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2022年5月17日(火)4時前、宇都宮二荒山神社を降りて大鳥居から南に続くバンバ通りを進む。下野宇都宮氏の時代から宇都宮城との間を結ぶ馬場と呼ばれるようになり、これが転訛してバンバ通りとなった。神社門前の仲見世通りとして戦前に宇都宮第一の繁華街となり、戦後も宇都宮商業地の中心として発展した。<br /><br />中世には荒尾崎と呼ばれ、宇都宮明神あるいは下野宇都宮氏の菩提寺のひとつ東勝寺の境内地だった。江戸時代までにその馬場が形成され、北の端には二荒山神社の発祥の地の下之宮があり、江戸期には日光堂があった。<br /><br />100mほどでオリオン通りと云うアーケード商店街を過ぎると、御橋(みはし)通りと名前が変わる。300m南のいちょう通りまで続き、その南に続く本丸通りへ経て宇都宮城址公園に通じる。通り名は途中で渡る釜川に架かる橋に由来する。<br /><br />宇都宮氏の治世では、御橋を渡ることが許されたのは、宇都宮城主と二荒山神社の神主に限られていた。江戸時代に入ると釜川を城の外堀にすべく御橋は撤去された。明治に入り1890年(明治23年)に擬宝珠付きの欄干を備えた広い木橋が再び架橋された。現行の橋は1979年頃に商店街の青年有志の働きかけで造られたもので、赤い欄干に擬宝珠を冠している(下の写真1)。<br /><br />釜川は宇都宮市野沢町の東弁天沼、西弁天沼を源流とし、宇都宮市街中心部を流れ宇都宮市天神で田川に合流する川。川名の由来は「流域の地形が侵食によってカマのような形をしている」ことに由来すると云うが、江戸期地図に「賀茂川」とあることから、京に縁が深い下野宇都宮氏等が京の鴨川に擬して命名したものとも云われる。御橋近辺は親水公園化され、釜川プロムナードと呼ばれる(下の写真2)。<br /><br />橋の北側にある御橋金毘羅さんと呼ばれる琴平神社は近世以前から御橋の南岸にあった松巌寺の境内社だった。江戸前期の1649年に御橋の北側、曲師町の釜川渕へ移転した際に創建された。<br /><br />松巌寺は、宇都宮藩で不祥事を起こし、秩禄も職も失った浪人を収容する役割を担っていた。寺に拾われた浪人は虚無僧となり、深編笠を被り尺八を吹きながら町や村をくまなく探索し、その様子を報告していた。また寺院そばの釜川に洞穴を設け、そこに注連縄を張って日々の修行に励んだ。<br /><br />明治維新後は江戸幕府の隠密であったことから、1868年(明治元年)の神仏分離令により廃寺となり、琴平神社だけが残った。若山牧水が訪れた1920年(大正9年)には境内に桜があったようだが現存せず、社殿は繁華街の中に窮屈そうにたたずんでいる。<br /><br />コンクリート製の鳥居をくぐると、境内には、本殿、手水舎、玉垣、灯籠などがあり、本殿右側に境内社の稲荷神社・足尾神社・直陸神がある。祭神は大物主命であり、稲荷神社は倉稲魂命、足尾神社は面足神、直陸神は猿田彦命をそれぞれ祀る(下の写真3)。<br /><br />御橋を渡って少し南に行った右手にあるカフェドゥオリーブは宇都宮特産の大谷石の蔵を生かしたカフェ。1945年7月にこの辺りは米軍の無差別空襲を受け、焼け野原となったが、敗戦後の1947年に割烹中村の蔵として建築された。<br /><br />2013年に北隣にある割烹中村が建て替えられて新装オープンするまでは、旧店舗の後ろに隠れて表通りから見えなかったそうだが、旧店舗の取り壊しで見えるようになり、同年カフェとしてオープンした。宇都宮には大谷石を使った建物が多くあり、前回来た時にはカトリック松が峰教会に行ったが、これも優しい感じのいい建物(下の写真4)。<br /><br />4時5分過ぎ、宇都宮城址公園の北側の入口に到着。宇都宮城址に1958年に整備された御本丸公園を2002年に宇都宮城址公園に改称し、往年の宇都宮城本丸の一部を外観復元している。<br /><br />平安時代に藤原秀郷もしくは藤原宗円が築城した城。横から見た時に亀が横たわっているように見えたため、亀ヶ丘城とも呼ばれた。豊臣秀吉の時代には小田原征伐に続く宇都宮仕置が行われ、宇都宮氏が所領を安堵されていたが1597年に改易され、翌年蒲生秀行が18万石で入り、関ヶ原後の1601年には奥平家昌が10万石で入った。<br /><br />その後「どうする家康」にも終盤で登場した本多正純が1619年に15万5千石で入り、城の大改修を行い城下町を建設した。正純時代の3年間は宇都宮城下に大きな変化をもたらし、正純によって再編された都市基盤は近代都市・宇都宮市の礎となった。しかし、1622年に世に云う宇都宮城釣天井事件で改易された。<br /><br />その後、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏、戸田氏と譜代大名が城主としてこまめに入れ替わろ、幕末の戸田氏は7万7千石だった。幕末の1868年(慶応4年)には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失した。戦後に都市開発が行われたため、遺構はほとんど残っていない。<br /><br />公園の北側、正面に本丸内堀を挟んで復元された清明台櫓が見えるところから内堀沿いを右手(西側)に進むと、おほり橋の前、西側に宇都宮市役所へ続くみどりの小径がある。本丸内堀を囲む二の丸とさらにその外側の二の丸土塁と堀があったところだが、全く面影は残っていない。堀の幅は分かってないが、深さは発掘工事で6mほどと判明している。因みに藩主が暮らしていた二の丸御殿は公園に入って来た北側の入口の右手、現在広場になっている辺りにあった。<br /><br />おほり橋を渡って本丸跡に入る。この橋は昔はなかった橋。公園の整備に伴って架けられたもので、名前は公募で付けられた。橋を渡ると復元された本丸土塁を貫くトンネルに続くが、このトンネルも元々はなかったもので、一部の方からは不評らしい。本丸の出入口は復元されていないが北側の清水門と南側の伊賀門の2ヶ所だった。<br /><br />トンネルの内側の両サイド、土塁の内部には宇都宮城ものしり館とまちあるき情報館がある。宇都宮城ものしり館には宇都宮城の復元模型など宇都宮城の歴史にまつわる資料が展示されている。まちあるき情報館では城址公園整備過程の模型・解説パネルの展示や市内の文化財や観光スポットのマップ・解説パネル等での展示、さらに火焔太鼓山車・桃太郎山車の展示が行われている。<br /><br />トンネルを抜けて御本丸広場に入る。復元されているのは本丸の西側約三分の一、北側の清水門跡の西から晴明台櫓を経て富士見櫓、さらに伊賀門に続く土塁と、その2つの櫓、土塁の上の土塀。コの字型になっているので、なんかピンとこない。<br /><br />晴明台櫓、富士見櫓とも本多正純時代に築かれた2重2階の櫓。天守は設けられず、晴明台櫓が実質的に天守として使われた。共に2007年に復元されたもの。通常は土塁の上に登って、この2つの櫓の1階は見学でき(2階は特別公開時のみ)、間の土塀沿いを歩けるのだが、この時は修復工事中で上に上がれなかった。残念。<br /><br />公園となっているのは、さらに本丸の中央部分までで、現在はその部分には1991年に建てられた清明館があり、入館無料の歴史展示室やイベントで使える和室などがある。歴史展示室は見学する。裏側(南西)には「天皇観臨賜甫処」石碑が建つ。明治天皇の行幸記念碑。<br /><br />今後、本丸御成御殿、清水門、伊賀門を復元する計画があるそうだ。ただ、本丸全体を復元するのは本丸東部が住宅地になっているので難しいと思われる。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24956030547373634&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />駅に戻り、ここに来た目的の一つのカープの試合に向かうが、続く

栃木 宇都宮城址公園(Castel Park,Utsunomiya,Tochigi,Japan)

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2022/05/17 - 2022/05/17

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年5月17日(火)4時前、宇都宮二荒山神社を降りて大鳥居から南に続くバンバ通りを進む。下野宇都宮氏の時代から宇都宮城との間を結ぶ馬場と呼ばれるようになり、これが転訛してバンバ通りとなった。神社門前の仲見世通りとして戦前に宇都宮第一の繁華街となり、戦後も宇都宮商業地の中心として発展した。

中世には荒尾崎と呼ばれ、宇都宮明神あるいは下野宇都宮氏の菩提寺のひとつ東勝寺の境内地だった。江戸時代までにその馬場が形成され、北の端には二荒山神社の発祥の地の下之宮があり、江戸期には日光堂があった。

100mほどでオリオン通りと云うアーケード商店街を過ぎると、御橋(みはし)通りと名前が変わる。300m南のいちょう通りまで続き、その南に続く本丸通りへ経て宇都宮城址公園に通じる。通り名は途中で渡る釜川に架かる橋に由来する。

宇都宮氏の治世では、御橋を渡ることが許されたのは、宇都宮城主と二荒山神社の神主に限られていた。江戸時代に入ると釜川を城の外堀にすべく御橋は撤去された。明治に入り1890年(明治23年)に擬宝珠付きの欄干を備えた広い木橋が再び架橋された。現行の橋は1979年頃に商店街の青年有志の働きかけで造られたもので、赤い欄干に擬宝珠を冠している(下の写真1)。

釜川は宇都宮市野沢町の東弁天沼、西弁天沼を源流とし、宇都宮市街中心部を流れ宇都宮市天神で田川に合流する川。川名の由来は「流域の地形が侵食によってカマのような形をしている」ことに由来すると云うが、江戸期地図に「賀茂川」とあることから、京に縁が深い下野宇都宮氏等が京の鴨川に擬して命名したものとも云われる。御橋近辺は親水公園化され、釜川プロムナードと呼ばれる(下の写真2)。

橋の北側にある御橋金毘羅さんと呼ばれる琴平神社は近世以前から御橋の南岸にあった松巌寺の境内社だった。江戸前期の1649年に御橋の北側、曲師町の釜川渕へ移転した際に創建された。

松巌寺は、宇都宮藩で不祥事を起こし、秩禄も職も失った浪人を収容する役割を担っていた。寺に拾われた浪人は虚無僧となり、深編笠を被り尺八を吹きながら町や村をくまなく探索し、その様子を報告していた。また寺院そばの釜川に洞穴を設け、そこに注連縄を張って日々の修行に励んだ。

明治維新後は江戸幕府の隠密であったことから、1868年(明治元年)の神仏分離令により廃寺となり、琴平神社だけが残った。若山牧水が訪れた1920年(大正9年)には境内に桜があったようだが現存せず、社殿は繁華街の中に窮屈そうにたたずんでいる。

コンクリート製の鳥居をくぐると、境内には、本殿、手水舎、玉垣、灯籠などがあり、本殿右側に境内社の稲荷神社・足尾神社・直陸神がある。祭神は大物主命であり、稲荷神社は倉稲魂命、足尾神社は面足神、直陸神は猿田彦命をそれぞれ祀る(下の写真3)。

御橋を渡って少し南に行った右手にあるカフェドゥオリーブは宇都宮特産の大谷石の蔵を生かしたカフェ。1945年7月にこの辺りは米軍の無差別空襲を受け、焼け野原となったが、敗戦後の1947年に割烹中村の蔵として建築された。

2013年に北隣にある割烹中村が建て替えられて新装オープンするまでは、旧店舗の後ろに隠れて表通りから見えなかったそうだが、旧店舗の取り壊しで見えるようになり、同年カフェとしてオープンした。宇都宮には大谷石を使った建物が多くあり、前回来た時にはカトリック松が峰教会に行ったが、これも優しい感じのいい建物(下の写真4)。

4時5分過ぎ、宇都宮城址公園の北側の入口に到着。宇都宮城址に1958年に整備された御本丸公園を2002年に宇都宮城址公園に改称し、往年の宇都宮城本丸の一部を外観復元している。

平安時代に藤原秀郷もしくは藤原宗円が築城した城。横から見た時に亀が横たわっているように見えたため、亀ヶ丘城とも呼ばれた。豊臣秀吉の時代には小田原征伐に続く宇都宮仕置が行われ、宇都宮氏が所領を安堵されていたが1597年に改易され、翌年蒲生秀行が18万石で入り、関ヶ原後の1601年には奥平家昌が10万石で入った。

その後「どうする家康」にも終盤で登場した本多正純が1619年に15万5千石で入り、城の大改修を行い城下町を建設した。正純時代の3年間は宇都宮城下に大きな変化をもたらし、正純によって再編された都市基盤は近代都市・宇都宮市の礎となった。しかし、1622年に世に云う宇都宮城釣天井事件で改易された。

その後、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏、戸田氏と譜代大名が城主としてこまめに入れ替わろ、幕末の戸田氏は7万7千石だった。幕末の1868年(慶応4年)には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失した。戦後に都市開発が行われたため、遺構はほとんど残っていない。

公園の北側、正面に本丸内堀を挟んで復元された清明台櫓が見えるところから内堀沿いを右手(西側)に進むと、おほり橋の前、西側に宇都宮市役所へ続くみどりの小径がある。本丸内堀を囲む二の丸とさらにその外側の二の丸土塁と堀があったところだが、全く面影は残っていない。堀の幅は分かってないが、深さは発掘工事で6mほどと判明している。因みに藩主が暮らしていた二の丸御殿は公園に入って来た北側の入口の右手、現在広場になっている辺りにあった。

おほり橋を渡って本丸跡に入る。この橋は昔はなかった橋。公園の整備に伴って架けられたもので、名前は公募で付けられた。橋を渡ると復元された本丸土塁を貫くトンネルに続くが、このトンネルも元々はなかったもので、一部の方からは不評らしい。本丸の出入口は復元されていないが北側の清水門と南側の伊賀門の2ヶ所だった。

トンネルの内側の両サイド、土塁の内部には宇都宮城ものしり館とまちあるき情報館がある。宇都宮城ものしり館には宇都宮城の復元模型など宇都宮城の歴史にまつわる資料が展示されている。まちあるき情報館では城址公園整備過程の模型・解説パネルの展示や市内の文化財や観光スポットのマップ・解説パネル等での展示、さらに火焔太鼓山車・桃太郎山車の展示が行われている。

トンネルを抜けて御本丸広場に入る。復元されているのは本丸の西側約三分の一、北側の清水門跡の西から晴明台櫓を経て富士見櫓、さらに伊賀門に続く土塁と、その2つの櫓、土塁の上の土塀。コの字型になっているので、なんかピンとこない。

晴明台櫓、富士見櫓とも本多正純時代に築かれた2重2階の櫓。天守は設けられず、晴明台櫓が実質的に天守として使われた。共に2007年に復元されたもの。通常は土塁の上に登って、この2つの櫓の1階は見学でき(2階は特別公開時のみ)、間の土塀沿いを歩けるのだが、この時は修復工事中で上に上がれなかった。残念。

公園となっているのは、さらに本丸の中央部分までで、現在はその部分には1991年に建てられた清明館があり、入館無料の歴史展示室やイベントで使える和室などがある。歴史展示室は見学する。裏側(南西)には「天皇観臨賜甫処」石碑が建つ。明治天皇の行幸記念碑。

今後、本丸御成御殿、清水門、伊賀門を復元する計画があるそうだ。ただ、本丸全体を復元するのは本丸東部が住宅地になっているので難しいと思われる。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24956030547373634&type=1&l=223fe1adec


駅に戻り、ここに来た目的の一つのカープの試合に向かうが、続く

  • 写真1 御橋

    写真1 御橋

  • 写真2 釜川

    写真2 釜川

  • 写真3 琴平神社

    写真3 琴平神社

  • 写真4 カフェドゥオリーブ

    写真4 カフェドゥオリーブ

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