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2022年5月19日(木)朝の11時過ぎ、霞が関の官公庁をグルっと歩いて、西に広がる日比谷公園に。1903年(明治36年)に日本初の洋風近代式公園として開園した都立公園。広さは約16万平方mあり、設計総括は林学博士の本多静六。私が来るのは確か2回目だが、前回がいつだったかを思い出せない・・・<br /><br />江戸初期には現在の公園の南東部に仙台藩伊達家上屋敷が置かれており、写真にはないが、心字池の北に伊達政宗終焉の地の案内板が建っているように独眼竜政宗はここで生涯を閉じた。<br /><br />江戸末期には霞が関坂から日比谷公園に突き当たる現在は霞門となっているところからも道が東に延びており、北側には長州藩毛利家と佐賀藩鍋島家の上屋敷と幕府公用のために利用される御用屋敷が、南側には三草藩丹羽家・吹上藩有馬家・福知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩北条家の各上屋敷が存在した。<br /><br />明治に入り、1871年(明治4年)に現在の日比谷公園から霞が関に掛けては日比谷練兵場となるが、1888年(明治21年)に現在の明治神宮外苑に移転となり、西側の霞が関に官公庁が整備され、東側が日比谷公園になった。<br /><br />開園から2年後の1905年(明治38年)には公園で行われた日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに死者17名、負傷者500名を出し、内務大臣官邸、国民新聞社、交番などが襲撃される日比谷焼打事件が発生した。<br /><br />1923年(大正12年)の関東大震災では日比谷公園も被災し、小音楽堂が倒壊、松本楼が焼失したが、直前に建てられた大音楽堂は倒壊を免れた。運動場には被災民が仮設住宅144軒に身を寄せ、被災者遺体の仮埋葬も行われた。<br /><br />戦時中は高射砲陣地が置かれ、食糧難からジャガイモも栽培された。戦後には連合国軍総司令部(GHQ)に接収されるが、1951年(昭和26年)に接収が解け、再整備が始まった。2021年に都立日比谷公園再生整備計画が策定され、開園130周年を迎える2033年の完了に向け、段階的に整備が続けられている。<br /><br />公園の名前になっている日比谷は有楽町・内幸町における日比谷通り周辺一帯の通称だが、行政上に日比谷の地名はなく、明確にどこを指すのかは曖昧(住所として日比谷公園はある)。江戸時代初期までは現在の日比谷公園辺りまでは海が入り込んでおり、日比谷入江と呼ばれていたことからの地名。<br /><br />日比谷と云う名は、当時この辺りには漁民が住んでおり、漁民が海苔を取り、魚を捕らえるために海の中に立てる竹の小枝のことを「ひび」と云い、「ひび」がたつ入江(谷)であったことから転じたと云う。<br /><br />家康の入府以降の文禄時代(1592年~96年)に日比谷入江の埋立が開始され、三十余町(1町がおよそ1万平方m)に渡る非常に広い面積が埋め立てられる。埋立地には武家屋敷の消費を賄うためにその近くに成立する町である内町が開かれ、江戸の町の発展に貢献した。<br /><br />西側の愛宕下通りの中央合同庁舎第5号館(厚生労働省)と弁護士会館の間の向かいにある霞門から園内に入る。門を抜けると右手に進む。この辺りはユリロードと呼ばれていて28種類の百合が6月から7月に掛けて時期をずらして咲き続ける。この時はマニフィークと云う下向きに咲くテッポウユリの改良品種がきれいに咲いていた。<br /><br />先に進むと左手に雲形池があり池の中に鶴の噴水がある。雲形池は第一花壇、心字池、首賭けイチョウなどと共に、開園当初の姿を残している池。ふわふわと形を変える千変万化の雲のように、歪みやたわみをもつ形を表してこの名前が付けられた。<br /><br />鶴の噴水は、開園から3年後の1905年(明治38年)頃に造られた。日比谷公園を設計した本多静六氏の和魂洋才の精神を感じることの出来る公園のシンボルのひとつ。戦時中に水を抜かれた際に噴水も撤去されたが、戦後戻ってきた。ただし、台座は銅製から石造りに変わっている。公園の装飾噴水としては、日本で3番目に古いものとされる(1番目は長崎の諏訪神社、2番目は大阪の箕面公園)。<br /><br />先に進むと大音楽堂。1923年(大正12年)に日本最初の大規模野外音楽堂として完成した。戦争中の1943年(昭和18年)から一時休館し、戦後はGHQに接収されたが、接収解除後の1954年(昭和29年)に改築され、2代目大音楽堂として再開された。1977年にはキャンディーズライブで「普通の女の子に戻りたい」の解散宣言が出された。全然普通じゃないけどね、蘭さん<br /><br />その後、老朽化が進行して1982年から全面改築工事を行い、翌年3代目大音楽堂として完成し、現在に至る。現在の客席数は椅子2,653席、立見385席、車椅子対応15席。2024年度以降は施設の老朽化のため休館中。都立日比谷公園再生整備計画の一環として建て替えられ、屋根を客席前方まで広げ、開放的な雰囲気は維持しつつ音漏れを減らす予定。<br /><br />大音楽堂から東に進むと日比谷公会堂。1929年に竣工した日本で最初の本格的なコンサートホール。市政会館との複合建築で、事務所棟にあたる市政会館部分と大講堂を持つ公会堂部分が丁字形に配置されている。<br /><br />建物の外観は茶褐色のスクラッチタイルで覆ったネオ・ゴシック様式で。鉄骨鉄筋コンクリート造の初期の建物として建築技術史上重要とされており、東京都選定歴史的建造物で東京都指定有形文化財。<br /><br />かつては東京では事実上唯一のコンサートホールとしてプロフェッショナルのオーケストラの演奏会やリサイタルなども多く開かれた。また、政治演説会や国民(人民)大会も数多く開かれた。1960年に日本社会党党首の浅沼稲次郎氏が刺殺された事件はここでの立会演説会で起こった。<br /><br />2016年に施設の老朽化と耐震性の問題で休館、2025年度以降に改修に着工することになり、開館100年となる2029年に利用を再開する見通しとなっている。<br /><br />公園の外だが、日比谷公会堂の東側に日比谷通りを挟んで建つ高層ビルはみずほ銀行内幸町本部ビル(下の写真)。1981年にみずほ銀行の前身行の一つである第一勧業銀行の本店ビルとして竣工したもので、高さ132mの地上32階、地下4階建て。<br /><br />2002年のみずほ銀行発足に伴ってみずほ銀行本店となったが、2013年のみずほコーポレート銀行との統合により、東京営業部となった。2021年に内幸町一丁目街区開発プロジェクト(TOKYO CROSS PARK構想)が決定し、東京営業部は移転し、このビルは閉鎖された。この4ヶ月後の2022年9月から解体工事が行われている。解体工事は2024年春に終了し、跡地には高さ230m級の超高層ビルが2028年度から2030年度にかけて完成する予定。<br /><br />日比谷公会堂の北側に広がるのが第二花壇。四隅に多種多様のバラが栽培されていて美しい。北側には1961年に完成した大噴水があり、日比谷公園最大のシンボルになっている。この一帯はかつては運動場(大広場)で、スポーツや様々な国家的行事の舞台となった。<br /><br />その北、公園の北東部に広がるのが心字池。元々江戸城に連なっていた内濠の一部を残したもの。上空から見ると「心」の字をくずした形をしていることからこの名が付けられた。<br /><br />心字池の南西のほとりに南極の石と古代スカンジナビア碑がある。。南極の石は南極観測船「ふじ」初航海時に昭和基地から4kmの地点にある東オングル島の慎太郎山(標高40m)で採取した重さ150kgの片麻岩で、1966年にここに設置された。<br /><br />古代スカンジナビア碑は1967年にスカンジナビアから日本までの北極経由の空路開設10周年記念としてスカンジナビア航空が寄贈したもの。スカンジナビアのバイキングが残した古代北欧文字(ルーン文字)の碑のレプリカ。<br /><br />心字池の西側は第一花壇。日比谷公園開設時に日本初の西洋風公園として造られた花壇。現在も当時のままの西洋花壇の形式でバラなどが美しく咲いていた。造成当時はチューリップやパンジーなどの日本人が初めて見る洋花が数多く植えられ、大変な人気を博したそうだ。<br /><br />第一花壇の北側には公園開設時設置されたと云うペリカン噴水がある(表紙の写真)。ただし、現在のものは1953年に寄贈されたものと云われるが、ペリカン像の背面には「1971 S.TAMURA」と刻まれているので、その後再度造られたのか?分からない・・・<br /><br />第一花壇から公園の北西部に進むと自由の鐘がある。1952年のサンフランシスコ平和条約の年に連合国軍総司令官だったマッカーサー(Douglas MacArthur)の提案を受けた米国の市民有志が、日本新聞協会に鐘を寄贈し、新聞協会が塔を造り、鐘とともに東京都に寄贈したもの。<br /><br />米国ペンシルベニア(Pennsylvania)州のフィラデルフィア(Philadelphia)にある有名な自由の鐘(Liberty Bell)の複製と云われるが、仏パッカード(Packard)社が実用として製造した鐘。青銅製で高さ約1m、直径約1.2m、重さ約1tある。<br /><br />設置から60年ほど経ち、中心部の振り子が失われ、塔全体も老朽化で傷んでいたが、2011年に募金活動により修復が完成した。<br /><br />最後は公園北西部の出入口、祝田門を入ったところにある三笠山。公園造成時に池などを掘った残土によって形成された山で、3つの笠を伏せた形に似ていたことから、この名が付けられた。しかし、その後、テニスコートなどの造成でその形は変わっている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.25476645091978841&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />祝田門を出て、桜田門へ進むが、続く

東京 千代田区 日比谷公園(Hibiya Park,Chiyoda,Tokyo,Japan)

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2022/05/19 - 2022/05/19

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年5月19日(木)朝の11時過ぎ、霞が関の官公庁をグルっと歩いて、西に広がる日比谷公園に。1903年(明治36年)に日本初の洋風近代式公園として開園した都立公園。広さは約16万平方mあり、設計総括は林学博士の本多静六。私が来るのは確か2回目だが、前回がいつだったかを思い出せない・・・

江戸初期には現在の公園の南東部に仙台藩伊達家上屋敷が置かれており、写真にはないが、心字池の北に伊達政宗終焉の地の案内板が建っているように独眼竜政宗はここで生涯を閉じた。

江戸末期には霞が関坂から日比谷公園に突き当たる現在は霞門となっているところからも道が東に延びており、北側には長州藩毛利家と佐賀藩鍋島家の上屋敷と幕府公用のために利用される御用屋敷が、南側には三草藩丹羽家・吹上藩有馬家・福知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩北条家の各上屋敷が存在した。

明治に入り、1871年(明治4年)に現在の日比谷公園から霞が関に掛けては日比谷練兵場となるが、1888年(明治21年)に現在の明治神宮外苑に移転となり、西側の霞が関に官公庁が整備され、東側が日比谷公園になった。

開園から2年後の1905年(明治38年)には公園で行われた日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに死者17名、負傷者500名を出し、内務大臣官邸、国民新聞社、交番などが襲撃される日比谷焼打事件が発生した。

1923年(大正12年)の関東大震災では日比谷公園も被災し、小音楽堂が倒壊、松本楼が焼失したが、直前に建てられた大音楽堂は倒壊を免れた。運動場には被災民が仮設住宅144軒に身を寄せ、被災者遺体の仮埋葬も行われた。

戦時中は高射砲陣地が置かれ、食糧難からジャガイモも栽培された。戦後には連合国軍総司令部(GHQ)に接収されるが、1951年(昭和26年)に接収が解け、再整備が始まった。2021年に都立日比谷公園再生整備計画が策定され、開園130周年を迎える2033年の完了に向け、段階的に整備が続けられている。

公園の名前になっている日比谷は有楽町・内幸町における日比谷通り周辺一帯の通称だが、行政上に日比谷の地名はなく、明確にどこを指すのかは曖昧(住所として日比谷公園はある)。江戸時代初期までは現在の日比谷公園辺りまでは海が入り込んでおり、日比谷入江と呼ばれていたことからの地名。

日比谷と云う名は、当時この辺りには漁民が住んでおり、漁民が海苔を取り、魚を捕らえるために海の中に立てる竹の小枝のことを「ひび」と云い、「ひび」がたつ入江(谷)であったことから転じたと云う。

家康の入府以降の文禄時代(1592年~96年)に日比谷入江の埋立が開始され、三十余町(1町がおよそ1万平方m)に渡る非常に広い面積が埋め立てられる。埋立地には武家屋敷の消費を賄うためにその近くに成立する町である内町が開かれ、江戸の町の発展に貢献した。

西側の愛宕下通りの中央合同庁舎第5号館(厚生労働省)と弁護士会館の間の向かいにある霞門から園内に入る。門を抜けると右手に進む。この辺りはユリロードと呼ばれていて28種類の百合が6月から7月に掛けて時期をずらして咲き続ける。この時はマニフィークと云う下向きに咲くテッポウユリの改良品種がきれいに咲いていた。

先に進むと左手に雲形池があり池の中に鶴の噴水がある。雲形池は第一花壇、心字池、首賭けイチョウなどと共に、開園当初の姿を残している池。ふわふわと形を変える千変万化の雲のように、歪みやたわみをもつ形を表してこの名前が付けられた。

鶴の噴水は、開園から3年後の1905年(明治38年)頃に造られた。日比谷公園を設計した本多静六氏の和魂洋才の精神を感じることの出来る公園のシンボルのひとつ。戦時中に水を抜かれた際に噴水も撤去されたが、戦後戻ってきた。ただし、台座は銅製から石造りに変わっている。公園の装飾噴水としては、日本で3番目に古いものとされる(1番目は長崎の諏訪神社、2番目は大阪の箕面公園)。

先に進むと大音楽堂。1923年(大正12年)に日本最初の大規模野外音楽堂として完成した。戦争中の1943年(昭和18年)から一時休館し、戦後はGHQに接収されたが、接収解除後の1954年(昭和29年)に改築され、2代目大音楽堂として再開された。1977年にはキャンディーズライブで「普通の女の子に戻りたい」の解散宣言が出された。全然普通じゃないけどね、蘭さん

その後、老朽化が進行して1982年から全面改築工事を行い、翌年3代目大音楽堂として完成し、現在に至る。現在の客席数は椅子2,653席、立見385席、車椅子対応15席。2024年度以降は施設の老朽化のため休館中。都立日比谷公園再生整備計画の一環として建て替えられ、屋根を客席前方まで広げ、開放的な雰囲気は維持しつつ音漏れを減らす予定。

大音楽堂から東に進むと日比谷公会堂。1929年に竣工した日本で最初の本格的なコンサートホール。市政会館との複合建築で、事務所棟にあたる市政会館部分と大講堂を持つ公会堂部分が丁字形に配置されている。

建物の外観は茶褐色のスクラッチタイルで覆ったネオ・ゴシック様式で。鉄骨鉄筋コンクリート造の初期の建物として建築技術史上重要とされており、東京都選定歴史的建造物で東京都指定有形文化財。

かつては東京では事実上唯一のコンサートホールとしてプロフェッショナルのオーケストラの演奏会やリサイタルなども多く開かれた。また、政治演説会や国民(人民)大会も数多く開かれた。1960年に日本社会党党首の浅沼稲次郎氏が刺殺された事件はここでの立会演説会で起こった。

2016年に施設の老朽化と耐震性の問題で休館、2025年度以降に改修に着工することになり、開館100年となる2029年に利用を再開する見通しとなっている。

公園の外だが、日比谷公会堂の東側に日比谷通りを挟んで建つ高層ビルはみずほ銀行内幸町本部ビル(下の写真)。1981年にみずほ銀行の前身行の一つである第一勧業銀行の本店ビルとして竣工したもので、高さ132mの地上32階、地下4階建て。

2002年のみずほ銀行発足に伴ってみずほ銀行本店となったが、2013年のみずほコーポレート銀行との統合により、東京営業部となった。2021年に内幸町一丁目街区開発プロジェクト(TOKYO CROSS PARK構想)が決定し、東京営業部は移転し、このビルは閉鎖された。この4ヶ月後の2022年9月から解体工事が行われている。解体工事は2024年春に終了し、跡地には高さ230m級の超高層ビルが2028年度から2030年度にかけて完成する予定。

日比谷公会堂の北側に広がるのが第二花壇。四隅に多種多様のバラが栽培されていて美しい。北側には1961年に完成した大噴水があり、日比谷公園最大のシンボルになっている。この一帯はかつては運動場(大広場)で、スポーツや様々な国家的行事の舞台となった。

その北、公園の北東部に広がるのが心字池。元々江戸城に連なっていた内濠の一部を残したもの。上空から見ると「心」の字をくずした形をしていることからこの名が付けられた。

心字池の南西のほとりに南極の石と古代スカンジナビア碑がある。。南極の石は南極観測船「ふじ」初航海時に昭和基地から4kmの地点にある東オングル島の慎太郎山(標高40m)で採取した重さ150kgの片麻岩で、1966年にここに設置された。

古代スカンジナビア碑は1967年にスカンジナビアから日本までの北極経由の空路開設10周年記念としてスカンジナビア航空が寄贈したもの。スカンジナビアのバイキングが残した古代北欧文字(ルーン文字)の碑のレプリカ。

心字池の西側は第一花壇。日比谷公園開設時に日本初の西洋風公園として造られた花壇。現在も当時のままの西洋花壇の形式でバラなどが美しく咲いていた。造成当時はチューリップやパンジーなどの日本人が初めて見る洋花が数多く植えられ、大変な人気を博したそうだ。

第一花壇の北側には公園開設時設置されたと云うペリカン噴水がある(表紙の写真)。ただし、現在のものは1953年に寄贈されたものと云われるが、ペリカン像の背面には「1971 S.TAMURA」と刻まれているので、その後再度造られたのか?分からない・・・

第一花壇から公園の北西部に進むと自由の鐘がある。1952年のサンフランシスコ平和条約の年に連合国軍総司令官だったマッカーサー(Douglas MacArthur)の提案を受けた米国の市民有志が、日本新聞協会に鐘を寄贈し、新聞協会が塔を造り、鐘とともに東京都に寄贈したもの。

米国ペンシルベニア(Pennsylvania)州のフィラデルフィア(Philadelphia)にある有名な自由の鐘(Liberty Bell)の複製と云われるが、仏パッカード(Packard)社が実用として製造した鐘。青銅製で高さ約1m、直径約1.2m、重さ約1tある。

設置から60年ほど経ち、中心部の振り子が失われ、塔全体も老朽化で傷んでいたが、2011年に募金活動により修復が完成した。

最後は公園北西部の出入口、祝田門を入ったところにある三笠山。公園造成時に池などを掘った残土によって形成された山で、3つの笠を伏せた形に似ていたことから、この名が付けられた。しかし、その後、テニスコートなどの造成でその形は変わっている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.25476645091978841&type=1&l=223fe1adec


祝田門を出て、桜田門へ進むが、続く

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