬。

    狛犬。

  • 拝殿。法華経行者擁護の神30体が祀られています。

    拝殿。法華経行者擁護の神30体が祀られています。

  • 三十番神宮の扁額。

    三十番神宮の扁額。

  • 御本殿。

    御本殿。

  • 御本殿の内部。手前に矢大神の豊磐間戸命、奥に左大神の奇磐間戸命。<br />きちんと随神が控えていました。

    御本殿の内部。手前に矢大神の豊磐間戸命、奥に左大神の奇磐間戸命。
    きちんと随神が控えていました。

  • 三十番神堂の神池。

    三十番神堂の神池。

  • 聖牛。日印聖人は、白牛に経典を載せてこの地にやって来たそうです。

    聖牛。日印聖人は、白牛に経典を載せてこの地にやって来たそうです。

  • 弁天堂。

    弁天堂。

  • 弁天堂。家運隆盛のご利益があります。

    弁天堂。家運隆盛のご利益があります。

  • 弁天堂の額。

    弁天堂の額。

  • 鬼子母神堂。法華経行者守護の神です。

    鬼子母神堂。法華経行者守護の神です。

  • 鬼子母神堂。安産・子育て、子供を守る神様です。

    鬼子母神堂。安産・子育て、子供を守る神様です。

  • 太鼓門。奥に見えているのは客殿です。

    太鼓門。奥に見えているのは客殿です。

  • 要住院。塔頭の中で、最も敷地の大きな院です。

    要住院。塔頭の中で、最も敷地の大きな院です。

  • 台座には、法華経の理念である立正安国と刻まれています。

    台座には、法華経の理念である立正安国と刻まれています。

  • 要住院の庭にあった道祖神。

    要住院の庭にあった道祖神。

  • 静明院。南側の参道にあります。<br />雲蝶の彫刻は、本成寺に2つ残っていますが、あとは塔頭に幾つか残されているだけです。しかも非公開なので、常時拝見できるものとしては静明院本堂の向拝だけです。

    静明院。南側の参道にあります。
    雲蝶の彫刻は、本成寺に2つ残っていますが、あとは塔頭に幾つか残されているだけです。しかも非公開なので、常時拝見できるものとしては静明院本堂の向拝だけです。

  • 石川雲蝶の彫刻が彫られた向拝。亀に乗る人。

    石川雲蝶の彫刻が彫られた向拝。亀に乗る人。

  • 石川雲蝶の彫刻が彫られた向拝。魚に跨がる老人。<br />次は五十嵐川の上流にあるという五十嵐神社に向かいます。

    石川雲蝶の彫刻が彫られた向拝。魚に跨がる老人。
    次は五十嵐川の上流にあるという五十嵐神社に向かいます。

  • 土手の向こうは五十嵐(いからし)川です。<br />石川雲蝶を越後三条に招聘した内山家はその後も商家として発展し、大東亜戦争後には株式会社内山勇吉商店となりました。

    土手の向こうは五十嵐(いからし)川です。
    石川雲蝶を越後三条に招聘した内山家はその後も商家として発展し、大東亜戦争後には株式会社内山勇吉商店となりました。

  • カーナビによれば、この辺りに株式会社内山勇吉商店があったようです。<br />内山勇吉氏の長男である内山裕一氏は、昭和58年から平成7年まで三条市長を務めていました。その後の社会情勢の変化から閉店しました。

    カーナビによれば、この辺りに株式会社内山勇吉商店があったようです。
    内山勇吉氏の長男である内山裕一氏は、昭和58年から平成7年まで三条市長を務めていました。その後の社会情勢の変化から閉店しました。

  • 五十嵐(いからし)神社に着きました。越後では人名も「いがらし」とは読みません。<br />垂仁天皇第八皇子の五十日帯日子命(いかたらしひこのみこと)は、越の国を開拓する命を受けてやって来ました。<br />鳥居の左に、30台分くらいの駐車場があります。

    五十嵐(いからし)神社に着きました。越後では人名も「いがらし」とは読みません。
    垂仁天皇第八皇子の五十日帯日子命(いかたらしひこのみこと)は、越の国を開拓する命を受けてやって来ました。
    鳥居の左に、30台分くらいの駐車場があります。

  • 五十日帯日子命はこの地に土着し、その子孫である五十嵐一族は都の高い技術をもちいて開拓を進めました。

    五十日帯日子命はこの地に土着し、その子孫である五十嵐一族は都の高い技術をもちいて開拓を進めました。

  • 手水。コロナ禍に珍しく、水が張ってありました。

    手水。コロナ禍に珍しく、水が張ってありました。

  • 中腹の広場です。

    中腹の広場です。

  • 大杉保存殿。五十日帯日子命の陵墓前には二本の大杉が立ち、注連縄が掛けられていました。昭和36年の室戸台風で大きな被害を受けて枯死、倒木の危険が高まり昭和59年に伐採されました。

    大杉保存殿。五十日帯日子命の陵墓前には二本の大杉が立ち、注連縄が掛けられていました。昭和36年の室戸台風で大きな被害を受けて枯死、倒木の危険が高まり昭和59年に伐採されました。

  • 注連掛の大杉と呼ばれた樹の一部を保存しています。

    注連掛の大杉と呼ばれた樹の一部を保存しています。

  • 注連掛の大杉、樹齢1400年でした。ガラス窓からの撮影。

    注連掛の大杉、樹齢1400年でした。ガラス窓からの撮影。

  • 樹齢300年以上の杉が立っています。

    樹齢300年以上の杉が立っています。

  • まだまだ石段が続きます。

    まだまだ石段が続きます。

  • 麓からは全部で92段でした。

    麓からは全部で92段でした。

  • 拝殿。旧五十嵐神社は昭和36年の室戸台風の際、倒木に押しつぶされてしまいました。建物の残骸は埋められて処分されていましたが、石川雲蝶の評価が高まったことから、彫刻が掘り出されました。<br />

    拝殿。旧五十嵐神社は昭和36年の室戸台風の際、倒木に押しつぶされてしまいました。建物の残骸は埋められて処分されていましたが、石川雲蝶の評価が高まったことから、彫刻が掘り出されました。

  • 拝殿。平成3年に再建されました。

    拝殿。平成3年に再建されました。

  • 狛犬。明治8年に建てられた際のものと思われます。

    狛犬。明治8年に建てられた際のものと思われます。

  • 狛犬。

    狛犬。

  • 五十嵐(いからし)神社の扁額。

    五十嵐(いからし)神社の扁額。

  • 拝殿内部。右端の上部(梁の右側)に掲示されているのが、雲蝶の作品。

    拝殿内部。右端の上部(梁の右側)に掲示されているのが、雲蝶の作品。

  • 掘り出された石川雲蝶の作品。上から玄武、獅子、鳳凰。他にも作品があったようですが、現存しているのこの3つだけです。<br />下から見上げる位置にあり、光量も少なく、iPoneでは精一杯。

    掘り出された石川雲蝶の作品。上から玄武、獅子、鳳凰。他にも作品があったようですが、現存しているのこの3つだけです。
    下から見上げる位置にあり、光量も少なく、iPoneでは精一杯。

  • 昔の五十嵐神社を描いた額が奉納されていました。

    昔の五十嵐神社を描いた額が奉納されていました。

  • 全国五十嵐会の集合写真。<br />現在の長岡市で生まれた歌手の故三波春夫(旧姓五十嵐)さんが会長を務めたこともあったそうです。

    全国五十嵐会の集合写真。
    現在の長岡市で生まれた歌手の故三波春夫(旧姓五十嵐)さんが会長を務めたこともあったそうです。

  • ガラスに反射して見にくいのですが、注連掛けの大杉を描いたもののようです。

    ガラスに反射して見にくいのですが、注連掛けの大杉を描いたもののようです。

  • 御本殿。

    御本殿。

  • 御本殿の内部。

    御本殿の内部。

  • 境内から北方向。右の建物は保育所。

    境内から北方向。右の建物は保育所。

  • 神楽殿。春と秋には稚児舞が催されるようです。

    神楽殿。春と秋には稚児舞が催されるようです。

  • 五十日帯日子命(いかたらしひこのみこと)の陵墓碑。<br />明治9年に宮内庁が認定しています。

    五十日帯日子命(いかたらしひこのみこと)の陵墓碑。
    明治9年に宮内庁が認定しています。

  • 若宮社。

    若宮社。

  • 八幡社。

    八幡社。

  • 社務所。倒壊した五十嵐神社の旧拝殿を再生して使用されています。<br />

    社務所。倒壊した五十嵐神社の旧拝殿を再生して使用されています。

  • 社務所の壁に境内の案内図が貼ってありました。庭園もあったんですね。<br />半日かけても石川雲蝶の作品にはなかなか出会えませんでした。<br />明日は帰りながら、作品を探そうと思います。

    社務所の壁に境内の案内図が貼ってありました。庭園もあったんですね。
    半日かけても石川雲蝶の作品にはなかなか出会えませんでした。
    明日は帰りながら、作品を探そうと思います。

  • 三条市から長岡市へ移動しました。<br />千秋が原ふるさとの森は、信濃川沿いに造られた大きな公共施設群です。

    三条市から長岡市へ移動しました。
    千秋が原ふるさとの森は、信濃川沿いに造られた大きな公共施設群です。

  • 噴水。

    噴水。

  • 広い公園の先に大きな造形物が見えてきました。

    広い公園の先に大きな造形物が見えてきました。

  • 米百俵の群像を見に来ました。<br />平成13年(2001年)小泉純一郎総理大臣が、所信表明演説で「米百俵の精神」を取り上げました。

    米百俵の群像を見に来ました。
    平成13年(2001年)小泉純一郎総理大臣が、所信表明演説で「米百俵の精神」を取り上げました。

  • 北越戊辰戦争に敗れ、長岡は焦土と化しました。支藩から送られた見舞いの米百俵を食べようとする藩士たちに向かい、長岡藩大参事の小林虎三郎が説得している様子。

    北越戊辰戦争に敗れ、長岡は焦土と化しました。支藩から送られた見舞いの米百俵を食べようとする藩士たちに向かい、長岡藩大参事の小林虎三郎が説得している様子。

  • 小林虎三郎は「食えないからこそ、学校を建て人物を養成するのだ」と論じ、米を売った金を国漢学校の建設資金に充てました。

    小林虎三郎は「食えないからこそ、学校を建て人物を養成するのだ」と論じ、米を売った金を国漢学校の建設資金に充てました。

  • この教えは、目先のことにとらわれず、明日のために行動することの大切さを伝える故事として知られることになりました。<br />平成3年建立。12体の立像は高さ2m余、重さは平均1トン。

    この教えは、目先のことにとらわれず、明日のために行動することの大切さを伝える故事として知られることになりました。
    平成3年建立。12体の立像は高さ2m余、重さは平均1トン。

  • 傍らに母と佇む少年像は、「米百俵の精神」を引き継ぐ者の象徴です。

    傍らに母と佇む少年像は、「米百俵の精神」を引き継ぐ者の象徴です。

  • 向かい側には長岡リリックホール(長岡市立劇場)。

    向かい側には長岡リリックホール(長岡市立劇場)。

  • 噴水をイメージしているベンチ。<br />お天気も良く、とても広い公園ですが不気味なほど静まりかえっていて、人がいないのに驚きました。皆さんステイホームなんでしょうか。<br />ここまでお読みいただきましてありがとうございました。

    噴水をイメージしているベンチ。
    お天気も良く、とても広い公園ですが不気味なほど静まりかえっていて、人がいないのに驚きました。皆さんステイホームなんでしょうか。
    ここまでお読みいただきましてありがとうございました。

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