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午後2時になってようやくバスの車窓から高知の市電の姿が見えてきました。そして初めて見る「高知城」を左に見上げながら高知県立文学館裏の駐車場でバスを降ります。ここから全員で歩いて「ひろめ市場」に向かいます。ここで40分ほどの自由時間になり、午後3時に「追手門」で再集合になります。40分で食事をしなければならないので急いで市場に入り、事前に調べてあった「本池澤」と「鰹処ぼっちり」のあるよさこい広場入り口の方へ向かいます。お城のある通り側の入り口は裏口だったのだと分かります。ちょうど「本池澤」の前のテーブルが空いたのでそこに座り、レモンサワーと鰹のタタキとちりめんとどろめの乗った「土佐丼」と「うつぼのタタキ」を注文します。時間が無いので慌てて注文しましたが、事前にいろいろ調べておいて良かったです。それでも四万十川の川エビの唐揚げとか後で美味しそうなものを発見したり…。「本池澤」の前にあった「鯛めしの森光」の鯛めしがおいしそうだったので1パック持ち帰りました。これは夕方にホテルに着いてからいただきましたが、美味しかったです。ようやくお腹がいっぱいになったところでタイムアップになり、再集合場所の「高知城」の「大手門」に向かいます。ここから全員で石段を登り天守まで向かい、その後は解散になって再集合時間までに駐車場のバスに戻ります。江戸時代に築かれた天守が残る現存天守十二城の1つであるほか、本丸御殿や追手門等が現存する高知城へ来るのは初めてなので楽しみにしていました。土佐の戦国大名として台頭した長宗我部元親は天正16年の1588年に岡豊城(おこうじょう)からここへ本拠地を移そうとしましたが、低湿地の山麓は工事が難航したようです。長宗我部氏が関ヶ原の戦いで敗れた西軍に与して改易され、代わりに慶長6年の1601年に山内一豊が土佐国を与えられて土佐藩を立てました。一豊は大高坂山で築城に取り掛かり、慶長8年の1603年に本丸や二の丸は完成させます。城全体の完工は慶長16年の1611年の一豊の没後で、2代目藩主の忠義の代になっていいました。3層6階の天守は一豊が転封前に居城としていた静岡県の掛川城を模したといわれます。城の周辺から城内には数多くの銅像があり、山内一豊の騎馬像、妻の千代と馬の像、板垣退助の像を見ることが出来ます。ツアーで各地を旅していますが、高知県は以上に銅像が多い土地だと感じます。今回のツアーはNHKの連ドラの影響もあり、一部ガーデン巡りにもなっているので桂浜はコースから外されているようです。以前にも行っているのと天気もあまり良くないので良かったと思えます。高知市内字多賀今回初めて来ましたが、夏にダイヤモンド・プリンセスで高知港に入り、「よさこい祭り」を見に来るのでその下見には良かったと思います。バスはガイドさんとダライバーさんの好意で高知駅前を通過して、「土佐三志士像」を見て、「はりまや橋」を通過して、郊外の「高知県立牧野植物園」に向かいます。

読売旅行 四国秘境巡りゆとりの4日間「室戸岬」「足摺岬」2大岬巡り(7)ひろめ市場でカツオとドロメとシラスを楽しみ、高知城の天守を目指す。

6いいね!

2023/05/26 - 2023/05/26

1304位(同エリア1917件中)

旅行記グループ 2023愛媛・高知・徳島の旅

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89

kojikoji

kojikojiさん

この旅行記スケジュールを元に

午後2時になってようやくバスの車窓から高知の市電の姿が見えてきました。そして初めて見る「高知城」を左に見上げながら高知県立文学館裏の駐車場でバスを降ります。ここから全員で歩いて「ひろめ市場」に向かいます。ここで40分ほどの自由時間になり、午後3時に「追手門」で再集合になります。40分で食事をしなければならないので急いで市場に入り、事前に調べてあった「本池澤」と「鰹処ぼっちり」のあるよさこい広場入り口の方へ向かいます。お城のある通り側の入り口は裏口だったのだと分かります。ちょうど「本池澤」の前のテーブルが空いたのでそこに座り、レモンサワーと鰹のタタキとちりめんとどろめの乗った「土佐丼」と「うつぼのタタキ」を注文します。時間が無いので慌てて注文しましたが、事前にいろいろ調べておいて良かったです。それでも四万十川の川エビの唐揚げとか後で美味しそうなものを発見したり…。「本池澤」の前にあった「鯛めしの森光」の鯛めしがおいしそうだったので1パック持ち帰りました。これは夕方にホテルに着いてからいただきましたが、美味しかったです。ようやくお腹がいっぱいになったところでタイムアップになり、再集合場所の「高知城」の「大手門」に向かいます。ここから全員で石段を登り天守まで向かい、その後は解散になって再集合時間までに駐車場のバスに戻ります。江戸時代に築かれた天守が残る現存天守十二城の1つであるほか、本丸御殿や追手門等が現存する高知城へ来るのは初めてなので楽しみにしていました。土佐の戦国大名として台頭した長宗我部元親は天正16年の1588年に岡豊城(おこうじょう)からここへ本拠地を移そうとしましたが、低湿地の山麓は工事が難航したようです。長宗我部氏が関ヶ原の戦いで敗れた西軍に与して改易され、代わりに慶長6年の1601年に山内一豊が土佐国を与えられて土佐藩を立てました。一豊は大高坂山で築城に取り掛かり、慶長8年の1603年に本丸や二の丸は完成させます。城全体の完工は慶長16年の1611年の一豊の没後で、2代目藩主の忠義の代になっていいました。3層6階の天守は一豊が転封前に居城としていた静岡県の掛川城を模したといわれます。城の周辺から城内には数多くの銅像があり、山内一豊の騎馬像、妻の千代と馬の像、板垣退助の像を見ることが出来ます。ツアーで各地を旅していますが、高知県は以上に銅像が多い土地だと感じます。今回のツアーはNHKの連ドラの影響もあり、一部ガーデン巡りにもなっているので桂浜はコースから外されているようです。以前にも行っているのと天気もあまり良くないので良かったと思えます。高知市内字多賀今回初めて来ましたが、夏にダイヤモンド・プリンセスで高知港に入り、「よさこい祭り」を見に来るのでその下見には良かったと思います。バスはガイドさんとダライバーさんの好意で高知駅前を通過して、「土佐三志士像」を見て、「はりまや橋」を通過して、郊外の「高知県立牧野植物園」に向かいます。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
グルメ
4.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス JALグループ 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
読売旅行

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  • バスはようやく高知市内に入りました。前回のツアーで来た際は「桂浜」で坂本龍馬の像の前で記念写真を撮って、アイスクリンを食べただけでした。今回のツアーはガーデン巡りでもあり、「桂浜」はコースから外されています。

    バスはようやく高知市内に入りました。前回のツアーで来た際は「桂浜」で坂本龍馬の像の前で記念写真を撮って、アイスクリンを食べただけでした。今回のツアーはガーデン巡りでもあり、「桂浜」はコースから外されています。

  • 初めて見る「高知城」です。高知にも昔は西武百貨店があったのですが、来る機会もないままに閉店してしまいました。この夏にはダイヤモンドプリンセスの夏祭りを巡るツアーで高知港へ来て、よさこい祭りを観るので、その下見にはちょうど良かったです。バスガイドさんからは「よさこい」についての説明がありました。

    初めて見る「高知城」です。高知にも昔は西武百貨店があったのですが、来る機会もないままに閉店してしまいました。この夏にはダイヤモンドプリンセスの夏祭りを巡るツアーで高知港へ来て、よさこい祭りを観るので、その下見にはちょうど良かったです。バスガイドさんからは「よさこい」についての説明がありました。

  • 「よさこい」とは「夜サ来い」の意味で、囃子言葉がそのまま曲名になったそうです。成立については諸説あるようで、農村の作業唄がお座敷唄になったのか、最初からのお座敷唄なのか定かではないようです。慶長5年の1600年に山内一豊の高知城築城の場で唄われた「木遣り音頭」が変化したものとか、松島節が高知に入って盆踊り化したものとか、元禄時代の流行り唄「清十郎節」が参勤交代によって導入され、城の奥女中や高知城下の一部で唄われ出したのではないかなど様々に言われているようです。

    「よさこい」とは「夜サ来い」の意味で、囃子言葉がそのまま曲名になったそうです。成立については諸説あるようで、農村の作業唄がお座敷唄になったのか、最初からのお座敷唄なのか定かではないようです。慶長5年の1600年に山内一豊の高知城築城の場で唄われた「木遣り音頭」が変化したものとか、松島節が高知に入って盆踊り化したものとか、元禄時代の流行り唄「清十郎節」が参勤交代によって導入され、城の奥女中や高知城下の一部で唄われ出したのではないかなど様々に言われているようです。

  • 全県的に唄われ出したのは「かんざし事件」がきっかけのようです。高知城の見学の後に行く「高知県立牧野植物園」のある辺り、五台山竹林寺の脇坊の僧の純信が五台山長江の鋳掛屋新平の娘お馬と恋をし、はりまや橋でかんざしを買い与えたという話です。噂が広まってからは国境の関を越えて讃岐に駆け落ちしましたが、追手に捕らえられ市中にさらされた上に純信は藩外追放に、お馬は仁淀川以西へ追放処分となります。

    全県的に唄われ出したのは「かんざし事件」がきっかけのようです。高知城の見学の後に行く「高知県立牧野植物園」のある辺り、五台山竹林寺の脇坊の僧の純信が五台山長江の鋳掛屋新平の娘お馬と恋をし、はりまや橋でかんざしを買い与えたという話です。噂が広まってからは国境の関を越えて讃岐に駆け落ちしましたが、追手に捕らえられ市中にさらされた上に純信は藩外追放に、お馬は仁淀川以西へ追放処分となります。

  • 「おかしなことよな はりまや橋で 坊さんかんざし 買いよった」というこの唄が幕末から明治維新に活躍した土佐勤王の志士たちによって京都や大坂で唄われ、更に「土佐の高知の」という現行の歌詞に改められ、明治3年頃を絶頂期として全国的に流行したようです。純信とお馬の話が実在の人物であったのは今回初めて知りました。

    「おかしなことよな はりまや橋で 坊さんかんざし 買いよった」というこの唄が幕末から明治維新に活躍した土佐勤王の志士たちによって京都や大坂で唄われ、更に「土佐の高知の」という現行の歌詞に改められ、明治3年頃を絶頂期として全国的に流行したようです。純信とお馬の話が実在の人物であったのは今回初めて知りました。

  • バスは「高知城」の裏側の駐車場に停車し、昼食と白の見学の後にここで再集合となります。まずは自由昼食をとる「ひろめ市場」に向かいます。城に近い方は裏口のようで、最初はびっくりしました。まずは表側に回ってみます。

    バスは「高知城」の裏側の駐車場に停車し、昼食と白の見学の後にここで再集合となります。まずは自由昼食をとる「ひろめ市場」に向かいます。城に近い方は裏口のようで、最初はびっくりしました。まずは表側に回ってみます。

    ひろめ市場 グルメ・レストラン

  • 土佐藩主の山内家の時代に家老であった深尾弘人蕃顕(ひろめしげあき)は、幕末の時代4代の藩主に仕え寛大で侍達の能力を活かすことに長けた名家老と伝えられています。彼の屋敷が姿を消した維新後も、この一帯は市民から親しみを込めて「弘人(ひろめ)屋敷」と呼ばれてきたのが市場の名前の由来だそうです。

    土佐藩主の山内家の時代に家老であった深尾弘人蕃顕(ひろめしげあき)は、幕末の時代4代の藩主に仕え寛大で侍達の能力を活かすことに長けた名家老と伝えられています。彼の屋敷が姿を消した維新後も、この一帯は市民から親しみを込めて「弘人(ひろめ)屋敷」と呼ばれてきたのが市場の名前の由来だそうです。

  • すでに午後2時近いのですが「お城下広場」は満席です。ここで自由昼食40分というのは年配の方で下調べをしていないとつらいなと思いました。

    すでに午後2時近いのですが「お城下広場」は満席です。ここで自由昼食40分というのは年配の方で下調べをしていないとつらいなと思いました。

  • 事前にHPで調べておいておいしそうだった「本池澤 ひろめ市場店」に向かうとちょうどテーブルが空いたところでした。後で知りましたが、テーブルの食器の片づけは専門の業者さんの仕事のようでした。衛生的にも効率的にも良く出来ているシステムです。20年ほど前に行った中国の桂林の漓江の川下りの終点の陽朔に数日滞在したことがあります。この店の飲食店の食器は全て共通で、洗浄と消毒とパッキングは別の会社が行っていました。川下りで有名な桂林の環境保全の一環ということで日本より進んでいるなと感心したことがありました。<br /><br />

    事前にHPで調べておいておいしそうだった「本池澤 ひろめ市場店」に向かうとちょうどテーブルが空いたところでした。後で知りましたが、テーブルの食器の片づけは専門の業者さんの仕事のようでした。衛生的にも効率的にも良く出来ているシステムです。20年ほど前に行った中国の桂林の漓江の川下りの終点の陽朔に数日滞在したことがあります。この店の飲食店の食器は全て共通で、洗浄と消毒とパッキングは別の会社が行っていました。川下りで有名な桂林の環境保全の一環ということで日本より進んでいるなと感心したことがありました。

    本池澤 ひろめ市場店 グルメ・レストラン

  • レモンサワーで乾杯します。「本池澤」の店の前には「鯛めしの森光」があり、ここの鯛めしがおいしそうだったので1パック持ち帰りました。夕方にホテルについて夕食まで時間があったので「ダバダ火振」の水割りを飲みながらいただきましたが、美味しかったです。美味しいものに鼻の利く妻に感謝です。

    レモンサワーで乾杯します。「本池澤」の店の前には「鯛めしの森光」があり、ここの鯛めしがおいしそうだったので1パック持ち帰りました。夕方にホテルについて夕食まで時間があったので「ダバダ火振」の水割りを飲みながらいただきましたが、美味しかったです。美味しいものに鼻の利く妻に感謝です。

  • 「鰹のたたきとシラス丼」は新鮮な生の鰹を藁の強火で一気に焼き上げた魚屋ならではこだわりの「生鰹タタキ」です。この店では生にこだわり冷凍は一切使用しないようです。鰹は良いものを見極めるのが最も難しい魚で有名で、1925年創業のこの店では、毎朝市場へ行き代々引き継がれた「目利き」により最高の鰹を仕入れます。

    「鰹のたたきとシラス丼」は新鮮な生の鰹を藁の強火で一気に焼き上げた魚屋ならではこだわりの「生鰹タタキ」です。この店では生にこだわり冷凍は一切使用しないようです。鰹は良いものを見極めるのが最も難しい魚で有名で、1925年創業のこの店では、毎朝市場へ行き代々引き継がれた「目利き」により最高の鰹を仕入れます。

  • 最高の鰹を強火で一気にあぶり旨味を凝縮させた、香ばしい香りと、さっぱりとしながらも脂の乗った鰹のタタキには本池澤特性のタレをかけていただきます。醤油とウナギのタレの中間のような甘みのある美味しいタレでした。

    最高の鰹を強火で一気にあぶり旨味を凝縮させた、香ばしい香りと、さっぱりとしながらも脂の乗った鰹のタタキには本池澤特性のタレをかけていただきます。醤油とウナギのタレの中間のような甘みのある美味しいタレでした。

  • 「土佐丼」は「カツオたたき」と「どろめ」と「シラス」の3点盛で、1,000円とリーズナブルです。

    「土佐丼」は「カツオたたき」と「どろめ」と「シラス」の3点盛で、1,000円とリーズナブルです。

  • 「どろめ」は高知の方言で「イワシの稚魚」のことで、半透明の小さな身体に大きな目が特徴です。昔から漁港回りでは浜あげの「朝取れどろめ」をそのまま食べるのが一番美味しいとされています。「朝取れどろめ」は鮮度が落ちやすく夕方までが限界で、地元土佐高知でしか食べられない珍味です。シラス漁は翌日の朝のホテルのレストランから見ることが出来ました。

    「どろめ」は高知の方言で「イワシの稚魚」のことで、半透明の小さな身体に大きな目が特徴です。昔から漁港回りでは浜あげの「朝取れどろめ」をそのまま食べるのが一番美味しいとされています。「朝取れどろめ」は鮮度が落ちやすく夕方までが限界で、地元土佐高知でしか食べられない珍味です。シラス漁は翌日の朝のホテルのレストランから見ることが出来ました。

  • 「うつぼのたたき」はその見た目からは想像できない淡白であっさりとした味わいの中に、ほんのりと甘みが口の中に広がります。 皮と身の間には沢山のゼラチン質が含まれ弾力のある歯ごたえが、一度食べたらやみつきになる美味しさです。コラーゲンもたっぷりで、特製ちり酢でいただきます。

    「うつぼのたたき」はその見た目からは想像できない淡白であっさりとした味わいの中に、ほんのりと甘みが口の中に広がります。 皮と身の間には沢山のゼラチン質が含まれ弾力のある歯ごたえが、一度食べたらやみつきになる美味しさです。コラーゲンもたっぷりで、特製ちり酢でいただきます。

  • 写真を見直していると四万十川の川エビの唐揚げを食べてくれば良かったと思います。40分で注文して食べてから「高知城」の追手門まで行くのは至難の業でした。

    写真を見直していると四万十川の川エビの唐揚げを食べてくれば良かったと思います。40分で注文して食べてから「高知城」の追手門まで行くのは至難の業でした。

  • 隣にある「鰹処ぼっちり」も美味しそうな店でした。食べ終わるころになってようやく余裕が出てきました。8月のダイヤモンド・プリンセスの「竿灯・ねぶた・よさこい・阿波おどり・韓国周遊クルーズ」で再び高知には来る予定なのでリベンジしたいと思います。

    隣にある「鰹処ぼっちり」も美味しそうな店でした。食べ終わるころになってようやく余裕が出てきました。8月のダイヤモンド・プリンセスの「竿灯・ねぶた・よさこい・阿波おどり・韓国周遊クルーズ」で再び高知には来る予定なのでリベンジしたいと思います。

    鰹処ぼっちり グルメ・レストラン

  • 「高知城」への通りには骨董店が数多く並んでいます。並んでいるものは一見して大したものではなさそうでしたが、通りになっている由来が気になりました。お店に立ち寄る時間も訪ねる時間もないので素通りしました。

    「高知城」への通りには骨董店が数多く並んでいます。並んでいるものは一見して大したものではなさそうでしたが、通りになっている由来が気になりました。お店に立ち寄る時間も訪ねる時間もないので素通りしました。

  • 何とか集合時間に間に合いました。兼山堀の橋の上から高知城の天守を眺めてみます。山内一豊は関ヶ原の戦いでの罪人とされ、京都で蟄居処分となっていた旧織田秀信家老の百々綱家の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、これが認められました。

    何とか集合時間に間に合いました。兼山堀の橋の上から高知城の天守を眺めてみます。山内一豊は関ヶ原の戦いでの罪人とされ、京都で蟄居処分となっていた旧織田秀信家老の百々綱家の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、これが認められました。

  • 一豊と同郷近江の出身の百々は石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていたと伝わります。6千石で召し抱えた百々を総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ねます。翌月より百々は大工頭、鍛冶頭、築壁造頭らを率いて大高坂山に本丸の造営します。

    一豊と同郷近江の出身の百々は石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていたと伝わります。6千石で召し抱えた百々を総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ねます。翌月より百々は大工頭、鍛冶頭、築壁造頭らを率いて大高坂山に本丸の造営します。

  • 土佐藩の初代藩主の山内一豊(やまうちかつとよ)の銅像は、平成8年の1996年に本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げで、騎馬像としては皇居前の楠木正成像を上回る国内最大クラスだそうです。原型は大正元年の1912年に本山白雲によって建立されましたが、第2次大戦中の金属供出によって失われていました。

    土佐藩の初代藩主の山内一豊(やまうちかつとよ)の銅像は、平成8年の1996年に本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げで、騎馬像としては皇居前の楠木正成像を上回る国内最大クラスだそうです。原型は大正元年の1912年に本山白雲によって建立されましたが、第2次大戦中の金属供出によって失われていました。

  • 一豊は領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話を聞いたことがあります。領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになり、これが鰹のタタキの起源だとされています。

    一豊は領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話を聞いたことがあります。領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになり、これが鰹のタタキの起源だとされています。

  • 堀の脇にはBCS賞を受賞した「高知県立高知城歴史博物館」が見えますが、見学する時間はありません。8月に来たときに時間があれば再訪したいと思います。

    堀の脇にはBCS賞を受賞した「高知県立高知城歴史博物館」が見えますが、見学する時間はありません。8月に来たときに時間があれば再訪したいと思います。

    高知城歴史博物館 美術館・博物館

  • 「追手門」から見学を始めます。門の入り口は枡形の巨大な石垣で囲まれていて、敵を3方から攻撃できるようになっています。この建物は江戸時代からの現存しているものです。

    「追手門」から見学を始めます。門の入り口は枡形の巨大な石垣で囲まれていて、敵を3方から攻撃できるようになっています。この建物は江戸時代からの現存しているものです。

  • 妻と比べても石垣の岩の巨大さが分かります。

    妻と比べても石垣の岩の巨大さが分かります。

  • 「大手門(おおてもん)」とは日本の城郭における内部二の丸または、三の丸などの曲輪へ通じる大手虎口に設けられた城門で正門にあたります。

    「大手門(おおてもん)」とは日本の城郭における内部二の丸または、三の丸などの曲輪へ通じる大手虎口に設けられた城門で正門にあたります。

    高知城追手門 名所・史跡

  • 元は「追手門(おうてもん)」と書かれ、高知城など城によっては現在も追手門と表記しています。これに対して背面の門は「搦手門(からめてもん)」と呼ばれます。<br />防御のために厳重な築造がされ、大規模な櫓門を設け石垣などにより枡形を成していることが多く、見た目も大きくて目立つように造られます。

    元は「追手門(おうてもん)」と書かれ、高知城など城によっては現在も追手門と表記しています。これに対して背面の門は「搦手門(からめてもん)」と呼ばれます。
    防御のために厳重な築造がされ、大規模な櫓門を設け石垣などにより枡形を成していることが多く、見た目も大きくて目立つように造られます。

  • 板垣退助は自由民権運動の父とされ、特に「板垣死すとも自由は死せず」の名言は明治時代の一大流行語となりました。この銅像は昭和31年の1956年に再建除幕されたもので、題字は当時の内閣総理大臣の吉田茂の書です。像の高さは2.20メートル、台座は4.2メートルあるそうです。

    板垣退助は自由民権運動の父とされ、特に「板垣死すとも自由は死せず」の名言は明治時代の一大流行語となりました。この銅像は昭和31年の1956年に再建除幕されたもので、題字は当時の内閣総理大臣の吉田茂の書です。像の高さは2.20メートル、台座は4.2メートルあるそうです。

  • 吉田茂は高知県の宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台に生まれているのは大磯の旅で知ったばかりでした。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことで、実母の身元はいまでもはっきりしません。竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んでいます。

    吉田茂は高知県の宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台に生まれているのは大磯の旅で知ったばかりでした。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことで、実母の身元はいまでもはっきりしません。竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んでいます。

  • 明治維新の元勲で自由民権運動の指導者で、子供の頃は500円札の人でした。東アジアで初となる帝国議会を樹立し「国会を創った男」として知られ、伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の1人と数えられます。

    明治維新の元勲で自由民権運動の指導者で、子供の頃は500円札の人でした。東アジアで初となる帝国議会を樹立し「国会を創った男」として知られ、伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の1人と数えられます。

    板垣退助銅像 名所・史跡

  • 「石樋」は石垣に直接排水が当たらないようにする設備で、その下には水受けの敷石が地面を保護しています。このような設備は雨の多い土佐ならではの設備で、他の城郭には見ることの出来ない珍しいものです。石樋は本丸や三の丸など16カ所が確認され、下になるほど排水量が多くなるため巨大に作られています。

    「石樋」は石垣に直接排水が当たらないようにする設備で、その下には水受けの敷石が地面を保護しています。このような設備は雨の多い土佐ならではの設備で、他の城郭には見ることの出来ない珍しいものです。石樋は本丸や三の丸など16カ所が確認され、下になるほど排水量が多くなるため巨大に作られています。

  • 山内一豊の妻である見性院(千代)は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、嫁入りの持参金で名馬の鏡栗毛を買いました。この逸話は特に第2次世界大戦以前の日本において教科書に採り上げられ、女性のあるべき姿として学校教育に用いられました。

    山内一豊の妻である見性院(千代)は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、嫁入りの持参金で名馬の鏡栗毛を買いました。この逸話は特に第2次世界大戦以前の日本において教科書に採り上げられ、女性のあるべき姿として学校教育に用いられました。

  • 織田信長の馬揃えの際に一豊の妻の千代は貯えていた嫁入りの持参金を夫に渡し、名馬の鏡栗毛を購入させました。馬を買った経緯はある商人が東国一の馬を売ろうと連れて来たが、あまりの高さに誰も買う者が無く、仕方無く帰ろうとした所を山内一豊が買いました。それを聞いた信長が「高い馬だから、信長の家の者でなければ買えないだろうと持って来た馬を、浪人の身でありながらよく買ってくれた。信長の家も恥をかかなくて済んだ」と喜んだといわれます。

    織田信長の馬揃えの際に一豊の妻の千代は貯えていた嫁入りの持参金を夫に渡し、名馬の鏡栗毛を購入させました。馬を買った経緯はある商人が東国一の馬を売ろうと連れて来たが、あまりの高さに誰も買う者が無く、仕方無く帰ろうとした所を山内一豊が買いました。それを聞いた信長が「高い馬だから、信長の家の者でなければ買えないだろうと持って来た馬を、浪人の身でありながらよく買ってくれた。信長の家も恥をかかなくて済んだ」と喜んだといわれます。

    高知城 (高知公園) 名所・史跡

  • だんだん天守が近づいてきましたが、迷路のような縄張りをまだ歩かなければなりません。南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式です。最上階の高欄は徳川家康の許可を得て造ったものといわれています。創建時のものは享保12年の1727年に焼失し、延享4年の1747年に焼失以前のものを忠実に再建されたものといわれており、高欄を設けるなどのやや古風な形式をとっています。

    だんだん天守が近づいてきましたが、迷路のような縄張りをまだ歩かなければなりません。南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式です。最上階の高欄は徳川家康の許可を得て造ったものといわれています。創建時のものは享保12年の1727年に焼失し、延享4年の1747年に焼失以前のものを忠実に再建されたものといわれており、高欄を設けるなどのやや古風な形式をとっています。

  • 三の丸へ上がる階段から眺める天守は非常に美しいです。天守は独立式望楼型4重6階で、1重目の屋根を腰庇として3重6階と数えられることもあるようです。窓は突上窓と連子窓で、天守台がなく本丸上に直に礎石を敷き御殿に隣接して建てられているようです。

    三の丸へ上がる階段から眺める天守は非常に美しいです。天守は独立式望楼型4重6階で、1重目の屋根を腰庇として3重6階と数えられることもあるようです。窓は突上窓と連子窓で、天守台がなく本丸上に直に礎石を敷き御殿に隣接して建てられているようです。

  • 「鉄門跡」にはかつては2階建ての門があり、鉄板を打ち付けた扉がありました。門を入ると枡形になっていて、詰門へと続いています。

    「鉄門跡」にはかつては2階建ての門があり、鉄板を打ち付けた扉がありました。門を入ると枡形になっていて、詰門へと続いています。

  • 今回の旅では唯一この「高知城」の見学だけが傘が必要でした。

    今回の旅では唯一この「高知城」の見学だけが傘が必要でした。

  • 「詰門」は本丸と二ノ丸をつなぐ役目を果たす櫓門で、藩政時代には「橋廊下」と呼ばれました。門内に侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されています。1階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっており、2階は家老や中老などの詰所として用いられました。現在の呼称はここからきています。

    「詰門」は本丸と二ノ丸をつなぐ役目を果たす櫓門で、藩政時代には「橋廊下」と呼ばれました。門内に侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されています。1階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっており、2階は家老や中老などの詰所として用いられました。現在の呼称はここからきています。

  • 角度が違うだけで全く違う城の天守を見ているような気になります。

    角度が違うだけで全く違う城の天守を見ているような気になります。

  • 「本丸」には天守と本丸御殿、納戸蔵や廊下門、東多聞や黒鉄門などの建造物が残り、いずれも国の重要文化財に指定されています。東多聞は武器庫として使用したといわれ、西多聞には本丸警護の武士が詰める番所が置かれていました。

    「本丸」には天守と本丸御殿、納戸蔵や廊下門、東多聞や黒鉄門などの建造物が残り、いずれも国の重要文化財に指定されています。東多聞は武器庫として使用したといわれ、西多聞には本丸警護の武士が詰める番所が置かれていました。

    高知城懐徳館 美術館・博物館

  • 天守台がなく本丸上に直に礎石を敷き御殿に隣接して建てられているのがよく分かりました。

    天守台がなく本丸上に直に礎石を敷き御殿に隣接して建てられているのがよく分かりました。

  • ようやく天守の上まで登れる位置にまでやってきた気がします。

    ようやく天守の上まで登れる位置にまでやってきた気がします。

  • 日本で唯一の本丸の建築群がすべて現存する高知城では、国の重要文化財に指定されている本丸御殿を「懐徳館」として、歴史資料や山内家や土佐の偉人ゆかりの品などを展示しています。

    日本で唯一の本丸の建築群がすべて現存する高知城では、国の重要文化財に指定されている本丸御殿を「懐徳館」として、歴史資料や山内家や土佐の偉人ゆかりの品などを展示しています。

  • 山内家の家紋は「三つ柏」で、土佐藩船の船印としても使われていました。土佐出身の岩崎弥太郎が三菱を興したとき、山内家と岩崎家の家紋を統合させて会社のロゴを作成しました。

    山内家の家紋は「三つ柏」で、土佐藩船の船印としても使われていました。土佐出身の岩崎弥太郎が三菱を興したとき、山内家と岩崎家の家紋を統合させて会社のロゴを作成しました。

  • 「二の丸欄間(梅丸彫り」は江戸時代後期の名工と呼ばれた島村三四郎の作と伝えられます。

    「二の丸欄間(梅丸彫り」は江戸時代後期の名工と呼ばれた島村三四郎の作と伝えられます。

  • 「三の丸欄間(水に蓮根)」は江戸時代中期の名工の武市高朋(甚七)が製作しました。竹細工を本業としましたが彫刻に優れ、土佐の左甚五郎と呼ばれました。

    「三の丸欄間(水に蓮根)」は江戸時代中期の名工の武市高朋(甚七)が製作しました。竹細工を本業としましたが彫刻に優れ、土佐の左甚五郎と呼ばれました。

  • 「三の丸欄間(慈姑に水鳥)」は同じ武市高朋の作品で、土佐藩8代藩主の豊敷(とよのぶ)の根付を製作しています。三の丸御殿の欄間を彫った功績から武市の姓を名乗ることを許されています。

    「三の丸欄間(慈姑に水鳥)」は同じ武市高朋の作品で、土佐藩8代藩主の豊敷(とよのぶ)の根付を製作しています。三の丸御殿の欄間を彫った功績から武市の姓を名乗ることを許されています。

  • 懐かしい大河ドラマのポスターとその時の衣装が展示してありました。原作は司馬遼太郎が1960年代に執筆した同名小説「功名が辻」で、千代(見性院)とその夫・山内一豊を主人公とし、仲間由紀恵と上川隆也が主演していました。

    懐かしい大河ドラマのポスターとその時の衣装が展示してありました。原作は司馬遼太郎が1960年代に執筆した同名小説「功名が辻」で、千代(見性院)とその夫・山内一豊を主人公とし、仲間由紀恵と上川隆也が主演していました。

  • 雨のために雨戸が閉まっているのが残念ですが、建物の中の見学を続けていきます。

    雨のために雨戸が閉まっているのが残念ですが、建物の中の見学を続けていきます。

  • 「うちわけ波の欄間」は下段の間と次の間の間に設けられ、作者は武市高朋(甚七)と伝えられています。

    「うちわけ波の欄間」は下段の間と次の間の間に設けられ、作者は武市高朋(甚七)と伝えられています。

  • 南入側から二の間とその奥の上段の間を見ています。典型的な書院造のデザインです。鴨井から天井までの壁が広く、天井の高さが高いことが分かります。

    南入側から二の間とその奥の上段の間を見ています。典型的な書院造のデザインです。鴨井から天井までの壁が広く、天井の高さが高いことが分かります。

  • 「竹の節欄間」は竹の節状の束がデザインされていることから名前がつけられました。この様式は平安時代の貴族の館にも用いられました。

    「竹の節欄間」は竹の節状の束がデザインされていることから名前がつけられました。この様式は平安時代の貴族の館にも用いられました。

  • 欄間の彫刻が際立つ建物です。

    欄間の彫刻が際立つ建物です。

  • 上段の間には「帳台構え」と呼ばれる納戸の扉があります。実際は藩主護衛のための武士が隠れたことから武者隠しと呼ばれます。

    上段の間には「帳台構え」と呼ばれる納戸の扉があります。実際は藩主護衛のための武士が隠れたことから武者隠しと呼ばれます。

  • 「上段の間」は外の部屋よりも1段高くした藩主の御座所です。来客応接の間として武家や大名の屋敷には必ず設けられます。床の間の壁は修復途中のためなのか下地材のジョイント部分にパテがしごかれています。床には15代藩主の山内容堂の詩書「夕暮曲」が掛かっています。

    「上段の間」は外の部屋よりも1段高くした藩主の御座所です。来客応接の間として武家や大名の屋敷には必ず設けられます。床の間の壁は修復途中のためなのか下地材のジョイント部分にパテがしごかれています。床には15代藩主の山内容堂の詩書「夕暮曲」が掛かっています。

  • 山内容堂の明治維新後は名誉職の内国事務総裁に就きましたが、旧幕期に家臣や領民だった者たちと馴染むことができずに辞職してしまいます。しかし木戸孝允とは仲が良く、自邸に招いては新政府の将来などについて語り合ったそうです。本邸は新たに東京箱崎の元田安徳川家別邸に住み、妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送りました。

    山内容堂の明治維新後は名誉職の内国事務総裁に就きましたが、旧幕期に家臣や領民だった者たちと馴染むことができずに辞職してしまいます。しかし木戸孝允とは仲が良く、自邸に招いては新政府の将来などについて語り合ったそうです。本邸は新たに東京箱崎の元田安徳川家別邸に住み、妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送りました。

  • また、両国や柳橋などの酒楼にて連日豪遊し、ついに家産が傾きかけたものの、容堂は「昔から大名が倒産した例しがない。俺が先鞭をつけてやろう」と豪語したそうです。父に昔聞いた話では大叔母が山内家に方向に出ていたと聞いたことがありましたが、確認しようにもその当時のことを知る人は誰もいません。

    また、両国や柳橋などの酒楼にて連日豪遊し、ついに家産が傾きかけたものの、容堂は「昔から大名が倒産した例しがない。俺が先鞭をつけてやろう」と豪語したそうです。父に昔聞いた話では大叔母が山内家に方向に出ていたと聞いたことがありましたが、確認しようにもその当時のことを知る人は誰もいません。

  • 「天守閣」の中は博物館になっていて、高知城の築城当時の様子が再現されたジオラマがありました。

    「天守閣」の中は博物館になっていて、高知城の築城当時の様子が再現されたジオラマがありました。

  • 鏡川を使って石垣の石が運ばれたのだと分かります。

    鏡川を使って石垣の石が運ばれたのだと分かります。

  • 丸太を敷いた橇の上で扇子を振って掛け声をあげる様子はまるで祭りのようです。

    丸太を敷いた橇の上で扇子を振って掛け声をあげる様子はまるで祭りのようです。

  • 完成した天守閣も立派ですが、建設時の丸太組の足場もそれ以上に迫力があります。以前は香港や中国を旅すると見掛けた竹の足場は現在も使われているのでしょうか。

    完成した天守閣も立派ですが、建設時の丸太組の足場もそれ以上に迫力があります。以前は香港や中国を旅すると見掛けた竹の足場は現在も使われているのでしょうか。

  • 往時の高知城の姿を再現した模型を眺めると、ここまで歩いてきた道のりを感じます。

    往時の高知城の姿を再現した模型を眺めると、ここまで歩いてきた道のりを感じます。

  • 鯱というのは、頭は龍のようで背中に鋭いトゲを有する想像の魚で、海に棲むので防火の効があるという考えから城郭建築に多く用いられています。高知城では追手門の鯱は瓦ですが、天守の上重と下重の4個の鯱は青銅製で、いずれも形が整っていて美しいです。

    鯱というのは、頭は龍のようで背中に鋭いトゲを有する想像の魚で、海に棲むので防火の効があるという考えから城郭建築に多く用いられています。高知城では追手門の鯱は瓦ですが、天守の上重と下重の4個の鯱は青銅製で、いずれも形が整っていて美しいです。

  • この鯱は宝暦7年の1757年と寛政4年の1792年のいず7月2626日に大暴風雨で墜落し、寛政4年のときは鉄門を登ったところの左手にあった横建物の屋根を貫きました。

    この鯱は宝暦7年の1757年と寛政4年の1792年のいず7月2626日に大暴風雨で墜落し、寛政4年のときは鉄門を登ったところの左手にあった横建物の屋根を貫きました。

  • 天守閣の最上段まで登りました。ここまで来てようやく「高知城」の全容が分かった気になります。

    天守閣の最上段まで登りました。ここまで来てようやく「高知城」の全容が分かった気になります。

  • 小雨が降っていたおかげで屋根瓦が濡れて美しく感じます。木材は土佐の国内から集められ石垣は浦戸城のものも流用し、瓦は上方に発注したそうです。専門の職人は大坂から雇用し、人足には山内家の家臣団も利用されて築城されました。

    小雨が降っていたおかげで屋根瓦が濡れて美しく感じます。木材は土佐の国内から集められ石垣は浦戸城のものも流用し、瓦は上方に発注したそうです。専門の職人は大坂から雇用し、人足には山内家の家臣団も利用されて築城されました。

  • 今までいくつもの天守を見てきましたが、高知城の甍の美しさは印象に残りました。

    今までいくつもの天守を見てきましたが、高知城の甍の美しさは印象に残りました。

  • 江戸時代のQRコードみたいです。念のためスマホで読み取ってみましたが、反応しませんでした。

    江戸時代のQRコードみたいです。念のためスマホで読み取ってみましたが、反応しませんでした。

  • 土佐藩初代藩主の山内一豊が土佐入国前に城主を務めた掛川城を模して作った高知城の高欄は江戸時代の大火と再建、昭和の大改修による取り換えを経ていますが、様式や材質、作製技法は往時のままだそうです。

    土佐藩初代藩主の山内一豊が土佐入国前に城主を務めた掛川城を模して作った高知城の高欄は江戸時代の大火と再建、昭和の大改修による取り換えを経ていますが、様式や材質、作製技法は往時のままだそうです。

  • 高欄の漆塗りは32の手間をかけて丁寧に仕上げられています。漆は紫外線に弱いので美観を維持するには手入れが必要です。工程を再現した展示もありました。

    高欄の漆塗りは32の手間をかけて丁寧に仕上げられています。漆は紫外線に弱いので美観を維持するには手入れが必要です。工程を再現した展示もありました。

  • 天守を降りてさらに展示を見学します。かなり見学時間が迫ってきたので具足や甲冑の見学は駆け足になってしまいました。

    天守を降りてさらに展示を見学します。かなり見学時間が迫ってきたので具足や甲冑の見学は駆け足になってしまいました。

  • 日本の捕鯨は勇魚取(いさなとり)や鯨突(くじらつき)と呼ばれ、古くから行われてきました。土佐湾は日本有数の鯨の生息域で、かつては捕鯨文化も栄えていました。江戸時代の鯨組による網取式捕鯨を頂点に、突き取り式捕鯨、追い込み式捕鯨など日本独自の形態での捕鯨が発展ました。

    日本の捕鯨は勇魚取(いさなとり)や鯨突(くじらつき)と呼ばれ、古くから行われてきました。土佐湾は日本有数の鯨の生息域で、かつては捕鯨文化も栄えていました。江戸時代の鯨組による網取式捕鯨を頂点に、突き取り式捕鯨、追い込み式捕鯨など日本独自の形態での捕鯨が発展ました。

  • 「よさこい節」には「おらんくの池(太平洋)にゃ、潮吹く魚が泳ぎよる」という一節もあります。大海原で鯨の姿を見るホエールウォッチングは土佐湾沿いの各市町村で盛んに行われているようです。

    「よさこい節」には「おらんくの池(太平洋)にゃ、潮吹く魚が泳ぎよる」という一節もあります。大海原で鯨の姿を見るホエールウォッチングは土佐湾沿いの各市町村で盛んに行われているようです。

  • 土佐の陶芸については全く知識がありませんでしたが、尾戸焼(おどやき)や能茶山焼(のさやまやき)などがあるそうです。尾戸焼は代々の藩主の贈答品としても使われました。

    土佐の陶芸については全く知識がありませんでしたが、尾戸焼(おどやき)や能茶山焼(のさやまやき)などがあるそうです。尾戸焼は代々の藩主の贈答品としても使われました。

  • この緋羅沙地数珠文陣羽織は山内容堂のもので豪快なデザインです。正面と背面いっぱいに数珠をあしらっています。山内家の家紋である白黒の一文字もあしらわれています。

    この緋羅沙地数珠文陣羽織は山内容堂のもので豪快なデザインです。正面と背面いっぱいに数珠をあしらっています。山内家の家紋である白黒の一文字もあしらわれています。

  • 天守閣の見学を終えて迷路のような場内を駐車場に向かって歩きます。

    天守閣の見学を終えて迷路のような場内を駐車場に向かって歩きます。

  • 「黒鉄門」は本丸の南に位置し、儀式の際に藩主が出入りする門でした。この門から下ることにします。

    「黒鉄門」は本丸の南に位置し、儀式の際に藩主が出入りする門でした。この門から下ることにします。

  • 門の脇には丸と三角でデザインされた狭間が並んでいます。

    門の脇には丸と三角でデザインされた狭間が並んでいます。

  • 天守の石垣を回り込んでいくと天守と東南矢狭間塀の角度の違いを感じることが出来ます。

    天守の石垣を回り込んでいくと天守と東南矢狭間塀の角度の違いを感じることが出来ます。

  • 「鉄門跡」まで戻ってきました。ここから先は駐車場へ向かって下っていきます。何とか出発の時間には間に合いましたが駆け足の見学でした。

    「鉄門跡」まで戻ってきました。ここから先は駐車場へ向かって下っていきます。何とか出発の時間には間に合いましたが駆け足の見学でした。

  • ここからは「高知県立牧野植物園」に向かうのですが、バスのドライバーさんとガイドさんが遠回りしてJR高知駅の前を通ってくれました。愛媛県に住んでいるガイドさんは「四国4県の中で一番小さいのが愛媛駅です。」と仰っていましたが、確かに規模が全く違います。

    ここからは「高知県立牧野植物園」に向かうのですが、バスのドライバーさんとガイドさんが遠回りしてJR高知駅の前を通ってくれました。愛媛県に住んでいるガイドさんは「四国4県の中で一番小さいのが愛媛駅です。」と仰っていましたが、確かに規模が全く違います。

    高知駅

  • 駅前には坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の3人の像が並んでいます。2011年に県の観光キャンペーン「志国高知 龍馬ふるさと博」の目玉として企画され、特殊加工された発泡スチロール製で1体約200万円で作られました。

    駅前には坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の3人の像が並んでいます。2011年に県の観光キャンペーン「志国高知 龍馬ふるさと博」の目玉として企画され、特殊加工された発泡スチロール製で1体約200万円で作られました。

  • 期間限定だったそうですが、12年経った現在も展示されています。青銅製ではないので台風が来る際には移動することが出来るそうです。

    期間限定だったそうですが、12年経った現在も展示されています。青銅製ではないので台風が来る際には移動することが出来るそうです。

  • 武市半平太は土佐勤王党の盟主で、土佐藩の参政の吉田東洋の暗殺を指示し、土佐藩を尊皇攘夷へと転換させています。三条実美を中心とする急進的な尊王攘夷派公家と長州藩を排斥した八月十八日の政変で、土佐藩では前藩主の山内容堂によって投獄され切腹します。

    武市半平太は土佐勤王党の盟主で、土佐藩の参政の吉田東洋の暗殺を指示し、土佐藩を尊皇攘夷へと転換させています。三条実美を中心とする急進的な尊王攘夷派公家と長州藩を排斥した八月十八日の政変で、土佐藩では前藩主の山内容堂によって投獄され切腹します。

  • 中岡慎太郎は陸援隊隊長で薩摩藩の島津久光暗殺を画策し、武力倒幕に傾倒し、薩長同盟を実現させます。坂本龍馬とともに京の近江屋事件で、佐幕派の京都見廻組に暗殺されています。

    中岡慎太郎は陸援隊隊長で薩摩藩の島津久光暗殺を画策し、武力倒幕に傾倒し、薩長同盟を実現させます。坂本龍馬とともに京の近江屋事件で、佐幕派の京都見廻組に暗殺されています。

  • 坂本龍馬は武市半平太とは遠縁にあたり、当初は政治的な行動はありませんが尊皇攘夷に目覚め、脱藩して貿易商社と政治結社を兼ね備えたのちの海援隊の前身の亀山社中を結成します。中岡慎太郎とともに薩長同盟の成立に尽力しますが、京の近江屋事件で佐幕派の京都見廻組に暗殺されています。

    坂本龍馬は武市半平太とは遠縁にあたり、当初は政治的な行動はありませんが尊皇攘夷に目覚め、脱藩して貿易商社と政治結社を兼ね備えたのちの海援隊の前身の亀山社中を結成します。中岡慎太郎とともに薩長同盟の成立に尽力しますが、京の近江屋事件で佐幕派の京都見廻組に暗殺されています。

  • さらに「はりまや橋」も通過してくれました。ちょうど信号で停まるように配慮してくれたようです。お陰で写真を撮ることが出来ました。江戸時代に高知の豪商である播磨屋と櫃屋(ひつや)は互いに本店が堀で隔てられていたために両者の往来のために播磨屋によって架けられた私設の橋が名称の由来です。

    さらに「はりまや橋」も通過してくれました。ちょうど信号で停まるように配慮してくれたようです。お陰で写真を撮ることが出来ました。江戸時代に高知の豪商である播磨屋と櫃屋(ひつや)は互いに本店が堀で隔てられていたために両者の往来のために播磨屋によって架けられた私設の橋が名称の由来です。

    はりまや橋 名所・史跡

  • 「はりまや橋 からくり時計」はすでに午後3時20分です。ここから「高知県立牧野植物園」に向かいます。

    「はりまや橋 からくり時計」はすでに午後3時20分です。ここから「高知県立牧野植物園」に向かいます。

    はりまや橋公園 公園・植物園

  • 日本最古の市電のとさでんは南国市後免(ごめん)町駅からいの町伊野駅まで東西22.1キロと高知駅前から桟橋通五丁目までの南3.2キロの総延長25.3キロで日本最長の距離があるようです。昔ながらの電車や超低床電車のほか,ポルトガルやノルウェーやオーストリアなど外国の街を実際に走っていた電車も市内を走っています。

    日本最古の市電のとさでんは南国市後免(ごめん)町駅からいの町伊野駅まで東西22.1キロと高知駅前から桟橋通五丁目までの南3.2キロの総延長25.3キロで日本最長の距離があるようです。昔ながらの電車や超低床電車のほか,ポルトガルやノルウェーやオーストリアなど外国の街を実際に走っていた電車も市内を走っています。

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2023愛媛・高知・徳島の旅

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