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慶州での最後の観光は「国立慶州博物館(クンニッキョンジュパンムルグァン)」の見学でした。ここまでの「仏国寺」や「大陵苑(テヌンウォン)」でも韓国の史跡や歴史について学ぶことが出来ましたが、やはり博物館で学べる新羅の情報の量は違います。入り口近くの駐車場から正門を通り、博物館の建物まではかなり歩きますが、途中には「聖徳大王神鐘や屋外展示の石像を見ることが出来ます。約1時間の見学なのでいくつかある展示館の中の「新羅歴史館」のみの見学になりますが、自由に館内を見て歩けるの興味のある展示物の写真を撮れました。館内は同じダイヤモンド・プリンセスのツアーに参加している欧米人や地元の社会科見学の高校生などで混雑していましたが、有名な国宝などを見ることが出来ました。何年もソウルの「国立中央博物館」に行きたいと思いながら叶っていないので、12月のツアーの1日自由行動の中で行こうと思っていましたが、ツアーが催行中止になってしまったのでまた願いは叶いませんでした。「新羅歴史館」は名前の通り慶州地域の発掘調査によって出土した多くの文化財を保存展示しています。約10万点の文化財を所蔵し、そのうちの約2500点を公開しています。「新羅歴史館」は全部で3つの部屋から成り立っています。正面入口を抜けて左手にあるのが「先史・原三国室」です。ここでは新石器時代、青銅器時代、初期鉄器時代、原三国時代の遺物を展示しています。先史・原三国室を抜けて入口正面にあるのは「古墳室」です。慶州市内に数多く存在する古墳から出土したものが展示されています。入口右手は「菊隠記念室」で、菊隠とは故イ・ヤンソン博士のことで、この展示室には博士が寄贈した666点のコレクションが展示されています。じっくり見学した後は再びバスに乗って釜山へと戻りました。

ダイヤモンドプリンセス リベンジの夏祭りクルーズ(12)「国立慶州博物館」の収蔵品の質の高さと数々の国宝に驚く。

3いいね!

2024/08/10 - 2024/08/10

505位(同エリア663件中)

kojikoji

kojikojiさん

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慶州での最後の観光は「国立慶州博物館(クンニッキョンジュパンムルグァン)」の見学でした。ここまでの「仏国寺」や「大陵苑(テヌンウォン)」でも韓国の史跡や歴史について学ぶことが出来ましたが、やはり博物館で学べる新羅の情報の量は違います。入り口近くの駐車場から正門を通り、博物館の建物まではかなり歩きますが、途中には「聖徳大王神鐘や屋外展示の石像を見ることが出来ます。約1時間の見学なのでいくつかある展示館の中の「新羅歴史館」のみの見学になりますが、自由に館内を見て歩けるの興味のある展示物の写真を撮れました。館内は同じダイヤモンド・プリンセスのツアーに参加している欧米人や地元の社会科見学の高校生などで混雑していましたが、有名な国宝などを見ることが出来ました。何年もソウルの「国立中央博物館」に行きたいと思いながら叶っていないので、12月のツアーの1日自由行動の中で行こうと思っていましたが、ツアーが催行中止になってしまったのでまた願いは叶いませんでした。「新羅歴史館」は名前の通り慶州地域の発掘調査によって出土した多くの文化財を保存展示しています。約10万点の文化財を所蔵し、そのうちの約2500点を公開しています。「新羅歴史館」は全部で3つの部屋から成り立っています。正面入口を抜けて左手にあるのが「先史・原三国室」です。ここでは新石器時代、青銅器時代、初期鉄器時代、原三国時代の遺物を展示しています。先史・原三国室を抜けて入口正面にあるのは「古墳室」です。慶州市内に数多く存在する古墳から出土したものが展示されています。入口右手は「菊隠記念室」で、菊隠とは故イ・ヤンソン博士のことで、この展示室には博士が寄贈した666点のコレクションが展示されています。じっくり見学した後は再びバスに乗って釜山へと戻りました。

旅行の満足度
4.5
観光
5.0
ホテル
4.0
グルメ
4.0
ショッピング
4.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
20万円 - 25万円
交通手段
鉄道 高速・路線バス 観光バス タクシー 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)
  • ツアー最後の観光は「国立慶州博物館」です。ガイドさんの後について約1時間の見学になります。ガイドさんの説明を聞いてもいいですが、基本的にはフリータイムになります。

    ツアー最後の観光は「国立慶州博物館」です。ガイドさんの後について約1時間の見学になります。ガイドさんの説明を聞いてもいいですが、基本的にはフリータイムになります。

    国立慶州博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 博物館の庭園には「梵鐘」「石塔」「石仏」「石灯篭」「碑石を支える台石」「基壇の石造品」など約1,300点が展示されているそうです。そのほとんどが慶州やその周辺地域に残る寺院跡や宮廷跡、城跡から移されて来たものです。

    博物館の庭園には「梵鐘」「石塔」「石仏」「石灯篭」「碑石を支える台石」「基壇の石造品」など約1,300点が展示されているそうです。そのほとんどが慶州やその周辺地域に残る寺院跡や宮廷跡、城跡から移されて来たものです。

  • 右手正面にまず見えるのが「聖徳大王神鐘」です。この鐘は新羅第35代の景徳(キョンドッ)王が亡くなった父の聖徳(ソンドッ)王の冥福を祈るために造り始めました。景徳王の在位中には完成に至らずにその息子である恵恭(ヘゴン)王に引き継がれました。

    右手正面にまず見えるのが「聖徳大王神鐘」です。この鐘は新羅第35代の景徳(キョンドッ)王が亡くなった父の聖徳(ソンドッ)王の冥福を祈るために造り始めました。景徳王の在位中には完成に至らずにその息子である恵恭(ヘゴン)王に引き継がれました。

  • またこの鐘には悲しい伝説が残されていることでも有名です。鋳造する際に溶けた銅の中へ1人の娘を捧げたいわれ、このときに娘が「お母さん!(エレミ!)」と泣き叫んだことから、この鐘はエミレの鐘とも呼ばれています。完成後も鐘を打つとエミレと響いたということです。聖徳大王神鐘は国宝第29号に指定されています。

    またこの鐘には悲しい伝説が残されていることでも有名です。鋳造する際に溶けた銅の中へ1人の娘を捧げたいわれ、このときに娘が「お母さん!(エレミ!)」と泣き叫んだことから、この鐘はエミレの鐘とも呼ばれています。完成後も鐘を打つとエミレと響いたということです。聖徳大王神鐘は国宝第29号に指定されています。

  • て771年に完成された鐘の上部には龍頭と音筒と鐘身には唐草紋様をめぐらした帯、その下には4つの乳廓と4体の飛天像、2個の撞座、そして最下部に宝相華と蓮華紋様が陽刻されています。全体的に優雅さが漂う造りとなって、豪華な彫刻と余韻嫋嫋たる鐘の響きなど韓国の鐘の中では最高の傑作といわれます。鐘は釣られてはおらず下に置かれた台座の上に乗せられています。鐘の音が聞こえていたのはスピーカーから流れる音だったと分かりました。

    て771年に完成された鐘の上部には龍頭と音筒と鐘身には唐草紋様をめぐらした帯、その下には4つの乳廓と4体の飛天像、2個の撞座、そして最下部に宝相華と蓮華紋様が陽刻されています。全体的に優雅さが漂う造りとなって、豪華な彫刻と余韻嫋嫋たる鐘の響きなど韓国の鐘の中では最高の傑作といわれます。鐘は釣られてはおらず下に置かれた台座の上に乗せられています。鐘の音が聞こえていたのはスピーカーから流れる音だったと分かりました。

  • 「新羅歴史館」は紀元前57年から紀元後935年まで朝鮮半島南東部にあった国家である新羅の文化に触れることができる展示館です。時間的にもこの「新羅歴史館」だけの見学になります。

    「新羅歴史館」は紀元前57年から紀元後935年まで朝鮮半島南東部にあった国家である新羅の文化に触れることができる展示館です。時間的にもこの「新羅歴史館」だけの見学になります。

  • 新羅千年を紹介している「第1展示室」、新羅の黄金文化にスポットを当てている「第2展示室」、三国統一と大いに隆盛した統一新羅の文化を紹介している「第3展示室」からなります。また文化遺産の美しい共有を自ら実践した菊隠博士の寄贈した文化財を展示している「菊隠記念室」もあります。

    新羅千年を紹介している「第1展示室」、新羅の黄金文化にスポットを当てている「第2展示室」、三国統一と大いに隆盛した統一新羅の文化を紹介している「第3展示室」からなります。また文化遺産の美しい共有を自ら実践した菊隠博士の寄贈した文化財を展示している「菊隠記念室」もあります。

  • 「第1展示室」は旧石器時代から5世紀末に新羅が古代国家としての体制を築くまでの期間の遺物が展示されています。先史時代に石斧を使用していた慶州一帯の人々がどのように集団を成し、どのように社会と政治的成長を遂げ、どのように国家を確立したのかを知ることが出来ます。<br />

    「第1展示室」は旧石器時代から5世紀末に新羅が古代国家としての体制を築くまでの期間の遺物が展示されています。先史時代に石斧を使用していた慶州一帯の人々がどのように集団を成し、どのように社会と政治的成長を遂げ、どのように国家を確立したのかを知ることが出来ます。

  • また建国以後の千年王国の礎を築く過程も確認できます。主な展示品は韓国最古の舟と櫓が出土した蔚珍竹辺面の出土品(紀元前約6,000年)、慶州舍羅里130号墳と九魚里1号墳一括品、慶州皇城洞のフクロウの形をした土器、慶州校洞金冠、味鄒王陵地区の土偶装飾の壷(国宝)などがあります。<br />

    また建国以後の千年王国の礎を築く過程も確認できます。主な展示品は韓国最古の舟と櫓が出土した蔚珍竹辺面の出土品(紀元前約6,000年)、慶州舍羅里130号墳と九魚里1号墳一括品、慶州皇城洞のフクロウの形をした土器、慶州校洞金冠、味鄒王陵地区の土偶装飾の壷(国宝)などがあります。

  • 展示は新石器時代から始まっているようで、漁具のコーナーでは銛の鏃や網の重りに使った石などが並んでいます。

    展示は新石器時代から始まっているようで、漁具のコーナーでは銛の鏃や網の重りに使った石などが並んでいます。

  • 河川や沿岸部での漁を行う中でいろいろな道具を造り出していったのだということが分かります。漁や狩り以外にも植物の採収も行われ、その後はキビなどの栽培もおこなわれていきます。

    河川や沿岸部での漁を行う中でいろいろな道具を造り出していったのだということが分かります。漁や狩り以外にも植物の採収も行われ、その後はキビなどの栽培もおこなわれていきます。

  • 新石器時代には様々な埋葬方法も考案されています。平らな堅穴墓には多くの死者が埋葬されましたが、洞窟墓では個々の骨片を拾い出して土器と共に埋葬した例もあります。虎浦里遺跡では周囲4メートルの堅穴に40人以上の遺体と共に180本の石斧が埋葬されていました。

    新石器時代には様々な埋葬方法も考案されています。平らな堅穴墓には多くの死者が埋葬されましたが、洞窟墓では個々の骨片を拾い出して土器と共に埋葬した例もあります。虎浦里遺跡では周囲4メートルの堅穴に40人以上の遺体と共に180本の石斧が埋葬されていました。

  • 新石器時代には時代や地域によって様々な装飾を施した土器が造られました。紀元前5000年頃には朝鮮中西部で櫛目文土器が出現し、急速に朝鮮半島全体に広まりました。

    新石器時代には時代や地域によって様々な装飾を施した土器が造られました。紀元前5000年頃には朝鮮中西部で櫛目文土器が出現し、急速に朝鮮半島全体に広まりました。

  • 当初は器全体に櫛目文の装飾が施されましたが、時代と共に装飾は器の上部に限られるように変化します。新石器時代の終わりから青銅器時代の初めには器の装飾は完全に無くなりました。

    当初は器全体に櫛目文の装飾が施されましたが、時代と共に装飾は器の上部に限られるように変化します。新石器時代の終わりから青銅器時代の初めには器の装飾は完全に無くなりました。

  • 「櫛文土器」新石器時代

    「櫛文土器」新石器時代

  • 数日前に青森の「三内丸山遺跡」で縄文時代の土器を見てきたばかりなので、朝鮮半島の土器との違いを興味深く見ることが出来ました。

    数日前に青森の「三内丸山遺跡」で縄文時代の土器を見てきたばかりなので、朝鮮半島の土器との違いを興味深く見ることが出来ました。

  • 「磨製石剣」<br />磨かれた石の剣で青銅器時代のものです。硬度の低い石だとしてもこの形状に加工する技術の高さに驚きます。

    「磨製石剣」
    磨かれた石の剣で青銅器時代のものです。硬度の低い石だとしてもこの形状に加工する技術の高さに驚きます。

  • 朝鮮半島の青銅器時代は紀元前15世紀頃に始まりました。青銅器は権威の象徴であって、一部の人だけが持つことが出来るものでした。稲作が発達し、ムラが形成されて社会の階層化が起こりました。慶州で新羅を建国した人々の祖先はこの時代から慶州一帯で生活しながら農耕を行い、大きなムラを形成していた人々と考えられます。

    朝鮮半島の青銅器時代は紀元前15世紀頃に始まりました。青銅器は権威の象徴であって、一部の人だけが持つことが出来るものでした。稲作が発達し、ムラが形成されて社会の階層化が起こりました。慶州で新羅を建国した人々の祖先はこの時代から慶州一帯で生活しながら農耕を行い、大きなムラを形成していた人々と考えられます。

  • 「遼寧式銅剣」<br />このような銅剣は朝鮮半島では紀元前8世紀頃から現れました。琵琶形銅剣とも呼ばれ、下部が広く、中央部の左右には突起があり、背筋のような有茎が通っています。中国の満州から朝鮮半島、遼寧地方にかけて出土している銅剣です。

    「遼寧式銅剣」
    このような銅剣は朝鮮半島では紀元前8世紀頃から現れました。琵琶形銅剣とも呼ばれ、下部が広く、中央部の左右には突起があり、背筋のような有茎が通っています。中国の満州から朝鮮半島、遼寧地方にかけて出土している銅剣です。

  • 「韓国式銅剣」<br />朝鮮半島や日本列島や沿海州にかけて出土している有茎式銅剣です。紀元前15世紀から紀元前後にかけて初期の鉄器時代を代表する遺物の1つです。朝鮮半島では単独の出土数が300本以上が発見され、日本では九州北部に多くみられ194本が発見されています。吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓西側では朝鮮半島で主に使われていた石材に類似した蛇紋岩製と角閃石岩製の細形銅剣の鋳型が発見されました。

    「韓国式銅剣」
    朝鮮半島や日本列島や沿海州にかけて出土している有茎式銅剣です。紀元前15世紀から紀元前後にかけて初期の鉄器時代を代表する遺物の1つです。朝鮮半島では単独の出土数が300本以上が発見され、日本では九州北部に多くみられ194本が発見されています。吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓西側では朝鮮半島で主に使われていた石材に類似した蛇紋岩製と角閃石岩製の細形銅剣の鋳型が発見されました。

  • 同じダイヤモンド・プリンセスからのエクスカーションの欧米人ツアーと地元の高校生の社会科見学の生徒で展示室は混雑しています。

    同じダイヤモンド・プリンセスからのエクスカーションの欧米人ツアーと地元の高校生の社会科見学の生徒で展示室は混雑しています。

  • 3世紀の中ごろの沙慮国や洛東江一帯の墓から鳥の形をした陶器製の容器が発見されています。容器の胴体は空洞で、背と尾の部分から液体を注ぐための穴が開いています。これらの容器は葬送儀礼に使われた後に埋葬地に置かれました。死者は死後の世界でこの鳥の背に乗って天国に行きたいと願ったと考えられます。

    3世紀の中ごろの沙慮国や洛東江一帯の墓から鳥の形をした陶器製の容器が発見されています。容器の胴体は空洞で、背と尾の部分から液体を注ぐための穴が開いています。これらの容器は葬送儀礼に使われた後に埋葬地に置かれました。死者は死後の世界でこの鳥の背に乗って天国に行きたいと願ったと考えられます。

  • 「近隣諸国を巻き込む戦争」<br />三国記には伊斯岐国時代に斯盧国が断続的にこの地域の小国家を攻撃し、併合したと記録されています。軍事行動を通じて小国家は大国家へと形成されていきます。戦争で勝つためには丈夫な鉄で造られた剣や槍や鎧が必要でした。

    「近隣諸国を巻き込む戦争」
    三国記には伊斯岐国時代に斯盧国が断続的にこの地域の小国家を攻撃し、併合したと記録されています。軍事行動を通じて小国家は大国家へと形成されていきます。戦争で勝つためには丈夫な鉄で造られた剣や槍や鎧が必要でした。

  • 「板甲」<br />浦項馬山の裏項山里で発掘された4世紀から5世紀の甲冑です。日本の板甲は古墳の副葬品として出土し、埴輪や石人にも着装した姿が見られます。九州から関東にかけて広い地域の古墳より遺物が出土して、東北地方出土の埴輪にも見られることから日本全土に普及していたと考えられています。

    「板甲」
    浦項馬山の裏項山里で発掘された4世紀から5世紀の甲冑です。日本の板甲は古墳の副葬品として出土し、埴輪や石人にも着装した姿が見られます。九州から関東にかけて広い地域の古墳より遺物が出土して、東北地方出土の埴輪にも見られることから日本全土に普及していたと考えられています。

  • 朝鮮半島においても南部の伽耶地域でのみ出土していますが、他の地域では発見されていないようです。西洋の胸甲が大きな金属板を打ち出して作ったものであるのに対し、板甲は枠に板を革紐で綴じたり鋲で留めて造られています。

    朝鮮半島においても南部の伽耶地域でのみ出土していますが、他の地域では発見されていないようです。西洋の胸甲が大きな金属板を打ち出して作ったものであるのに対し、板甲は枠に板を革紐で綴じたり鋲で留めて造られています。

  • 「ネックレス」慶州月城路/新羅4世紀から5世紀<br />三国時代の新羅では特にガラス玉が多出します。大部分は濃紺色の単色(他に青、黄、緑)の8ミリから10ミリほどのガラス玉で、金冠塚からは数万個出たこともあります。この中に混じってガラスの原色に加えて、黄や緑で同心円文などを着色や象嵌したガラス玉が発見されています。いわゆるトンボ玉といわれるもので、紐を通す穴があいており、韓国では象嵌瑠璃玉(サンカムユリオク)と呼称されています。

    「ネックレス」慶州月城路/新羅4世紀から5世紀
    三国時代の新羅では特にガラス玉が多出します。大部分は濃紺色の単色(他に青、黄、緑)の8ミリから10ミリほどのガラス玉で、金冠塚からは数万個出たこともあります。この中に混じってガラスの原色に加えて、黄や緑で同心円文などを着色や象嵌したガラス玉が発見されています。いわゆるトンボ玉といわれるもので、紐を通す穴があいており、韓国では象嵌瑠璃玉(サンカムユリオク)と呼称されています。

  • 「ネックレス」慶州味鄒王陵C地区4号墓 / 新羅5世紀<br />味鄒王陵の墓の主人の胸部から出土しました。1つの紐で結ばれていますが材質、形態、大きさ、色で相当な違いが見られます。瑪瑙製の勾玉、多面玉、丸玉、碧玉製の管玉、水晶製の棗玉、琉璃製の丸玉が1つに繋がれています。色も赤色、青色、緑色など多様です。特に琉璃製丸玉の中には直径が1.8センチに達する大型玉も含まれていますが、その表面に青・黄・赤・白の色琉璃で人の顔と鴨、花紋などが精巧に作られています。

    「ネックレス」慶州味鄒王陵C地区4号墓 / 新羅5世紀
    味鄒王陵の墓の主人の胸部から出土しました。1つの紐で結ばれていますが材質、形態、大きさ、色で相当な違いが見られます。瑪瑙製の勾玉、多面玉、丸玉、碧玉製の管玉、水晶製の棗玉、琉璃製の丸玉が1つに繋がれています。色も赤色、青色、緑色など多様です。特に琉璃製丸玉の中には直径が1.8センチに達する大型玉も含まれていますが、その表面に青・黄・赤・白の色琉璃で人の顔と鴨、花紋などが精巧に作られています。

  • 中国の歴史書によると三韓人は金や銀ではなく玉を宝物として服に飾ったり首や耳に書けたという記録があります。初期の沙慮国では主に青緑色のガラス装飾品が使用されましたが、後に推奨や瑪瑙やガラスで作られた装飾品が使われました。翡翠は形状によって丸形、勾玉形、多角形に分類されます。

    中国の歴史書によると三韓人は金や銀ではなく玉を宝物として服に飾ったり首や耳に書けたという記録があります。初期の沙慮国では主に青緑色のガラス装飾品が使用されましたが、後に推奨や瑪瑙やガラスで作られた装飾品が使われました。翡翠は形状によって丸形、勾玉形、多角形に分類されます。

  • 朝鮮半島では5世紀から6世紀にかけての新羅・百済・任那の勢力圏内で大量の翡翠製の勾玉が出土しており、新羅の宝冠や耳飾などにヒスイ製勾玉が多く使用されています。

    朝鮮半島では5世紀から6世紀にかけての新羅・百済・任那の勢力圏内で大量の翡翠製の勾玉が出土しており、新羅の宝冠や耳飾などにヒスイ製勾玉が多く使用されています。

  • 勾玉に使われる宝石レベルの翡翠(硬玉)の産地はアジアでは日本とミャンマーにほぼ限られ、朝鮮半島での出土例は日本より時期的にさかのぼるものが見られない事に加え、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じ組成であることが判明し、日本から朝鮮半島へ伝播した事が明らかとなっています。

    勾玉に使われる宝石レベルの翡翠(硬玉)の産地はアジアでは日本とミャンマーにほぼ限られ、朝鮮半島での出土例は日本より時期的にさかのぼるものが見られない事に加え、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じ組成であることが判明し、日本から朝鮮半島へ伝播した事が明らかとなっています。

  • 新羅の墓からは馬・アヒル・船・車輪・角・家の形をした土器が発掘されました。また、人や動物の像が付いた土器も発見されています。

    新羅の墓からは馬・アヒル・船・車輪・角・家の形をした土器が発掘されました。また、人や動物の像が付いた土器も発見されています。

  • 「土偶装飾長頸壺」慶州味鄒王陵C地区30号墓 / 新羅5世紀<br />長頚壷に多様な形状の土偶を貼着して最大の装飾効果を出した新羅の最も代表的な土偶装飾土器です。

    「土偶装飾長頸壺」慶州味鄒王陵C地区30号墓 / 新羅5世紀
    長頚壷に多様な形状の土偶を貼着して最大の装飾効果を出した新羅の最も代表的な土偶装飾土器です。

  • 壷の首と肩の部分には蛙の後足を噛んでいる蛇と鴨形土偶を3ヶ所に一定の間隔で配置し、その合間合間に性器が強調された男性、新羅琴を弾いている人、性行為の姿勢の男女像、魚・鳥・亀などの土偶を飾っています。このような装飾土偶は多産と豊饒を祈る造形物として、新羅人の生活像だけでなく自然と調和した当時の人々の精神世界を示しています。

    壷の首と肩の部分には蛙の後足を噛んでいる蛇と鴨形土偶を3ヶ所に一定の間隔で配置し、その合間合間に性器が強調された男性、新羅琴を弾いている人、性行為の姿勢の男女像、魚・鳥・亀などの土偶を飾っています。このような装飾土偶は多産と豊饒を祈る造形物として、新羅人の生活像だけでなく自然と調和した当時の人々の精神世界を示しています。

  • 「人物土偶」新羅/5世紀<br />新羅の5世紀は日本では倭の五王の時代に相当します。4世紀末から6世紀の古墳時代に大和王権に仕える技術者や亡命者として朝鮮半島から人々が渡来しました。4世紀後半から5世紀にかけて、大和王権は百済と連携しつつ朝鮮半島南部に出兵している背景なども思い出します。

    「人物土偶」新羅/5世紀
    新羅の5世紀は日本では倭の五王の時代に相当します。4世紀末から6世紀の古墳時代に大和王権に仕える技術者や亡命者として朝鮮半島から人々が渡来しました。4世紀後半から5世紀にかけて、大和王権は百済と連携しつつ朝鮮半島南部に出兵している背景なども思い出します。

  • やはり黄金の装飾品は人気があるようで、どこもたくさんの人が展示ケースを囲っています。それは老いも若きも同じようです。金は多くの時代と地域で貴金属として価値を認められ、化合物ではなく単体で産出されるため精錬の必要がなく、装飾品として人類に利用された最古の金属で、美術工芸品にも多く用いられ続けています。

    やはり黄金の装飾品は人気があるようで、どこもたくさんの人が展示ケースを囲っています。それは老いも若きも同じようです。金は多くの時代と地域で貴金属として価値を認められ、化合物ではなく単体で産出されるため精錬の必要がなく、装飾品として人類に利用された最古の金属で、美術工芸品にも多く用いられ続けています。

  • 「金製帯冠」は最初に発見されたもので、このために墓の名前も「金冠塚」と付けられました。長い台輪に出字形立飾り3本と鹿角形立飾り2本の立飾りを組み合わせた典型的な新羅の「金製帯冠」です。直角に曲がった出字形立飾りは節が3つで、幹と枝の間が広いです。台輪と立飾りはリベットで結合し、台輪の両端は他の材質を付けて縛ったようで、台輪の下には一組の長い垂飾がついています。

    「金製帯冠」は最初に発見されたもので、このために墓の名前も「金冠塚」と付けられました。長い台輪に出字形立飾り3本と鹿角形立飾り2本の立飾りを組み合わせた典型的な新羅の「金製帯冠」です。直角に曲がった出字形立飾りは節が3つで、幹と枝の間が広いです。台輪と立飾りはリベットで結合し、台輪の両端は他の材質を付けて縛ったようで、台輪の下には一組の長い垂飾がついています。

  • 「金冠塚」については日本語の説明文もありました。

    「金冠塚」については日本語の説明文もありました。

  • 新羅は新たに編入された領土を直接統治ではなく、以前の支配者階級の子孫による間接統治としました。その間接統治の一環として、新羅は慶州のから出土したものと似ているが質の劣る冠や帯や耳飾りを与えました。

    新羅は新たに編入された領土を直接統治ではなく、以前の支配者階級の子孫による間接統治としました。その間接統治の一環として、新羅は慶州のから出土したものと似ているが質の劣る冠や帯や耳飾りを与えました。

  • 「角杯」新羅<br />牛や羊の角で作られた「角杯」と呼ばれる容器は西アジアや中央アジアの草原地帯の遊牧民が使用していました。韓国では三国時代に「角杯」が登場し始め、慶州や新羅の永きゅかにあった地域で発見されています。<br />

    「角杯」新羅
    牛や羊の角で作られた「角杯」と呼ばれる容器は西アジアや中央アジアの草原地帯の遊牧民が使用していました。韓国では三国時代に「角杯」が登場し始め、慶州や新羅の永きゅかにあった地域で発見されています。

  • 「装飾宝剣」慶州鶏林路14号墓 / 新羅5世紀<br />本来は取っ手がついた柄や鞘に木部がありましたが腐って失われています。鞘と柄には薄い金版を全面に着せて、再び小さい金版をたてて付け、波・木の葉・円・楕円・太極紋などを作って組み合わせています。この紋には赤い瑪瑙製と材質不明の宝石がちりばめられています。全体的に幾何学的な紋の美しさと共に宝石の赤色と灰色および金版の金色が交わって、派手ながらも高級な感じを与えます。

    「装飾宝剣」慶州鶏林路14号墓 / 新羅5世紀
    本来は取っ手がついた柄や鞘に木部がありましたが腐って失われています。鞘と柄には薄い金版を全面に着せて、再び小さい金版をたてて付け、波・木の葉・円・楕円・太極紋などを作って組み合わせています。この紋には赤い瑪瑙製と材質不明の宝石がちりばめられています。全体的に幾何学的な紋の美しさと共に宝石の赤色と灰色および金版の金色が交わって、派手ながらも高級な感じを与えます。

  • 「琉璃杯」慶州天馬塚 / 新羅6世紀 <br />淡い青色を帯びている琉璃杯で所々に異物があり、底は真ん中が若干盛り上がっています。胴の上部分には細かい線紋と下部には亀甲文が刻まれています。このような状態から見て、この器は線紋と亀甲文が刻まれた枠に琉璃液を竹筒で吹き込んで製作したことが分かります。

    「琉璃杯」慶州天馬塚 / 新羅6世紀
    淡い青色を帯びている琉璃杯で所々に異物があり、底は真ん中が若干盛り上がっています。胴の上部分には細かい線紋と下部には亀甲文が刻まれています。このような状態から見て、この器は線紋と亀甲文が刻まれた枠に琉璃液を竹筒で吹き込んで製作したことが分かります。

  • 「第2展示室」<br />新羅は4世紀半ばに「麻立干(マリプカン)」という支配者を中心に国家が形成され始めました。

    「第2展示室」
    新羅は4世紀半ばに「麻立干(マリプカン)」という支配者を中心に国家が形成され始めました。

  • 麻立干一族は金・銀・金銅の豪華な細工が施された装身具を身につけ、金や銀食器も使用しました。第2展示室では新羅が黄金の国であったこと、そして支配者にとって黄金=権力の象徴であったことが理解できます。。<br />

    麻立干一族は金・銀・金銅の豪華な細工が施された装身具を身につけ、金や銀食器も使用しました。第2展示室では新羅が黄金の国であったこと、そして支配者にとって黄金=権力の象徴であったことが理解できます。。

  • 主な展示品は「天馬塚」から出土した金冠(国宝)と金製銙帯と腰佩(国宝)、鳥翼形冠飾(宝物)、胸飾り(宝物)、皇南大塚から出土した金製高杯(宝物)と金製銙帯(宝物)などです。

    主な展示品は「天馬塚」から出土した金冠(国宝)と金製銙帯と腰佩(国宝)、鳥翼形冠飾(宝物)、胸飾り(宝物)、皇南大塚から出土した金製高杯(宝物)と金製銙帯(宝物)などです。

  • 「高杯」慶州皇南大塚北墳 / 新羅5世紀<br />貴金属製高杯は土で焼いた陶器と非常に類似しています。これらは蓋が別にない形態で、全て貴金属板を叩いて作られました。口は鋭くなく外へ少し畳んで枠を作り、枠の下に7個の瓔珞を付けました。脚は下から上まで互いに交錯するように4つずつ四角形の穴をあけ、上下穴の間に金板を折って2列の突帯を表現しました。脚の下部には別にU字形に畳んだ枠を挿し込んでいます。皿と脚は脚の上部を尖らせて皿に穴をあけてから、互いに挿し込んで組み立てたようです。

    「高杯」慶州皇南大塚北墳 / 新羅5世紀
    貴金属製高杯は土で焼いた陶器と非常に類似しています。これらは蓋が別にない形態で、全て貴金属板を叩いて作られました。口は鋭くなく外へ少し畳んで枠を作り、枠の下に7個の瓔珞を付けました。脚は下から上まで互いに交錯するように4つずつ四角形の穴をあけ、上下穴の間に金板を折って2列の突帯を表現しました。脚の下部には別にU字形に畳んだ枠を挿し込んでいます。皿と脚は脚の上部を尖らせて皿に穴をあけてから、互いに挿し込んで組み立てたようです。

  • 「皇南大塚」の南墳は父王訥祇麻立干(訥祇王:417年~458年)、北墳は息子の慈悲麻立干(慈悲王:458年~479年)をそれぞれ埋葬したものと考えられます。

    「皇南大塚」の南墳は父王訥祇麻立干(訥祇王:417年~458年)、北墳は息子の慈悲麻立干(慈悲王:458年~479年)をそれぞれ埋葬したものと考えられます。

  • 北墳からは金冠、首飾り、腕輪などの装身具数千点が、南墳からは武器類を中心に2万5千余点の遺物が出土したといわれます。

    北墳からは金冠、首飾り、腕輪などの装身具数千点が、南墳からは武器類を中心に2万5千余点の遺物が出土したといわれます。

  • そのうち北墳より出土の金冠や金製の銙帯、南墳より出土のガラス製の水差しや首飾りは韓国の国宝に指定されています。

    そのうち北墳より出土の金冠や金製の銙帯、南墳より出土のガラス製の水差しや首飾りは韓国の国宝に指定されています。

  • 「金冠塚金冠」は4面がガラス張りになったケースに入っていることから、2人一緒だと1人がケースの向こう側に立って、反対側から王冠を被った写真が撮れるようです。

    「金冠塚金冠」は4面がガラス張りになったケースに入っていることから、2人一緒だと1人がケースの向こう側に立って、反対側から王冠を被った写真が撮れるようです。

  • 「金冠」慶州天馬塚 / 新羅6世紀 / <br />新羅の典型的な「金製帯冠」で、金冠塚の出土品と類似していますが、出字形立飾りの節が4つであり、幹と枝の間が狭くて過密な点が異なります。この「金製帯冠」は材料を非常に効率的に利用して出字形立飾りを作り、どんなものよりも瓔珞と勾玉がたくさんついています。

    「金冠」慶州天馬塚 / 新羅6世紀 /
    新羅の典型的な「金製帯冠」で、金冠塚の出土品と類似していますが、出字形立飾りの節が4つであり、幹と枝の間が狭くて過密な点が異なります。この「金製帯冠」は材料を非常に効率的に利用して出字形立飾りを作り、どんなものよりも瓔珞と勾玉がたくさんついています。

  • 「帯」慶州天馬塚 / 新羅6世紀 <br />銙板と腰佩で構成された典型的な新羅の帯飾で、銙板は三葉紋を透かし彫りにし、バックルと連結した最初の装飾板にだけ瓔珞を付けました。腰佩には長い六面体をはめたキャップ、勾玉、円筒形キャップ、琉璃玉、毛抜き、竜模様を刻んだ小さな刃物、香や薬を入れた袋や魚などがついています。

    「帯」慶州天馬塚 / 新羅6世紀
    銙板と腰佩で構成された典型的な新羅の帯飾で、銙板は三葉紋を透かし彫りにし、バックルと連結した最初の装飾板にだけ瓔珞を付けました。腰佩には長い六面体をはめたキャップ、勾玉、円筒形キャップ、琉璃玉、毛抜き、竜模様を刻んだ小さな刃物、香や薬を入れた袋や魚などがついています。

  • 「垂飾」慶州味鄒王陵C地区4号墓 / 新羅5世紀<br />瓔珞で飾った金玉を付けて作った垂飾ですが、墓に埋められた後に玉の特性上分解されて本来の形を完全に復元するのが難しいようです。貴金属製の玉は主に首飾りによく使われますが垂飾にも使われました。垂飾の一番下には勾玉を付けました。

    「垂飾」慶州味鄒王陵C地区4号墓 / 新羅5世紀
    瓔珞で飾った金玉を付けて作った垂飾ですが、墓に埋められた後に玉の特性上分解されて本来の形を完全に復元するのが難しいようです。貴金属製の玉は主に首飾りによく使われますが垂飾にも使われました。垂飾の一番下には勾玉を付けました。

  • 今までは一般的な垂飾と違って環がないものだと知られてきました。しかし発掘状況から見て、一緒に出土した太環耳飾と合わさって1つの垂飾を成した可能性が高いと思われます。

    今までは一般的な垂飾と違って環がないものだと知られてきました。しかし発掘状況から見て、一緒に出土した太環耳飾と合わさって1つの垂飾を成した可能性が高いと思われます。

  • 完成されたデザインを見ていると、ここが博物館なのか宝飾品店なのか分からなくなります。

    完成されたデザインを見ていると、ここが博物館なのか宝飾品店なのか分からなくなります。

  • 「胸飾り」慶州天馬塚 / 新羅6世紀 <br />墓の主人の胸部から出土しました。胸側はU字型にぶら下げて、両端の一部は背中の後ろに垂らしました。青色の丸玉と中が空いた金製玉をつなげて6列に構成し、四角の柱の金装飾を中間に入れて胸側は5列、背中側は3列になるようにデザインされています。胸側と背中側の先には碧玉製勾玉を1点ずつぶら下げて装飾性を高めました。このような胸飾りは新羅の支配階層の象徴的な副葬品としてよく愛用されました。

    「胸飾り」慶州天馬塚 / 新羅6世紀
    墓の主人の胸部から出土しました。胸側はU字型にぶら下げて、両端の一部は背中の後ろに垂らしました。青色の丸玉と中が空いた金製玉をつなげて6列に構成し、四角の柱の金装飾を中間に入れて胸側は5列、背中側は3列になるようにデザインされています。胸側と背中側の先には碧玉製勾玉を1点ずつぶら下げて装飾性を高めました。このような胸飾りは新羅の支配階層の象徴的な副葬品としてよく愛用されました。

  • 「金銅製鞍橋装飾」

    「金銅製鞍橋装飾」

  • 「冠装飾」慶州天馬塚 / 新羅6世紀<br />鳥の翼と蝶の模様を合わせたような独特の形態の冠装飾で、1枚の金版を利用して左右対称になるように作りました。瓔珞は針仕事をするように金糸でいくつかをつなげてぶら下げました。

    「冠装飾」慶州天馬塚 / 新羅6世紀
    鳥の翼と蝶の模様を合わせたような独特の形態の冠装飾で、1枚の金版を利用して左右対称になるように作りました。瓔珞は針仕事をするように金糸でいくつかをつなげてぶら下げました。

  • 「冠装飾」慶州天馬塚 / 新羅6世紀 <br />「金冠塚」の出土品と非常に似た鳥の翼の形をした冠装飾です。前板と両側の翼には変形した竜模様が刻まれていますが、「金冠塚」のものよりはるかに抽象化され、唐草文に似ていて全て非対称です。瓔珞は前面にだけ付いており、頭巾に挟む部位には金釘が打ち込まれています。

    「冠装飾」慶州天馬塚 / 新羅6世紀
    「金冠塚」の出土品と非常に似た鳥の翼の形をした冠装飾です。前板と両側の翼には変形した竜模様が刻まれていますが、「金冠塚」のものよりはるかに抽象化され、唐草文に似ていて全て非対称です。瓔珞は前面にだけ付いており、頭巾に挟む部位には金釘が打ち込まれています。

  • 「金冠帽」慶州天馬塚 / 新羅6世紀 <br />この金冠は本来有機質で芯を作ってその表面を金版で覆い重ねた「頭巾形態の冠帽」です。現在は表面を飾った金版だけ残っている状態です。頭巾はいくつかの薄い金版を組み合わせて整えましたが、正面部位にだけ金版を当て重ねていません。これは冠装飾を挟む五角形の板によって頭巾の正面部位が遮られているためです。覆い重ねた金版は多様な文様を透かし彫りで刻み、芯の有機質の頭巾が見えるようにしました。純金で頭巾全体を整えた「頭巾形態の冠帽」は、これと慶州金冠塚の出土品が代表的なものです。

    「金冠帽」慶州天馬塚 / 新羅6世紀
    この金冠は本来有機質で芯を作ってその表面を金版で覆い重ねた「頭巾形態の冠帽」です。現在は表面を飾った金版だけ残っている状態です。頭巾はいくつかの薄い金版を組み合わせて整えましたが、正面部位にだけ金版を当て重ねていません。これは冠装飾を挟む五角形の板によって頭巾の正面部位が遮られているためです。覆い重ねた金版は多様な文様を透かし彫りで刻み、芯の有機質の頭巾が見えるようにしました。純金で頭巾全体を整えた「頭巾形態の冠帽」は、これと慶州金冠塚の出土品が代表的なものです。

  • 智証麻立干は503年に正式な国号を「新羅」と定め、最高統治者の称号を「王」とし、国王を中心に四方の領土を統治するという確固たる意志を表明しました。以来、新羅の領域は法興王・真興王時代を経て拡大されていきました。<br />

    智証麻立干は503年に正式な国号を「新羅」と定め、最高統治者の称号を「王」とし、国王を中心に四方の領土を統治するという確固たる意志を表明しました。以来、新羅の領域は法興王・真興王時代を経て拡大されていきました。

  • 「第3展示室」では新羅の領土拡大と中央集権化の過程が展示されています。主な展示品は仏教関連である興輪寺と霊廟寺(霊妙寺)からの出土品、真興王時代の領土拡大が窺い知れる真興王巡狩碑(拓本)、戦に備えて築造された城の築城碑である南山新城碑と明活山城作城碑、三国統一に大きく貢献した「壬申誓記石(宝物)」などがあります。

    「第3展示室」では新羅の領土拡大と中央集権化の過程が展示されています。主な展示品は仏教関連である興輪寺と霊廟寺(霊妙寺)からの出土品、真興王時代の領土拡大が窺い知れる真興王巡狩碑(拓本)、戦に備えて築造された城の築城碑である南山新城碑と明活山城作城碑、三国統一に大きく貢献した「壬申誓記石(宝物)」などがあります。

  • 「十二支像-亥」伝慶州金庾信墓 / 統一新羅8世紀<br />「金庾信墓」と伝えられている墓の周りから出土した十二支像です。現在「金庾信墓」には平服姿の十二支像が彫られた石が墓の護石に囲まれていますが、このように十二支像一体を墓の周囲に別に埋めて二重に配置したのは珍しい例のようです。<br />十二支像の中で猪を描写したもので、この他に馬と兎像がさらに発見されました。猪の頭形状に鎧をかけて武器を持ったまま岩形の岩座の上に立っている武将形の像で、長方形の前面に繊細に彫刻した量感が際立っています。頭は右に向いて、口を若干開けてて尖った牙が見えます。

    「十二支像-亥」伝慶州金庾信墓 / 統一新羅8世紀
    「金庾信墓」と伝えられている墓の周りから出土した十二支像です。現在「金庾信墓」には平服姿の十二支像が彫られた石が墓の護石に囲まれていますが、このように十二支像一体を墓の周囲に別に埋めて二重に配置したのは珍しい例のようです。
    十二支像の中で猪を描写したもので、この他に馬と兎像がさらに発見されました。猪の頭形状に鎧をかけて武器を持ったまま岩形の岩座の上に立っている武将形の像で、長方形の前面に繊細に彫刻した量感が際立っています。頭は右に向いて、口を若干開けてて尖った牙が見えます。

  • 「壬申誓記石」慶州錫杖洞/6世紀から7世紀<br />新羅国内で漢字を使用するのは高句麗や百済よりかなり遅れ、6世紀とみられます。真興王代に新羅の辺境に建てられた4個の巡狩碑(真興王拓境碑)には、漢字を音借した人名や地名がみられ、1934年に慶州の北郊で発見された「壬申誓記石」と呼ばれる独特の朝鮮漢文から儒教教育の実情と独自の文体を知ることができます。545年には新羅で初めて国史が編纂され、漢学が新羅に定着したことを伝えています。

    「壬申誓記石」慶州錫杖洞/6世紀から7世紀
    新羅国内で漢字を使用するのは高句麗や百済よりかなり遅れ、6世紀とみられます。真興王代に新羅の辺境に建てられた4個の巡狩碑(真興王拓境碑)には、漢字を音借した人名や地名がみられ、1934年に慶州の北郊で発見された「壬申誓記石」と呼ばれる独特の朝鮮漢文から儒教教育の実情と独自の文体を知ることができます。545年には新羅で初めて国史が編纂され、漢学が新羅に定着したことを伝えています。

  • 「十二支像(申)」慶州朝暘洞 聖徳王陵

    「十二支像(申)」慶州朝暘洞 聖徳王陵

  • 「鬼面瓦」慶州龍江洞

    「鬼面瓦」慶州龍江洞

  • 「鬼面瓦」慶州東宮・月池

    「鬼面瓦」慶州東宮・月池

  • 「月城(ウォルソン)」は城壁で囲まれ、長い間新羅王朝の主要な宮殿でした。文武王は「月池」「楊宮」「東宮」という新しい宮殿を建設し、古い「月城」を改築して壮麗な建築に変えました。そんな「王宮」を飾った瓦が展示してあります。

    「月城(ウォルソン)」は城壁で囲まれ、長い間新羅王朝の主要な宮殿でした。文武王は「月池」「楊宮」「東宮」という新しい宮殿を建設し、古い「月城」を改築して壮麗な建築に変えました。そんな「王宮」を飾った瓦が展示してあります。

  • 「獅子石獣」慶州校洞<br />

    「獅子石獣」慶州校洞

  • 奈勿麻立干(もつなまつりかん)から智証麻立干(ちしょう まりつかん)までの王と王族は大きな墓を造り、埋葬者を金や銀で華やかに飾って葬儀を執り行いました。法興王が仏教を導入してからは葬儀が簡素化され、王の墓は低い丘陵に造られるようになります。

    奈勿麻立干(もつなまつりかん)から智証麻立干(ちしょう まりつかん)までの王と王族は大きな墓を造り、埋葬者を金や銀で華やかに飾って葬儀を執り行いました。法興王が仏教を導入してからは葬儀が簡素化され、王の墓は低い丘陵に造られるようになります。

  • その頃から墓の規模も小さくなり、副葬品の数も減りました。それまでは埋葬者に仕えるために人間を生きたまま埋めていましたが、その代わりに「土偶」を埋めるように変わりました。

    その頃から墓の規模も小さくなり、副葬品の数も減りました。それまでは埋葬者に仕えるために人間を生きたまま埋めていましたが、その代わりに「土偶」を埋めるように変わりました。

  • 「文官土偶」慶州龍江洞

    「文官土偶」慶州龍江洞

  • 「神将像門扉石」統一新羅 慶州西岳洞

    「神将像門扉石」統一新羅 慶州西岳洞

  • 「家形骨器」慶州北軍洞 / 統一新羅8世紀 <br />慶州北軍洞で出土した骨器で、死者の魂が派手な瓦の家で永遠に安住することを願った新羅人の祈願が込められたものです。軒先には鴟尾があったことが分かり、雄・雌瓦を一様につなげた入母屋造りの堂々とした瓦の家を形象化しています。一般的に門が家の正面にあるものと異なり、側面に門を付けた跡は残っているが、扉は確認されていません。この骨器は統一新羅時代の瓦の家の形態を調べることができる貴重な資料といえます。

    「家形骨器」慶州北軍洞 / 統一新羅8世紀
    慶州北軍洞で出土した骨器で、死者の魂が派手な瓦の家で永遠に安住することを願った新羅人の祈願が込められたものです。軒先には鴟尾があったことが分かり、雄・雌瓦を一様につなげた入母屋造りの堂々とした瓦の家を形象化しています。一般的に門が家の正面にあるものと異なり、側面に門を付けた跡は残っているが、扉は確認されていません。この骨器は統一新羅時代の瓦の家の形態を調べることができる貴重な資料といえます。

  • 「金銅如来立像」統一新羅<br />朝鮮への仏教伝来は高句麗では372年に中国の前秦の皇帝苻堅が僧順道と仏像と経典を伝えたのが始まりとされています。374年には南朝の東晋の僧阿道が来て普門寺など二寺を創建しました。百済では384年(枕流王元年)に東晋から僧摩羅難陀が来ると、王は宮中に迎えて教えを聞き、深く仏教を信じて翌年都の漢山に仏寺を建てたことに始まります。新羅では5世紀に民間に伝えられましたが、公認は高句麗・百済よりかなり遅れ、527年にようやく仏教を公認したとされます。これは新羅では土俗的なシャーマニズムの力が強かったためと思われます。

    「金銅如来立像」統一新羅
    朝鮮への仏教伝来は高句麗では372年に中国の前秦の皇帝苻堅が僧順道と仏像と経典を伝えたのが始まりとされています。374年には南朝の東晋の僧阿道が来て普門寺など二寺を創建しました。百済では384年(枕流王元年)に東晋から僧摩羅難陀が来ると、王は宮中に迎えて教えを聞き、深く仏教を信じて翌年都の漢山に仏寺を建てたことに始まります。新羅では5世紀に民間に伝えられましたが、公認は高句麗・百済よりかなり遅れ、527年にようやく仏教を公認したとされます。これは新羅では土俗的なシャーマニズムの力が強かったためと思われます。

  • 「面文円瓦当當」慶州霊妙寺址 / 新羅 <br />「面文円瓦当當」は分厚い唇と上に上がった口元、こけた頬、少し突き出た瞳が互いに交わって純真な微笑を浮かべています。顔の形状をした軒瓦を屋根の上に上げた理由は邪悪な気を追い払おうとする意図で製作したと見られます。この瓦は霊妙寺址から出土したと伝えられ、当時は日本人の田中敏信が保管していましたが、1972年10月に国立慶州博物館に寄贈した文化財です。瓦の製作年代は外側に広い枠を設けて高い温度で焼いた点や顔の量感がそのまま生きている点から推測して三国時代と推定されます。

    「面文円瓦当當」慶州霊妙寺址 / 新羅
    「面文円瓦当當」は分厚い唇と上に上がった口元、こけた頬、少し突き出た瞳が互いに交わって純真な微笑を浮かべています。顔の形状をした軒瓦を屋根の上に上げた理由は邪悪な気を追い払おうとする意図で製作したと見られます。この瓦は霊妙寺址から出土したと伝えられ、当時は日本人の田中敏信が保管していましたが、1972年10月に国立慶州博物館に寄贈した文化財です。瓦の製作年代は外側に広い枠を設けて高い温度で焼いた点や顔の量感がそのまま生きている点から推測して三国時代と推定されます。

  • 「菊隠記念室」<br />故イ・ヤンソン博士の寄贈した666点のコレクションはどれも素晴らしいものですが、その中でも特に目を引くのが「騎馬人物型土器」と「鴨型土器」です。「騎馬人物型土器」はその写実的な表現が高く評価され、国宝275号に指定されています。

    「菊隠記念室」
    故イ・ヤンソン博士の寄贈した666点のコレクションはどれも素晴らしいものですが、その中でも特に目を引くのが「騎馬人物型土器」と「鴨型土器」です。「騎馬人物型土器」はその写実的な表現が高く評価され、国宝275号に指定されています。

  • 「騎馬人物形角杯」伝慶南金海徳山里 / 伽倻5世紀 <br />菊隠李養璿博士が寄贈した土器で、ラッパ型の脚の上に長方形の板を置いて、その上に馬に乗った武士が座っています。馬の尻の部分に2つの角杯が左右対称に付着しています。脚は菱形の透窓を上下垂直に配置した伽倻高杯の特徴を現わし、慶州金鈴塚で出土した新羅の騎馬人物土器と比較される伽倻の騎馬人物土器で、当時の伽倻人の武装状態を示している貴重な資料です。

    「騎馬人物形角杯」伝慶南金海徳山里 / 伽倻5世紀
    菊隠李養璿博士が寄贈した土器で、ラッパ型の脚の上に長方形の板を置いて、その上に馬に乗った武士が座っています。馬の尻の部分に2つの角杯が左右対称に付着しています。脚は菱形の透窓を上下垂直に配置した伽倻高杯の特徴を現わし、慶州金鈴塚で出土した新羅の騎馬人物土器と比較される伽倻の騎馬人物土器で、当時の伽倻人の武装状態を示している貴重な資料です。

  • 「銅製鈴」高麗

    「銅製鈴」高麗

  • 「金銅如来立像」統一新羅<br />お子で時間切れで、集合場所のバスまで急ぎます。

    「金銅如来立像」統一新羅
    お子で時間切れで、集合場所のバスまで急ぎます。

  • 感恩寺址の石塔と比肩する統一新羅初期の「高仙寺址三層石塔(国宝)」

    感恩寺址の石塔と比肩する統一新羅初期の「高仙寺址三層石塔(国宝)」

  • 出口の近くにあったミュージアムショップで絵葉書を買い求めました。絵葉書が1枚70円ほどで良心的でした。本当は切手を手に入れて葉書を出したいところですが、もう時間はありません。

    出口の近くにあったミュージアムショップで絵葉書を買い求めました。絵葉書が1枚70円ほどで良心的でした。本当は切手を手に入れて葉書を出したいところですが、もう時間はありません。

  • 1日ツアーの半日ほどを滞在して慶州ですが、まだまだmきたいものがありました。12月に来れるからいいやと思っていたのですが…。

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  • 慶州の町外れから高速道路に入って釜山へ戻ります。

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    釜山タワー 建造物

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