2022/10/11 - 2022/10/11
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kummingさん
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この旅行記スケジュールを元に
久々のRoma、さらに更に気を引き締めて参る!!
それなのにそれなのに~(T_T)
最後までご覧いただければ、ご理解頂けます。長くなるので、このシリーズの大一番(とは、私の位置付けですが)、←本件は次ブログに繰り越しm(._.)m
朝から張り切ってバスでカラカラ浴場~歩いてサンセバスティアーノ門まで!あわよくばAppia街道の石畳を拝みたい!
ローマ帝国信奉者としては、ココは外せない処
と、言いながら、途中で日和ってしまう(笑)
↓
(ココから次のブログ)
それから、今後の予定の下見、とインペリアル通りを歩いてみました。
暑さと、水と、トイレと、バスのチケット問題で、相当疲れた挙げ句に訪れた、まさかの展開(*_*
ローマに来て3回目と、5回目のバス乗車で早くも2度、検札に遭遇(°_°)
注) 途中、説明文のわけワカメな訳がありますが、スルッとする~して下さい
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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わたくしも朝からお出かけ♪
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テルミニ駅
地下のスーパーと通路
1階乗り場付近 -
チンクエチェント広場へ
ここまでは前ブログと重複しますが、
先に進む前に
ココでちょっとした揉め事に遭遇
バスが定刻かなり過ぎても来ないので
一部のお客さんが抗議の声を上げる!
その中の1女性のすごい剣幕に、
対応するバス会社の人もタジタジ、
この時はまさか、自分が「そ~いう立場」に置かれるなんて、
思いもよらず、他人事として傍観の図(笑) -
テルミニ駅前→一気に郊外へ
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いきなり郊外っぽい
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バスを降りて
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カラカラ浴場はどっち?
方向が分からないので、前を行く中年カップルに付いて行き♪ -
私史上最長、脚長撮♪
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ローマ市内には当初、個人経営の小さな銭湯(パルネウム)があった。最初の公営無料浴場はA.D.20年頃パンテオン南方のアグリッパ浴場。その後ネロ浴場、テイトウス浴場、そして火災後のドムスアウレアを埋め立てて作られたトライアヌス浴場は、広い庭園や図書館を備えたカラカラ浴場の前身といえるものだった。
帝政末期には帝国内最大級のデイオクレテイアヌス浴場、コンスタンテイヌス浴室が造られたが、羞恥を美徳とするキリスト教の普及や蛮族による水道橋破壊により、入浴の習慣は廃れてしまった。 -
着いた♪
4世紀当時、首都には小規模銭湯を含め800以上の公衆浴場があった。浴場は昼過ぎ~日没まだ営業、夕食前の運動と入浴は重要な日常習慣だった。 -
入口からの
切符売り場
弟殺しのカラカラ帝により建設 -
図書館の附属施設として、社交とリラクゼーションを目的にした浴場があり、さらにジムも付帯した総合施設として造営されたのがカラカラ浴場。
入口を入ると更衣室とプールがあり、社交場としてのホールやラウンジを抜けると、高温浴室に至り、周辺に微温浴室・冷温浴室・サウナ室などが配置されている。
温水や熱は地下で石炭を燃やして供給するシステムだった。 -
建物は地下坑道内で石炭、木を燃焼させ、専用の水路によって供給される水を加熱するシステムだった。
浴場は無料、一般解放されていた。 -
切符売り場で何やらヴァーチャル体験出来るVR仕様のメガネ?借りられるみたい。
実際に借りていた親子に聞いてみたら「Great!」と言うので、ちょい迷う?
けど、借りなくて良かったかも^ ^
広大な敷地、眼前に広がる景色を見るだけで精一杯でした(*_*) -
浴場の建設は216年頃皇帝セプテイミウス・セウエルスによって始められ、息子カラカラの治世235年に完成。その為労働者は211年~216年に毎日2000mtの材料を運んだ。
カラカラの後継者エラガバルスとアレクサンドル・セウエルスの下でさらなる装飾が行われ、その後、デイオクレテイアヌスによる改装工事、コンスタンテイヌス大帝の下でカルダリウム(熱浴室)の改修が成された。 -
カラカラ帝って
実はかなり評判芳しくない皇帝
ギボンから「人類共通の敵」と非難された?
第22代皇帝
5賢帝時代に続くセプテイミウス・ウエルス帝の息子として帝位を継承、父の遠征先ガリア生まれで、いつもガリア風長衣(カラカラ)を着ていたのでカラカラが呼び名となった。
帝国領内の全自由民に市民権を拡大した(アントニヌス勅令)が、一説では相続税、解放奴隷税の収入を増やす為だったとも言われている(市民権ないものは相続税を払う義務がなかった)
しかし、従来払われていた属州民税が入らなくなり、属州民には相続や奴隷を解放する習慣がなかった為、期待した相続税、奴隷解放税の増収も得られなかった。
他にも、軍人の給料を大幅に上げたり、貨幣の改悪(銀の含有量を減らし、その分流通量を増やす))でインフレを加速させた(100年前から帝国は慢性的インフレ状態)。
父から弟のゲタと共同統治として帝位を受け継いだが、ゲタを殺し帝位を独占、他、治世は犯罪と狂気の連続で、約2万人がその犠牲となった。
アントニヌス勅令によって、市民権を得るために就いていた補助兵のなり手がいなくなり、軍人が大幅に減る事態となった。この勅令により、軍事と財政が大きく揺らぎ、結果としてローマ帝国に大打撃を与えたといえる。 -
浴場は約25ヘクタール、複合施設は337×328mの長方形(と言われても実感ないけど)
丘の一部を取り除き、水平にするため建設にはかなりの量の土の移動が必要だった。
建造物には数百万個のレンガが使われ、浴槽は少なくとも252本の柱を含み、その内16本は12mを超える高さであった。
この見事な「帝国浴場」は、単なる一連の浴槽ではなく、通常の用途である入浴に加え、散歩、読書、運動、ボデイケアのための設備を提供する複合施設、総合的レジャーセンターだった。
本館は中央に建ち、底には貯水槽、2つの左右対称の図書館(南)、2つの大きなエクセドラ(東と西)、商店(北)、があった。残っている図書館は、38×22mの大きさ、外壁と中央複合施設の間には庭園(xystus)があった。
太陽の熱を利用する為に、風呂の軸は来た東から南西に向かって配置され、高温浴室のカルダリウムは南西、冷水プールのフリギダリウムは北東に面し、全体として、浴域は単一の直線軸に沿った配置されていた。
更衣室と運動場は建物の両側には対称敵に配置され、それによって容易なアクセスが可能となり、温泉域への出入りが簡単になって、結果、潜在的使用者数が増えた。
浴場本館は214×110m、屋根までの高さ44m で、推定1600人の入浴者を収容することが出来た(°_°)
想像を絶する、超巨大な浴室?(*_*) -
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まず
なにはさておき
敷地が広いので
用事を済ませておきましょ~ -
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圧倒的な存在感
この規模感は、数字、では計り知れず、この目で見て、体感すべし! -
運動場の床モザイク
浴室棟は南西向きに左右対称、北東側にプール(ナタテイオ)を挟んで出入り口と脱衣室(アポデイテリウム)があった。
見学は西隅から北西側の運動場(パラエストラ)へ入ります -
運動場の中程にある半円空間を経て中心のバジリカへ
ローマの他ので公共図書館等同様に、2つの同じ大きさの部屋、建物があり、その1つはギリシア語、もう1つはラテン語用だった。
残っている図書館には、本を収納したニッチ(装飾のために厚い壁面をえぐって作られたくぼみ台)で覆われた3つの壁があった。南の壁の真ん中にあるより大きなニッチには、おそらく像が置かれていて、他の3つの壁の前にある石積みの棚がベンチとして機能し、床は大理石だった。 -
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床モザイク
と
モザイク処理How to make? -
床モザイク
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うっすらとフレスコ画?
修復なのか、+加筆なのか
やけに鮮やか -
木を見て森を見ず? なわたくし
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左手には縦50m以上のプール、右手には微温浴室(テピタリウム)、南西側の中央には高温浴室(カルダリウム)がある
と言われても、この時目にしているのが何か?今どこにいるのか?
例によって、全然分かっていなかった!
遺跡あるある現象(-。-;
写真整理している今も、分からない~
ので、撮ってきた説明文でお茶を濁す、しかも迷訳(笑笑) -
ナタテイオは冷たく浅い水に満たされた屋根のない(50×22)のプールである。壁は20m以上で、巨大な柱で区切られた重なり合うニッチ(装飾のために壁にうがたれたくぼみ)の2列の彫像で飾られている。入浴者はプールの端でゲームをしていた。ビー玉のゲーム、タブラルソリア(大理石のステップに刻まれたゲーム)の目に見える残骸が残っっている。
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ナタテイオは屋根なしで、天井には青銅製の鏡が取り付けられ、太陽光をプールエリアに導いた。建物は下に保管や炉を設置できるように高さ6mの高台に位置していた。
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TABUR LUSORIA
ローマ人は様々な形のボードゲームを好んだ。色々な形のボードのうえで、そしてテーブルの上だけでなく、あらゆる場所で、帝国内のあらゆる都市、通りでその様なゲームで遊んでいた。タブラルソリア(ゲーム用のボード)が、大聖堂の床、フォーラム、そしてここでは、そこで人々が水の中に座って遊んでいた大きなプールの端の床に、彫られているのが発見された。
ローマ人に楽しまれていたゲーム
トロッパ、またはホールゲームとして知られるビー玉、クルミ、ナックルボールで遊ぶゲームを含み
事前に決められた順序でそれぞれの穴にクルミを入れ、最後に列を超えて最後の列に入れなければならない(今日のミニゴルフ)。ある場合には、最後の穴がゲームの終わりを示す長方形の穴である。私たちのタブラルソリアで、我々はいくつかのラテン文字を識別する。おそらく入浴に参加したプレイヤーによって刻まれ、読んでいるように見える:NESCIS/PLORAS/AGIS/CAVEBIS(合字としてのVE)「泣くかわからない、動け、気をつけろ」これはおそらく、対戦相手の冗談が飛びかっていたのだろう。 -
これがそのプール?
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オリンピックサイズのナタテイオ(プール)の大きさは50m×22m、壁は20m以上、北のファサードは灰色の花崗岩で作られた3本の巨大な柱で構成されていた。それらのコラムの間に装飾的な彫像を収容したいくつかのレベルの隙間があった。
The Natatioは(本当のオリンピックサイズのスイミングプール)、もう一つの印象的な構造である北側のファサードは巨大な灰色の柱によって3つのセクションに分割されている。各々のセクションは
注文毎に分けられた6つの高さのニッチ(2つのレベルのそれぞれに3つ)がふくまれていた。
下段はカリステイン大理石の円柱ドラム、上段はグラニートデルフォロのもの。スイミングプールに注がれる水のための導管は、一階の壁ろうニッチの列に今でも見る事ができる。
プールは高さ20mを越える壁のある印象的な寸法(50×22m)、その短辺は階段で入り、あまり深くないのでダイビングには適していない。
その地域は様式的にヘレニズム劇場の前景と比較することができるが、地形的にも年代的にもそれに近いモニュメントである、パラテイーノの斜面にあるカラカラの父、セプテイミウスセルウェルスによって建てられたセプデイウムと比較する事ができる。
ナタテイオの階段の一つは、目に見える大人と子供両方のための古代ローのゲームであるタブラルソリアで、これは木製の板で作られているか、公共の建物の階段(ここのように)に描かれたり切り出されたりした。 -
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中央の建物は、その高い屋根がエジプトの花崗岩で作られた8つの巨大な柱によて支えられたフリギダリウム((frigidarium公衆浴場で熱いお風呂を楽しんだ後に入る、大きな冷水のプールがある部屋)だった。壁や床は大理石で、ホールは、浴室の他の部分に向かう訪問者のための集会所と移行区域という2重の役目を果たした。
また、4つのプールは冷たい浴室を提供し、うち2つはデピタリウム(微温浴室)に接続、2つはいくつかの滝を経由してナタテイオ(natatio、プール)と連結していた。フリギダリウムの中心には、噴水を囲むもう一つ円形のプールがあり、2つの追加のレンガ造りのプールに隣接していた。
カルダリウム(高温浴室)は大理石の床の円形の部屋で、パンテオンのドームの大きさに近い直径約36mのドームで覆われ、ドームの重さはたった8本の石積みの柱によって支えられていた。その間には、大きな部屋を暖め、そして壁の重さを減らすためのガラス窓があった。7つのプールの大きさは9.5m×5m×1m(深さ) -
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石のアイデア?
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カラカラ浴場でselfie
その1 -
この部屋の上の階には比喩的なモザイクがある。
ここでは右手に鞭を持ったエロスと、エロスが乗った海の怪物の体と尾の詳細を描いている。
モザイクは背景に白いテッセラ(白い大理石)、人物に黒いテッセラ(玄武岩)を使用して作られている。 -
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30年後、2つの豪華な装飾が施された部屋は公共の娯楽室、西暦2世紀の家に戻される。カラカラ浴場の素晴らしい複合施設を建設するために部分的に破壊された。
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それは豪華に舗装されたほぼ正方形の部屋で、柱廊のある共同庭を見下ろしていた。部屋を掘り起こすと塗装された天井の装飾が明らかになり、それは床の香り?で崩壊していた。ペアリングの大部分は発見時に既に復元され再構成されていた。
アルテリニア天井はスタッコフレスコフレームで囲まれて、2つの凹面で終わっていた。背面には、それを支えていたラスワークで構成されたコンタセルリングの痕跡が残っている。装飾は中央の正方形のパネルに向かって会話する?対角線と直交するアールに?線に従って編成された幾何学的なパターンを提示し、その中には、断片が殆ど残っていない飛行図が含まれていた。
花輪、鳥、そして馬車に乗ったキューピットやサータウロスなどの幻想的な人物がパルチットとレリオバーのスペースを埋め、4つの直交する軸に沿って、マエ、スニーク?、デイオニュソスの行列のキャラクターが描かれた赤い地面のパネルを開く。 -
天井の一部が表示されている
天井とトリクリニウム(ローマ時代の建築物内の正式なダイニングルーム)の壁の間の接続の凹面を飾った絵は、小さな彫像を支えるシレノスのマスク(デイオニソスの従者)を備えた小さな中央の絵を再現している。
2つの大きなフレームは、平らな茎の側面とアーチ型の枝の下でヤギに乗っているキューピットを再現している。他のキューピットは仮面と杖を振るう。
左側に天井のパネルが展示されている
絵画は、天井装飾の直交軸上に設定された大きなパネルの1つの一部である。右手に胸腺(ニチュアルロッド)を持ち、シナバーレットの地面に葉の冠を持って座っている半裸の人物を示している。顔の断固たる特徴は、腹部の形とわずかに胸の部分とは対照的であり、デイオニソスのプロセスにおける女性ダンサーの1人であるマエナと同一視すべきかが不明のまま、与えられた女性の特徴。その前に、典型的にはデイオニュピウスの儀式で使用される打楽器である鼓膜を持つ人物の一部を見る事ができる。 -
豪華な装飾が施された家には、貴重な絵画、モザイク、大理石の象眼細工の床が含まれていた事が、古代にすでに何度も行われていた略奪にもかかわらず、最初の発掘によって明らかになった。
絵画と床も何度か改修されており、作業の2つの段階がが明らかになった。
より保存状態の良いラースリウムとして解釈された
トリクリニウムとサセルムのフレスコ画に加えて、他の部屋には、西暦2世紀後半の絵画に典型的な多種多様な主題、人物、孤立したオブジェクト、大きなフレーム内に設定された小さな風景シーン、の装飾が施されている。
発掘調査で明らかになった舗装された床の数々からも、邸宅の重厚さがうかがえる。それは1階にもあり、少なくとも14の黒と白のモザイクと3つの象眼細工の大理石の床がある事から、応接室である事を示している。
注目すべき床は、大理石がはめ込まれたトリクリニウム、いわゆるララリウムの床で、隣接するコンパートメントには、鳥、孔雀、花の枝、geniusesで飾られている。六角形とひし形の構成をもつ対称的なコンパートメント、小さなダイヤモンドのグリッドで覆われた歩行器、及び中央の花を持つ黒い六角形をを含む洗練されたパターンを持つ小胞。
ポリテイコの田園地帯の舗装全体が明らかになった。トリトン、海洋海馬、虎、牡羊に乗った4つのネレイド(海王星の第二衛星、トリトンに次いで2番目に発見された)を飾った海をテーマにしたモザイクがある。 -
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ここに提示された絵画は後期ハドリアン時代に属し、この豪華な家は部分的に破壊され、A.D.212年以降に建設されたPorta Capena に隣接する近辺全体と同様に土で覆われていた。
この建物は、1858年から1869年にかけてジョヴァンバテイスタグイデイが所有するブドウ園で実施された発掘調査中に、浴場の南東側、深さ約10mで発見された。監査官は1970年に彼が所有するブドウ園をより適切に保存する為に、所有するフレスコ画を切り離す事を決定した。2つの部屋、トリクリニウム(triclinium古代ローマの建物内の正式なダイニングルーム)とサセラム(古代ローマの神に奉献された屋根をもたない場所)はララリウム(家庭用祭壇)として解釈された。住居はローマの家の典型的なスキームとは異なって編成されており、通常は前庭/ペリスタイルの中心軸には配置されている。その計画は、前庭によって特徴付けられ、続いて3つの側面で囲まれ、正面に開いているポリテイコの中庭に通じる通路が続く。玄関の左右には小部屋が設けられ、通路には大きな部屋が並んでいる。ダイニングルーム(トリクリニウム)として解釈されたこれらの1つは、左側で顕著であり、3つの窓から十分に採光されていた。ポリテイコの中庭は歩行者に囲まれており、その左隅に小さな部屋側開いている。サラセウムは(ポデイウム・オルター??)表彰台の変更があるため???が存在するため、ララリウムとして説明されている。
少なくとも2階建てのこの複合施設は、時間の経過と共に改装と拡張が行われた。 外部から上層階に繋がる独立した階段が発見されたことから、この建物は上層階をもつ複数階建てのインスラ(借家、古代ローマで下層~中級階級が住んだ大規模アパート)、地上階と1階にある中級クラスのアパートとマンションを含む建物の一部であったことが示唆された。
同時にこの建物は、オステイアの非常に一般的な住宅の類型に属している。 -
カラカラでselfie
その2 -
バジリカ?
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写真が不明瞭でちょっと分かりませんm(._.)m
写真の彫像はカラカラ帝?ではなくて、ギリシア神話かローマの神?
3人の胸像は
浴場建造に携わったカラカラ帝とその後継者エラガバルス(ヘリオガバルス)とアレクサンドルセウエルス?
または
カラカラ帝の防衛3分割を担ったポストウムスとオダエナトウス? -
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フリージダリウム(熱い風呂を楽しんだ後に入る大きな冷水のプールがある部屋)は大聖堂に似た記念碑的なホールだった。デイオクレアヌス浴場やマクセンテイウス大聖堂など、その後の多くの公共建築に影響を与え、その影響は帝国の建物にとどまらず、1800年代にニューヨークのシカゴユニオン駅とペンシルベニア駅を建設した建築家は、その建築を完全にコピーした。
フリージダリウムは、浴場の訪問者の待ち合わせ場所として機能し、訪問者はサマール複合体のいずれかの部屋に移動した。その中央に位置する事で、入浴者の動きの支点になった。同時にフリギダリウムは4つの屋根付きの冷水浴を収容する機能を持ち、そのうち2つは滝の遊びを通して、北側のナタテイオ(プール)と繋がっている。側面には、2つの大きなレンガのプールの間の大きな円形の噴水の床に表示がある。
花崗岩のプールで作られたファルネーゼ広場の2つの噴水は、フリギダリウムから来る。 -
セウエルス家で愛されたという、ヘラクレス像
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フリージダリウム(熱い風呂を楽しんだ後に入る大きな冷水のプールがある部屋)は58×24mの大きなホールで、灰色のエギプトの花崗岩で出来た8つの巨大な柱の上に復元された3つのクロスヴォールトで覆われていた。4つの大きなニッチ(装飾用に壁にうがたれたくぼみ)内の長い壁の端には、冷水のプールが配置されていた。ホールには大理石の床があり、作品のセクタイルがはめ込まれていた。浴場で見つかった最もファンタジックな状態の2つは、フリギダリウムで見つかった、いわゆるヘラクレス・ファルネース(16世紀に発掘されファルネーゼ家が所有)とヘラクレス・ラテイーノ(休息するヘラクレス)だった。これらの状態の評価はひじょうに高かったため、3メートルの実際の状態のものから、わずか数センチメートルのテラコッタ(素焼きの焼き物)のコピーまで、あらゆるサイズで複製された。ヘラクレスはセヴェルス家に愛されていた為、浴場で頻繁に描かれ、古代の最も有名な人物像の1つがフリジダリウム自体で発見された、それは寄りかかって休息する状態で描かれている。
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石のアイデア?
スパ(温泉)の前に -
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Palastrae(パレストラエ 運動場)は2重で左右対称で1870年に発掘された。パレストラエの床は、砕いた緑の斑岩(蛇紋石)とアンテイークイエローを多用した大理石のモザイクテッセラ(モザイクに使用される四角い小片)で着色していた。それらへ非常に多様で独創的な絵を描いており、、曲線のモチーフトレニタリア中央の美しい渦巻きのモチーフが蛇行岩で作られていた。1824年の発掘調査では、2つの後陣で有名な運動選手のではモザイクが発見された。それらは1963年にヴァチカン美術館に移され、70年代に元の順序と原始的な半円形に再取り付けされた。床は黒いトリムで覆われ、内部で長方形、正方形、及び不規則な形状のパネルに分割された。1つ目はアスリート、または審査員の等身大の肖像画、2つ目はアスリートの等身大の胸より大きな表現、3つ目はアスリートの装備と賞品の表現。彼らは裸体(ヌード)によって、審査員と明らかに区別され、その属性に応じてヤシの枝と王冠、箱で、槍投げ選手、レスラー、勝者を認識する事ができる。上層階の床は、ネレイド、トリトン、イルカ、キューピッド、海の怪物をモチーフにした海の行列のモチーフで飾られいた。長さは約300m。それは上層階から崩壊し、現在は大きな破片となって、パレストラエの壁にぶつかって横たわっている。
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ミケランジェロ・ピストレットの第3の楽園
ミケランジェロピストレットによるカラカラ浴場の第3の楽園は、彼が歴史と現代美術の融合を試みた事を示している。浴場の神秘的な考古学の中で、芸術家はまだ存在するの古代に関連する遺物(人工物)を材料に使って、第3の楽園の印、サインを刻んだ。過去を投影し、歴史的距離を縮め、現在に向き合い、芸術が全ての運命にさえ責任を負うプロジェクトで未来に向かう。この作品は私たち自身の拡張と放射を見つけRAMラジオアートモバイルのウエブラジオはエーテルに影響を与え、画像が言語に遭遇することを可能にする。
訳した日本語がわけワカメ(°_°) -
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そろそろ次、行きましょ~
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写真を整理しながら、だんだんちがいがわからなくなってきた(-。-;
ここに足を踏み入れたあの瞬間の感動、今何処? -
この足で
アッピア街道入口、セバステイアーノ門を目指す
バスも通っています -
この石畳はまだ、アッピア街道ではない?
てくてく♪
Via Romana
ローマ帝国がその支配地域に張り巡らせた道路網は総長29万km(15万説も)、支配地域への、そして覇権を広げる為軍団の行軍を容易にするのが、当初の目的だった。作るのはその軍団の兵士たちで、土木工事を専門にする部隊もあったらしいが、基本的には行軍の為に必要とあれば道なき処に道を作る。そしてあくまでも平坦である事を追求し、川があれば橋をかけ、山は迂回せず、崩す、という荒技。
本格的な街道となれば、その構造は大きな石塊、細かい砂利に粗い砂利、3層の各層を圧縮して重ね、頑丈な玄武岩で舗装、路肩には歩道と水路を設けた。水捌けも充分考えられ、また、根が道路に侵入するのを避ける為、街道沿いに植樹はしない。
La Via Apia Antica
旧アッピア街道は当初は軍事国家ローマのインフラとなる道路だった。建設したアッピウス・クラデイウスは、ローマで最初のこの軍用道路と水道橋を建設、彼の没後翌年A.D.270年ローマは半島を制圧。
そしてA.D.190年この街道が半島の「かかと」、プリンデイシまで竣工した頃、ローマは東地中海世界を席巻していた。屈強な軍団が何度も往復する事を想定し、アッピウスはこの「車道」を走り易く耐久性があるよう堅牢強固で極力真っ直ぐかつ平坦に建設、低地には盛り土、山は切り崩すかトンネルを穿ち、馬車がすれ違える幅の路床を深く掘り下げた。
これを塩野七生氏曰く、古代の「高速道路」、以後の街道建設の見本として『街道の女王 Regina Viarum』と呼ばれる。
ローマ帝国の覇権は軍事力のみならず、こういった街道、橋、水道橋、温泉設備、などあらゆるインフラを支配地域にも建設し、被支配者たちにもその恩恵に与らせる事で、人心掌握していたとも思える。その地域の特性に合わせた柔軟な統治法も相まって、カエサルが目指した「寛容」の精神がこんな処にも垣間見える気がする。
街道は優れた土木技術の所産で、本来軍事的目的に資するものだったが、広大な版図の商業的・社会的連携を促し、ローマ文化を均質化し拡大するのに貢献した。
やがてイタリア半島→ガリア(現仏)、ブリタニア(現英)、イベリア(現西班牙)、ギリシア、ローマ属州に敷設され、地中海全域に網の目のように巡らされた。 -
もと教会?
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ひたすらに
てくてく♪ -
道沿いの建物 その1
廃墟?
この時代、お金持ちは郊外に別荘持つのは当たり前 -
門の間から中を撮ってみた
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古代から水道橋完備していたローマ帝国のインフラ
どこにでも湧き出る水は
飲めるのよね? -
な、なんと
-
-
スキピオアフリカヌスの家、ですと~^o^
↑かなり好き♪
スキピオアフリカヌス、ローマが何度も敗れ、煮湯を飲まされ続けた対ハンニバル
に勝利した方
そんな、ローマの覇権を護った最大の功労者なのに、晩年は忘恩の輩、元老院に敵視されて不遇をかこつという、なんたるちあ(怒) (TT) -
こう言う銘があるって事は
何やら重要案件っぽい、かほり?
上ってみたら広場で、そこにはくつろぐ人々
奥に絶賛修復中の何某かの建物
一般公開されるのかな? -
もとに戻って
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道沿いの建物 その2
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門の上
何か書いてある -
道沿いの建物 その3
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そしてとうとう
あれに見えるは? -
この渋滞の原因は
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この門の狭さ?
車なんて想定しない時代の門、だから
離合出来ないって事は、反対から来る車はどうするんだ?
信号で相互に譲って通行、かな -
セバステイアーノ門から100mほど行った右手にあるというマイルストーン(第一マイル標石) の事を忘れ、探していない(-。-;
ここに着くだけで、達成感?
私史上あるある
ですが、交通量多くて徒歩で行くのは困難、との説もあり -
くぐりま~す
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サン・セバステイアーノ門(旧名アッピア門)
蛮族の脅威に備えて270年代に造られたアウレリアヌスの市壁の門
博物館あり、市壁上のお散歩もできる♪ どっちも行かず -
新たな城壁をめぐらせたって事は、
カエサルが目指した「寛容のローマ」、城壁を取り除いてもローマは護られている(人の往来を妨げない)とを示したあの時代は今は昔、最強の軍団共に世界帝国の覇者としての首都ローマは、この頃すでに、外部からの蛮族侵入に怯え、苦しむほど、その国力が衰えていた、瀕死の程だったという証かも -
歩いたのはこのルート
バスで来れます -
一応、アッピア街道入り口に来た!
って事で
この先は、老女とはいえ、昼間とはいえ、1人歩きにはやや危険?とも言われ
ですが、バスで行くって手もあったし、
チャリで廻るツアーもあります。 -
長くなるので
この日の後半は次のブログにて
この信号なんで面白いと思ったんだったか、思い出せず、もやモヤ -
次回はこの辺、歩き廻ります♪
-
最後まで辿りついて下さった方へ
その限りない忍耐力、我慢の極地への挑戦、ありがとうございましたm(._.)m
作った本人が限界超えた感
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ボローニャ
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日本脱出 後半 Bologna 2♪ Episode 18
2022/10/09~
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この旅行記へのコメント (2)
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- しにあの旅人さん 2023/01/19 07:29:20
- 怒涛の翻訳
- すごい。怒涛の翻訳。怒涛でしたが、カラカラ浴場の大まかなところは分かりました。ものすごくデカくて、大変なものらしい。
とりあえず、こんなところでよしとします。
「高温浴室に至り、微温浴室・冷温浴室・サウナ室」
お風呂の訳に苦労したでしょう。私も クインティリ荘(quintili)のところで、この「微温浴室」が分からなくて困りました。高温浴室は普通のお風呂、冷温は水風呂でOK。
「なまあたたかいお風呂」と訳したような気がしますが、なんでそんな中途半端なものが必要なのか、今もわかりません。
何か、説明がありましたか?
私たちはクインティリ荘が目的で、バスで先にここまで来て、アッピア街道をローマに戻りました。
ドミネ・クォ・ヴァディス教会 Chiesa del Domine Quo Vadisまで来て、疲れてバスに乗りました。
クインティリ荘前後がもっともアッピアぽいところでした。独り歩きはダメと言われておりましたが、特に危険は感じませんでしたよ。人通りは少ない。犬を散歩しているお婆さんがいた。
チャリは要注意。全コース石畳です。高低はありませんが、電チャリ必須。
セバステイアーノ門も見ていないし、スキピオさんちにも行っていません。
でも私たちとkummingさんを合わせると、ほぼアッピア古道歩いたことになります。
クインティリ荘から先が、まだまだ面白いらしいのです。
20年のポシャったイタリア旅行で行くはずだったのに、残念。
- kummingさん からの返信 2023/01/19 09:00:11
- Re: 怒涛の翻訳
- しにあさん、おはようございます♪
怒涛の迷訳にお付き合いくださったのですか?その無限の忍耐力におざぶ10枚^o^
この膨大な文字数、読む人はいない⁈とたかを括り、upに踏み切りましてm(._.)mご迷惑おかけしました。
知らない単語が多すぎる、建築に無知、特にフレスコ画の訳、意味がわからないままupしてしまった。
訳した日本語が??学生の頃、1年目で週に4~5回独語があって、その内3回は朝イチ?だったかな、前夜、単語調べて予習しても、つなげた文章の意味がわからない(°_°)あの頃を思い出しました。それで、だんだん予習しなくなって、最終的にC判定(Dから再履修)、難を逃れたおかげで、2年目は専門、もっとついて行けなくなった(笑)
意訳して意味分かるようにするか?迷いましたが、基礎知識がないので、意訳して違う意味になるのを避けました。ほぼ直訳、文章は変なまま(-。-;
しにあさんから、説明書きを写しておく!手法を倣って以来、こういう手間がかかる⁈ それで「あ~、こういう事ね!」と展示の意味がわかって嬉しい事が多いけど、しにあさんはそこから先に想像(捏造含む?)の羽を広げ、1つのストーリーに沿って展開、訪問した順や時系列に単に羅列する私とは、全然、その力量、労力が違う、と、改めて痛感しました。
アッピア街道、バスで先の方に行ってからローマ方面へ戻る、という逆行程、私も検討しました。が、途中で日和ってしまいがちな私、それだとたぶんカラカラまで辿り着けなかった。クオ・ヴァデイス教会まで行かれたのですね、私もせめてその辺り、公園事務所までは行きたかった(TT)「夢は野原を駆け巡り」実現しなかった編でその先に行かれる予定だったのですね、私もいつか、水道橋が見える所まで行きたいな~
次回、ようやくトラブル編です、週刊誌の見出し並のセンセーショナルな書き方、私にはムリっぽい(-。-;
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