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2022年3月11日(金)3時前、静岡駅北口を出る。前述したように東海道線の北側は葵区になる。2005年に誕生した静岡市の3つの行政区の一つ。区名はもちろん徳川家の葵のご紋から来ている。市民公募の段階では北区、駿府区に次いで3位だったが、最終市民投票では北区は外され、代わりに青葉区が加えられ、葵区が41%の票を獲得した。<br /><br />合併する前の旧静岡市域の東海道本線以北エリアから旧長田村域を除いたもので、南北に異様に長く、面積は1100平方㎞近くあり、政令指定都市の行政区としては日本一の広さ。全国の市区町村でも22番目に広い。静岡市の約75%を占める。区の北部は南アルプスの山々が連なるが、谷間には温泉が点在し、観光客を集めている<br /><br />人口は約24万5千人で、静岡県の市区町では富士市に次ぐ2番目(静岡市と浜松市全体は除く)。ただし、ほとんどは区の南部の狭い平野部に集中している。減少傾向にある。<br /><br />区の出身者として、静岡市の項で上げてなかった方は、「パラサイト・イヴ」の作家、瀬名秀明が静岡高校卒。美保純は静岡精華学園高校中退。俳優のピエール瀧静岡東高校卒業。<br /><br />北西に伸びる御幸通りを進み、400mほど先の江川町交差点の先で右(北)に曲がると、城代橋がある。駿府城外濠に架かる橋で、天然石を加工した橋の標識が南詰の西側に建つ。1897年(明治30年)に石垣を壊して架けられた橋。名前は城代屋敷付近に架けたことから(下の写真1)。<br /><br />城代橋を渡って北に進むと、右手に1947年(昭和22年)に開校して1955年(昭和30年)にこの地に移った城内中学校があるが、この道沿いの石垣は元々駿府城に使われていたもので造られている。天守台発掘調査によって見つかった石垣の一部で、明治時代に崩されて元の位置が分からないものを使用している。2021年に設置されたもの。ちなみに俳優の保阪尚希、加藤諒、女優の佐津川愛美、サッカーの三浦泰年、カズ兄弟はこの中学の出身(下の写真2)。<br /><br />石垣沿いに北に進むと、左手前方に堀が見えて来る。駿府城中堀(二ノ丸堀)の南東角に当たる。駿府城には外堀・中堀・内堀(本丸堀)と3重の堀があったが、今も全体が残るのは中堀のみ。<br /><br />駿府城は戦国時代の1585年から徳川家康によって築城された城で、府中城、駿河府中城、静岡城とも呼ばれる。家康は1586年から1590年までこの城で過ごすが、秀吉により関東移封となる。しかし、江戸時代に入り秀忠に将軍職を譲った後、再びこの城に戻り、いわゆる大御所政治を行った。<br /><br />この時期に城は大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成した(下の写真3)。1607年に、失火で本丸御殿を焼失するが、1610年に再建される。1609年には家康の十男・頼宣が50万石で入封し駿府藩が復活したが、1633年以降は明治維新まで幕府の直轄地となり駿府城代が置かれた。<br /><br />1635年に城下の火災が城に延焼し大半を焼失する。その後、御殿・櫓・城門等が再建されるも、城主がいないため天守は再建されなかった。1707年には宝永地震により石垣等が大破し、建物も1/3焼失するが、修復される。1854年にも安政の大地震により駿府城内外の建物、石垣などほぼ全壊するが修復される。<br /><br />明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれたが、1869年(明治2年)の廃藩置県により城内の建物が破却され、南側が県庁敷地、それ以外は茶畑に転用される。1891年(明治24年)に静岡市に払い下げられ、中央公園となる。1896年(明治29年)に歩兵第34連隊の誘致に伴い、内堀(本丸堀)は埋められ、城郭施設が全て取り壊される。<br /><br />戦後になり、1949年(昭和24年)に大蔵省より静岡市に再度払い下げられ、旧本丸と二の丸は公園として整備される。2016年からは天守台発掘調査が行われている。また、旧三の丸には国・県・市の公共施設や国公私立教育施設が多数立地されている。<br /><br />中堀南東角から少し西側には2002年に東海道中膝栗毛発刊200年を記念して建てられた府中弥次喜多像がある(下の写真4)。作者の十返舎一九は1765年に現在の静岡市葵区両替町1丁目で駿府町奉行同心の子として生まれた。弥次さんは駿河国府中の大商店の主人で、喜多さんは清水江尻宿の生まれと云う設定。<br /><br />中堀沿いを弥次喜多像がある西側でなく、北側に進むとすぐ先に東御門橋が架かる。ここを渡ると駿府城公園となる。駿府城の跡地を利用して整備された公園で、1949年に中央公園として整備計画が策定され、1951年に市民アンケートにより駿府公園と命名され、2012年駿府城公園へ改称された。<br /><br />上述したように駿府城の中堀内側の旧本丸と二の丸を整備して作られた公園。2006年に都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会によって日本の歴史公園100選に選ばれた。東御門・巽櫓、坤櫓、紅葉山庭園は有料(共通券360円)で、午前9時から午後4時30分までオープン(入館は午後4時まで)。<br /><br />中堀の外側は家康公の散歩道として遊歩道が整備されている。「巽櫓と家康公の散歩道」として1988年度手づくり郷土賞(歴史をいかした街並み)受賞。<br /><br />明治時代に陸軍を誘致した際に埋められた内堀が一部発掘されている。また、富士見広場は公園内で唯一富士山が望める地点であり、その南西角に坤櫓が復元された。他にも、巽櫓や東御門なども復元され、資料館なども設置されている。さらに、徳川家康の像や、家康が植えたと伝えられているミカンなどもある。<br /><br />4月初めの静岡まつりや11月初めの大道芸ワールドカップin静岡など、様々なイベントの会場としても活用されている。また、災害時などの使用を想定したヘリポート用地が確保されている。<br /><br /><br />いよいよ駿府城公園へ入場するが、続く

静岡 駿府城公園(Sumpu Castle Park,Shizuoka,Japan)

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2022/03/11 - 2022/03/11

1147位(同エリア1501件中)

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年3月11日(金)3時前、静岡駅北口を出る。前述したように東海道線の北側は葵区になる。2005年に誕生した静岡市の3つの行政区の一つ。区名はもちろん徳川家の葵のご紋から来ている。市民公募の段階では北区、駿府区に次いで3位だったが、最終市民投票では北区は外され、代わりに青葉区が加えられ、葵区が41%の票を獲得した。

合併する前の旧静岡市域の東海道本線以北エリアから旧長田村域を除いたもので、南北に異様に長く、面積は1100平方㎞近くあり、政令指定都市の行政区としては日本一の広さ。全国の市区町村でも22番目に広い。静岡市の約75%を占める。区の北部は南アルプスの山々が連なるが、谷間には温泉が点在し、観光客を集めている

人口は約24万5千人で、静岡県の市区町では富士市に次ぐ2番目(静岡市と浜松市全体は除く)。ただし、ほとんどは区の南部の狭い平野部に集中している。減少傾向にある。

区の出身者として、静岡市の項で上げてなかった方は、「パラサイト・イヴ」の作家、瀬名秀明が静岡高校卒。美保純は静岡精華学園高校中退。俳優のピエール瀧静岡東高校卒業。

北西に伸びる御幸通りを進み、400mほど先の江川町交差点の先で右(北)に曲がると、城代橋がある。駿府城外濠に架かる橋で、天然石を加工した橋の標識が南詰の西側に建つ。1897年(明治30年)に石垣を壊して架けられた橋。名前は城代屋敷付近に架けたことから(下の写真1)。

城代橋を渡って北に進むと、右手に1947年(昭和22年)に開校して1955年(昭和30年)にこの地に移った城内中学校があるが、この道沿いの石垣は元々駿府城に使われていたもので造られている。天守台発掘調査によって見つかった石垣の一部で、明治時代に崩されて元の位置が分からないものを使用している。2021年に設置されたもの。ちなみに俳優の保阪尚希、加藤諒、女優の佐津川愛美、サッカーの三浦泰年、カズ兄弟はこの中学の出身(下の写真2)。

石垣沿いに北に進むと、左手前方に堀が見えて来る。駿府城中堀(二ノ丸堀)の南東角に当たる。駿府城には外堀・中堀・内堀(本丸堀)と3重の堀があったが、今も全体が残るのは中堀のみ。

駿府城は戦国時代の1585年から徳川家康によって築城された城で、府中城、駿河府中城、静岡城とも呼ばれる。家康は1586年から1590年までこの城で過ごすが、秀吉により関東移封となる。しかし、江戸時代に入り秀忠に将軍職を譲った後、再びこの城に戻り、いわゆる大御所政治を行った。

この時期に城は大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成した(下の写真3)。1607年に、失火で本丸御殿を焼失するが、1610年に再建される。1609年には家康の十男・頼宣が50万石で入封し駿府藩が復活したが、1633年以降は明治維新まで幕府の直轄地となり駿府城代が置かれた。

1635年に城下の火災が城に延焼し大半を焼失する。その後、御殿・櫓・城門等が再建されるも、城主がいないため天守は再建されなかった。1707年には宝永地震により石垣等が大破し、建物も1/3焼失するが、修復される。1854年にも安政の大地震により駿府城内外の建物、石垣などほぼ全壊するが修復される。

明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれたが、1869年(明治2年)の廃藩置県により城内の建物が破却され、南側が県庁敷地、それ以外は茶畑に転用される。1891年(明治24年)に静岡市に払い下げられ、中央公園となる。1896年(明治29年)に歩兵第34連隊の誘致に伴い、内堀(本丸堀)は埋められ、城郭施設が全て取り壊される。

戦後になり、1949年(昭和24年)に大蔵省より静岡市に再度払い下げられ、旧本丸と二の丸は公園として整備される。2016年からは天守台発掘調査が行われている。また、旧三の丸には国・県・市の公共施設や国公私立教育施設が多数立地されている。

中堀南東角から少し西側には2002年に東海道中膝栗毛発刊200年を記念して建てられた府中弥次喜多像がある(下の写真4)。作者の十返舎一九は1765年に現在の静岡市葵区両替町1丁目で駿府町奉行同心の子として生まれた。弥次さんは駿河国府中の大商店の主人で、喜多さんは清水江尻宿の生まれと云う設定。

中堀沿いを弥次喜多像がある西側でなく、北側に進むとすぐ先に東御門橋が架かる。ここを渡ると駿府城公園となる。駿府城の跡地を利用して整備された公園で、1949年に中央公園として整備計画が策定され、1951年に市民アンケートにより駿府公園と命名され、2012年駿府城公園へ改称された。

上述したように駿府城の中堀内側の旧本丸と二の丸を整備して作られた公園。2006年に都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会によって日本の歴史公園100選に選ばれた。東御門・巽櫓、坤櫓、紅葉山庭園は有料(共通券360円)で、午前9時から午後4時30分までオープン(入館は午後4時まで)。

中堀の外側は家康公の散歩道として遊歩道が整備されている。「巽櫓と家康公の散歩道」として1988年度手づくり郷土賞(歴史をいかした街並み)受賞。

明治時代に陸軍を誘致した際に埋められた内堀が一部発掘されている。また、富士見広場は公園内で唯一富士山が望める地点であり、その南西角に坤櫓が復元された。他にも、巽櫓や東御門なども復元され、資料館なども設置されている。さらに、徳川家康の像や、家康が植えたと伝えられているミカンなどもある。

4月初めの静岡まつりや11月初めの大道芸ワールドカップin静岡など、様々なイベントの会場としても活用されている。また、災害時などの使用を想定したヘリポート用地が確保されている。


いよいよ駿府城公園へ入場するが、続く

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  • 写真1 城代橋

    写真1 城代橋

  • 写真2 城内中学校石垣

    写真2 城内中学校石垣

  • 写真3 駿府城城縄張り図

    写真3 駿府城城縄張り図

  • 写真4 府中弥次喜多像

    写真4 府中弥次喜多像

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