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1月の北九州の旅行では横須賀港から新門司港まで22時間かけてフェリーで移動しました。ポカポカ陽気のクルーズの部屋のバルコニーから眺めた紀伊半島の潮岬、四国の室戸岬と足摺岬の光景は忘れられないものになりました。久しく四国にも行っていなかったと思い、全国旅行支援対象のツアーを探してみると、読売旅行社のツアーに「四国秘境めぐり充実の4日間「室戸岬」「足摺岬」2大岬めぐりと四万十川遊覧 道後温泉に宿泊」というものがありました。読売旅行は2月の秋田の旅で秋田駅発着の日帰りツアーを2本利用しただけでしたが、コースが面白そうなのと通常利用するトラピックス社やクラブツーリズム社のコースとは違った面白さも感じました。3泊4日で1人79,900円という料金でしたが、全国旅行支援で15,000の割引と愛媛県と高知県のクーポンが6,000円分いただけたので実質58,900円ほどでした。出発前の週末に添乗員さんから確認の電話をいただき、バスは満席の42名参加と知りました。当日は羽田空港に集合して、添乗員さんと手続きして最初の集合は松山空港になります。天気も良く瀬戸内海の島々が窓から見えましたが、残念ながら窓側の席ではなかったので少ししか見ることは出来ませんでした。バスに乗ってまずは「松山城」の見学に向かいます。8年前に来たときは小雨模様だったのですが、今回は快晴の空の下に見学をすることが出来ます。前回はロープウェイで山頂まで上がりました。天気も良いのでリフトにしてみましたが気持ちよかったです。「松山城」というとNHKのドラマの「坂の上の雲」が思い出され、感慨深いものがありました。このドラマに感化されて、中国の大連から旅順への旅までしたほどでした。

読売旅行 四国秘境巡りゆとりの4日間「室戸岬」「足摺岬」2大岬巡り(1)快晴の松山城で「坂の上の雲」を想う。

17いいね!

2023/05/24 - 2023/05/24

536位(同エリア1526件中)

旅行記グループ 2023愛媛・高知・徳島の旅

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kojikoji

kojikojiさん

この旅行記スケジュールを元に

1月の北九州の旅行では横須賀港から新門司港まで22時間かけてフェリーで移動しました。ポカポカ陽気のクルーズの部屋のバルコニーから眺めた紀伊半島の潮岬、四国の室戸岬と足摺岬の光景は忘れられないものになりました。久しく四国にも行っていなかったと思い、全国旅行支援対象のツアーを探してみると、読売旅行社のツアーに「四国秘境めぐり充実の4日間「室戸岬」「足摺岬」2大岬めぐりと四万十川遊覧 道後温泉に宿泊」というものがありました。読売旅行は2月の秋田の旅で秋田駅発着の日帰りツアーを2本利用しただけでしたが、コースが面白そうなのと通常利用するトラピックス社やクラブツーリズム社のコースとは違った面白さも感じました。3泊4日で1人79,900円という料金でしたが、全国旅行支援で15,000の割引と愛媛県と高知県のクーポンが6,000円分いただけたので実質58,900円ほどでした。出発前の週末に添乗員さんから確認の電話をいただき、バスは満席の42名参加と知りました。当日は羽田空港に集合して、添乗員さんと手続きして最初の集合は松山空港になります。天気も良く瀬戸内海の島々が窓から見えましたが、残念ながら窓側の席ではなかったので少ししか見ることは出来ませんでした。バスに乗ってまずは「松山城」の見学に向かいます。8年前に来たときは小雨模様だったのですが、今回は快晴の空の下に見学をすることが出来ます。前回はロープウェイで山頂まで上がりました。天気も良いのでリフトにしてみましたが気持ちよかったです。「松山城」というとNHKのドラマの「坂の上の雲」が思い出され、感慨深いものがありました。このドラマに感化されて、中国の大連から旅順への旅までしたほどでした。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
3.0
グルメ
3.0
ショッピング
3.5
交通
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス JALグループ 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
読売旅行

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  • 出発当日は羽田空港での集合時間が午前11時15分と遅かったのでゆっくり家を出ることが出来ました。8年前に旅した時に買った道後温泉の雪駄を持っていくことにします。

    出発当日は羽田空港での集合時間が午前11時15分と遅かったのでゆっくり家を出ることが出来ました。8年前に旅した時に買った道後温泉の雪駄を持っていくことにします。

  • いつものように池袋のメトロポリタンホテルからリムジンバスに乗りましたが、天気も良さそうなのでフライトが楽しみです。

    いつものように池袋のメトロポリタンホテルからリムジンバスに乗りましたが、天気も良さそうなのでフライトが楽しみです。

  • 窓側の席になるかは運しかないのが格安ツアーの悲しいところです。

    窓側の席になるかは運しかないのが格安ツアーの悲しいところです。

  • 今回の読売旅行での宿泊ツアーは初めてです。「四国秘境めぐり充実の4日間「室戸岬」「足摺岬」2大岬めぐりと四万十川遊覧 道後温泉に宿泊」というツアーは内容が魅力的でした。なかなか2つの岬の先端まで行くツアーは見かけません。

    今回の読売旅行での宿泊ツアーは初めてです。「四国秘境めぐり充実の4日間「室戸岬」「足摺岬」2大岬めぐりと四万十川遊覧 道後温泉に宿泊」というツアーは内容が魅力的でした。なかなか2つの岬の先端まで行くツアーは見かけません。

  • 団体カウンターの近くで添乗員さんからバッチと航空券を受け取りました。残念ながら3人並び席の通路側と中央の席でした。後で聞いた話では通路を挟んでとか、中央席の前後など席の並びはバラバラだったようなので、2人並べただけでも良かったようです。

    団体カウンターの近くで添乗員さんからバッチと航空券を受け取りました。残念ながら3人並び席の通路側と中央の席でした。後で聞いた話では通路を挟んでとか、中央席の前後など席の並びはバラバラだったようなので、2人並べただけでも良かったようです。

    羽田空港 第1旅客ターミナル 空港

  • お弁当を買った後はすぐにセキュリティーを通過して自動運転モビリティに乗って8番搭乗口に向かいます。

    お弁当を買った後はすぐにセキュリティーを通過して自動運転モビリティに乗って8番搭乗口に向かいます。

  • ところが着いてみるとゲートが12番に変更になっており、結局歩いて12番まで戻りました。

    ところが着いてみるとゲートが12番に変更になっており、結局歩いて12番まで戻りました。

  • お弁当は「北海道どさんこプラザ」で購入していました。妻はどこへ行くにしてもこの石狩鮨がお気に入りです。

    お弁当は「北海道どさんこプラザ」で購入していました。妻はどこへ行くにしてもこの石狩鮨がお気に入りです。

  • こちらもつられて同じような空弁にしてみました。

    こちらもつられて同じような空弁にしてみました。

  • これがなかなか本格的でルイベが美味しかったです。

    これがなかなか本格的でルイベが美味しかったです。

  • 座席は窓側ではなかったのが残念ですが、窓側だったら瀬戸内海の島々がきれいに見えたと思います。春の熊本空港からの帰りは高度方かったのですが、松山空港へ向けて高度を下げているのできれいに見えます。

    座席は窓側ではなかったのが残念ですが、窓側だったら瀬戸内海の島々がきれいに見えたと思います。春の熊本空港からの帰りは高度方かったのですが、松山空港へ向けて高度を下げているのできれいに見えます。

  • 約1時間30分のフライトで松山空港に到着します。

    約1時間30分のフライトで松山空港に到着します。

  • 松山も快晴でした。この空港を利用するのは初めてです。

    松山も快晴でした。この空港を利用するのは初めてです。

  • 空港で出迎えてくれた愛媛県のゆるキャラの「みきゃん」のモチーフはミカンと犬のようです。ミカンは愛媛県の特産品で犬は愛媛県の方言の「~やけん」を犬(けん)とかけているそうです。

    空港で出迎えてくれた愛媛県のゆるキャラの「みきゃん」のモチーフはミカンと犬のようです。ミカンは愛媛県の特産品で犬は愛媛県の方言の「~やけん」を犬(けん)とかけているそうです。

  • 到着便のお客が散ってしまうと閑散とした雰囲気の空港です。人数確認をしている間の案内所でパンフレットを貰ってスタンプも押しておきます。

    到着便のお客が散ってしまうと閑散とした雰囲気の空港です。人数確認をしている間の案内所でパンフレットを貰ってスタンプも押しておきます。

    松山空港 空港

  • 今回は松山空港から入って、四国の海岸線を反時計回りに高知県を走り、徳島空港から帰るというルートです。空港の外には愛媛県の砥部町で造られる砥部焼でできた壺を連ねた「えひめ三美神」というオブジェがありました。松山市から近いのですが、今回も窯元を訪ねる機会はありません。

    今回は松山空港から入って、四国の海岸線を反時計回りに高知県を走り、徳島空港から帰るというルートです。空港の外には愛媛県の砥部町で造られる砥部焼でできた壺を連ねた「えひめ三美神」というオブジェがありました。松山市から近いのですが、今回も窯元を訪ねる機会はありません。

  • 今回のツアーは42名参加で、座席は一番最後尾でした。読売旅行ではまだコロナモードなので4日間同じ座席だということです。トラピックスやクラブツーリズムは5月8日以降は日々交代に変わっています。今回のルートを考えると右側の座席が海側なのですが左側の座席でした。

    今回のツアーは42名参加で、座席は一番最後尾でした。読売旅行ではまだコロナモードなので4日間同じ座席だということです。トラピックスやクラブツーリズムは5月8日以降は日々交代に変わっています。今回のルートを考えると右側の座席が海側なのですが左側の座席でした。

  • 空港を出発するとすでに午後3時30分です。バスは松山市内に向かいます。

    空港を出発するとすでに午後3時30分です。バスは松山市内に向かいます。

  • JR松山駅を通過しました。翌日からのバスガイドさんによると四国4県の中では一番小さい駅だと嘆いていました。伊予鉄道の路線バスも市内電車も同じオレンジ色になっていました。

    JR松山駅を通過しました。翌日からのバスガイドさんによると四国4県の中では一番小さい駅だと嘆いていました。伊予鉄道の路線バスも市内電車も同じオレンジ色になっていました。

    松山駅 (愛媛県)

  • 8年前に来たときはまだツートンのベージュとオレンジ色でした。昔の色の方が風情があったように思えます。

    8年前に来たときはまだツートンのベージュとオレンジ色でした。昔の色の方が風情があったように思えます。

  • 松山城のロープウェイ乗り場近くの駐車場でバスを降りて、全員で山頂駅まで移動します。その後は各自で「松山城」を見学します。茂本ヒデキチの描く秋山好古(あきやま よしふる)が出迎えてくれました。

    松山城のロープウェイ乗り場近くの駐車場でバスを降りて、全員で山頂駅まで移動します。その後は各自で「松山城」を見学します。茂本ヒデキチの描く秋山好古(あきやま よしふる)が出迎えてくれました。

  • 松山城山東雲登山口から長者ヶ平へのロープウェイは今回のツアー料金含まれています。併設されているリフトも同一料金で好きな方を選べます。添乗員さんは全員が同じキャビンに乗れないのを心配していましたが、半数近くがリフトに乗ったみたいです。

    松山城山東雲登山口から長者ヶ平へのロープウェイは今回のツアー料金含まれています。併設されているリフトも同一料金で好きな方を選べます。添乗員さんは全員が同じキャビンに乗れないのを心配していましたが、半数近くがリフトに乗ったみたいです。

    松山城山東雲登山口~長者ヶ平ロープウェイ 乗り物

  • 妻は絶対にロープウェイだと思っていましたが、自主的にリフトに乗ったのでびっくりしました。

    妻は絶対にロープウェイだと思っていましたが、自主的にリフトに乗ったのでびっくりしました。

  • ロープウェイは10分間隔で3分の乗車時間で、リフトは待ち時間なしで6分で山頂まで運んでくれます。結果的にはリフトで昇った方が早かったです。

    ロープウェイは10分間隔で3分の乗車時間で、リフトは待ち時間なしで6分で山頂まで運んでくれます。結果的にはリフトで昇った方が早かったです。

  • 全員で天守の入り口まで向かいます。天守の中に入るのは別料金で520円が必要でした。42人のツアーでしたが、団体割引にならない人数しか城内には入りませんでした。

    全員で天守の入り口まで向かいます。天守の中に入るのは別料金で520円が必要でした。42人のツアーでしたが、団体割引にならない人数しか城内には入りませんでした。

  • 8年前に来た時も天守の見学はしているので、足の痛い妻も見学する気は無いようです。前に見学している人も多そうでしたが、トラピックス社やクラブツーリズム社よりも年齢層が高いように思えました。でも皆さん歩くのは早いです。

    8年前に来た時も天守の見学はしているので、足の痛い妻も見学する気は無いようです。前に見学している人も多そうでしたが、トラピックス社やクラブツーリズム社よりも年齢層が高いように思えました。でも皆さん歩くのは早いです。

  • 「松山城」は勝山山頂に本丸と西南麓に二之丸と三之丸を構える平山城で、山頂の本壇にある天守(大天守)は日本の12か所に現存する天守の1つです。また姫路城と同じ連立式で、日本三大連立式平山城の1つにも数えられます。この左手を下っていくと大手の二之丸と三之丸方面に行くことが出来ますが、今回も時間が無くて足を延ばすことは出来ませんでした。

    「松山城」は勝山山頂に本丸と西南麓に二之丸と三之丸を構える平山城で、山頂の本壇にある天守(大天守)は日本の12か所に現存する天守の1つです。また姫路城と同じ連立式で、日本三大連立式平山城の1つにも数えられます。この左手を下っていくと大手の二之丸と三之丸方面に行くことが出来ますが、今回も時間が無くて足を延ばすことは出来ませんでした。

  • 「松山城」の石垣は朝鮮出兵で倭城(安骨浦城)での経験がある加藤嘉明により築かれており、特に本丸の高14メートルを超える屏風折の石垣などは壮大なもので、軍事目的を超えた美しさを感じることが出来ます。天守のある本壇の石垣は親藩の松平氏によって再建されたと言われており、一段と美しい仕上がりとなっています

    「松山城」の石垣は朝鮮出兵で倭城(安骨浦城)での経験がある加藤嘉明により築かれており、特に本丸の高14メートルを超える屏風折の石垣などは壮大なもので、軍事目的を超えた美しさを感じることが出来ます。天守のある本壇の石垣は親藩の松平氏によって再建されたと言われており、一段と美しい仕上がりとなっています

  • 天守は三重3階地下1階の層塔型天守で、江戸時代最後の完全な城郭建築です。小天守は二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手の二之丸と三之丸方面を監視防衛する重要な位置にあります。天守と小天守と隅櫓は渡櫓で互いに結び、武備に徹した天守建造物群は代表的な連立式天守を備えた城郭といわれます。

    天守は三重3階地下1階の層塔型天守で、江戸時代最後の完全な城郭建築です。小天守は二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手の二之丸と三之丸方面を監視防衛する重要な位置にあります。天守と小天守と隅櫓は渡櫓で互いに結び、武備に徹した天守建造物群は代表的な連立式天守を備えた城郭といわれます。

  • 「戸無門」は本丸の大手入口の最初に現存する高麗門で、登城道U字屈折の終点に位置します。江戸時代に建造された当時から門扉がないので戸無門と呼ばれ、鏡柱にも扉を取り付けた痕跡がありません。

    「戸無門」は本丸の大手入口の最初に現存する高麗門で、登城道U字屈折の終点に位置します。江戸時代に建造された当時から門扉がないので戸無門と呼ばれ、鏡柱にも扉を取り付けた痕跡がありません。

  • 時間はあるのでのんびり歩いています。8年前は雨の中を元気に歩いていましたが、最近は背中に哀愁を感じます。

    時間はあるのでのんびり歩いています。8年前は雨の中を元気に歩いていましたが、最近は背中に哀愁を感じます。

  • 「戸無門」を通過して目に付くのは筒井門で、その奥にある隠門は分かり難くしています。これは侵入者の注意を筒井門に向けさせ、そこを破ろうとする敵を脇にある「隠門」から打ち出て背後から襲う戦略のようです。これらの門の上には続櫓があり、松山城の守りの堅牢さを象徴しています。

    「戸無門」を通過して目に付くのは筒井門で、その奥にある隠門は分かり難くしています。これは侵入者の注意を筒井門に向けさせ、そこを破ろうとする敵を脇にある「隠門」から打ち出て背後から襲う戦略のようです。これらの門の上には続櫓があり、松山城の守りの堅牢さを象徴しています。

  • 「隠門続櫓」<br />城の防備を固める上で最も重要堅固な意味合いを持つのが「筒井門」と「隠門」です。

    「隠門続櫓」
    城の防備を固める上で最も重要堅固な意味合いを持つのが「筒井門」と「隠門」です。

  • 「太鼓門」<br />太鼓門と同南北続櫓、太鼓櫓と巽櫓は1つの防御単位を形成し、高さ約5メートルの石垣に一線に構築され、筒井門から本丸南腰郭に侵入してくる敵に備えています。

    「太鼓門」
    太鼓門と同南北続櫓、太鼓櫓と巽櫓は1つの防御単位を形成し、高さ約5メートルの石垣に一線に構築され、筒井門から本丸南腰郭に侵入してくる敵に備えています。

    松山城 筒井門東続櫓 名所・史跡

  • この門は築城時に建てられたと考えられ、昭和10年の1935年には国宝に指定されましたが、昭和20年の戦火で焼失しています。昭和47年に門は欅材、建物は栂材で復元されました。

    この門は築城時に建てられたと考えられ、昭和10年の1935年には国宝に指定されましたが、昭和20年の戦火で焼失しています。昭和47年に門は欅材、建物は栂材で復元されました。

  • 門の両脇の石垣は戦火による剥離が見られました。櫓を支える柱には釿(ちょうな)で斫った亀甲紋が美しいです。

    門の両脇の石垣は戦火による剥離が見られました。櫓を支える柱には釿(ちょうな)で斫った亀甲紋が美しいです。

  • 「井戸」南北2つの峰を埋め立てて本丸の敷地を作った際に谷底にあった泉を井戸として残したといい伝えられています。井戸の直径2メートルで深さ44.2メートルと当時の技術では掘ることができない深さがあります。

    「井戸」南北2つの峰を埋め立てて本丸の敷地を作った際に谷底にあった泉を井戸として残したといい伝えられています。井戸の直径2メートルで深さ44.2メートルと当時の技術では掘ることができない深さがあります。

  • 屏風折れの石垣側は日当たりも良いのでつつじがきれいに咲いていました。天守に行かない妻とはここでお別れです。

    屏風折れの石垣側は日当たりも良いのでつつじがきれいに咲いていました。天守に行かない妻とはここでお別れです。

  • 入り口で添乗員さんがチケットを買ってくれるのを待ちます。ここで解散して最終号は麓のバスの駐車場になります。

    入り口で添乗員さんがチケットを買ってくれるのを待ちます。ここで解散して最終号は麓のバスの駐車場になります。

  • 「紫竹門東塀」は乾門方面からの侵入に対し、この門と東塀と西塀によって大きく仕切ることにより、本丸の裏にあたる搦手(からめて)を防衛する重要な構えです。

    「紫竹門東塀」は乾門方面からの侵入に対し、この門と東塀と西塀によって大きく仕切ることにより、本丸の裏にあたる搦手(からめて)を防衛する重要な構えです。

  • 松山城の天守の紋章は江戸幕府の徳川家とゆかりのある「丸に三つ葉葵」の三つ葉左葵巴となっています。松山城の築城に着手したのは西国大名であった加藤嘉明ですが、広大な平山城の完成直前に会津藩へ転封となり、次に城主となった蒲生忠知が二之丸などを完成させました。跡継ぎがいなかったため在藩7年で断絶してしまい、寛永12年の1635年に松平定行が城主となり、それ以降の明治維新までの235年間に渡り松山は四国の親藩としての役目も担いました。

    松山城の天守の紋章は江戸幕府の徳川家とゆかりのある「丸に三つ葉葵」の三つ葉左葵巴となっています。松山城の築城に着手したのは西国大名であった加藤嘉明ですが、広大な平山城の完成直前に会津藩へ転封となり、次に城主となった蒲生忠知が二之丸などを完成させました。跡継ぎがいなかったため在藩7年で断絶してしまい、寛永12年の1635年に松平定行が城主となり、それ以降の明治維新までの235年間に渡り松山は四国の親藩としての役目も担いました。

    松山城 名所・史跡

  • 「一の門」は「天守」に通じる本壇入口を守る門で、木割も大きく豪放な構えとなっています。形式は上方からの攻撃が容易な高麗門となっています。

    「一の門」は「天守」に通じる本壇入口を守る門で、木割も大きく豪放な構えとなっています。形式は上方からの攻撃が容易な高麗門となっています。

  • 「二の門」との間は枡形という方形空間となっていて小天守と一の門南櫓、二の門南櫓、三ノ門南櫓の四方から攻撃することが出来ます。

    「二の門」との間は枡形という方形空間となっていて小天守と一の門南櫓、二の門南櫓、三ノ門南櫓の四方から攻撃することが出来ます。

  • 「二の門」は階段があってかなりの段差があります。お城好きの人はこの城をどうやって攻略するか考えながら天守へ進んでいくのだと思いますが、我が家の場合はまず天守にエレベーターがあるか、そこに着くまで段差がないかを調べないとなりません。

    「二の門」は階段があってかなりの段差があります。お城好きの人はこの城をどうやって攻略するか考えながら天守へ進んでいくのだと思いますが、我が家の場合はまず天守にエレベーターがあるか、そこに着くまで段差がないかを調べないとなりません。

  • 妻は富士山のふもとに生まれながら「富士山は見るものであって登るものじゃない。」と日頃から行っている人なので、城も見るものであって登るものではないのだと思います。

    妻は富士山のふもとに生まれながら「富士山は見るものであって登るものじゃない。」と日頃から行っている人なので、城も見るものであって登るものではないのだと思います。

  • 「三の門」は本壇における第3の門で高麗門の形式を持っています。天明4年の1784年に雷火による火災で焼失し、嘉永5年の1852年に再建されました。昭和10年に国宝に指定されますが、昭和25年の法改正により重要文化財になっています。京都の祖父の家も日本で最初に国宝指定された民家ですが、同じ時期に重要文化財になっています。

    「三の門」は本壇における第3の門で高麗門の形式を持っています。天明4年の1784年に雷火による火災で焼失し、嘉永5年の1852年に再建されました。昭和10年に国宝に指定されますが、昭和25年の法改正により重要文化財になっています。京都の祖父の家も日本で最初に国宝指定された民家ですが、同じ時期に重要文化財になっています。

  • 「三の門南櫓」<br />玄関に続く北隅櫓は小天守北ノ櫓とか戊亥小天守、南隅櫓は申酉小天守とも呼ばれ、天守に次ぐ格式をもつ櫓です。十間廊下は天守の搦手(からめて)にあたる西側の乾門方面を防衛する重要な櫓であって、北隅櫓と南隅櫓を連結する渡櫓でもあります。桁行が10間あることからこの名がつけられています。

    「三の門南櫓」
    玄関に続く北隅櫓は小天守北ノ櫓とか戊亥小天守、南隅櫓は申酉小天守とも呼ばれ、天守に次ぐ格式をもつ櫓です。十間廊下は天守の搦手(からめて)にあたる西側の乾門方面を防衛する重要な櫓であって、北隅櫓と南隅櫓を連結する渡櫓でもあります。桁行が10間あることからこの名がつけられています。

  • 「筋金門東塀」から一の門南櫓と一の門と小天守を防護します。ここも天明4年の雷日で焼失して、後に再建されています。

    「筋金門東塀」から一の門南櫓と一の門と小天守を防護します。ここも天明4年の雷日で焼失して、後に再建されています。

  • 「筋金門」は櫓門で、天守玄関がある中庭を防衛する重要な門です。この門の櫓は小天守と天守のをつなぎ、三ノ門から侵入する敵の正面を射撃する構えとなっています。

    「筋金門」は櫓門で、天守玄関がある中庭を防衛する重要な門です。この門の櫓は小天守と天守のをつなぎ、三ノ門から侵入する敵の正面を射撃する構えとなっています。

  • 「筋金門」の名前の由来は門の柱に鉄板が張ってあることから名づけられています。

    「筋金門」の名前の由来は門の柱に鉄板が張ってあることから名づけられています。

  • 「小天守」は天守につぐ大きさの二重2階の櫓で、大手と搦手(からめて)防御する位置にあります。純白の漆喰塗の外壁と天守の黒塗りの板壁のコントラストが美しいです。

    「小天守」は天守につぐ大きさの二重2階の櫓で、大手と搦手(からめて)防御する位置にあります。純白の漆喰塗の外壁と天守の黒塗りの板壁のコントラストが美しいです。

    松山城 小天守 名所・史跡

  • 「多聞櫓」は南隅楼と小天守を連結する建物で、南隅楼と紫竹門を防御するためのものです。

    「多聞櫓」は南隅楼と小天守を連結する建物で、南隅楼と紫竹門を防御するためのものです。

  • 「南隅櫓」は本壇の西南隅に位置し、乾門方面を防御するとともに、二の丸と三の丸を監視する二重櫓です。

    「南隅櫓」は本壇の西南隅に位置し、乾門方面を防御するとともに、二の丸と三の丸を監視する二重櫓です。

  • 「玄関」は玄関多聞櫓の南面西寄りに接続して建っています。式台と玄関多聞櫓に上がる階段からなり、上り勾配の向唐破風本瓦葺の屋根をかけています。

    「玄関」は玄関多聞櫓の南面西寄りに接続して建っています。式台と玄関多聞櫓に上がる階段からなり、上り勾配の向唐破風本瓦葺の屋根をかけています。

  • 式台は側面に壁を設けず開放し、正面柱上の虹梁に蟇股、小壁に筬欄間を備えるなど、天守玄関にふさわしい格調高いつくりになっています。残念ながらここから天守へ上がることは出来ません。

    式台は側面に壁を設けず開放し、正面柱上の虹梁に蟇股、小壁に筬欄間を備えるなど、天守玄関にふさわしい格調高いつくりになっています。残念ながらここから天守へ上がることは出来ません。

  • 「天守」へは石垣に開けられた開口部から中に入ります。「天守」の全高は本壇から20メートルで、本壇は本丸から8.3メートルの高さがあり、本丸の標高は約132メートルあるので、天守の標高はトータルで約161メートルあることになります。

    「天守」へは石垣に開けられた開口部から中に入ります。「天守」の全高は本壇から20メートルで、本壇は本丸から8.3メートルの高さがあり、本丸の標高は約132メートルあるので、天守の標高はトータルで約161メートルあることになります。

    松山城 名所・史跡

  • 「玄関」は内側から見ても格式の高さを感じさせます。

    「玄関」は内側から見ても格式の高さを感じさせます。

  • 櫓の中は展示室になり、歴代城主の甲冑などが並んでいますが、じっくり見ている時間はありません。友人へのLINEでは表でみかんソフトクリームを食べている妻の写真が送られてきました。

    櫓の中は展示室になり、歴代城主の甲冑などが並んでいますが、じっくり見ている時間はありません。友人へのLINEでは表でみかんソフトクリームを食べている妻の写真が送られてきました。

  • 巨大な弓矢は松山城の上棟式に使われたものです。上棟式は棟木を棟に上げる際に、建物の守護神や工匠の神に麹進捗の感謝と加護を祈願し、禍なく幸多いことを祈る祭祀です。弓矢はその式具の1つで、不詳を祓い除くものと言われています。

    巨大な弓矢は松山城の上棟式に使われたものです。上棟式は棟木を棟に上げる際に、建物の守護神や工匠の神に麹進捗の感謝と加護を祈願し、禍なく幸多いことを祈る祭祀です。弓矢はその式具の1つで、不詳を祓い除くものと言われています。

  • ようやく「天守」の最上部までたどり着きました。妻はこの本丸公園のどこかでソフトクリームを食べているはずですが姿は見えません。

    ようやく「天守」の最上部までたどり着きました。妻はこの本丸公園のどこかでソフトクリームを食べているはずですが姿は見えません。

  • 平山城は城の立地による分類で、丘や山の上部に本丸を置き、その周辺の平地を利用して二の丸などを築き、城郭として一体化したものをいいます。現存12天守では備中松山城が山城、松本城が平城で、それ以外はすべて平山城となっています。

    平山城は城の立地による分類で、丘や山の上部に本丸を置き、その周辺の平地を利用して二の丸などを築き、城郭として一体化したものをいいます。現存12天守では備中松山城が山城、松本城が平城で、それ以外はすべて平山城となっています。

  • 天守の構造分類としては望楼(ぼうろう)型と層塔(そうとう)型があり、石垣などの土木技術の進歩とともに、天守建築構造は武者走りなどの防備の工夫をより高めることができ、工期を短縮できる層塔型へ移行しています。

    天守の構造分類としては望楼(ぼうろう)型と層塔(そうとう)型があり、石垣などの土木技術の進歩とともに、天守建築構造は武者走りなどの防備の工夫をより高めることができ、工期を短縮できる層塔型へ移行しています。

  • 「松山城」は日本で最後の完全な城郭建築として層塔型天守の完成した構造形式を示していると言われています。城郭建築は桃山文化の象徴で、武家諸法度により新たな天守の築城や増改築が禁止されたため、江戸時代を通じて作事(建築)技術は衰えていったと考えられています。

    「松山城」は日本で最後の完全な城郭建築として層塔型天守の完成した構造形式を示していると言われています。城郭建築は桃山文化の象徴で、武家諸法度により新たな天守の築城や増改築が禁止されたため、江戸時代を通じて作事(建築)技術は衰えていったと考えられています。

  • 幕末に落成した松山城天守は見る方向によって意匠が異なる複雑かつ厳重な連立式の構成となっており、本壇の石垣部分の普請(土木)技術を含め完全な桃山文化様式の技法といえます。

    幕末に落成した松山城天守は見る方向によって意匠が異なる複雑かつ厳重な連立式の構成となっており、本壇の石垣部分の普請(土木)技術を含め完全な桃山文化様式の技法といえます。

  • 江戸幕府の武家諸法度は天守の新築はもとより増改築も厳しく取り締まっていたため、天災などで失った天守の再建を断念されることも多かったようです。将軍家の居城であった江戸城や大坂城の天守も再建されることがなかったため、何とか再建の許しを得ても幕府に遠慮して「御三階櫓」と名乗ったりする時代でした。このような時代の中で落雷で焼失した天守を再建できたのは不思議ともいえます。

    江戸幕府の武家諸法度は天守の新築はもとより増改築も厳しく取り締まっていたため、天災などで失った天守の再建を断念されることも多かったようです。将軍家の居城であった江戸城や大坂城の天守も再建されることがなかったため、何とか再建の許しを得ても幕府に遠慮して「御三階櫓」と名乗ったりする時代でした。このような時代の中で落雷で焼失した天守を再建できたのは不思議ともいえます。

  • 城山山頂は標高約132メートルで、天守は更に約30メートル高くそびえたっているため、江戸時代から天守は松山のランドマークタワーだったのだと感じます。松山平野を360度見渡せるその眺めは絶景で、眼下に広がる櫓群など近世城郭の完成度の高さも感じることが出来ます。

    城山山頂は標高約132メートルで、天守は更に約30メートル高くそびえたっているため、江戸時代から天守は松山のランドマークタワーだったのだと感じます。松山平野を360度見渡せるその眺めは絶景で、眼下に広がる櫓群など近世城郭の完成度の高さも感じることが出来ます。

  • 8年前は小雨模様でうっすらとした伊予灘しか見えませんでしたが、今日は美しい海と空を見渡せます。

    8年前は小雨模様でうっすらとした伊予灘しか見えませんでしたが、今日は美しい海と空を見渡せます。

  • 沖合いには興居島の小富士もはっきり見えます。

    沖合いには興居島の小富士もはっきり見えます。

  • 穏やかな海面は夕方の太陽光線を反射して輝いています。その上を貨物船が滑るように通り過ぎていきます。

    穏やかな海面は夕方の太陽光線を反射して輝いています。その上を貨物船が滑るように通り過ぎていきます。

  • 由利島はかつて無人島にも関わらず赤電話が引かれ、船舶の避難用などの連絡用として用いられていた。椎名誠は雑誌の企画でこの島を昭和50年代の終わりごろに仲間とともに訪れ、「あやしい探検隊不思議島へ行く」の中に「無人島の公衆電話 おかしな島だった。便所のような戸をあけると、無人島なのに赤電話があるのだ。赤電話防備隊のようなおびただしい蚊の攻撃をかわしつつ、十円玉を6ケ入れて東京の自宅の番号を回すと女房が出た。」とありました。

    由利島はかつて無人島にも関わらず赤電話が引かれ、船舶の避難用などの連絡用として用いられていた。椎名誠は雑誌の企画でこの島を昭和50年代の終わりごろに仲間とともに訪れ、「あやしい探検隊不思議島へ行く」の中に「無人島の公衆電話 おかしな島だった。便所のような戸をあけると、無人島なのに赤電話があるのだ。赤電話防備隊のようなおびただしい蚊の攻撃をかわしつつ、十円玉を6ケ入れて東京の自宅の番号を回すと女房が出た。」とありました。

  • 椎名誠の紀行文やエッセーはなかなか面白いものが多く、怪しい探検隊シリーズはずいぶん読んで旅のヒントになったものもありました。日テレの「ザ!鉄腕!DASH!!」の無人島「DASH島」はインターネット上ではこの由利島であるとされています。

    椎名誠の紀行文やエッセーはなかなか面白いものが多く、怪しい探検隊シリーズはずいぶん読んで旅のヒントになったものもありました。日テレの「ザ!鉄腕!DASH!!」の無人島「DASH島」はインターネット上ではこの由利島であるとされています。

  • 松山平野の南側には砥部があり砥部焼の窯元も数多くある地ですが、今回も立ち寄ることは出来ません。

    松山平野の南側には砥部があり砥部焼の窯元も数多くある地ですが、今回も立ち寄ることは出来ません。

  • 北側には瀬戸内海が広がり、対岸の広島県の小島も見えています。この沖合を釜山へ行く「パンスターフェリー」の往復と、上海へ行く「蘇州号」で往復していますが、どちらも深夜の通過なので記憶は全くありません。

    北側には瀬戸内海が広がり、対岸の広島県の小島も見えています。この沖合を釜山へ行く「パンスターフェリー」の往復と、上海へ行く「蘇州号」で往復していますが、どちらも深夜の通過なので記憶は全くありません。

  • 4月に行った別府でも「さんふらわあ」のフェリーを何艘も見掛けたので、瀬戸内海のフェリー旅も計画してみようと思います。

    4月に行った別府でも「さんふらわあ」のフェリーを何艘も見掛けたので、瀬戸内海のフェリー旅も計画してみようと思います。

  • 東側には西日本最高峰1,982メートルの石鎚山が見えました。江戸時代に建てられた天守から、城主になった気分で眺めるパノラマもおつなものです。四国で登山したことはありませんが、両親が友人たちと主宰していた登山会で石鎚山を登った話は聞いたことがありました。自分で登ることは無いので、天守から手を合わせておきました。

    東側には西日本最高峰1,982メートルの石鎚山が見えました。江戸時代に建てられた天守から、城主になった気分で眺めるパノラマもおつなものです。四国で登山したことはありませんが、両親が友人たちと主宰していた登山会で石鎚山を登った話は聞いたことがありました。自分で登ることは無いので、天守から手を合わせておきました。

  • あまり妻を待たせていても行けないので早々に天守を降りました。同じルートで戻りますが新たな発見もあります。

    あまり妻を待たせていても行けないので早々に天守を降りました。同じルートで戻りますが新たな発見もあります。

  • 全開は雨のせいか気が付かなかった「天神櫓」にも立ち寄れました。卯歳櫓や東隅櫓とも呼ばれ具足櫓として使われましたが、後に本壇の鬼門(東北隅)にあたるため、城の安泰を祈り久松松平氏の祖先神である天神(菅原道真)を祭ったのでこの名称になったようです。

    全開は雨のせいか気が付かなかった「天神櫓」にも立ち寄れました。卯歳櫓や東隅櫓とも呼ばれ具足櫓として使われましたが、後に本壇の鬼門(東北隅)にあたるため、城の安泰を祈り久松松平氏の祖先神である天神(菅原道真)を祭ったのでこの名称になったようです。

  • 全国的にあまり例のない寺社建築の正面扉(しとみど)を有する櫓の中には菅原道真が祀られています。

    全国的にあまり例のない寺社建築の正面扉(しとみど)を有する櫓の中には菅原道真が祀られています。

  • ようやく「一の門」まで戻ってきました。待ちくたびれた妻から催促の電話が入ります。前回は一緒に観ていたNHKの「坂の上の雲」のせいか、元気に「松山城」に登りましたが、8年の年月ですっかり飽きてしまったようです。

    ようやく「一の門」まで戻ってきました。待ちくたびれた妻から催促の電話が入ります。前回は一緒に観ていたNHKの「坂の上の雲」のせいか、元気に「松山城」に登りましたが、8年の年月ですっかり飽きてしまったようです。

  • 放映された2009年から2011年の3年の間には浅田次郎の「マンチュリアン・リポート」が2010年に発売されたこともあり、我が家の満州熱が高まり、妻と2人で大連から鉄道で旅順を往復し、その後も瀋陽から長春、そして哈爾濱へと鉄道を利用しながら旧大和賓館に泊まりながら旅しました。

    放映された2009年から2011年の3年の間には浅田次郎の「マンチュリアン・リポート」が2010年に発売されたこともあり、我が家の満州熱が高まり、妻と2人で大連から鉄道で旅順を往復し、その後も瀋陽から長春、そして哈爾濱へと鉄道を利用しながら旧大和賓館に泊まりながら旅しました。

  • 2人とも元気なうちに個人旅行をと思いながらも、まだ行けていない国も数多くあります。このコロナ禍の3年は本当に手痛い時間でした。

    2人とも元気なうちに個人旅行をと思いながらも、まだ行けていない国も数多くあります。このコロナ禍の3年は本当に手痛い時間でした。

  • 妻と合流してぶらぶら坂道を下ります。

    妻と合流してぶらぶら坂道を下ります。

  • 登城の際に見ていなかった「隠門」も見ておきます。なるほど天守に向かう際には死角になって見つけることは出来ません。ここから討ち出れば敵の背後に回り込むことが出来そうです。

    登城の際に見ていなかった「隠門」も見ておきます。なるほど天守に向かう際には死角になって見つけることは出来ません。ここから討ち出れば敵の背後に回り込むことが出来そうです。

  • 帰りもリフトに乗りましたが、風が通って気持ちよかったです。

    帰りもリフトに乗りましたが、風が通って気持ちよかったです。

  • セルフポートレートも1枚撮っておきます。

    セルフポートレートも1枚撮っておきます。

  • 最後にリフトに乗ったのは20年以上前のイタリアのカプリ島だったかと思い返してみます。妻と結婚してからはスキーに行くことも無くなってしまいました。

    最後にリフトに乗ったのは20年以上前のイタリアのカプリ島だったかと思い返してみます。妻と結婚してからはスキーに行くことも無くなってしまいました。

  • 「天守」は平成16年から平成18年にかけて保存修理工事を行った際に、鯱が交換されています。新調された「しゃちほこ」の愛称を公募したところ、玉をくわえた南側の「しゃちほこ」が「天丸」、口をつむった北側の「しゃちほこ」が「まつ姫」と命名されたそうです。

    「天守」は平成16年から平成18年にかけて保存修理工事を行った際に、鯱が交換されています。新調された「しゃちほこ」の愛称を公募したところ、玉をくわえた南側の「しゃちほこ」が「天丸」、口をつむった北側の「しゃちほこ」が「まつ姫」と命名されたそうです。

  • 見学後は隣接する「伊織」というタオル専門店にも立ち寄りましたが、お土産にするには良い値段過ぎました。バスに戻った後はこの日宿泊するホテルに向かいます。

    見学後は隣接する「伊織」というタオル専門店にも立ち寄りましたが、お土産にするには良い値段過ぎました。バスに戻った後はこの日宿泊するホテルに向かいます。

    伊織 えひめイズム (ルブリュマツヤマ店) 専門店

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2023愛媛・高知・徳島の旅

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