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2022年5月19日(木)朝の8時過ぎ、衆議院第一議員会館と衆議院第二議員会館の間の山王坂を西に下って行く。江戸時代には日枝神社(山王社)の西側には、外堀の一部である溜池があり、赤坂側から入ることが出来ず、この坂道が表参道として利用されたことから山王坂と呼ばれるようになった。明治時代には近くに豪商鹿島清兵衛の屋敷があったので鹿島坂とも呼ばれた。<br /><br />江戸時代には坂の上に第一鳥居が、坂の下に第二鳥居があり、坂の北側には門前町屋が並んでおり、将軍やその名代を務めた大名たちも、この坂道を通って日枝神社に参詣していた。いったん坂を下ってから少し上がったところ、官幣大社日枝神社の碑が建つ交差点を左に折れるとすぐに右手に鳥居と結構急な石段がある。この石段が日枝神社の表参道。<br /><br />日枝神社は古くから「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「江戸山王大権現」「麹町山王」や「山王社」と称され、氏子にとっては「お山」であり、一般には常に「山王さん」の名で親しまれて来た。<br /><br />山王は主祭神の大山咋神(おおやまくいのかみ)の別名。名前の「くい」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされる。日枝神社がある高台も山王台と呼ばれて来た。<br /><br />日枝神社は神田神社の神田祭、富岡八幡宮の深川祭と並ぶ江戸三大祭の一つ、山王祭が行われる神社。赤坂の北東に隣接し、そこにも大きな鳥居と裏参道が設けられていることや、近くに赤坂氷川神社が鎮座していることもあり、赤坂(の)日枝神社と通称されることが多い。<br /><br />元々は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀り、戦国時代の1478年に太田道灌が江戸城内に鎮護の神として川越山王社を勧請したのに始まる。川越山王社は円仁(慈覚大師)が平安時代の830年に天台宗の喜多院を創建したおりに、その鎮守として近江、坂本の日吉大社を勧請したもの。<br /><br />日吉大社より勧請を受けた神社は全国に50社ほどあるが、全て日枝神社と称される。その名は比叡山の古名である日枝山(ひえのやま)から来ている。日吉(ひよし)大社の「日吉」もかつては「ひえ」と読まれた。<br /><br />1590年に徳川家康が江戸に移封された際に、城内の紅葉山に遷座し江戸城の鎮守とした。1604年からの2代将軍秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町(現在の国立劇場附近)に遷座し、庶民が参拝できるようになった。<br /><br />1657年の明暦の大火により社殿を焼失したため、2年後の1659年に4代将軍家綱が赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に当てる形で現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する。<br /><br />江戸後期の1823年に楼門、回廊などを造営したが、国宝に指定されていた本殿、幣殿、拝殿、中門、透塀などと共に1945年の東京大空襲で焼失した。現在の社殿は1958年に再建されたもの。<br /><br />意外なことに、日枝神社は明治の初めの東京の酪農誕生の地域でもあった。1873年(明治6年)には氏子地域にすでに7軒の牧場があった。数年後には芝三田や麹町三番町、木挽町、向柳原、麹町霞ヶ関、駿河台に牧場が開設され、平川町、永田町、三崎町、錦町などにもたくさんの乳牛が飼われてそうで、日本の畜産の黎明はこの社の地域からスタートした。いや、全くイメージできない・・・<br /><br />石段の入口に立つ鳥居は山王鳥居と呼ばれる鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗ったもの。仏教の胎臓界、金剛界と神道の合一を表現している。鳥居の先に続く石段は鳥居左側のゆるやかな坂を女坂と呼ぶのに対して山王男坂と呼ばれる。<br /><br />山王男坂を上りきると左手に手水舎と宝物殿。宝物殿は1978年に行われた江戸城内御鎮座500年大祭の記念事業として、その翌年に造営された。国宝・重要文化財を含む刀剣31口の他、徳川将軍家ゆかりの宝物が多数所蔵されている。入館無料だが、火曜・金曜以外の10時から16時までが開館時間で、閉まってたわ。<br /><br />石段の突き当りに建つ神門は戦後再建されたもの。門の左右に随身が祀られた随身門。境内に入ると正面に本殿、右手に祈祷殿(山王夢御殿)がある。本殿は前述のように1958年の再建。祈祷殿は1999年に建てられたもの。本殿両サイドには狛犬ならぬ狛猿があり、向かって右側が父猿で、左側の母猿は子猿を抱えている。御祭神である大山咋神が山の神であることから、山の守り神とされる猿が守っている。<br /><br />境内奥を北側に出ると末社の猿田彦神社、八坂神社、山王稲荷神社が祀られている。猿田彦神はみちひらきの大神とよばれ、物事をよい方向へ導いてくれると云う。八坂神社は疫病退散。山王稲荷神社は日枝神社が現在の場所に移される以前からこの地に鎮座していたと云われる地主神。地震や戦火などを免れて現在まで残った千代田区内唯一の江戸時代初期の木造建築で千代田区の文化財にも指定されている。<br /><br />この末社の奥には千本鳥居の美しい稲荷参道が日枝神社の高台をぐるりと囲む周回道路の西端まで降りている。なかなか趣のある参道。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.25117221351254552&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />8時20分過ぎ、山王切通坂もしくは遅刻坂と呼ばれる日枝神社西側から北側に回り込む坂道を上がっていくと、坂の頂上辺りに日比谷高校の正門がある(下の写真1)。日比谷高校は最初の東京府立中学として1878年(明治11年)に現在の文京区本郷にて東京府第一中学(府立一中)の名称で開校した都立高校。<br /><br />現在の「日比谷」という名称は、1950年(昭和25年)に校名が改称された際に、1929年(昭和4年)に現在地に移転する前の校地だった日比谷(現在の検察庁界隈)に因んで命名された。ちなみに校地は、最初の本郷(現在の水道橋界隈)から神田一ツ橋(現在の学士会館)、内山下町(現在の帝国ホテル界隈)、日比谷を経ている。<br /><br />また校名も東京府第一中学から東京府中学、東京府尋常中学校、東京府中学校、東京府第一中学校、東京府立第一中学校、東京都立第一中学校、東京都立第一新制高等学校を経て現校名となった。<br /><br />古くからの名門で首相(阿部信行(1875年生れ))、ノーベル賞受賞者(利根川進(39年生れ))、五輪金メダリスト(西竹一(02年生れ))を初めとして多くの著名人を輩出しており、上げると切りがないが、最近テレビなど見掛ける私より若い人だとニュースキャスターの安藤優子(58年生れ)や元官僚の岸博幸(62年生れ)しかいないかしら・・・<br /><br />現在の校地は江戸時代には岸和田藩岡部家の上屋敷があったところで、高校が出来る前は煙草王と呼ばれた村井吉兵衛の山王荘と呼ばれた邸宅が建っていた。正門はその時代のもの。<br /><br />日比谷高校正門前から坂道を降りて、再び山王坂に入り、一番低くなっている辺りで北に向かう道に折れて日比谷高校のグランドの東側を進むと三べ坂(下の写真2)。参議院議長公邸と旧永田町小学校の間を、日比谷高校グラウンドを右に見て日枝神社の方に下る坂で江戸時代に岡部筑前守、安部摂津守、渡辺丹後守の、「べ」が付く3大名の屋敷があったことから名付けられた。また、坂の上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂御門の御水番役を兼ねていたことから、この坂は水坂とも呼ばれていた。<br /><br />三べ坂の左手には参議院議長公邸(下の写真3)。参議院議長の住居および迎賓施設。1961年に完成した建物は銅板葺の切妻屋根で和洋折衷の作りとなっており、本館、事務棟、居住棟の3棟からなる。西側の2001年に建て替えられた衆議院議長の住居および迎賓施設である衆議院議長公邸と隣接している。<br /><br />江戸時代には松江松平藩上屋敷、俗に云う雲州屋敷があったところ。三べ坂の参議院議長公邸の入口の左手に華族女学校の遺蹟碑が建っているが、現在の参議院議長公邸がある旧雲州屋敷の東半分には1889年(明治22年)から1918年(大正7年)には現在の学習院女子中・高等科の前身の華族女学校があった。<br /><br />1885年(明治18年)に皇族・華族子女のための官立の教育機関として華族女学校として四谷(現在の初等科所在地)に創立された後、この地に移転。1906年(明治39年)に学習院に併合され学習院女学部となるが、1918年(大正7年)に女子学習院として再び独立し、青山の現在の秩父宮ラグビー場のある所へ移転した。1945年の山の手空襲で校舎が炎上、戦後に現在地(新宿区戸山)に移転、1947年(昭和22年)の学制改革により、学習院及び女子学習院が両者一体化し学習院女子と改称した。<br /><br />写真はないが、西側の衆議院議長公邸の北側には東京女学館発祥の地のプレートがある。1888年(明治21年)、現在の衆議院議長公邸がある旧雲州屋敷の西半分に現在は渋谷区広尾にある東京女学館中学校・高校が設立された。華族女学校が移転して来る1年前。<br /><br />ただし、東京女学館は2年後の1890年に虎ノ門の旧工部大学校生徒館跡へ移転する(その後1923年(大正12年)の関東大震災で現在地に移転)。東京女学館の跡地は、1896年(明治29年)に江戸中期に京都で創設された四親王家の一つの閑院宮(かんいんのみや)家の邸宅となったが、戦後の1947年(昭和22年)にGHQの指令により閑院宮家を含む11宮家は皇籍離脱となり、邸宅は売却された。<br /><br />三べ坂の北側突き当りの青山通りで折り返すように右手の国道246号線永田町バイパスに入るとすぐ左手に自由民主党本部(下の写真4)。よく中継で出てくるとこ。1966年に竣工した地上9階、地下3階の建物で正式には自由民主会館と云う。江戸時代には鳥居丹波守の屋敷だった。<br /><br />その先の交差点を右手(南側)に折れると参議院議員会館(下の写真5)。参議院議員の執務室。衆議院第一議員会館と衆議院第二議員会館に並んだ北側にあり、2つの衆議院議員会館同様12階建てで2010年竣工。地下は3階で、地下鉄の地下通路に直結している。江戸時代には岡部藩安部家上屋敷があった場所。<br /><br /><br />議員会館と道を隔てた東側にある国会議事堂へ、予約していた見学に向かうが、続く

東京 千代田区 永田町 日枝神社(Hie-jinja Shrine,Nagatacho,Chiyoda,Tokyo,Japan)

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2022/05/19 - 2022/05/19

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年5月19日(木)朝の8時過ぎ、衆議院第一議員会館と衆議院第二議員会館の間の山王坂を西に下って行く。江戸時代には日枝神社(山王社)の西側には、外堀の一部である溜池があり、赤坂側から入ることが出来ず、この坂道が表参道として利用されたことから山王坂と呼ばれるようになった。明治時代には近くに豪商鹿島清兵衛の屋敷があったので鹿島坂とも呼ばれた。

江戸時代には坂の上に第一鳥居が、坂の下に第二鳥居があり、坂の北側には門前町屋が並んでおり、将軍やその名代を務めた大名たちも、この坂道を通って日枝神社に参詣していた。いったん坂を下ってから少し上がったところ、官幣大社日枝神社の碑が建つ交差点を左に折れるとすぐに右手に鳥居と結構急な石段がある。この石段が日枝神社の表参道。

日枝神社は古くから「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「江戸山王大権現」「麹町山王」や「山王社」と称され、氏子にとっては「お山」であり、一般には常に「山王さん」の名で親しまれて来た。

山王は主祭神の大山咋神(おおやまくいのかみ)の別名。名前の「くい」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされる。日枝神社がある高台も山王台と呼ばれて来た。

日枝神社は神田神社の神田祭、富岡八幡宮の深川祭と並ぶ江戸三大祭の一つ、山王祭が行われる神社。赤坂の北東に隣接し、そこにも大きな鳥居と裏参道が設けられていることや、近くに赤坂氷川神社が鎮座していることもあり、赤坂(の)日枝神社と通称されることが多い。

元々は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀り、戦国時代の1478年に太田道灌が江戸城内に鎮護の神として川越山王社を勧請したのに始まる。川越山王社は円仁(慈覚大師)が平安時代の830年に天台宗の喜多院を創建したおりに、その鎮守として近江、坂本の日吉大社を勧請したもの。

日吉大社より勧請を受けた神社は全国に50社ほどあるが、全て日枝神社と称される。その名は比叡山の古名である日枝山(ひえのやま)から来ている。日吉(ひよし)大社の「日吉」もかつては「ひえ」と読まれた。

1590年に徳川家康が江戸に移封された際に、城内の紅葉山に遷座し江戸城の鎮守とした。1604年からの2代将軍秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町(現在の国立劇場附近)に遷座し、庶民が参拝できるようになった。

1657年の明暦の大火により社殿を焼失したため、2年後の1659年に4代将軍家綱が赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に当てる形で現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する。

江戸後期の1823年に楼門、回廊などを造営したが、国宝に指定されていた本殿、幣殿、拝殿、中門、透塀などと共に1945年の東京大空襲で焼失した。現在の社殿は1958年に再建されたもの。

意外なことに、日枝神社は明治の初めの東京の酪農誕生の地域でもあった。1873年(明治6年)には氏子地域にすでに7軒の牧場があった。数年後には芝三田や麹町三番町、木挽町、向柳原、麹町霞ヶ関、駿河台に牧場が開設され、平川町、永田町、三崎町、錦町などにもたくさんの乳牛が飼われてそうで、日本の畜産の黎明はこの社の地域からスタートした。いや、全くイメージできない・・・

石段の入口に立つ鳥居は山王鳥居と呼ばれる鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗ったもの。仏教の胎臓界、金剛界と神道の合一を表現している。鳥居の先に続く石段は鳥居左側のゆるやかな坂を女坂と呼ぶのに対して山王男坂と呼ばれる。

山王男坂を上りきると左手に手水舎と宝物殿。宝物殿は1978年に行われた江戸城内御鎮座500年大祭の記念事業として、その翌年に造営された。国宝・重要文化財を含む刀剣31口の他、徳川将軍家ゆかりの宝物が多数所蔵されている。入館無料だが、火曜・金曜以外の10時から16時までが開館時間で、閉まってたわ。

石段の突き当りに建つ神門は戦後再建されたもの。門の左右に随身が祀られた随身門。境内に入ると正面に本殿、右手に祈祷殿(山王夢御殿)がある。本殿は前述のように1958年の再建。祈祷殿は1999年に建てられたもの。本殿両サイドには狛犬ならぬ狛猿があり、向かって右側が父猿で、左側の母猿は子猿を抱えている。御祭神である大山咋神が山の神であることから、山の守り神とされる猿が守っている。

境内奥を北側に出ると末社の猿田彦神社、八坂神社、山王稲荷神社が祀られている。猿田彦神はみちひらきの大神とよばれ、物事をよい方向へ導いてくれると云う。八坂神社は疫病退散。山王稲荷神社は日枝神社が現在の場所に移される以前からこの地に鎮座していたと云われる地主神。地震や戦火などを免れて現在まで残った千代田区内唯一の江戸時代初期の木造建築で千代田区の文化財にも指定されている。

この末社の奥には千本鳥居の美しい稲荷参道が日枝神社の高台をぐるりと囲む周回道路の西端まで降りている。なかなか趣のある参道。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.25117221351254552&type=1&l=223fe1adec

8時20分過ぎ、山王切通坂もしくは遅刻坂と呼ばれる日枝神社西側から北側に回り込む坂道を上がっていくと、坂の頂上辺りに日比谷高校の正門がある(下の写真1)。日比谷高校は最初の東京府立中学として1878年(明治11年)に現在の文京区本郷にて東京府第一中学(府立一中)の名称で開校した都立高校。

現在の「日比谷」という名称は、1950年(昭和25年)に校名が改称された際に、1929年(昭和4年)に現在地に移転する前の校地だった日比谷(現在の検察庁界隈)に因んで命名された。ちなみに校地は、最初の本郷(現在の水道橋界隈)から神田一ツ橋(現在の学士会館)、内山下町(現在の帝国ホテル界隈)、日比谷を経ている。

また校名も東京府第一中学から東京府中学、東京府尋常中学校、東京府中学校、東京府第一中学校、東京府立第一中学校、東京都立第一中学校、東京都立第一新制高等学校を経て現校名となった。

古くからの名門で首相(阿部信行(1875年生れ))、ノーベル賞受賞者(利根川進(39年生れ))、五輪金メダリスト(西竹一(02年生れ))を初めとして多くの著名人を輩出しており、上げると切りがないが、最近テレビなど見掛ける私より若い人だとニュースキャスターの安藤優子(58年生れ)や元官僚の岸博幸(62年生れ)しかいないかしら・・・

現在の校地は江戸時代には岸和田藩岡部家の上屋敷があったところで、高校が出来る前は煙草王と呼ばれた村井吉兵衛の山王荘と呼ばれた邸宅が建っていた。正門はその時代のもの。

日比谷高校正門前から坂道を降りて、再び山王坂に入り、一番低くなっている辺りで北に向かう道に折れて日比谷高校のグランドの東側を進むと三べ坂(下の写真2)。参議院議長公邸と旧永田町小学校の間を、日比谷高校グラウンドを右に見て日枝神社の方に下る坂で江戸時代に岡部筑前守、安部摂津守、渡辺丹後守の、「べ」が付く3大名の屋敷があったことから名付けられた。また、坂の上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂御門の御水番役を兼ねていたことから、この坂は水坂とも呼ばれていた。

三べ坂の左手には参議院議長公邸(下の写真3)。参議院議長の住居および迎賓施設。1961年に完成した建物は銅板葺の切妻屋根で和洋折衷の作りとなっており、本館、事務棟、居住棟の3棟からなる。西側の2001年に建て替えられた衆議院議長の住居および迎賓施設である衆議院議長公邸と隣接している。

江戸時代には松江松平藩上屋敷、俗に云う雲州屋敷があったところ。三べ坂の参議院議長公邸の入口の左手に華族女学校の遺蹟碑が建っているが、現在の参議院議長公邸がある旧雲州屋敷の東半分には1889年(明治22年)から1918年(大正7年)には現在の学習院女子中・高等科の前身の華族女学校があった。

1885年(明治18年)に皇族・華族子女のための官立の教育機関として華族女学校として四谷(現在の初等科所在地)に創立された後、この地に移転。1906年(明治39年)に学習院に併合され学習院女学部となるが、1918年(大正7年)に女子学習院として再び独立し、青山の現在の秩父宮ラグビー場のある所へ移転した。1945年の山の手空襲で校舎が炎上、戦後に現在地(新宿区戸山)に移転、1947年(昭和22年)の学制改革により、学習院及び女子学習院が両者一体化し学習院女子と改称した。

写真はないが、西側の衆議院議長公邸の北側には東京女学館発祥の地のプレートがある。1888年(明治21年)、現在の衆議院議長公邸がある旧雲州屋敷の西半分に現在は渋谷区広尾にある東京女学館中学校・高校が設立された。華族女学校が移転して来る1年前。

ただし、東京女学館は2年後の1890年に虎ノ門の旧工部大学校生徒館跡へ移転する(その後1923年(大正12年)の関東大震災で現在地に移転)。東京女学館の跡地は、1896年(明治29年)に江戸中期に京都で創設された四親王家の一つの閑院宮(かんいんのみや)家の邸宅となったが、戦後の1947年(昭和22年)にGHQの指令により閑院宮家を含む11宮家は皇籍離脱となり、邸宅は売却された。

三べ坂の北側突き当りの青山通りで折り返すように右手の国道246号線永田町バイパスに入るとすぐ左手に自由民主党本部(下の写真4)。よく中継で出てくるとこ。1966年に竣工した地上9階、地下3階の建物で正式には自由民主会館と云う。江戸時代には鳥居丹波守の屋敷だった。

その先の交差点を右手(南側)に折れると参議院議員会館(下の写真5)。参議院議員の執務室。衆議院第一議員会館と衆議院第二議員会館に並んだ北側にあり、2つの衆議院議員会館同様12階建てで2010年竣工。地下は3階で、地下鉄の地下通路に直結している。江戸時代には岡部藩安部家上屋敷があった場所。


議員会館と道を隔てた東側にある国会議事堂へ、予約していた見学に向かうが、続く

  • 写真1 日比谷高校正門

    写真1 日比谷高校正門

  • 写真2 三べ坂

    写真2 三べ坂

  • 写真3 参議院議長公邸

    写真3 参議院議長公邸

  • 写真4 自由民主党本部

    写真4 自由民主党本部

  • 写真5 参議院議員会館

    写真5 参議院議員会館

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