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2022年3月11日(金)3時50分頃、駿府城本丸跡の沈床園を南に抜けると、中堀(下の写真1、2)に架かる二之丸橋がある。橋の南側の三の丸の部分には静岡県庁が建っている(下の写真3)。この橋は1957年の静岡国体の際に駿府城公園の出入口として新しく作られた橋。元々はこの橋から70m西側に二ノ丸御門橋が架かっていた。<br /><br />二之丸橋の内側の道を西側に進むと石垣に突き当たるが、ここが二ノ丸御門跡。突き当りを左に折れた先に今はなくなったが二ノ丸御門橋があった。大手御門から本丸へ向かう正面出入口に当たる橋で、橋の北側に二ノ丸御門(二ノ丸大手門)あった。<br /><br />二ノ丸御門は橋の北詰に高麗門があり、それを抜けると右手に渡櫓門がある枡形構造の門だった。渡櫓門の先は、今は二之丸橋の北側に通じているが、当時は中仕切りで区切られ、北側に曲がって本丸堀に突き当たり、堀沿いを東に進み、少し先の本丸の正面玄関である御玄関前御門に通じる橋に至っていた。本丸堀がなくなったので今は面影がない。<br /><br />二ノ丸御門跡の北側、今は二の丸御門跡広場として整備されている辺りには2代将軍秀忠が駿府に赴いた際に使用した御殿があり、西の丸と呼ばれていた。その奥、中堀の西南角には復元された坤(ひつじさる)櫓が建つ。<br /><br />駿府城の二ノ丸の南西隅にあった隅櫓で、1854年の安政地震で崩壊して以来、再建されてなかったが、2011年に復元工事が開始され、2014年に公開された。坤と云う名は、昔は方位に干支が用いられており、南西の方角は未と申の間であることからひつじさると呼んだことに由来している。<br /><br />櫓は矢蔵とも書かれ、平時は武器庫として使用されていたことに由来するが、戦さの時には、物見として、或いは、攻めて来る敵に対する攻撃拠点としての役割もあった。<br /><br />巽櫓と同様に、地域産の木材を中心に伝統的な工法で復元され、外観は2重の屋根で内部は3階構造となっている。外観や構造は宝暦年間(1750年代)の絵図資料「駿府御城惣指図」「駿府御城内外覚書」に基づいている。1階、2階は7間×7間、3階は5間×5間の広さがあり、2階には堀側に石落としを設け、敵の侵入を防ぐ工夫がなされていた。<br /><br />発掘調査では、櫓の北東側の基底部分(櫓台)に打ち込みハギの技法で積まれた石垣が角部分約2.5mの高さで確認されたが、現在は埋め戻して保存されている。<br /><br />内部は各階の床板と天井板をすべて取り外しており、1階から3階の梁まで見通すことができるので、伝統的な工法によって復元された櫓の構造が一目瞭然。また、床板の一部も取り外して、強化ガラスをはめ込んでいるため、そこに立てば、ほかのお城では絶対に見ることができない櫓の床下の構造をしっかり見ることができる。<br /><br />坤櫓を出ると左手の広場は富士見芝生広場と云い、雄大な富士山を一望できるビュースポット。この日は曇天で全く見えなかったが、天気がよければ写真の左側奥にかなり大きい富士山が見える。<br /><br />富士見芝生広場を左手(北)に進むと、戦争犠牲者追悼碑「とこしえ」とやすらぎの塔がある。「とこしえ」は1995年に建立されたもので、家康像などの作者の堤達男の次男で、やはり彫刻作家の堤直美の作品。静岡市は合計16回の米軍の空襲を受けており、特に1945年の6月19日から20日に掛けての無差別空襲では焼夷弾10万発が一般住宅にあびせられ、2000人を超える一般市民が殺された。<br /><br />やすらぎの塔は1958年に戦争で犠牲となった学生の慰霊碑として遺族らの寄付で建立された。作者は堤達男で、セメント製の像は高さ約4.5m、台座を含めて約10mあった。2001年4月の地震により男性像の頭部が破損し、その後像を台座から取り外し台座のみが残る。左右に灯火台もあるが、右側のも取り外されている。<br /><br />さらに北に進み、天守台発掘調査現場から左手(西)に進むと清水御門跡。清水御門は二の丸の西側に設けられた入口。中堀を木橋で渡り、高麗門を通り、石垣で囲まれた枡形を左に進み、渡櫓門を抜けて二ノ丸に入る構造だった。石垣の上には2階建ての多聞櫓があり、西側の守りを固めていた。橋は、はね橋だったという説もある。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9859157167487552&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />清水御門跡から三の丸跡に出て中堀沿いを北に進むと二の丸の北西角に達するが、ここには乾櫓が建っていた。乾(いぬい)は戌と亥の間で西北を示す。復元されてなく、土台の石垣の一部のみ残る(下の写真4)。<br /><br />乾櫓跡から西に進むと凱旋橋で外堀を渡り、旧駿府城域を出る。凱旋橋は外堀の西側に唯一架けらている橋で、1906年(明治39年)に架けられたもの。歩兵第34連隊が前年まで行われていた日露戦争に従軍していたので、その凱旋を祝して命名されたものと思われる(下の写真5)。<br /><br /><br />駿府城跡の観光を終了し、静岡浅間神社へ向かうが、続く

静岡 駿府城西の丸跡(Western Citadel area,Sumpu Castle,Shizuoka,Japan)

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2022/03/11 - 2022/03/11

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年3月11日(金)3時50分頃、駿府城本丸跡の沈床園を南に抜けると、中堀(下の写真1、2)に架かる二之丸橋がある。橋の南側の三の丸の部分には静岡県庁が建っている(下の写真3)。この橋は1957年の静岡国体の際に駿府城公園の出入口として新しく作られた橋。元々はこの橋から70m西側に二ノ丸御門橋が架かっていた。

二之丸橋の内側の道を西側に進むと石垣に突き当たるが、ここが二ノ丸御門跡。突き当りを左に折れた先に今はなくなったが二ノ丸御門橋があった。大手御門から本丸へ向かう正面出入口に当たる橋で、橋の北側に二ノ丸御門(二ノ丸大手門)あった。

二ノ丸御門は橋の北詰に高麗門があり、それを抜けると右手に渡櫓門がある枡形構造の門だった。渡櫓門の先は、今は二之丸橋の北側に通じているが、当時は中仕切りで区切られ、北側に曲がって本丸堀に突き当たり、堀沿いを東に進み、少し先の本丸の正面玄関である御玄関前御門に通じる橋に至っていた。本丸堀がなくなったので今は面影がない。

二ノ丸御門跡の北側、今は二の丸御門跡広場として整備されている辺りには2代将軍秀忠が駿府に赴いた際に使用した御殿があり、西の丸と呼ばれていた。その奥、中堀の西南角には復元された坤(ひつじさる)櫓が建つ。

駿府城の二ノ丸の南西隅にあった隅櫓で、1854年の安政地震で崩壊して以来、再建されてなかったが、2011年に復元工事が開始され、2014年に公開された。坤と云う名は、昔は方位に干支が用いられており、南西の方角は未と申の間であることからひつじさると呼んだことに由来している。

櫓は矢蔵とも書かれ、平時は武器庫として使用されていたことに由来するが、戦さの時には、物見として、或いは、攻めて来る敵に対する攻撃拠点としての役割もあった。

巽櫓と同様に、地域産の木材を中心に伝統的な工法で復元され、外観は2重の屋根で内部は3階構造となっている。外観や構造は宝暦年間(1750年代)の絵図資料「駿府御城惣指図」「駿府御城内外覚書」に基づいている。1階、2階は7間×7間、3階は5間×5間の広さがあり、2階には堀側に石落としを設け、敵の侵入を防ぐ工夫がなされていた。

発掘調査では、櫓の北東側の基底部分(櫓台)に打ち込みハギの技法で積まれた石垣が角部分約2.5mの高さで確認されたが、現在は埋め戻して保存されている。

内部は各階の床板と天井板をすべて取り外しており、1階から3階の梁まで見通すことができるので、伝統的な工法によって復元された櫓の構造が一目瞭然。また、床板の一部も取り外して、強化ガラスをはめ込んでいるため、そこに立てば、ほかのお城では絶対に見ることができない櫓の床下の構造をしっかり見ることができる。

坤櫓を出ると左手の広場は富士見芝生広場と云い、雄大な富士山を一望できるビュースポット。この日は曇天で全く見えなかったが、天気がよければ写真の左側奥にかなり大きい富士山が見える。

富士見芝生広場を左手(北)に進むと、戦争犠牲者追悼碑「とこしえ」とやすらぎの塔がある。「とこしえ」は1995年に建立されたもので、家康像などの作者の堤達男の次男で、やはり彫刻作家の堤直美の作品。静岡市は合計16回の米軍の空襲を受けており、特に1945年の6月19日から20日に掛けての無差別空襲では焼夷弾10万発が一般住宅にあびせられ、2000人を超える一般市民が殺された。

やすらぎの塔は1958年に戦争で犠牲となった学生の慰霊碑として遺族らの寄付で建立された。作者は堤達男で、セメント製の像は高さ約4.5m、台座を含めて約10mあった。2001年4月の地震により男性像の頭部が破損し、その後像を台座から取り外し台座のみが残る。左右に灯火台もあるが、右側のも取り外されている。

さらに北に進み、天守台発掘調査現場から左手(西)に進むと清水御門跡。清水御門は二の丸の西側に設けられた入口。中堀を木橋で渡り、高麗門を通り、石垣で囲まれた枡形を左に進み、渡櫓門を抜けて二ノ丸に入る構造だった。石垣の上には2階建ての多聞櫓があり、西側の守りを固めていた。橋は、はね橋だったという説もある。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9859157167487552&type=1&l=223fe1adec

清水御門跡から三の丸跡に出て中堀沿いを北に進むと二の丸の北西角に達するが、ここには乾櫓が建っていた。乾(いぬい)は戌と亥の間で西北を示す。復元されてなく、土台の石垣の一部のみ残る(下の写真4)。

乾櫓跡から西に進むと凱旋橋で外堀を渡り、旧駿府城域を出る。凱旋橋は外堀の西側に唯一架けらている橋で、1906年(明治39年)に架けられたもの。歩兵第34連隊が前年まで行われていた日露戦争に従軍していたので、その凱旋を祝して命名されたものと思われる(下の写真5)。


駿府城跡の観光を終了し、静岡浅間神社へ向かうが、続く

  • 写真1 二之丸橋から中堀東側

    写真1 二之丸橋から中堀東側

  • 写真2 二之丸橋から中堀西側

    写真2 二之丸橋から中堀西側

  • 写真3 静岡県庁

    写真3 静岡県庁

  • 写真4 乾櫓跡

    写真4 乾櫓跡

  • 写真5 凱旋橋

    写真5 凱旋橋

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