掛川旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2022年3月13日(日)9時15分頃、掛川駅から北へ続く城下町通りの逆川に架かる緑橋の北詰へ。左手奥が掛川城の本丸だったところで、橋を渡った北西の一角に懸河旧址の案内柱が建つコーナーがあり、正保絵図の掛川城モニュメントや松尾池跡の説明、それに休憩所やトイレなどがある。<br /><br />案内柱の説明によると東から流れて来た逆川はこの辺りで城山(龍頭山)にぶつかって、川は深い淵となり崖を作ったそうで、懸河と呼ばれるようになり、それが掛川の由来となったと。確かに古地図によると川は南に蛇行しており、ここには松尾池と云う本丸南側の堀があったようだ(下の写真1)。<br /><br />少し北に左手に登る石段があり、その先に三日月堀がある。名前の通り三日月状の堀で深さは8mある。中世城郭で武田氏の築城技術の特徴が表れた堀の形で、近世城郭ではその影響に及んだ関東から中部地方にかけての土塁積みを残す城で、丸い形の馬出しの外を囲んで防御するために発達した。<br /><br />三日月堀の手前の石段を上がり、四足門から本丸跡に入る。二の丸から本丸へ通じる門で、発掘調査では門の跡は発見されなかったが、正保城絵図を元に薬医門形式で1994年に復元された。門の内側には入城者を調べる番所があった。<br /><br />四足門を抜けると正保城絵図と発掘調査結果を基に作成された有田製磁器製の掛川城復元模型がある(下の写真2)。その奥には十露盤(そろばん)堀。名前の由来ははっきりしないが、水が溜まった部分がそろばんの箱のように見えたことからと考えられている。<br /><br />古地図によると元々は天守丸の東側から北側まで続く内堀だったようだが、正保城絵図では北堀とは切り離され、さらに明治に入り天守丸とこの堀の間にあった腰曲輪を削った土で埋め立てられてしまい、今は南側の三分の一ぐらいのみ復元されている。<br /><br />本丸に進むには三日月堀の両サイドからこの十露盤堀と今はなくなった松尾池の間を抜けなければならず、三日月堀の背後に配備された防御兵の攻撃を交わして虎口(城の出入口)に入るのはかなり難しかったようだ。まあ、この城は山内一豊の築城以後、襲われたことはないが・・・<br /><br />奥に進むと左手に、下からも見えた太鼓櫓。内部見学は出来ない。城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物で、元は三の丸東南隅にあった。1854年の大地震以後に三層櫓が倒壊した跡に建てられたが、明治廃城の時に移築される。その後再び城内に移されるが、最終的に1955年に三の丸から現在置に改築の上、移築された。この場所には、正保城絵図では荒和布(あらめ)櫓と呼ばれる見張りの櫓があった。<br /><br />太鼓櫓の奥のチケット売場で天守閣と御殿の共通入場券を購入(410円)(下の写真3)。チケット売場の前は広場になっており、花広場(本丸広場)として整備されており、季節の花が植えられている。この時期、サクラみくじも置かれており、願い事が書かれた御籤がたくさん枝に結ばれていた。<br /><br />天守閣が建つ天守丸(曲輪)への階段を上ると腰櫓台跡へ。上述した腰曲輪の櫓が建っていたところ。さらに階段を上っていくと天守下門跡。天守曲輪入口の二層の櫓門が建っていたところだが、現在は簡易な冠木門が建っている。<br /><br />天守曲輪に入るとすぐ左手に丸霧吹き井戸。1569年に朝比奈泰朝と今川氏真が家康に攻められてこの城に籠った時に、この井戸から立ち込めた霧が城を包み、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説がある。 工事中で井戸枠がなかった。<br /><br />そして、いよいよ天守閣へ。天守閣は1590年に山内一豊が掛川城に入った後に初めて建てたもので、朝比奈泰朝と今川氏真の籠城時にはなかったもの。1513年に子角山の旧掛川城から現在地に城を移す以前には、ここは南に傾斜した谷地で、普請時に谷を埋め立てて、本丸空間を確保したが天守閣は建てられてなかった。<br /><br />天守閣は1604年の大地震で倒壊し1621年に再建され、創建時の姿は不明だが、再建後の姿は掛川市二の丸美術館蔵の「遠江国掛川城御天守台石垣土手崩所絵図」に描かれている。嘉永安政地震で崩落した天守台石垣と芝土手の被害状況を北東の方角から俯瞰して描いた絵図で、倒壊前の掛川城天守の姿が描かれている。<br /><br />それに依ると、2重目以上が板壁で、2重目に唐破風出窓に華頭窓をもつ層塔型の天守がある。3重目の壁は黒く縦横に線が描かれているため、戸板で囲まれた内縁高欄で、当初は外縁高欄であったと推測されている。その貴族的な外観を持つ美しさは東海の名城と謳われた。再建された天守とは、廻り縁高欄がないことや各階壁面が下見板張りであるなど、異なっている部分もある。<br /><br />その天守閣は1854年の嘉永東海地震により再び倒壊し、その後は再建されず、天守台などの遺構が残るのみだった。そして1994年になって、市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造による天守が再建された。復元には和釘が使用されてる。屋根を守る鯱は青銅製。2006年に日本城郭協会による日本100名城に選定された。<br /><br />外観3層、内部4層の入母屋造の天守閣は、織豊(信長・秀吉)期以降の近世の天守閣として復元整備された。山内一豊が掛川城の天守と同様の姿に建てさせたとされる高知城の天守を参考にしてそれに近い構造としている。2重目の唐破風出窓や慶長時代の様式といわれる花頭窓などが、絵図などの調査に基づいて忠実に再現されている。<br /><br />本体は大きいものではないが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付櫓を設けたりして外観を大きく、複雑に見せている。1階、2階に比べ4階の望楼部が極端に小さいのは、殿舎の上に物見のための望楼を載せた出現期の天守閣のなごりと云える。白漆喰塗り籠めの真っ白な外容は京都聚楽第の建物に、黒塗りの廻縁・高欄は大阪城天守閣にならったと考えらている。<br /><br />天守台の石垣は17世紀中頃18世紀のものを解体し、積み直しされた。南面と西面に山内期の自然石、粗割石が用いられている。天守台は基盤となる地層の地山の一部に盛り土をした上に石垣を築いたもので、木製地の上に築いたため安政の大地震で東・北面が崩れ落ちていた。<br /><br />入口となっている付櫓への階段を上がり、さらに短い階段を上がり天守閣に入る(下の写真4)。上がったところは天守閣の2階に当たる。1階からの階段の正面に山内一豊公騎馬像。高知城下の騎馬像と同じ姿のようだ。<br />https://www.facebook.com/photo/?fbid=881151595288199&amp;set=a.881151375288221<br />2003年に91歳で亡くなった山内家第18代当主の山内豊秋氏寄贈の江戸時代の鎧と兜もある。<br /><br />騎馬像横の急な階段を上ってまずは最上階へ(下の写真5)。4方向に大きく窓が開いて、城下を見通すことが出来る。西側、逆川下流の北側にあるのは甲子園常連校の掛川西高校の校舎。掛川市・菊川市出身の漫画家がこの高校を舞台に作品を描いているそうだが、全く知らない。旧制の掛川中学も含めて、各界に著名人もいるのだが、ごめんなさい、知らない・・・<br /><br />南側は上って来た本丸広場を見降ろす。逆川の掛川桜並木が美しい。通って来た腰櫓台跡の先にライトアップ用の照明器具やソーラーパネルがあるが上って来た時には気が付かなかった。景観に配慮し板張りにしてるんだ。イイね! 東側にはこの後向かう御殿など二の丸があり、北側は掛川西校のグランドなど。<br /><br />階段を降りると、天守屋根の鯱の原寸大複製品や石落としや狭間などがある。鯱は想像上の海魚で、火除けのまじないとされ、古代寺院などの大棟の両端に取り付けられていた鴟尾(しび)から変化したものと考えられている。石落としは床の一部を石垣の上に張り出させて、敵が攻めてきた時に床板を開け、そこから石を落としたりして攻撃するためのもの。狭間は鉄砲や弓矢で敵を攻撃するための穴。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9995841797152421&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />腰櫓台跡まで戻って、二の丸へ向かうが、続く

静岡 掛川城 本丸跡(Inner Citadel area,Kakegawa Castel,Kakegawa,Shizuoka,Japan)

3いいね!

2022/03/13 - 2022/03/13

475位(同エリア576件中)

旅行記グループ 静岡・平塚

0

5

ちふゆ

ちふゆさん

2022年3月13日(日)9時15分頃、掛川駅から北へ続く城下町通りの逆川に架かる緑橋の北詰へ。左手奥が掛川城の本丸だったところで、橋を渡った北西の一角に懸河旧址の案内柱が建つコーナーがあり、正保絵図の掛川城モニュメントや松尾池跡の説明、それに休憩所やトイレなどがある。

案内柱の説明によると東から流れて来た逆川はこの辺りで城山(龍頭山)にぶつかって、川は深い淵となり崖を作ったそうで、懸河と呼ばれるようになり、それが掛川の由来となったと。確かに古地図によると川は南に蛇行しており、ここには松尾池と云う本丸南側の堀があったようだ(下の写真1)。

少し北に左手に登る石段があり、その先に三日月堀がある。名前の通り三日月状の堀で深さは8mある。中世城郭で武田氏の築城技術の特徴が表れた堀の形で、近世城郭ではその影響に及んだ関東から中部地方にかけての土塁積みを残す城で、丸い形の馬出しの外を囲んで防御するために発達した。

三日月堀の手前の石段を上がり、四足門から本丸跡に入る。二の丸から本丸へ通じる門で、発掘調査では門の跡は発見されなかったが、正保城絵図を元に薬医門形式で1994年に復元された。門の内側には入城者を調べる番所があった。

四足門を抜けると正保城絵図と発掘調査結果を基に作成された有田製磁器製の掛川城復元模型がある(下の写真2)。その奥には十露盤(そろばん)堀。名前の由来ははっきりしないが、水が溜まった部分がそろばんの箱のように見えたことからと考えられている。

古地図によると元々は天守丸の東側から北側まで続く内堀だったようだが、正保城絵図では北堀とは切り離され、さらに明治に入り天守丸とこの堀の間にあった腰曲輪を削った土で埋め立てられてしまい、今は南側の三分の一ぐらいのみ復元されている。

本丸に進むには三日月堀の両サイドからこの十露盤堀と今はなくなった松尾池の間を抜けなければならず、三日月堀の背後に配備された防御兵の攻撃を交わして虎口(城の出入口)に入るのはかなり難しかったようだ。まあ、この城は山内一豊の築城以後、襲われたことはないが・・・

奥に進むと左手に、下からも見えた太鼓櫓。内部見学は出来ない。城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物で、元は三の丸東南隅にあった。1854年の大地震以後に三層櫓が倒壊した跡に建てられたが、明治廃城の時に移築される。その後再び城内に移されるが、最終的に1955年に三の丸から現在置に改築の上、移築された。この場所には、正保城絵図では荒和布(あらめ)櫓と呼ばれる見張りの櫓があった。

太鼓櫓の奥のチケット売場で天守閣と御殿の共通入場券を購入(410円)(下の写真3)。チケット売場の前は広場になっており、花広場(本丸広場)として整備されており、季節の花が植えられている。この時期、サクラみくじも置かれており、願い事が書かれた御籤がたくさん枝に結ばれていた。

天守閣が建つ天守丸(曲輪)への階段を上ると腰櫓台跡へ。上述した腰曲輪の櫓が建っていたところ。さらに階段を上っていくと天守下門跡。天守曲輪入口の二層の櫓門が建っていたところだが、現在は簡易な冠木門が建っている。

天守曲輪に入るとすぐ左手に丸霧吹き井戸。1569年に朝比奈泰朝と今川氏真が家康に攻められてこの城に籠った時に、この井戸から立ち込めた霧が城を包み、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説がある。 工事中で井戸枠がなかった。

そして、いよいよ天守閣へ。天守閣は1590年に山内一豊が掛川城に入った後に初めて建てたもので、朝比奈泰朝と今川氏真の籠城時にはなかったもの。1513年に子角山の旧掛川城から現在地に城を移す以前には、ここは南に傾斜した谷地で、普請時に谷を埋め立てて、本丸空間を確保したが天守閣は建てられてなかった。

天守閣は1604年の大地震で倒壊し1621年に再建され、創建時の姿は不明だが、再建後の姿は掛川市二の丸美術館蔵の「遠江国掛川城御天守台石垣土手崩所絵図」に描かれている。嘉永安政地震で崩落した天守台石垣と芝土手の被害状況を北東の方角から俯瞰して描いた絵図で、倒壊前の掛川城天守の姿が描かれている。

それに依ると、2重目以上が板壁で、2重目に唐破風出窓に華頭窓をもつ層塔型の天守がある。3重目の壁は黒く縦横に線が描かれているため、戸板で囲まれた内縁高欄で、当初は外縁高欄であったと推測されている。その貴族的な外観を持つ美しさは東海の名城と謳われた。再建された天守とは、廻り縁高欄がないことや各階壁面が下見板張りであるなど、異なっている部分もある。

その天守閣は1854年の嘉永東海地震により再び倒壊し、その後は再建されず、天守台などの遺構が残るのみだった。そして1994年になって、市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造による天守が再建された。復元には和釘が使用されてる。屋根を守る鯱は青銅製。2006年に日本城郭協会による日本100名城に選定された。

外観3層、内部4層の入母屋造の天守閣は、織豊(信長・秀吉)期以降の近世の天守閣として復元整備された。山内一豊が掛川城の天守と同様の姿に建てさせたとされる高知城の天守を参考にしてそれに近い構造としている。2重目の唐破風出窓や慶長時代の様式といわれる花頭窓などが、絵図などの調査に基づいて忠実に再現されている。

本体は大きいものではないが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付櫓を設けたりして外観を大きく、複雑に見せている。1階、2階に比べ4階の望楼部が極端に小さいのは、殿舎の上に物見のための望楼を載せた出現期の天守閣のなごりと云える。白漆喰塗り籠めの真っ白な外容は京都聚楽第の建物に、黒塗りの廻縁・高欄は大阪城天守閣にならったと考えらている。

天守台の石垣は17世紀中頃18世紀のものを解体し、積み直しされた。南面と西面に山内期の自然石、粗割石が用いられている。天守台は基盤となる地層の地山の一部に盛り土をした上に石垣を築いたもので、木製地の上に築いたため安政の大地震で東・北面が崩れ落ちていた。

入口となっている付櫓への階段を上がり、さらに短い階段を上がり天守閣に入る(下の写真4)。上がったところは天守閣の2階に当たる。1階からの階段の正面に山内一豊公騎馬像。高知城下の騎馬像と同じ姿のようだ。
https://www.facebook.com/photo/?fbid=881151595288199&set=a.881151375288221
2003年に91歳で亡くなった山内家第18代当主の山内豊秋氏寄贈の江戸時代の鎧と兜もある。

騎馬像横の急な階段を上ってまずは最上階へ(下の写真5)。4方向に大きく窓が開いて、城下を見通すことが出来る。西側、逆川下流の北側にあるのは甲子園常連校の掛川西高校の校舎。掛川市・菊川市出身の漫画家がこの高校を舞台に作品を描いているそうだが、全く知らない。旧制の掛川中学も含めて、各界に著名人もいるのだが、ごめんなさい、知らない・・・

南側は上って来た本丸広場を見降ろす。逆川の掛川桜並木が美しい。通って来た腰櫓台跡の先にライトアップ用の照明器具やソーラーパネルがあるが上って来た時には気が付かなかった。景観に配慮し板張りにしてるんだ。イイね! 東側にはこの後向かう御殿など二の丸があり、北側は掛川西校のグランドなど。

階段を降りると、天守屋根の鯱の原寸大複製品や石落としや狭間などがある。鯱は想像上の海魚で、火除けのまじないとされ、古代寺院などの大棟の両端に取り付けられていた鴟尾(しび)から変化したものと考えられている。石落としは床の一部を石垣の上に張り出させて、敵が攻めてきた時に床板を開け、そこから石を落としたりして攻撃するためのもの。狭間は鉄砲や弓矢で敵を攻撃するための穴。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9995841797152421&type=1&l=223fe1adec


腰櫓台跡まで戻って、二の丸へ向かうが、続く

  • 写真1 松尾池説明

    写真1 松尾池説明

  • 写真2 掛川城復元模型説明

    写真2 掛川城復元模型説明

  • 写真3 入場券売場

    写真3 入場券売場

  • 写真4 天守閣1階

    写真4 天守閣1階

  • 写真5 天守閣最上階

    写真5 天守閣最上階

3いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

静岡・平塚

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP