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2022年5月17日(火)3時半前、宇都宮駅東口のホテルから駅の東西自由通路を抜けて西口に移動し、宇都宮市内観光開始。宇都宮市は栃木県の中部に位置する栃木県の県庁所在地。関東平野の中北部にあたり、日光連山から連なる山地が収束して平野部となる境界域に開けている。<br /><br />標高は市中心部で約100m。北西部に低山地がある以外、土地は概ね平坦。東部に鬼怒川、中央部に田川と釜川、西部に姿川が流れ、それぞれ流域に沖積平野を形成している。面積416.85平方kmは栃木県の25市町村で4番目に大きい。<br /><br />人口は50万人を越えており、県人口の1/4以上を占め、栃木県のみならず北関東最多。1970年代からずっと増え続けてきたが、2018年の約52万人をピークに減少に転じている。<br /><br />この辺りは紀元前より人の生活の場で、古代には毛野国に、令制国時代には下野国に属した。平安時代中期(10世紀中頃)、二荒山神社の神官としてこの地に赴任した摂関家藤原北家魚名流の藤原秀郷が現在の城址公園に館を築く。<br /><br />その後(11世紀初め)、栃木県官職と二荒山神社神官に就任した藤原北家道兼流の藤原宗円が宇都宮氏を名乗り(3代目朝綱から正式(?)に宇都宮姓となる)、宇都宮はその直轄地として栄える。城下に多数の仏教寺院を建立して宇都宮は東国の都であったと比喩されることもあった。<br /><br />豊臣秀吉が、全国統一後、その足で宇都宮城に滞在し、徳川家康や伊達政宗等が訪れ関東・東北の大名配置を決め(宇都宮仕置)、宇都宮城は戦国時代終結の地となった。その後、宇都宮氏は家臣を配置したい秀吉によって22代、約500年続いた領地を没収され、浅野長政が城代となる。<br /><br />江戸時代に入ると、徳川家康の腹心である本多正純が城主となり、宿場機能を併せ持つ近世宇都宮城下町を整備し、宇都宮宿は5街道の日光街道・奥州街道の2道の追分となり、街道一の繁盛地として大いに賑わった。江戸時代後期は戸田氏が入封し幕末まで宇都宮を治めた。<br /><br />1868年の戊辰戦争では、新政府側に付いた宇都宮藩に対して、土方歳三らが率いる旧幕府軍が攻撃を仕掛ける。後に宇都宮城の戦いと呼ばれるこの戦いで、宇都宮城や二荒山神社の他2400件の家屋が焼失し、死傷者は300人以上に及んだ。最終的には新政府軍の勝利となり、旧幕府軍は明神山から日光方面に向け退却した。<br /><br />日露戦争後は軍備拡大により第14師団司令部が置かれ、太平洋戦争が終わるまで軍都と呼ばれ軍需産業も進出したが、1945年7月の宇都宮空襲では600名を超える市民が死亡し、主要な都市構造物が焼失、残った遺構の多くも戦後の戦災復興事業の過程で消失した。戦後は、内陸型近代工業を中心とする近代産業都市として発展した。<br /><br />宇都宮の名は前述の宇都宮氏から来たものだが、その由来には沢山の説があり、定かでない。前述の二荒山神社が下野国唯一の一宮名神大社であり、その一ノ宮が訛ったとか、二荒山神社の別号「宇津宮大明神」から来たとか、東(宇)の都の宮殿(関東の都)とか。他にも「うづ高き宮」、「うつし(遷し)の宮」、「内の宮」、「征討(討つ)の宮」、「現の宮」など。<br /><br />1871年(明治4年)に廃藩置県により宇都宮藩が廃止され、宇都宮県が設置され、県庁舎が宇都宮城内に置かれる。1873年(明治6年)に宇都宮県は栃木県へ併合され、県庁も栃木に移るが、1884年(明治17年)に宇都宮へ移転される。<br /><br />1889年(明治22年)の町制施行により正式に宇都宮町が誕生し、1896年(明治29年)に市制施行する。昭和に入り順次周辺町村を編入し、最終的に2007年に河内町並びに上河内町を編入合併して人口50万人に到達した。<br /><br />宇都宮に関連する著名人としては、一部だが、政治家の渡辺文雄(1929年生れ、中央小学校卒業)や枝野幸男(1964年生れ、宇都宮高校卒業)。小説家の立松和平(1947年生れ)も宇都宮高校卒業で、門井慶喜(1971年生れ)は宇都宮東高校卒業、お笑いコンビ阿佐ヶ谷姉妹の姉、渡辺江里子(1972年生れ)は宇都宮女子高校卒業。<br /><br />サックス奏者の渡辺貞夫(1933年生れ、宇都宮工業高校卒業)、サッカーの松本育夫(1941年生れ、宇都宮工業高校卒業)、女子サッカー選手の安藤梢(1982年生れ、宇都宮女子高校卒業)や鮫島彩(1987年生れ、田原中学校卒業)らも。「二十歳の原点」の高野悦子(1949年生れ、宇都宮女子高校卒業)はほとんどの人が知らないかな。私の大学の先輩。<br /><br />作新学院は特にスポーツ関係の強豪なので、著名な卒業生が沢山いる。最初に上げるのはやっぱ私と同い年の野球の江川卓(1955年生れ、静岡の佐久間中学校卒)。完全試合を達成した八木沢荘六(1944年生れ、現日光市出身)、競泳の萩野公介(1994年生れ、小山市出身)、車いすテニスの大谷桃子(1995年生れ、栃木市出身)、シンガーの斉藤和義(1966年生れ、壬生町出身)も。<br /><br />その他、東京ヤクルトスワローズ(Swallows)の選手、監督で活躍した真中満(1971年生れ)は大田原市出身で宇都宮学園高校(現文星芸術大学附属高校)卒業。サッカーの元日本代表選手、黒崎久志(1968年生れ)も同じ高校の卒業生だが、鹿沼市出身。<br /><br />宇都宮市の西で採掘される大谷石は帝国ホテル建設などにも使われ、関東大震災での安全実績が評価され、その後は関東各地の建造物の建材として汎用された。採石場にある大谷資料館や大谷石を使った宇都宮聖ヨハネ教会には前回来た時に行った。<br /><br />宇都宮駅西口には宇都宮餃子像がある(下の写真1)。ビーナスが餃子の皮に包まれた「餃子のビーナス」を彫った高さ1.6m、重さ1.7トンの削りだしの石像で、特産の大谷石を使用している。現代彫刻家の西松鉱二氏がデザインを担当した。1994年のテレ東系バラエティ番組「おまかせ!山田商会」の企画で、宇都宮市とのタイアップとして作られた。当初は東口の歩行者広場に設置されていたが、2008年10月の再開発に伴い西口へ移転した。<br /><br />その先のひびき像は、1983年に建立された大きなモニュメントで、高橋剛と篠崎明雄という正統派の彫刻家による裸体像。宇都宮市の市民憲章をテーマとして建てられた(下の写真2)。<br /><br />西口から市街地の西方に伸びる宇都宮市のメインストリートの大通りを歩きだす。江戸時代初頭に二荒山神社と宇都宮城の間を貫く東西方向の街道として整備し直したのが起源。ただし当時は一直線の通りではなかった。<br /><br />明治維新後の1884年(明治17年)に県庁を栃木から宇都宮に移す際に現行の直線的な大通りが整備された。翌1885年(明治18年)に大通りの突き当りに宇都宮駅が開業し、この通りは駅前通りとなった。大正から昭和初期にかけて膨張し、この通り沿いは商業地として確立された。<br /><br />大通りを西に歩くとすぐに田川に架かる宮の橋を渡る(下の写真3)。田川は日光を源流とし小山から田川放水路を経て鬼怒川に合流する一級河川。宮の橋は1886年(明治19年)に宇都宮駅と市街地を結ぶ橋として架けられた。その名は宇都宮の宮が付けられた。<br /><br />現在の橋は1992年にかけられた4代目の橋。最初は1886年(明治19年)に木橋が架けられ、1909年(明治42年)頃に鉄材を用いた橋に建て替えられ、1957年(昭和32年)にのプレストレスト・コンクリート橋となった。<br /><br />現在の橋は全長約50m、幅42mの単純鋼床板箱桁橋。橋の幅が広いのは22mの道路の両側に10mの広い歩道があるからで、歩道には親柱やベンチなどがある。橋の南東のたもとには大谷石造りの公衆トイレがある。1995年に設置された。<br /><br />3時45分頃、宇都宮二荒山神社前に到着。正式名称は二荒山神社だが、日光にも二荒山神社があるため、宇都宮を被せて表記される。ただし、この神社は「ふたあらやま」と読むが、日光は「ふたらさん」と読む。古くは宇都宮大明神などとも呼ばれた。現在は通称として「二荒さん」とも呼ばれる。<br /><br />蝦夷(えみし)平定のためこの地に足を踏み入れた第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命が宇都宮の開祖と云われるが、古墳時代の353年(仁徳天皇41年)にその豊城入彦命を神として祀り、創建された。宇都宮はこの神社の門前町として発展した。22代・500年に亘って下野国を治めた下野宇都宮氏が神社座主を務めた。<br /><br />宇都宮市の中心部、標高約135mの臼ヶ峰(明神山)山頂に鎮座する。元々の鎮座地は現在地から大通りを隔てた南側にある荒尾崎(現下之宮)辺りだったが、838年に現在地に遷座した。<br /><br />大通りの北側に建つ大鳥居は2008年に建てられたものだが、江戸時代の両部鳥居を復元したもの。樹齢400年の栃木県産のケヤキを用いており、高さ9.7m、幅13.8mで柱の直径は90cm。かつてあった鳥居は第2次大戦中に空襲で焼失し、その代わりとして1946年に明神鳥居が建てられたが、その鳥居も老朽化が進んだため現在のものに建て替えられた。<br /><br />大鳥居の奥の95段の石段を上る。突き当りの神門の手前左右に末社。右手は松尾神社(醸造の神)、荒神社(疫病鎮めの神)、水神社(水の守神)の3社。左手は剣宮(武徳の神)、十二社(肇国の神)、菅原神社(学問の神)の3社で、その奥に針霊碑と筆塚がある。針と筆の供養碑。<br /><br />神門は切妻・軒唐破風で門の両翼は入母屋造の廻廊となっている。1917年(大正6年)建造。廻廊下の石垣は江戸末期のもの。神門を抜けて、手水舎(下の写真4)で手を清め先に進むと突き当りに拝殿があり、その奥に本殿。社殿は創建以来何度も火災に遭っており、現在の社殿は戊辰戦争による焼失後の1877年(明治10年)に仮社殿として再建されたもの。<br /><br />社殿左手奥には末社の穀物の神である倉稲魂命(うかのみたま)を祀った初辰稲荷神社、安産の神である三穂津姫(みほつひめ)を祀った女体宮、県内延喜式内社を合祀した十社宮などがある。初辰稲荷神社の横にある明神の井は宇都宮の名所だった七木・七水・八河原の一つを復興したもの。この井戸の水は御神水であり霊水で、御手水にあるいは神棚に供える御水に、また書道等の技芸の水に使うと上達すると云われる。<br /><br />社殿右手奥には同じく末社の須賀神社と市神社。須賀神社は疫病を防ぐ神である牛頭天王を祀り、市神社は市・商業の神である大市姫命をお祀りしている。その前に植えられている銀杏の木の根元には「精子の動きの撮影に成功したイチョウ記念碑」がある。銀杏は精子を作って受精するが、その精子は1896年に発見されたが、1972年にその写真をこの銀杏のギンナンで初めて撮影に成功した。<br /><br />境内右手の神馬像は1189年(文治5年)に源頼朝公が奥州征伐の折、宇都宮大明神に戦勝を祈願し、凱陣にあたり御神恩報賽のため神馬を献納された由来に基づき、1980年に奉納された。その奥の入母屋造の神楽殿は1886年(明治19年)に建てられたもの。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24913365911640098&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />上ってきた石段を下り、大鳥居の南側に城址公園まで続く通りに進むが続く

栃木 宇都宮 二荒山神社(Futaarayama-jinja Shrine,Utsunomiya,Tochigi,Japan)

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2022/05/17 - 2022/05/17

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年5月17日(火)3時半前、宇都宮駅東口のホテルから駅の東西自由通路を抜けて西口に移動し、宇都宮市内観光開始。宇都宮市は栃木県の中部に位置する栃木県の県庁所在地。関東平野の中北部にあたり、日光連山から連なる山地が収束して平野部となる境界域に開けている。

標高は市中心部で約100m。北西部に低山地がある以外、土地は概ね平坦。東部に鬼怒川、中央部に田川と釜川、西部に姿川が流れ、それぞれ流域に沖積平野を形成している。面積416.85平方kmは栃木県の25市町村で4番目に大きい。

人口は50万人を越えており、県人口の1/4以上を占め、栃木県のみならず北関東最多。1970年代からずっと増え続けてきたが、2018年の約52万人をピークに減少に転じている。

この辺りは紀元前より人の生活の場で、古代には毛野国に、令制国時代には下野国に属した。平安時代中期(10世紀中頃)、二荒山神社の神官としてこの地に赴任した摂関家藤原北家魚名流の藤原秀郷が現在の城址公園に館を築く。

その後(11世紀初め)、栃木県官職と二荒山神社神官に就任した藤原北家道兼流の藤原宗円が宇都宮氏を名乗り(3代目朝綱から正式(?)に宇都宮姓となる)、宇都宮はその直轄地として栄える。城下に多数の仏教寺院を建立して宇都宮は東国の都であったと比喩されることもあった。

豊臣秀吉が、全国統一後、その足で宇都宮城に滞在し、徳川家康や伊達政宗等が訪れ関東・東北の大名配置を決め(宇都宮仕置)、宇都宮城は戦国時代終結の地となった。その後、宇都宮氏は家臣を配置したい秀吉によって22代、約500年続いた領地を没収され、浅野長政が城代となる。

江戸時代に入ると、徳川家康の腹心である本多正純が城主となり、宿場機能を併せ持つ近世宇都宮城下町を整備し、宇都宮宿は5街道の日光街道・奥州街道の2道の追分となり、街道一の繁盛地として大いに賑わった。江戸時代後期は戸田氏が入封し幕末まで宇都宮を治めた。

1868年の戊辰戦争では、新政府側に付いた宇都宮藩に対して、土方歳三らが率いる旧幕府軍が攻撃を仕掛ける。後に宇都宮城の戦いと呼ばれるこの戦いで、宇都宮城や二荒山神社の他2400件の家屋が焼失し、死傷者は300人以上に及んだ。最終的には新政府軍の勝利となり、旧幕府軍は明神山から日光方面に向け退却した。

日露戦争後は軍備拡大により第14師団司令部が置かれ、太平洋戦争が終わるまで軍都と呼ばれ軍需産業も進出したが、1945年7月の宇都宮空襲では600名を超える市民が死亡し、主要な都市構造物が焼失、残った遺構の多くも戦後の戦災復興事業の過程で消失した。戦後は、内陸型近代工業を中心とする近代産業都市として発展した。

宇都宮の名は前述の宇都宮氏から来たものだが、その由来には沢山の説があり、定かでない。前述の二荒山神社が下野国唯一の一宮名神大社であり、その一ノ宮が訛ったとか、二荒山神社の別号「宇津宮大明神」から来たとか、東(宇)の都の宮殿(関東の都)とか。他にも「うづ高き宮」、「うつし(遷し)の宮」、「内の宮」、「征討(討つ)の宮」、「現の宮」など。

1871年(明治4年)に廃藩置県により宇都宮藩が廃止され、宇都宮県が設置され、県庁舎が宇都宮城内に置かれる。1873年(明治6年)に宇都宮県は栃木県へ併合され、県庁も栃木に移るが、1884年(明治17年)に宇都宮へ移転される。

1889年(明治22年)の町制施行により正式に宇都宮町が誕生し、1896年(明治29年)に市制施行する。昭和に入り順次周辺町村を編入し、最終的に2007年に河内町並びに上河内町を編入合併して人口50万人に到達した。

宇都宮に関連する著名人としては、一部だが、政治家の渡辺文雄(1929年生れ、中央小学校卒業)や枝野幸男(1964年生れ、宇都宮高校卒業)。小説家の立松和平(1947年生れ)も宇都宮高校卒業で、門井慶喜(1971年生れ)は宇都宮東高校卒業、お笑いコンビ阿佐ヶ谷姉妹の姉、渡辺江里子(1972年生れ)は宇都宮女子高校卒業。

サックス奏者の渡辺貞夫(1933年生れ、宇都宮工業高校卒業)、サッカーの松本育夫(1941年生れ、宇都宮工業高校卒業)、女子サッカー選手の安藤梢(1982年生れ、宇都宮女子高校卒業)や鮫島彩(1987年生れ、田原中学校卒業)らも。「二十歳の原点」の高野悦子(1949年生れ、宇都宮女子高校卒業)はほとんどの人が知らないかな。私の大学の先輩。

作新学院は特にスポーツ関係の強豪なので、著名な卒業生が沢山いる。最初に上げるのはやっぱ私と同い年の野球の江川卓(1955年生れ、静岡の佐久間中学校卒)。完全試合を達成した八木沢荘六(1944年生れ、現日光市出身)、競泳の萩野公介(1994年生れ、小山市出身)、車いすテニスの大谷桃子(1995年生れ、栃木市出身)、シンガーの斉藤和義(1966年生れ、壬生町出身)も。

その他、東京ヤクルトスワローズ(Swallows)の選手、監督で活躍した真中満(1971年生れ)は大田原市出身で宇都宮学園高校(現文星芸術大学附属高校)卒業。サッカーの元日本代表選手、黒崎久志(1968年生れ)も同じ高校の卒業生だが、鹿沼市出身。

宇都宮市の西で採掘される大谷石は帝国ホテル建設などにも使われ、関東大震災での安全実績が評価され、その後は関東各地の建造物の建材として汎用された。採石場にある大谷資料館や大谷石を使った宇都宮聖ヨハネ教会には前回来た時に行った。

宇都宮駅西口には宇都宮餃子像がある(下の写真1)。ビーナスが餃子の皮に包まれた「餃子のビーナス」を彫った高さ1.6m、重さ1.7トンの削りだしの石像で、特産の大谷石を使用している。現代彫刻家の西松鉱二氏がデザインを担当した。1994年のテレ東系バラエティ番組「おまかせ!山田商会」の企画で、宇都宮市とのタイアップとして作られた。当初は東口の歩行者広場に設置されていたが、2008年10月の再開発に伴い西口へ移転した。

その先のひびき像は、1983年に建立された大きなモニュメントで、高橋剛と篠崎明雄という正統派の彫刻家による裸体像。宇都宮市の市民憲章をテーマとして建てられた(下の写真2)。

西口から市街地の西方に伸びる宇都宮市のメインストリートの大通りを歩きだす。江戸時代初頭に二荒山神社と宇都宮城の間を貫く東西方向の街道として整備し直したのが起源。ただし当時は一直線の通りではなかった。

明治維新後の1884年(明治17年)に県庁を栃木から宇都宮に移す際に現行の直線的な大通りが整備された。翌1885年(明治18年)に大通りの突き当りに宇都宮駅が開業し、この通りは駅前通りとなった。大正から昭和初期にかけて膨張し、この通り沿いは商業地として確立された。

大通りを西に歩くとすぐに田川に架かる宮の橋を渡る(下の写真3)。田川は日光を源流とし小山から田川放水路を経て鬼怒川に合流する一級河川。宮の橋は1886年(明治19年)に宇都宮駅と市街地を結ぶ橋として架けられた。その名は宇都宮の宮が付けられた。

現在の橋は1992年にかけられた4代目の橋。最初は1886年(明治19年)に木橋が架けられ、1909年(明治42年)頃に鉄材を用いた橋に建て替えられ、1957年(昭和32年)にのプレストレスト・コンクリート橋となった。

現在の橋は全長約50m、幅42mの単純鋼床板箱桁橋。橋の幅が広いのは22mの道路の両側に10mの広い歩道があるからで、歩道には親柱やベンチなどがある。橋の南東のたもとには大谷石造りの公衆トイレがある。1995年に設置された。

3時45分頃、宇都宮二荒山神社前に到着。正式名称は二荒山神社だが、日光にも二荒山神社があるため、宇都宮を被せて表記される。ただし、この神社は「ふたあらやま」と読むが、日光は「ふたらさん」と読む。古くは宇都宮大明神などとも呼ばれた。現在は通称として「二荒さん」とも呼ばれる。

蝦夷(えみし)平定のためこの地に足を踏み入れた第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命が宇都宮の開祖と云われるが、古墳時代の353年(仁徳天皇41年)にその豊城入彦命を神として祀り、創建された。宇都宮はこの神社の門前町として発展した。22代・500年に亘って下野国を治めた下野宇都宮氏が神社座主を務めた。

宇都宮市の中心部、標高約135mの臼ヶ峰(明神山)山頂に鎮座する。元々の鎮座地は現在地から大通りを隔てた南側にある荒尾崎(現下之宮)辺りだったが、838年に現在地に遷座した。

大通りの北側に建つ大鳥居は2008年に建てられたものだが、江戸時代の両部鳥居を復元したもの。樹齢400年の栃木県産のケヤキを用いており、高さ9.7m、幅13.8mで柱の直径は90cm。かつてあった鳥居は第2次大戦中に空襲で焼失し、その代わりとして1946年に明神鳥居が建てられたが、その鳥居も老朽化が進んだため現在のものに建て替えられた。

大鳥居の奥の95段の石段を上る。突き当りの神門の手前左右に末社。右手は松尾神社(醸造の神)、荒神社(疫病鎮めの神)、水神社(水の守神)の3社。左手は剣宮(武徳の神)、十二社(肇国の神)、菅原神社(学問の神)の3社で、その奥に針霊碑と筆塚がある。針と筆の供養碑。

神門は切妻・軒唐破風で門の両翼は入母屋造の廻廊となっている。1917年(大正6年)建造。廻廊下の石垣は江戸末期のもの。神門を抜けて、手水舎(下の写真4)で手を清め先に進むと突き当りに拝殿があり、その奥に本殿。社殿は創建以来何度も火災に遭っており、現在の社殿は戊辰戦争による焼失後の1877年(明治10年)に仮社殿として再建されたもの。

社殿左手奥には末社の穀物の神である倉稲魂命(うかのみたま)を祀った初辰稲荷神社、安産の神である三穂津姫(みほつひめ)を祀った女体宮、県内延喜式内社を合祀した十社宮などがある。初辰稲荷神社の横にある明神の井は宇都宮の名所だった七木・七水・八河原の一つを復興したもの。この井戸の水は御神水であり霊水で、御手水にあるいは神棚に供える御水に、また書道等の技芸の水に使うと上達すると云われる。

社殿右手奥には同じく末社の須賀神社と市神社。須賀神社は疫病を防ぐ神である牛頭天王を祀り、市神社は市・商業の神である大市姫命をお祀りしている。その前に植えられている銀杏の木の根元には「精子の動きの撮影に成功したイチョウ記念碑」がある。銀杏は精子を作って受精するが、その精子は1896年に発見されたが、1972年にその写真をこの銀杏のギンナンで初めて撮影に成功した。

境内右手の神馬像は1189年(文治5年)に源頼朝公が奥州征伐の折、宇都宮大明神に戦勝を祈願し、凱陣にあたり御神恩報賽のため神馬を献納された由来に基づき、1980年に奉納された。その奥の入母屋造の神楽殿は1886年(明治19年)に建てられたもの。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.24913365911640098&type=1&l=223fe1adec


上ってきた石段を下り、大鳥居の南側に城址公園まで続く通りに進むが続く

  • 写真1 宇都宮餃子像

    写真1 宇都宮餃子像

  • 写真2 ひびき像

    写真2 ひびき像

  • 写真3 宮の橋から宇都宮駅

    写真3 宮の橋から宇都宮駅

  • 写真4 手水舎

    写真4 手水舎

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