掛川旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2022年3月13日(日)朝7時半頃、ホテルで、買っておいたパンなどの朝食を食べて、無料サービスのコーヒーを飲み、静岡駅南口へ(下の写真1)。静岡を発つ前に土産と駅弁を購入する(下の写真2と3)。<br /><br />8時6分発の東海道本線下り列車に乗車(下の写真4)。8時51分に掛川に到着する。掛川駅は東海道新幹線、東海道本線と天竜浜名湖鉄道の駅。1889年(明治22年)に官設鉄道の静岡・浜松間開通に伴って開業。1895年(明治28年)に線路名称が制定され、東海道線(東海道本線)の所属となる。その後1987年にJR東海に承継された。<br /><br />東海道新幹線の駅はJR東海へ移行後の1988年に新規開業した駅。各駅停車のこだまのみ停車。同時開業の新富士と三河安城も同様だが、その中では利用者数は一番多く、さらにひかりの一部も停車する岐阜羽島と米原も上回わる。<br /><br />天竜浜名湖鉄道は旧二俣線を前身とする第三セクター鉄道。旧二俣線は1935年(昭和10年)に掛川から遠江森まで開通し、全線は1940年(昭和15年)に開通した。1987年に三セク化されて天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線となった。<br /><br />改札は北口、南口および乗換口があり、各改札と在来線ホームは地下通路と跨線橋で結ばれている。南口からは新幹線構内に直接入出場できる。<br /><br />北口にある現在の駅舎は1940年(昭和15年)建てられた二代目木造駅舎を外観そのままに2014年に耐震化して立て直したもので、元々の駅舎に使われていた和釘や木材が再利用されている。駅舎東側に線路下を通る自由通路があり、改札内を通らずに南北を往来できる。新幹線高架下にはアスティ掛川がある。<br /><br />在来線は単式ホーム1面1線、島式ホーム1面2線の合計2面3線のホームを有する地上駅。新幹線は相対式ホーム2面2線を有する高架駅。特徴として他の新幹線停車駅より駅に進入する側の待避線の距離が長く、下りは約700m、上りは約1200mある。このため、待避列車が待避線へ分岐した後、ホームへ到着するまでの間に、後続列車が本線を通過する事象も見られる。<br /><br />天竜浜名湖鉄道は頭端式ホーム1面2線を有する地上駅で、JR東海とは別改札になっている。JR線とは線路が繋がっており、新型車両の引渡しが行われるほか、検測車が入線する際も当駅を経由している。<br /><br />昔から何度も通過している駅だが、記憶に残る出来事としては2002年6月の日韓ワールドカップの時。エコパに行った帰り、東京方面に帰る観客のために運行された深夜新幹線「特別号」に乗車した。愛野から在来線で来て、掛川を11時半に出て、東京着は深夜の0時49分だった。<br /><br />その後出張で何度か乗り降りしたことがあるが、最後に利用したのは2007年の8月。この時はプライベートで、東京から来て天竜浜名湖鉄道に乗り換えた。この駅で電車を降りるのはその時以来。<br /><br />掛川駅はもちろん掛川市の中心駅。掛川市は私にとってはつま恋がある町。初めて来たのは1985年夏の拓郎の「ONE LAST NIGHT IN つま恋」。「吉田拓郎 &amp; かぐや姫 Concert in つま恋 2006」にも来た。1975年はまだ学生で来てないんだよなあ~<br /><br />ちなみに上で書かなかったが、初めて掛川駅で降りたのはこの1985年のコンサートの時。まだ新幹線の駅はなかった時代。駅前は全然覚えてないけど、駅から結構遠くて、暑い中、山道を歩いて行ったことは覚えてる。2006年の時は車で来たので、電車は利用してない。<br /><br />さて、掛川市だが、静岡県西部の遠州にあり、牧之原台地の西に位置する。南北に約30km、東西に約16kmで、西から時計回りに袋井市、森町、島田市、菊川市、御前崎市に囲まれる。南は遠州灘。北側は南アルプス最南端の山並みが続き、市中心部の南、遠州灘との間には標高265mの小笠山山系が広がる。面積は約265平方kmで、静岡県の35自治体で7番目に広い。人口約11万3千人は県内で9位。<br /><br />掛川の名前は諸説あるが、市の中心部を東から西に流れる逆川の流れが、切り立った崖のように見える点から「缺けた川」と呼ばれ、次第に略されて「懸川」となり、最終的に「掛川」になったと云う。ちなみに地元では「かけがわ」は平板でなく「け」にアクセントを置くらしい。<br /><br />鎌倉時代の歴史書に「懸川」の名が残るが、歴史の表舞台に名が出てくるのは戦国時代。名門今川氏の終焉の地とも云えるのが掛川城。1567年、駿府を信玄に攻められ籠城していた今川氏真は家康に攻められ、和睦を結んで北条氏に逃げ延びた。また、家康と信玄の戦いでは度々高天神城が登場する。<br /><br />秀吉の全国平定後には山内一豊が掛川城に入るが、江戸時代に高知城に入封される。掛川藩と横須賀藩が樹立するが、歴代藩主はかなり入れ替わる。その後、明治まで大きな出来事は起こっていない。<br /><br />掛川町の成立は町村制施行が行われた1889年(明治22年)。その後徐々に町域を増やし、戦後の1954年(昭和29年)に市制を施行して掛川市となる。ただし、現在の掛川市とは別物。現在の掛川市が誕生したのは2005年。(旧)掛川市と大東町、大須賀町が対等合併して誕生した。<br /><br />全国最大規模の緑茶の栽培地。合併によって牧之原市が成立するまでは、荒茶の生産量全国1位だった。また、新幹線の駅や東名のインターチェンジ開設により工業団地の誘致に成功、拠点都市としての性質を強めると同時に製造品出荷額1兆円を超える県内有数の工業都市となった。<br /><br />高校野球の常連の掛川西高校もあるが、あまり誰でも知ってるような出身の著名人はいない。漫才「ラバーガール」の背の低い方の飛永君は掛川工業高校卒業。コメディアン(俳優?)の伊東四朗さんは掛川で疎開時代を過ごされたそうだ。それくらいかな。<br /><br />北口改札を出ると上述した木造駅舎。昔の駅のようで趣がある。駅舎を出ると右手の線路沿いにでかいステンレスのモニュメントがある。掛川出身の世界的屋外芸術作家ジュン・スズキ(鈴木淳)氏の「玄」と云う作品。東洋思想上宇宙の「玄」を表しているそうで、1988年の新幹線駅開業時に南口の「合体」と云う作品と対で設置された。<br /><br />北口のロータリーを渡っていくと二宮金次郎の像もある。掛川には二宮尊徳の報徳思想を信条とする公益社団法人の大日本報徳社が本部を置いていることから、「玄」同様に1988年に設置された。明治神宮宝物殿にある岡崎雪聲原作の像を三倍拡大したもの。現存する金次郎像のほとんどが左手に本を持っているがこの像は右手に持っている。<br /><br />この像の近くには奴さんからくり時計。1997年に掛川市出身の飯田芙美枝さんが寄贈したもので、朝8時から夜9時までの毎正時、童謡「おさるのかごや」が流れて、上の屋根が開き、下から奴さんが現れ踊るそうだ。知らなかったので、3分前に通り過ぎてしまった。<br /><br />掛川駅の北口は城下町・宿場町から発達した古くからの商店街・繁華街。ただし、平成期以降は掛川市役所の移転、大型スーパーマーケットの撤退に代表される郊外化により、行政・商業の中心地としての機能は低下している。<br /><br />北口駅前ロータリーから真っ直ぐ北に進むが、掛川城までの約500mつづくこの道は城下町通りと呼ばれ、「建築物に瓦屋根と海鼠壁を初めとする城下町風外観を持たせる」、「歩道敷タイルを石板調にする」、「電線の地中埋設により無電柱化する」、「信号機などへのデザインポールを採用する」などの施策で城下町風の景観が整備されている。<br /><br />通りを進むとすぐに女性の銅像がある。静岡県在住の彫刻家・松田裕康氏の作品で、1998年に新幹線掛川駅開業10周年を記念して設置されたもの。海鼠壁の家々が連なる道を歩いて行くと5分ほどで、逆川に架かる緑橋と掛川城天守閣が見えて来る。緑橋の手前の東側、通称こだわりっぱ前広場では帰りだが、街角ライブが行われていた。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9973670099369591&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />掛川城址に進むが、続く

静岡 掛川(Kakegawa,Shizuoka,Japan)

2いいね!

2022/03/13 - 2022/03/13

465位(同エリア532件中)

旅行記グループ 静岡・平塚

0

4

ちふゆ

ちふゆさん

2022年3月13日(日)朝7時半頃、ホテルで、買っておいたパンなどの朝食を食べて、無料サービスのコーヒーを飲み、静岡駅南口へ(下の写真1)。静岡を発つ前に土産と駅弁を購入する(下の写真2と3)。

8時6分発の東海道本線下り列車に乗車(下の写真4)。8時51分に掛川に到着する。掛川駅は東海道新幹線、東海道本線と天竜浜名湖鉄道の駅。1889年(明治22年)に官設鉄道の静岡・浜松間開通に伴って開業。1895年(明治28年)に線路名称が制定され、東海道線(東海道本線)の所属となる。その後1987年にJR東海に承継された。

東海道新幹線の駅はJR東海へ移行後の1988年に新規開業した駅。各駅停車のこだまのみ停車。同時開業の新富士と三河安城も同様だが、その中では利用者数は一番多く、さらにひかりの一部も停車する岐阜羽島と米原も上回わる。

天竜浜名湖鉄道は旧二俣線を前身とする第三セクター鉄道。旧二俣線は1935年(昭和10年)に掛川から遠江森まで開通し、全線は1940年(昭和15年)に開通した。1987年に三セク化されて天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線となった。

改札は北口、南口および乗換口があり、各改札と在来線ホームは地下通路と跨線橋で結ばれている。南口からは新幹線構内に直接入出場できる。

北口にある現在の駅舎は1940年(昭和15年)建てられた二代目木造駅舎を外観そのままに2014年に耐震化して立て直したもので、元々の駅舎に使われていた和釘や木材が再利用されている。駅舎東側に線路下を通る自由通路があり、改札内を通らずに南北を往来できる。新幹線高架下にはアスティ掛川がある。

在来線は単式ホーム1面1線、島式ホーム1面2線の合計2面3線のホームを有する地上駅。新幹線は相対式ホーム2面2線を有する高架駅。特徴として他の新幹線停車駅より駅に進入する側の待避線の距離が長く、下りは約700m、上りは約1200mある。このため、待避列車が待避線へ分岐した後、ホームへ到着するまでの間に、後続列車が本線を通過する事象も見られる。

天竜浜名湖鉄道は頭端式ホーム1面2線を有する地上駅で、JR東海とは別改札になっている。JR線とは線路が繋がっており、新型車両の引渡しが行われるほか、検測車が入線する際も当駅を経由している。

昔から何度も通過している駅だが、記憶に残る出来事としては2002年6月の日韓ワールドカップの時。エコパに行った帰り、東京方面に帰る観客のために運行された深夜新幹線「特別号」に乗車した。愛野から在来線で来て、掛川を11時半に出て、東京着は深夜の0時49分だった。

その後出張で何度か乗り降りしたことがあるが、最後に利用したのは2007年の8月。この時はプライベートで、東京から来て天竜浜名湖鉄道に乗り換えた。この駅で電車を降りるのはその時以来。

掛川駅はもちろん掛川市の中心駅。掛川市は私にとってはつま恋がある町。初めて来たのは1985年夏の拓郎の「ONE LAST NIGHT IN つま恋」。「吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006」にも来た。1975年はまだ学生で来てないんだよなあ~

ちなみに上で書かなかったが、初めて掛川駅で降りたのはこの1985年のコンサートの時。まだ新幹線の駅はなかった時代。駅前は全然覚えてないけど、駅から結構遠くて、暑い中、山道を歩いて行ったことは覚えてる。2006年の時は車で来たので、電車は利用してない。

さて、掛川市だが、静岡県西部の遠州にあり、牧之原台地の西に位置する。南北に約30km、東西に約16kmで、西から時計回りに袋井市、森町、島田市、菊川市、御前崎市に囲まれる。南は遠州灘。北側は南アルプス最南端の山並みが続き、市中心部の南、遠州灘との間には標高265mの小笠山山系が広がる。面積は約265平方kmで、静岡県の35自治体で7番目に広い。人口約11万3千人は県内で9位。

掛川の名前は諸説あるが、市の中心部を東から西に流れる逆川の流れが、切り立った崖のように見える点から「缺けた川」と呼ばれ、次第に略されて「懸川」となり、最終的に「掛川」になったと云う。ちなみに地元では「かけがわ」は平板でなく「け」にアクセントを置くらしい。

鎌倉時代の歴史書に「懸川」の名が残るが、歴史の表舞台に名が出てくるのは戦国時代。名門今川氏の終焉の地とも云えるのが掛川城。1567年、駿府を信玄に攻められ籠城していた今川氏真は家康に攻められ、和睦を結んで北条氏に逃げ延びた。また、家康と信玄の戦いでは度々高天神城が登場する。

秀吉の全国平定後には山内一豊が掛川城に入るが、江戸時代に高知城に入封される。掛川藩と横須賀藩が樹立するが、歴代藩主はかなり入れ替わる。その後、明治まで大きな出来事は起こっていない。

掛川町の成立は町村制施行が行われた1889年(明治22年)。その後徐々に町域を増やし、戦後の1954年(昭和29年)に市制を施行して掛川市となる。ただし、現在の掛川市とは別物。現在の掛川市が誕生したのは2005年。(旧)掛川市と大東町、大須賀町が対等合併して誕生した。

全国最大規模の緑茶の栽培地。合併によって牧之原市が成立するまでは、荒茶の生産量全国1位だった。また、新幹線の駅や東名のインターチェンジ開設により工業団地の誘致に成功、拠点都市としての性質を強めると同時に製造品出荷額1兆円を超える県内有数の工業都市となった。

高校野球の常連の掛川西高校もあるが、あまり誰でも知ってるような出身の著名人はいない。漫才「ラバーガール」の背の低い方の飛永君は掛川工業高校卒業。コメディアン(俳優?)の伊東四朗さんは掛川で疎開時代を過ごされたそうだ。それくらいかな。

北口改札を出ると上述した木造駅舎。昔の駅のようで趣がある。駅舎を出ると右手の線路沿いにでかいステンレスのモニュメントがある。掛川出身の世界的屋外芸術作家ジュン・スズキ(鈴木淳)氏の「玄」と云う作品。東洋思想上宇宙の「玄」を表しているそうで、1988年の新幹線駅開業時に南口の「合体」と云う作品と対で設置された。

北口のロータリーを渡っていくと二宮金次郎の像もある。掛川には二宮尊徳の報徳思想を信条とする公益社団法人の大日本報徳社が本部を置いていることから、「玄」同様に1988年に設置された。明治神宮宝物殿にある岡崎雪聲原作の像を三倍拡大したもの。現存する金次郎像のほとんどが左手に本を持っているがこの像は右手に持っている。

この像の近くには奴さんからくり時計。1997年に掛川市出身の飯田芙美枝さんが寄贈したもので、朝8時から夜9時までの毎正時、童謡「おさるのかごや」が流れて、上の屋根が開き、下から奴さんが現れ踊るそうだ。知らなかったので、3分前に通り過ぎてしまった。

掛川駅の北口は城下町・宿場町から発達した古くからの商店街・繁華街。ただし、平成期以降は掛川市役所の移転、大型スーパーマーケットの撤退に代表される郊外化により、行政・商業の中心地としての機能は低下している。

北口駅前ロータリーから真っ直ぐ北に進むが、掛川城までの約500mつづくこの道は城下町通りと呼ばれ、「建築物に瓦屋根と海鼠壁を初めとする城下町風外観を持たせる」、「歩道敷タイルを石板調にする」、「電線の地中埋設により無電柱化する」、「信号機などへのデザインポールを採用する」などの施策で城下町風の景観が整備されている。

通りを進むとすぐに女性の銅像がある。静岡県在住の彫刻家・松田裕康氏の作品で、1998年に新幹線掛川駅開業10周年を記念して設置されたもの。海鼠壁の家々が連なる道を歩いて行くと5分ほどで、逆川に架かる緑橋と掛川城天守閣が見えて来る。緑橋の手前の東側、通称こだわりっぱ前広場では帰りだが、街角ライブが行われていた。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9973670099369591&type=1&l=223fe1adec


掛川城址に進むが、続く

PR

  • 写真1 静岡駅

    写真1 静岡駅

  • 写真2 アスティ静岡 グランドキヨスク南口

    写真2 アスティ静岡 グランドキヨスク南口

  • 写真3 静岡駅南口 東海軒

    写真3 静岡駅南口 東海軒

  • 写真4 静岡駅下り線ホーム

    写真4 静岡駅下り線ホーム

2いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

静岡・平塚

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP