鞆の浦・鞆公園旅行記(ブログ) 一覧に戻る
旅行10日目。<br />宿泊拠点は三原だけど今日は福山へ足を伸ばし、江戸時代から残る常夜燈や町家が今も大切に保存されている歴史の香りが漂う鞆の浦を散策する。<br />最初に訪ねたのは坂本龍馬や海援隊が乗ったいろは丸と、紀州藩の明光丸が衝突した1867年4月の「いろは丸事件」の際、談判交渉のため上陸した鞆の浦で龍馬が宿泊した商家:桝屋の2階にある“龍馬の隠れ部屋桝屋清右衛門宅“を見学。<br />その後は江戸時代に朝鮮通信使の迎賓館としても利用され、歴史的にも重要な役割を果たしてきた“福禅寺 對潮楼”から、絶景と謳われる仙酔島をはじめとする島々と海を鑑賞した。<br />ランチは鞆の浦名物の鯛料理が食べたくて活魚料理と鯛めしが楽しめる“千とせ”に立ち寄り、「いろは丸事件」のときに紀州藩側の宿舎となった真言宗寺院“円福寺(大可島城跡)”で猫たちと戯れた後、鞆の浦のシンボルともいうべき常夜灯や、潮の高さに関係なく積み荷の上げ下ろしが可能な階段状の船着場:雁木のある景観が残る鞆の浦の港を歩きながら、万葉の時代から海上交通の要衝としてかつて瀬戸内で最も栄えた港町に思いを馳せる。

白鷺城と山陽地方を巡遊する年末年始12日旅 in 兵庫・岡山・広島・山口★2022-2023 13 10日目【福山・鞆の浦】

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2022/12/28 - 2023/01/08

379位(同エリア431件中)

RiE

RiEさん

旅行10日目。
宿泊拠点は三原だけど今日は福山へ足を伸ばし、江戸時代から残る常夜燈や町家が今も大切に保存されている歴史の香りが漂う鞆の浦を散策する。
最初に訪ねたのは坂本龍馬や海援隊が乗ったいろは丸と、紀州藩の明光丸が衝突した1867年4月の「いろは丸事件」の際、談判交渉のため上陸した鞆の浦で龍馬が宿泊した商家:桝屋の2階にある“龍馬の隠れ部屋桝屋清右衛門宅“を見学。
その後は江戸時代に朝鮮通信使の迎賓館としても利用され、歴史的にも重要な役割を果たしてきた“福禅寺 對潮楼”から、絶景と謳われる仙酔島をはじめとする島々と海を鑑賞した。
ランチは鞆の浦名物の鯛料理が食べたくて活魚料理と鯛めしが楽しめる“千とせ”に立ち寄り、「いろは丸事件」のときに紀州藩側の宿舎となった真言宗寺院“円福寺(大可島城跡)”で猫たちと戯れた後、鞆の浦のシンボルともいうべき常夜灯や、潮の高さに関係なく積み荷の上げ下ろしが可能な階段状の船着場:雁木のある景観が残る鞆の浦の港を歩きながら、万葉の時代から海上交通の要衝としてかつて瀬戸内で最も栄えた港町に思いを馳せる。

同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 三原駅から9:48発のJR:山陽本線糸崎行きの乗車し、糸崎駅で岡山行きに乗り換えて…<br />

    三原駅から9:48発のJR:山陽本線糸崎行きの乗車し、糸崎駅で岡山行きに乗り換えて…

    糸崎駅

  • 福山駅に降り立ったのが10:21。<br />今日も風がない穏やかな冬晴れで、雲ひとつ見当たらなかった。<br />

    福山駅に降り立ったのが10:21。
    今日も風がない穏やかな冬晴れで、雲ひとつ見当たらなかった。

    福山駅

  • 福山駅前バスターミナルの5番乗り場から10:30発トモテツバス:鞆港行きに乗車。

    福山駅前バスターミナルの5番乗り場から10:30発トモテツバス:鞆港行きに乗車。

    トモテツバス 乗り物

    モバイルSuicaにも対応している:トモテツバス by RiEさん
  • 海沿いを走って、11:05にバス停:鞆の浦で下車した。

    海沿いを走って、11:05にバス停:鞆の浦で下車した。

  • 周囲は長閑で静かな波音しか聞こえない。

    周囲は長閑で静かな波音しか聞こえない。

  • バス停近くには鞆の浦名物のさよりの干物が干してあった。

    バス停近くには鞆の浦名物のさよりの干物が干してあった。

  • バス停の向かいには“鞆支所眺望デッキ”があったので階段を利用して上階に上がってみる。

    バス停の向かいには“鞆支所眺望デッキ”があったので階段を利用して上階に上がってみる。

    鞆支所眺望デッキ 自然・景勝地

    無料でパノラマ絶景が楽しめるけど日差し対策必須:鞆支所眺望デッキ by RiEさん
  • 屋上が解放されており鞆の浦から船で5分のところに浮かぶ無人島:仙酔島をはじめとする、瀬戸内海に浮かぶ島々が一望できた。<br />ちなみに正面に見える多宝塔があるのは弁天島。<br />

    屋上が解放されており鞆の浦から船で5分のところに浮かぶ無人島:仙酔島をはじめとする、瀬戸内海に浮かぶ島々が一望できた。
    ちなみに正面に見える多宝塔があるのは弁天島。

  • 鞆支所眺望デッキの北側にあるのは“龍馬の隠れ部屋桝屋清右衛門宅”。<br />1867年4月に坂本龍馬や海援隊が乗った大洲藩所有の蒸気船:いろは丸と、紀州藩所有の大型蒸気船:明光丸が衝突した「いろは丸事件」の際、いろは丸は大破してしまったため1番近い港だった鞆の浦まで明光丸が牽引しようとしたけど途中で沈没してしまう。<br />談判交渉のために双方の乗船者は鞆の浦に上陸して紀州藩側は圓福寺に宿泊し、坂本龍馬や海援隊はこの桝屋清右衛門宅に拠点を置き、命を狙われていた坂本龍馬はこの建物2階に身を潜めていたそうで、その部屋が見学可能。

    鞆支所眺望デッキの北側にあるのは“龍馬の隠れ部屋桝屋清右衛門宅”。
    1867年4月に坂本龍馬や海援隊が乗った大洲藩所有の蒸気船:いろは丸と、紀州藩所有の大型蒸気船:明光丸が衝突した「いろは丸事件」の際、いろは丸は大破してしまったため1番近い港だった鞆の浦まで明光丸が牽引しようとしたけど途中で沈没してしまう。
    談判交渉のために双方の乗船者は鞆の浦に上陸して紀州藩側は圓福寺に宿泊し、坂本龍馬や海援隊はこの桝屋清右衛門宅に拠点を置き、命を狙われていた坂本龍馬はこの建物2階に身を潜めていたそうで、その部屋が見学可能。

    龍馬の隠れ部屋桝屋清右衛門宅 名所・史跡

    当時のまま残された部屋に入ることができる:龍馬の隠れ部屋桝屋清右衛門宅 by RiEさん
  • 1階には鞆の浦や福山市のモチーフを中心に扱う雑貨店が入店していて、雑貨店で入場料大人1人:200円を支払えば見学できる。

    1階には鞆の浦や福山市のモチーフを中心に扱う雑貨店が入店していて、雑貨店で入場料大人1人:200円を支払えば見学できる。

  • 江戸時代に廻船問屋を営んでいた有数の豪商:桝屋清右衛門の店舗兼自宅だった建物で、昭和後期までは実際に人が住んでいたそうで「昔、坂本龍馬がこの家に宿泊した」という伝承があったそう。<br />1989年に地元有志が建物を調査した結果、なんと天井裏に隠れ部屋が発見され整備された後、2011年から一般公開された。<br />趣きある玄関で靴を脱いで宅内に上がると自由に見て回れる。

    江戸時代に廻船問屋を営んでいた有数の豪商:桝屋清右衛門の店舗兼自宅だった建物で、昭和後期までは実際に人が住んでいたそうで「昔、坂本龍馬がこの家に宿泊した」という伝承があったそう。
    1989年に地元有志が建物を調査した結果、なんと天井裏に隠れ部屋が発見され整備された後、2011年から一般公開された。
    趣きある玄関で靴を脱いで宅内に上がると自由に見て回れる。

  • 玄関入ってすぐ左の部屋は坂本龍馬についての紹介や、坂本家の家紋が入ったレプリカの着物が展示してある。

    玄関入ってすぐ左の部屋は坂本龍馬についての紹介や、坂本家の家紋が入ったレプリカの着物が展示してある。

  • 奥に進むと外からの光が入らない部屋になっていて、壁の一角を家具に囲まれていた。<br /><br />

    奥に進むと外からの光が入らない部屋になっていて、壁の一角を家具に囲まれていた。

  • 1枚前の写真右端の箪笥上部の天井板が1枚だけ取り外せるようになっており、天井裏にある隠し部屋への入口になっている。

    1枚前の写真右端の箪笥上部の天井板が1枚だけ取り外せるようになっており、天井裏にある隠し部屋への入口になっている。

  • 現在は天井裏見学用に階段が設けられているけど、当時は取り外し可能な梯子で上り下りしていて、鞆の浦の商家にはこういった密談が出来る隠し部屋が残されているそう。

    現在は天井裏見学用に階段が設けられているけど、当時は取り外し可能な梯子で上り下りしていて、鞆の浦の商家にはこういった密談が出来る隠し部屋が残されているそう。

  • 大人の男性ならギリギリ通り抜けられそうなサイズの天井板が1枚だけ開いていて、脇には梯子が置いてあったけど薄暗い。

    大人の男性ならギリギリ通り抜けられそうなサイズの天井板が1枚だけ開いていて、脇には梯子が置いてあったけど薄暗い。

  • 奥まった位置にある小さな階段を進んでいくと…

    奥まった位置にある小さな階段を進んでいくと…

  • 広さ6畳の龍馬の隠れ部屋に入ることができ、壁は当時のままだそうで経年劣化を感じるヒビ割れが見られた。<br />壁際の文机には坂本龍馬が世話になっていた京都の寺田屋の女将:お登勢にあてた手紙の複製が置いてある。

    広さ6畳の龍馬の隠れ部屋に入ることができ、壁は当時のままだそうで経年劣化を感じるヒビ割れが見られた。
    壁際の文机には坂本龍馬が世話になっていた京都の寺田屋の女将:お登勢にあてた手紙の複製が置いてある。

  • 手紙の内容は「いろは丸事件が突発して、京都に行けないため長崎に引き返す」と書かれている。<br />いろは丸事件の直後から4日間にわたって鞆の浦に滞在した坂本龍馬と海援隊は、桝屋清右衛門宅に居ることを隠すかのように才谷 梅太郎という変名を使って、わざわざ屋根裏部屋に泊まっていたことから、既に自分の命が狙われていることを知っていたのかもしれない(坂本龍馬殺害はいろは丸事件の約7ヶ月後)。<br />

    手紙の内容は「いろは丸事件が突発して、京都に行けないため長崎に引き返す」と書かれている。
    いろは丸事件の直後から4日間にわたって鞆の浦に滞在した坂本龍馬と海援隊は、桝屋清右衛門宅に居ることを隠すかのように才谷 梅太郎という変名を使って、わざわざ屋根裏部屋に泊まっていたことから、既に自分の命が狙われていることを知っていたのかもしれない(坂本龍馬殺害はいろは丸事件の約7ヶ月後)。

  • 隠れ部屋を出て小さな階段を下りると、海援隊の仲間と撮影した写真パネルが展示してあり、ここで撮影した写真では無いものの海援隊が紹介されるときよく見る写真だった。

    隠れ部屋を出て小さな階段を下りると、海援隊の仲間と撮影した写真パネルが展示してあり、ここで撮影した写真では無いものの海援隊が紹介されるときよく見る写真だった。

  • 1階に戻ると家具が置かれていた部屋の更に奥にある2間続きも見学出来た。

    1階に戻ると家具が置かれていた部屋の更に奥にある2間続きも見学出来た。

  • こちらは明るい光が室内に注ぎこみ、秘密の隠れ部屋とは全く雰囲気が異なる。

    こちらは明るい光が室内に注ぎこみ、秘密の隠れ部屋とは全く雰囲気が異なる。

  • 海沿いの道を5分ほど歩いて行くと、次の目的地の案内が右手にあったので曲がってみたところ、普通の住宅街が続く車も通れない細い1本道になっていた。

    海沿いの道を5分ほど歩いて行くと、次の目的地の案内が右手にあったので曲がってみたところ、普通の住宅街が続く車も通れない細い1本道になっていた。

  • 右側の石垣から伸びる階段を上がっていく。<br />ちなみに昭和中期頃まで福禅寺の石垣下までは海だったそう。

    右側の石垣から伸びる階段を上がっていく。
    ちなみに昭和中期頃まで福禅寺の石垣下までは海だったそう。

  • 鞆の浦を象徴する景観である仙酔島・皇后島・弁天島と周辺の海を“福禅寺の對潮楼”から鑑賞するのが絶景だと江戸時代から知れ渡っていたそうで、江戸幕府を訪問する朝鮮通信使が船で鞆の浦に寄った際に、福禅寺客殿は朝鮮通信使をもてなす迎賓館の役割があり、文化交流も行われる重要な場所だった。<br />福禅寺は平安時代中期の天暦年間(947-957年)に空也という僧侶によって創建された古刹で、もとは観音堂だったけど火災で衰退してしまい、江戸時代に再建された後、1638年に後陽成天皇の第3皇子により京都の大覚寺の末寺に指定されたときに福禅寺と改称した。

    鞆の浦を象徴する景観である仙酔島・皇后島・弁天島と周辺の海を“福禅寺の對潮楼”から鑑賞するのが絶景だと江戸時代から知れ渡っていたそうで、江戸幕府を訪問する朝鮮通信使が船で鞆の浦に寄った際に、福禅寺客殿は朝鮮通信使をもてなす迎賓館の役割があり、文化交流も行われる重要な場所だった。
    福禅寺は平安時代中期の天暦年間(947-957年)に空也という僧侶によって創建された古刹で、もとは観音堂だったけど火災で衰退してしまい、江戸時代に再建された後、1638年に後陽成天皇の第3皇子により京都の大覚寺の末寺に指定されたときに福禅寺と改称した。

    福禅寺 對潮楼 名所・史跡

    瀬戸内海に浮かぶ島々を見渡せる:福禅寺 對潮楼 by RiEさん
  • 境内を進むと寺院なのになぜか親子の神馬が小屋に安置されていて、下を覗いたら飼い葉桶が賽銭箱になっていた。

    境内を進むと寺院なのになぜか親子の神馬が小屋に安置されていて、下を覗いたら飼い葉桶が賽銭箱になっていた。

  • 敷石に沿って境内をL字に曲がると本堂の全容が見えてきた。

    敷石に沿って境内をL字に曲がると本堂の全容が見えてきた。

  • 階段下で靴を脱いで上がっていくと拝観入口がある右側に対潮楼があり、拝観料は大人1人:200円。<br />当時、福禅寺に立ち寄ったのは三使と呼ばれる正使(現在の外務大臣)・副使・従事官の役職がついた高官で、1748年に福禅寺に寄った正使:洪啓禧が福禅寺の客殿を対潮楼と命名したのだそう。

    階段下で靴を脱いで上がっていくと拝観入口がある右側に対潮楼があり、拝観料は大人1人:200円。
    当時、福禅寺に立ち寄ったのは三使と呼ばれる正使(現在の外務大臣)・副使・従事官の役職がついた高官で、1748年に福禅寺に寄った正使:洪啓禧が福禅寺の客殿を対潮楼と命名したのだそう。

  • 中に入ると真っ赤な絨毯が敷かれていて、建具が取っ払われ開放的な空間が広がっていた。

    中に入ると真っ赤な絨毯が敷かれていて、建具が取っ払われ開放的な空間が広がっていた。

  • 飾られた「日東第一形勝」は、正史:洪啓禧が対潮楼から見える海の風景を見て賞賛した言葉で、日東とは日本を指しており日本で1番素晴らしい景観いう意味をもち、対潮楼からの眺望は訪問した多くの朝鮮通信使を感激させた。<br />「矯正発光させて窓枠を額縁に見立てると綺麗に撮れるけど、座り込み禁止」と書かれた案内板があり、OM-D E-M5 mark3の外付けフラッシュを今回持ってきていないため、外の景色に露出を合わせて撮影しようとしたものの日差しが強くてコントラストが激しいから無理だった。

    イチオシ

    飾られた「日東第一形勝」は、正史:洪啓禧が対潮楼から見える海の風景を見て賞賛した言葉で、日東とは日本を指しており日本で1番素晴らしい景観いう意味をもち、対潮楼からの眺望は訪問した多くの朝鮮通信使を感激させた。
    「矯正発光させて窓枠を額縁に見立てると綺麗に撮れるけど、座り込み禁止」と書かれた案内板があり、OM-D E-M5 mark3の外付けフラッシュを今回持ってきていないため、外の景色に露出を合わせて撮影しようとしたものの日差しが強くてコントラストが激しいから無理だった。

  • なのでサッと窓枠に寄って撮影し、赤い絨毯まで戻って正座しながら穏やかで優美な景色を楽しんだ。<br />「正面の多宝堂がある弁天島・右側の半円形をした皇后島・それ以外の島は仙酔島」と案内があるけど、それ以外って雑過ぎ。

    イチオシ

    なのでサッと窓枠に寄って撮影し、赤い絨毯まで戻って正座しながら穏やかで優美な景色を楽しんだ。
    「正面の多宝堂がある弁天島・右側の半円形をした皇后島・それ以外の島は仙酔島」と案内があるけど、それ以外って雑過ぎ。

  • 隣接した2部屋には資料が飾られていて、對潮楼を建てる際「方位や方角を計算して正面の窓枠3面が1年の暦を表すように設計された」という設計図の他に、坂本龍馬や海援隊などの幕末維新の志士達の写真や資料・昔の對潮楼周辺図・新聞記事などが展示されていた。<br />對潮楼と対になる位置にある本堂は撮影禁止なので写真は無いけど、凛とした立ち姿の本尊:千手観音を囲うように配置された仏像も見応えがあった。

    隣接した2部屋には資料が飾られていて、對潮楼を建てる際「方位や方角を計算して正面の窓枠3面が1年の暦を表すように設計された」という設計図の他に、坂本龍馬や海援隊などの幕末維新の志士達の写真や資料・昔の對潮楼周辺図・新聞記事などが展示されていた。
    對潮楼と対になる位置にある本堂は撮影禁止なので写真は無いけど、凛とした立ち姿の本尊:千手観音を囲うように配置された仏像も見応えがあった。

  • 境内は敷石が配置され、海側に石灯篭が等間隔に配置してあるだけで非常にシンプル。

    境内は敷石が配置され、海側に石灯篭が等間隔に配置してあるだけで非常にシンプル。

  • 福禅寺を出ると石段に沿うようにレトロな建物が見えたので、惹かれるように階段を下りて行くと…

    福禅寺を出ると石段に沿うようにレトロな建物が見えたので、惹かれるように階段を下りて行くと…

  • 福禅寺に向かう途中に前を通った“活魚料理と鯛めし 千とせ”が見えたので、座れるか念のため覗いてみたら座敷と椅子席の他に2階もあって思いのほか広く、テーブルを片付けてすぐに案内してもらえた。

    福禅寺に向かう途中に前を通った“活魚料理と鯛めし 千とせ”が見えたので、座れるか念のため覗いてみたら座敷と椅子席の他に2階もあって思いのほか広く、テーブルを片付けてすぐに案内してもらえた。

    千とせ グルメ・レストラン

  • 鞆の浦といえば鯛料理を食べないと!<br />

    鞆の浦といえば鯛料理を食べないと!

  • 【選べる鯛定食(2品)】1650円<br />【酔心(1合)】440円<br />夫が選んだのは、鯛の煮つけとお造り。<br />お造りはプリップリで身が甘くて、柔らかな飲み口の日本酒と相性抜群だった。<br />吸い物には焼いた鯛が入っていて、煮豆と田作、甘辛く味付けされた腹身は冷製で骨が多かったけど鯛めしが進んだ。

    【選べる鯛定食(2品)】1650円
    【酔心(1合)】440円
    夫が選んだのは、鯛の煮つけとお造り。
    お造りはプリップリで身が甘くて、柔らかな飲み口の日本酒と相性抜群だった。
    吸い物には焼いた鯛が入っていて、煮豆と田作、甘辛く味付けされた腹身は冷製で骨が多かったけど鯛めしが進んだ。

  • 【選べる鯛定食(2品)】1650円】<br />私は鯛の天ぷらとお造りを選んだけど、天ぷらは獅子唐辛子・南瓜・鯛2切入っていてフワッと柔らかな口当たりが美味しかった。<br />PayPayにも対応していて合計:3740円。

    【選べる鯛定食(2品)】1650円】
    私は鯛の天ぷらとお造りを選んだけど、天ぷらは獅子唐辛子・南瓜・鯛2切入っていてフワッと柔らかな口当たりが美味しかった。
    PayPayにも対応していて合計:3740円。

  • 13:20散策再開。<br />最初に向かった“鞆の津の商家”は鞆町にある古い商家で、かつては呉服店や船具店として使わていた建物で典型的な鞆の商家。<br />土日祝のみ公開されているけど、残念ながら今日は金曜なので開いておらず外観だけ。

    13:20散策再開。
    最初に向かった“鞆の津の商家”は鞆町にある古い商家で、かつては呉服店や船具店として使わていた建物で典型的な鞆の商家。
    土日祝のみ公開されているけど、残念ながら今日は金曜なので開いておらず外観だけ。

    鞆の津の商家 名所・史跡

  • “いろは丸事件談判跡 (旧魚屋萬蔵宅)“の石柱が建つこの地は、いろは丸事件の後に坂本龍馬や海援隊は商家:桝屋清右衛門宅へ、紀州藩は圓福寺に滞在して、2つの建物の中間に位置する福禅寺の対潮楼と、両方の中間に近い場所にある商家:魚屋萬藏宅(現在は御舟宿いろは)で賠償の交渉を行った。<br />4日間に渡って交渉は行われたものの、決着しないまま紀州藩は長崎へ向かって出航してしまい、坂本龍馬や海援隊は鞆の浦に停泊していた長州藩の船に乗って後を追っていき、長崎でも交渉が重ねられた。<br />その後、紀州藩から海援隊側に賠償金が支払われ、いろは丸事件は日本最初の蒸気船同士の海難事故として幕を閉じた。<br />

    “いろは丸事件談判跡 (旧魚屋萬蔵宅)“の石柱が建つこの地は、いろは丸事件の後に坂本龍馬や海援隊は商家:桝屋清右衛門宅へ、紀州藩は圓福寺に滞在して、2つの建物の中間に位置する福禅寺の対潮楼と、両方の中間に近い場所にある商家:魚屋萬藏宅(現在は御舟宿いろは)で賠償の交渉を行った。
    4日間に渡って交渉は行われたものの、決着しないまま紀州藩は長崎へ向かって出航してしまい、坂本龍馬や海援隊は鞆の浦に停泊していた長州藩の船に乗って後を追っていき、長崎でも交渉が重ねられた。
    その後、紀州藩から海援隊側に賠償金が支払われ、いろは丸事件は日本最初の蒸気船同士の海難事故として幕を閉じた。

    いろは丸事件談判跡 (旧魚屋萬蔵宅) 名所・史跡

    石碑が立っているだけ:いろは丸事件談判跡 (旧魚屋萬蔵宅) by RiEさん
  • 車1台がギリギリ通れそうな狭い1本道を挟むように、2階建ての民家がひしめき合っていて、ふと京都の舟屋の郷:伊根町の街並みを思い出した。<br />誘われるように進んでいくと…

    車1台がギリギリ通れそうな狭い1本道を挟むように、2階建ての民家がひしめき合っていて、ふと京都の舟屋の郷:伊根町の街並みを思い出した。
    誘われるように進んでいくと…

  • 民家の2階よりも高い場所まで続く石段の上に鳥居が立っているのを発見したので上がってみることに。

    民家の2階よりも高い場所まで続く石段の上に鳥居が立っているのを発見したので上がってみることに。

  • 途中で、ダミ声の猫の鳴き声が聞こえたので探してみたところ、石段壁面の民家の2階くらいの高さにある狭い段差に巨大な猫が鎮座していた。<br />体格が良すぎてお尻が少しハミ出てるくらい貫禄のあるキジトラ猫だった。

    途中で、ダミ声の猫の鳴き声が聞こえたので探してみたところ、石段壁面の民家の2階くらいの高さにある狭い段差に巨大な猫が鎮座していた。
    体格が良すぎてお尻が少しハミ出てるくらい貫禄のあるキジトラ猫だった。

  • 石段の先にはまた階段があって寺院が見えたけど、その右手前に小さな門があった。

    石段の先にはまた階段があって寺院が見えたけど、その右手前に小さな門があった。

    円福寺 寺・神社・教会

    朝鮮通信使が来日した際の上官の常宿として利用されていた:円福寺 by RiEさん
  • 脇には“大可島城跡附伝桑原一族墓地”と石柱が建っており、ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場で、現在は陸続きとなり円福寺が建てられているけど、かつては大可島という場所は独立した島であり、そこに南北朝時代に大可島城が築城されたそう。<br />門の中にある五輪塔群は、大可島城城主:桑原一族の墓と伝わっていて入口は施錠されていた。

    脇には“大可島城跡附伝桑原一族墓地”と石柱が建っており、ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場で、現在は陸続きとなり円福寺が建てられているけど、かつては大可島という場所は独立した島であり、そこに南北朝時代に大可島城が築城されたそう。
    門の中にある五輪塔群は、大可島城城主:桑原一族の墓と伝わっていて入口は施錠されていた。

    大可島城跡附伝桑原一族墓地 名所・史跡

    円福寺入口一角にひっそりたつ:大可島城跡附伝桑原一族墓地 by RiEさん
  • 圓福寺の始まりは室町時代に遡り当時は別の場所にあって釈迦堂だったのを、1610年末頃に住職:快音によって大可島城の跡地に移転して“圓福寺”と号した。<br />境内は瀬戸内の島々や四国の讃岐山脈が眺望できる景観を有しており、朝鮮通信使が来日した際の上官の常宿として利用され、いろは事件の談判では紀州藩の宿舎として使用された歴史を持つ。

    圓福寺の始まりは室町時代に遡り当時は別の場所にあって釈迦堂だったのを、1610年末頃に住職:快音によって大可島城の跡地に移転して“圓福寺”と号した。
    境内は瀬戸内の島々や四国の讃岐山脈が眺望できる景観を有しており、朝鮮通信使が来日した際の上官の常宿として利用され、いろは事件の談判では紀州藩の宿舎として使用された歴史を持つ。

  • そんな圓福寺の境内は猫の住処になっているようで、猫を何匹も見かけた。<br />グイグイ近寄るのはアウトだけど、しゃがんでいると猫の方から興味津々に近づいてきて話しかけて来たり、「ちょっとなら撫でても良いけど」とでも言うように擦り寄ってくる友好的な猫もいる。

    そんな圓福寺の境内は猫の住処になっているようで、猫を何匹も見かけた。
    グイグイ近寄るのはアウトだけど、しゃがんでいると猫の方から興味津々に近づいてきて話しかけて来たり、「ちょっとなら撫でても良いけど」とでも言うように擦り寄ってくる友好的な猫もいる。

  • 少し小柄なキジトラ猫は、黒猫の後ろをチョコチョコ付いて歩いて可愛かった。

    少し小柄なキジトラ猫は、黒猫の後ろをチョコチョコ付いて歩いて可愛かった。

  • 木の下で佇む茶トラ猫。

    木の下で佇む茶トラ猫。

  • 上ってきた側と逆方向にも石段があったので少し下りてみたところ、こっちが正式な参道入口っぽい。

    上ってきた側と逆方向にも石段があったので少し下りてみたところ、こっちが正式な参道入口っぽい。

  • 何匹もの猫の鳴き声が聞こえてくるので道なりに進んでみると、大きなゲージに黒猫やハチワレ猫が複数入っていた。<br />

    何匹もの猫の鳴き声が聞こえてくるので道なりに進んでみると、大きなゲージに黒猫やハチワレ猫が複数入っていた。

  • 石段を下りて潮の匂いがする方へ進歩いていくと…<br />

    石段を下りて潮の匂いがする方へ進歩いていくと…

  • 潮の干満差が激しくても潮の高さに関係なく積み荷の上げ下ろしが可能な石階段状の船着場“雁木”。<br />ここ鞆の浦の港にも稀にみる規模で1811年に築造された雁木が現在も残っていて、このサイズ感は今や鞆の浦でしか見られない光景になってしまった。

    潮の干満差が激しくても潮の高さに関係なく積み荷の上げ下ろしが可能な石階段状の船着場“雁木”。
    ここ鞆の浦の港にも稀にみる規模で1811年に築造された雁木が現在も残っていて、このサイズ感は今や鞆の浦でしか見られない光景になってしまった。

    雁木 名所・史跡

    石階段状の船着場:雁木 by RiEさん
  • 海風にはためく大漁旗。

    海風にはためく大漁旗。

  • 鞆の浦のシンボル的な存在の“常夜燈”は1859年に建てられたもので江戸時代に制作された中では日本最大級の大きさを誇り、現在も夜の鞆港を照らし続けている。<br />この常夜燈は海上安全を願って寄進されているそうで、航路安全を願って竿柱の南面には「金比羅大権現」と彫ってあったけど、海に面しているせいか風が強くて長居できなかった。<br />鞆町には雁木・常夜燈・・船番所跡・防波堤の大波止・船の整備を行う焚場の跡などの近世の港湾施設がほぼ当時のまま残されており、港湾都市文化遺産として注目を集めているそう。<br />

    鞆の浦のシンボル的な存在の“常夜燈”は1859年に建てられたもので江戸時代に制作された中では日本最大級の大きさを誇り、現在も夜の鞆港を照らし続けている。
    この常夜燈は海上安全を願って寄進されているそうで、航路安全を願って竿柱の南面には「金比羅大権現」と彫ってあったけど、海に面しているせいか風が強くて長居できなかった。
    鞆町には雁木・常夜燈・・船番所跡・防波堤の大波止・船の整備を行う焚場の跡などの近世の港湾施設がほぼ当時のまま残されており、港湾都市文化遺産として注目を集めているそう。

    常夜燈 名所・史跡

    江戸時代に制作された中では日本最大級の大きさを誇る:常夜燈 by RiEさん
  • 港から続く道から路地に入っていくと、江戸時代中期から明治時代にかけて保命酒の醸造販売で栄えた鞆の浦屈指の大商家:太田家住宅などが立ち並ぶ歴史的な町並みが続く1本道に、保命酒に漬け込んだ16種類の生薬が天日干ししてあった。<br />保命酒は福山を代表する江戸時代からの特産品で、主原料に焼酎・餅米・麹など16種類の和漢薬味などを使って醸造した薬味酒をさし、現在鞆の浦では鞆町にある岡本亀太郎本店(ミツボシ保命酒)・入江豊三郎本店(十六味保命酒)・八田保命酒舗(赤たる保命酒)・鞆酒造(十六味保命酒)の4社が製造を行っている。<br />

    港から続く道から路地に入っていくと、江戸時代中期から明治時代にかけて保命酒の醸造販売で栄えた鞆の浦屈指の大商家:太田家住宅などが立ち並ぶ歴史的な町並みが続く1本道に、保命酒に漬け込んだ16種類の生薬が天日干ししてあった。
    保命酒は福山を代表する江戸時代からの特産品で、主原料に焼酎・餅米・麹など16種類の和漢薬味などを使って醸造した薬味酒をさし、現在鞆の浦では鞆町にある岡本亀太郎本店(ミツボシ保命酒)・入江豊三郎本店(十六味保命酒)・八田保命酒舗(赤たる保命酒)・鞆酒造(十六味保命酒)の4社が製造を行っている。

  • 適当に歩いていたら蔵が姿を現し、ミツボシ保命酒の看板が見えたので訪ねてみることにした。

    適当に歩いていたら蔵が姿を現し、ミツボシ保命酒の看板が見えたので訪ねてみることにした。

  • 1855年の創業の“岡本亀太郎本店”の保命酒は、桂皮などの薬味16種を味醂酒に漬け込んでじっくりと成分を浸出させて造る和製リキュールで、試飲した夫によると濃厚な甘味だけど薬酒独特の香りがクセになるそう。<br />天井まで届きそうな存在感抜群の龍が絡みつく立派な看板は、江戸時代に最初に保命酒を造り製造と販売の独占許可を得ていた中村家より受け継いだ伝統で、店の外からでも存在感が目を惹いた。<br />岡本家は専売の解かれてから保命酒造りに携わるようになり、明治後期に中村家が保命酒業の暖簾を下ろすことになったため、親しい間柄だった岡本家が中村家伝統の龍に守られた保命酒の大看板と道具一式を譲り受けて今に至る。<br />

    1855年の創業の“岡本亀太郎本店”の保命酒は、桂皮などの薬味16種を味醂酒に漬け込んでじっくりと成分を浸出させて造る和製リキュールで、試飲した夫によると濃厚な甘味だけど薬酒独特の香りがクセになるそう。
    天井まで届きそうな存在感抜群の龍が絡みつく立派な看板は、江戸時代に最初に保命酒を造り製造と販売の独占許可を得ていた中村家より受け継いだ伝統で、店の外からでも存在感が目を惹いた。
    岡本家は専売の解かれてから保命酒造りに携わるようになり、明治後期に中村家が保命酒業の暖簾を下ろすことになったため、親しい間柄だった岡本家が中村家伝統の龍に守られた保命酒の大看板と道具一式を譲り受けて今に至る。

    岡本亀太郎本店 グルメ・レストラン

  • 折角なので義母への土産に1本購入した。

    折角なので義母への土産に1本購入した。

  • “阿彌陀寺”は1565年に開かれた古刹で、立派な山門は鞆の浦の中で随一と称されている。

    “阿彌陀寺”は1565年に開かれた古刹で、立派な山門は鞆の浦の中で随一と称されている。

    阿弥陀寺 寺・神社・教会

    威容に満ちた表情の本尊に見入ってしまう:阿弥陀寺 by RiEさん
  • 本堂には鞆の大仏と呼ばれる本尊:丈六阿彌陀如来坐像が鎮座していて、威容に満ちた表情に思わず見入ってしまった。<br />造像を発願した雲洞上人は多くの人々の救済を願っていたところ、現に阿弥陀如来が現れたため、その姿をもとに京都の仏師:安清に伝えて5年がかりで完成させたのだそう。

    本堂には鞆の大仏と呼ばれる本尊:丈六阿彌陀如来坐像が鎮座していて、威容に満ちた表情に思わず見入ってしまった。
    造像を発願した雲洞上人は多くの人々の救済を願っていたところ、現に阿弥陀如来が現れたため、その姿をもとに京都の仏師:安清に伝えて5年がかりで完成させたのだそう。

  • 釣鐘の横には供養塔が立ち並んでいた。

    釣鐘の横には供養塔が立ち並んでいた。

  • 阿彌陀寺のすぐ隣にある“南禅坊”は1600年頃の創建で、鐘楼と山門を合わせたような独特の風貌が目を惹く。<br />軒先は反り返っていて、ベンガラが塗られていることからも異国情緒が漂っていた。

    阿彌陀寺のすぐ隣にある“南禅坊”は1600年頃の創建で、鐘楼と山門を合わせたような独特の風貌が目を惹く。
    軒先は反り返っていて、ベンガラが塗られていることからも異国情緒が漂っていた。

    南禅坊 寺・神社・教会

    異国情緒漂う鐘楼と山門を組み合わせた入口が目を惹く:南禅坊 by RiEさん
  • 屋根には小さな鬼瓦が左右に配置されていて、真下に立つと見下ろされている気分になる。<br />

    屋根には小さな鬼瓦が左右に配置されていて、真下に立つと見下ろされている気分になる。

  • 境内には入れるけど、本堂は非公開だった。<br />南禅坊はもともと福禅寺の南隣に建っていたけど1716年に現在地に移転したそうで、江戸時代を通して朝鮮通信使の宿舎として使われた。<br />この本堂は火災にあったため1860年に再建されたもの。

    境内には入れるけど、本堂は非公開だった。
    南禅坊はもともと福禅寺の南隣に建っていたけど1716年に現在地に移転したそうで、江戸時代を通して朝鮮通信使の宿舎として使われた。
    この本堂は火災にあったため1860年に再建されたもの。

  • 住宅街を通り抜けてバス停へ。

    住宅街を通り抜けてバス停へ。

    トモテツバス 乗り物

    モバイルSuicaにも対応している:トモテツバス by RiEさん
  • 15:00発のトモテツバスに乗車して…

    15:00発のトモテツバスに乗車して…

  • 15:30福山駅前に戻ってきたので、駅前の“天満屋”のデパ地下で夜ゴハンを調達。

    15:30福山駅前に戻ってきたので、駅前の“天満屋”のデパ地下で夜ゴハンを調達。

    天満屋 (福山店) 百貨店・デパート

  • 福山駅に併設されていている“サンステーションテラス福山 (さんすて福山)”に立ち寄ってから、16:43発のJR:山陽本線三原行きに乗って三原駅まで戻った。

    福山駅に併設されていている“サンステーションテラス福山 (さんすて福山)”に立ち寄ってから、16:43発のJR:山陽本線三原行きに乗って三原駅まで戻った。

    サンステーションテラス福山 (さんすて福山) ショッピングモール

    土産探しなら:サンステーションテラス福山 (さんすて福山) by RiEさん
  • 天満屋のデパ地下に入っている酒屋で見つけた、福山わいん工房が手掛ける辛口ロゼワインを味わいながら、旅行11日目を締めくくった。<br />明日は広島で丸1日過ごせる最後の日だけど、この旅初めての微妙な天気予報だったので行き先を決めるのに手古摺ったものの、安芸の小京都と呼ばれる竹原にある“たけはら町並み保存地区(重要伝統的建造物群保存地区)”を散策することに。<br />続きは14へ。

    天満屋のデパ地下に入っている酒屋で見つけた、福山わいん工房が手掛ける辛口ロゼワインを味わいながら、旅行11日目を締めくくった。
    明日は広島で丸1日過ごせる最後の日だけど、この旅初めての微妙な天気予報だったので行き先を決めるのに手古摺ったものの、安芸の小京都と呼ばれる竹原にある“たけはら町並み保存地区(重要伝統的建造物群保存地区)”を散策することに。
    続きは14へ。

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