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2022年3月13日(日)9時過ぎ、掛川城へ到着。桶狭間で討たれた今川義元の息子氏真が武田に追われて逃げ込んだ城で、名門今川氏の終焉の地となった城。ただし、現在に残る城郭の構造の基本的な部分は、その後安土桃山時代に整えられたもの。<br /><br />元々は室町時代中期の文明年間(1469年から87年)に守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられる。当初は龍頭山より北東にある子角山(現在の掛川第1小学校グランドの北)に築かれ、現在天守閣が建つ龍頭山の城は1513年に新たに築城されたもの。<br /><br />安土桃山時代に入った1568年、上述のように朝比奈氏の主君の今川氏真が甲斐の武田信玄に駿府(静岡)を攻められ、朝比奈泰朝の守る掛川城に逃げ延びた。掛川城は徳川勢の包囲に遭ったが、5ヶ月城を守り続けた。この時、徳川勢はかつての城があった子角山を拠点としたという説がある。<br /><br />1569年2月、氏真の身の安全を条件に泰朝は掛川城を開城。氏真と泰朝は相模の北条氏の小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の母方の従兄で、あの石川数正の叔父に当たる石川家成と息子の康通が入り、家康の関東移封まで石川氏が城代を務めた。<br /><br />1590年、家康の関東移封に伴い、秀吉の直臣であった山内一豊が掛川城に入る。一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。<br /><br />1600年の関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移つり、その後、掛川城には多くの譜代大名が入った。最終的には太田道灌一族の太田氏が入り、何度か城の修築も行われている。家康は1614年の大坂冬の陣に際しこの城に泊まっている。2代将軍秀忠は1617年、3代将軍家光は1634年、それぞれ上洛の際に宿泊している。14代家茂も1865年の第二次長州征討に向かう途中に宿泊している。<br /><br />幕末の1854年末、東海地方一帯を大地震が襲い(安政東海地震)、掛川城も天守を含む大半の建物が倒壊。政務所である二ノ丸御殿は1861年までに再建されたが、天守は再建されることはなかった。<br /><br />本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城。<br /><br />明治の廃城令によって廃城処分とされ、建物の一部を残して撤去され、道路や庁舎の建設によって大半の遺構が撤去されている。現在は1854年に倒壊した天守や大手門などの一部の建物、塀が復元され、堀や土塁、石塁の復元が行われている。<br /><br />まずは逆川を渡らずに、緑橋の上流に架かる大手橋のたもとの大手門へ。城の玄関にあたる正門で、1995年に復元されたもの。大手門は番所や厩、奉行所が置かれた大手郭を挟んで、旧東海道側にこの復元された一の門があり、逆川を越えた城内側に二の門があった。二の門は、袋井市村松の油山寺に移築されている。1644年に幕府が集めた正保城地図では、右下の部分になる。<br /><br />復元された一の門は。間口7間(12.7m)、奥行3間(5.4m)の木造日本瓦葺き入母屋、楼門造りの二層式の櫓門。白壁で板ひさしが配され、棟上に鯱瓦が飾られた勇壮な構え。<br /><br />門の内側には礎石根固め石が展示されている。礎石根固め石は、門の基礎に置かれる礎石とその基部に置かれた河原石の総称で、直径2m、深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4~5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれるという構造。<br /><br />1993年の発掘調査で復元された位置より50m南(門の南側交差点の少し南)に12ヶ所の礎石根固め石が確認されたが、新しい道路との関係で現在地に復元された。この連雀(連尺)町に大手門を移したのは山内一豊で、それ以前の大手門は緑橋の1本下流に架かる松尾橋辺りの松尾口にあった。<br /><br />大手門の内側にある大手門番所は江戸時代末期に建てられたもので、城内に出入りする者を監視する役人の詰め所だった。掛川宿と掛川城とを連絡する唯一の番所で、城内に出入りする者は全てここで調べられた。<br /><br />現在残されている建物は、1854年の大地震で倒壊後、1859年に再現されたもので、番所が現存するのは全国的にも珍しく、市の文化財に指定されている。<br /><br />番所の北側にある三光稲荷大明神は山内一豊の改築時に大手郭と大手厩の鎮守として勧請されたもの。南北朝時代の始めの後醍醐天皇吉野御幸の際、深夜に伏見稲荷の辺りで迷われた時に一群の雲が現れ三つの灯が行き先を照らした故事から三光と呼ばれる。多くの武士達が戦勝を祈願しその妻達が無事を祈った。現在は受験合格、家内安全等に多くの人がお参りする。<br /><br />逆川沿いを下流の緑橋に進む。川沿いの掛川桜が満開手前で、お城の天守閣との眺めが素晴らしい。掛川桜は掛川市で育成されたカンビザクラ系統の品種で、逆川沿いの両岸約2kmに渡り約300本が植えられている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9973685146034753&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />本丸跡に進むが、続く

静岡 掛川城 大手門(Main Gate of Kakegawa Castel,Kakegawa,Shizuoka,Japan)

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2022/03/13 - 2022/03/13

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年3月13日(日)9時過ぎ、掛川城へ到着。桶狭間で討たれた今川義元の息子氏真が武田に追われて逃げ込んだ城で、名門今川氏の終焉の地となった城。ただし、現在に残る城郭の構造の基本的な部分は、その後安土桃山時代に整えられたもの。

元々は室町時代中期の文明年間(1469年から87年)に守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられる。当初は龍頭山より北東にある子角山(現在の掛川第1小学校グランドの北)に築かれ、現在天守閣が建つ龍頭山の城は1513年に新たに築城されたもの。

安土桃山時代に入った1568年、上述のように朝比奈氏の主君の今川氏真が甲斐の武田信玄に駿府(静岡)を攻められ、朝比奈泰朝の守る掛川城に逃げ延びた。掛川城は徳川勢の包囲に遭ったが、5ヶ月城を守り続けた。この時、徳川勢はかつての城があった子角山を拠点としたという説がある。

1569年2月、氏真の身の安全を条件に泰朝は掛川城を開城。氏真と泰朝は相模の北条氏の小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の母方の従兄で、あの石川数正の叔父に当たる石川家成と息子の康通が入り、家康の関東移封まで石川氏が城代を務めた。

1590年、家康の関東移封に伴い、秀吉の直臣であった山内一豊が掛川城に入る。一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。

1600年の関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移つり、その後、掛川城には多くの譜代大名が入った。最終的には太田道灌一族の太田氏が入り、何度か城の修築も行われている。家康は1614年の大坂冬の陣に際しこの城に泊まっている。2代将軍秀忠は1617年、3代将軍家光は1634年、それぞれ上洛の際に宿泊している。14代家茂も1865年の第二次長州征討に向かう途中に宿泊している。

幕末の1854年末、東海地方一帯を大地震が襲い(安政東海地震)、掛川城も天守を含む大半の建物が倒壊。政務所である二ノ丸御殿は1861年までに再建されたが、天守は再建されることはなかった。

本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城。

明治の廃城令によって廃城処分とされ、建物の一部を残して撤去され、道路や庁舎の建設によって大半の遺構が撤去されている。現在は1854年に倒壊した天守や大手門などの一部の建物、塀が復元され、堀や土塁、石塁の復元が行われている。

まずは逆川を渡らずに、緑橋の上流に架かる大手橋のたもとの大手門へ。城の玄関にあたる正門で、1995年に復元されたもの。大手門は番所や厩、奉行所が置かれた大手郭を挟んで、旧東海道側にこの復元された一の門があり、逆川を越えた城内側に二の門があった。二の門は、袋井市村松の油山寺に移築されている。1644年に幕府が集めた正保城地図では、右下の部分になる。

復元された一の門は。間口7間(12.7m)、奥行3間(5.4m)の木造日本瓦葺き入母屋、楼門造りの二層式の櫓門。白壁で板ひさしが配され、棟上に鯱瓦が飾られた勇壮な構え。

門の内側には礎石根固め石が展示されている。礎石根固め石は、門の基礎に置かれる礎石とその基部に置かれた河原石の総称で、直径2m、深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4~5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれるという構造。

1993年の発掘調査で復元された位置より50m南(門の南側交差点の少し南)に12ヶ所の礎石根固め石が確認されたが、新しい道路との関係で現在地に復元された。この連雀(連尺)町に大手門を移したのは山内一豊で、それ以前の大手門は緑橋の1本下流に架かる松尾橋辺りの松尾口にあった。

大手門の内側にある大手門番所は江戸時代末期に建てられたもので、城内に出入りする者を監視する役人の詰め所だった。掛川宿と掛川城とを連絡する唯一の番所で、城内に出入りする者は全てここで調べられた。

現在残されている建物は、1854年の大地震で倒壊後、1859年に再現されたもので、番所が現存するのは全国的にも珍しく、市の文化財に指定されている。

番所の北側にある三光稲荷大明神は山内一豊の改築時に大手郭と大手厩の鎮守として勧請されたもの。南北朝時代の始めの後醍醐天皇吉野御幸の際、深夜に伏見稲荷の辺りで迷われた時に一群の雲が現れ三つの灯が行き先を照らした故事から三光と呼ばれる。多くの武士達が戦勝を祈願しその妻達が無事を祈った。現在は受験合格、家内安全等に多くの人がお参りする。

逆川沿いを下流の緑橋に進む。川沿いの掛川桜が満開手前で、お城の天守閣との眺めが素晴らしい。掛川桜は掛川市で育成されたカンビザクラ系統の品種で、逆川沿いの両岸約2kmに渡り約300本が植えられている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9973685146034753&type=1&l=223fe1adec


本丸跡に進むが、続く

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