2021/07/04 - 2021/07/04
495位(同エリア1443件中)
kojikojiさん
- kojikojiさんTOP
- 旅行記1761冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,463,134アクセス
- フォロワー169人
明治村の午前中の見学が終ってもまだ4丁目の辺りをふらふらしている状態です。絶対に見たかった帝国ホテルの見学が出来たので、少し気が楽にはなっていますが、50年前の家族旅行の思い出やNHKのドラマの「坂の上の雲」のロケ地にもなっていることを知ると興味も湧いてきますし、1つ1つの建物の歴史を知るとだた通過するわけにもいかなくなってきます。そんな訳で時間の許す限りぎりぎりまで、最後は走り回るように見学しました。もちろん妻は途中で呆れて休憩していました。それでもガイドさんが建物を説明してくれる西園寺公望別邸の「坐漁荘」などは、休憩しているところまで走って戻って連れてきたりと忙しかったです。まあまあ納得できるところまで見学が出来て、ちょうど帰りのバスの時間にもなり満足のいく1日が終わりました。帰りのバスはオアシス21で降りて、近くにある味噌煮込みうどんの「山本屋総本家」に行きました。やっぱり本場名古屋の味噌煮込みうどんは美味しかったです。妻は「山本屋本店」に入ったことがあることがここで分かりました。ひつまぶしにしても味噌煮込みうどんにしても過去に何度も名店に行っていたこともここで分かりました。旅の予定も食べ物のミッションもほぼ達成できて、翌日は犬山城下と犬山城を見て東京に帰るだけになりました。8泊9日の旅も終わるのかと思いましたが、翌日の犬山で大きく予定が変わり、名古屋でもう1泊することになりました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 船 タクシー 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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明治村の4丁目の見学はまだまだ続きます。地図だけでは分からない山あり谷ありの敷地は歩くだけでも体力を消耗します。
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「鉄道寮新橋工場」の建物は広い工場の内部を明治の機械類の展示場として活用しています。最初はあまり面白そうでは無かったのですが、説明を読んでいると輸入した機械を国産化する過程が分かって勉強になりました。
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内部の構造は鋳鉄柱をはじめ外壁の鉄板やサッシなど全ての材料をイギリスから輸入し、イギリス人技術者の指導の下に建設されたそうです。中空鋳鉄柱の両側にツバを出して壁板を取り付け、鉄筋など細い鉄材で小屋組トラスを組み上げるなど鉄造プレハブ建築物としても重要なものであり、またきわめて単純で構造力学の理にかなったものです。
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この機械は「リング精紡機」で軽くねじった糸(粗糸)を引き延ばして、さらに強くねじり合わせて強い糸を作り巻き取る機械です。紡績の最終段階で、ここで製品としての綿糸が完成します。また他の紡績機と比べて簡易な機構と安易な操作で強い糸が出来るため、1890年前後の数年間で400台以上の機械が日本に輸入されました。
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「古ファッション靴下編機」は情勢用のストッキングを作る機械で、足の形にあうように網目を調整します。靴下を広げた形に編んだ後に縫い合わせるので後ろ側に縫い目が出来るのが特徴です。この機械はグンゼKK塚口工場で使われたものと知ると、その工場跡地に「つかしん」という西武百貨店とグンゼの商業施設を思い出します。
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「梳綿機」は打綿機で粗く解きほぐした綿をシート状にしたあとに1本1本の繊維に分けて解きほぐして繊維の方向をそろえて太いひも状にする機械です。これもイギリスからの輸入品です。
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「往復空気圧縮機」は電動機の力でピストンを往復させ空気を圧縮する機会です。圧縮空気は主に鉱山で穴を掘る掘削機を動かすために使われました。この機械は東海道本線の端なトンネルの工事で使われたものだそうです。工作機械は当初は輸入に頼りますが、徐々に国内で製造されるようになり、日本社会全体の発展を促しました。
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「歩兵第六聯隊兵舎」
幕末から維新の動乱時に薩摩や長州がイギリスに教えを受けたのに対し、幕府はフランス方式を取り入れ、これが明治政府にも引き継がれて日本陸軍の基礎が形成されていきます。名古屋鎮台の管内では名古屋と金沢に組織され、名古屋に置かれたものが歩兵第六聯隊です。 -
明治政府は単に軍事組織や訓練方法だけでなく、兵舎等の軍用建造物についてもフランスから学んでおり、明治6年の聯隊創設時に建てられた歩兵第六聯隊兵舎も、フランスの建築書を基に海外の例に学んで造られています。
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単純な四角形の上げ下げ窓が並んで素朴な印象を与えますが、構造は頑丈で外側の柱は全て土台から軒に達する太い通し柱で壁の下地になる木摺を斜めに打ち、瓦を張って白漆喰で仕上げているため、地震にも火災にも強く断熱性も高いそうです。
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木製のベッドが並ぶ内務班の室内は全ての家具が耐久性に重点を置いて作られています。機能性だけでデザインなどは全く考慮されていません。
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明治時代の陸軍の食事は和食の優秀性を掲げ、栄養バランスより高カロリー重視だったそうです。パンと洋食を取り入れた海軍に比べると脚気の発生率高く、日露戦争においても脚気患者の死亡率が高かったために陸軍内では白米の中に大麦を入れ、改善されたそうです。
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並んでいるのは村田銃でしょうか?このタイプの小銃は台湾のタロコ族やセデック族と北部タイヤル族は未だに銃猟用として使っているそうです。
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「市電名古屋駅」
1881年のドイツで初めて路面電車の営業が開始されましたが、日本国内では市内電車として明治28年に京都市電が最初です。京都では琵琶湖からひかれる疏水の有効的な利用法として日本最初の水力発電がはじまり、明治24年に電力供給が開始され、明治28年の第4回内国勧業博覧会の開催地が京都に決定したことも重なり、京都電気鉄道が設立され本格的にその敷設へ向けて動き出します。子供の頃から京都の市電にはなじみがありますが、ここまで古いものは見た事がありません。 -
「SL名古屋駅」
明治のはじめに煙をあげて走る蒸気機関車を「陸蒸気」と呼びました。明治村の「なごや」駅と「とうきゃう」駅の間を連日走行している機関車は2両あり、そのうちの1両の蒸気機関車12号は鉄道開業の2年後の明治7年にイギリスから輸入されたものです。 -
輸入当初の車輌番号は23で新橋と横浜間を走り、明治42年の車輌の改番で165となりますが、明治44年に尾西鉄道に払い下げられて12号となりました。尾西鉄道と名古屋鉄道が合併した後も番号はそのまま引き継がれ、昭和32年まで使用されていました。この写真の昭和45年の夏では動態保存されていないようでしたが、その後線路が敷かれて現在に至っているのだと思います。
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「歩兵第六聯隊兵舎」の建物を見ていると本当に「坂の上の雲」の世界に迷い込んだようです。周囲を見渡しても明治村の建物と深い緑の森しか見えないのが良いのだと思います。
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「日本赤十字社中央病院病棟」
明治10年に西郷隆盛が九州で挙兵した西南戦争の際に敵味方の区別なく傷病兵の救護に当たった博愛社が日本赤十字社のはじめといわれます。明治19年に日本政府がジュネーブ条約に加盟して日本赤十字社と名を改めますが、その折に皇室から渋谷の御料地の一部と建設資金10万円が下賜され、明治23年この病院が建設されました。 -
子供の頃に小学校の隣にあった総合病院の建物もこのような木造2階の板張りの建物でした。その建物が取り壊しになり、クレーン車に吊られた鉄球で破壊するのをずっと見ていた記憶が蘇りました。現在は鉄球など使いませんが、昭和40年代では連合赤軍の浅間山荘事件の映像で見る鉄球はポピュラーな解体機器でした。
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病院の正面を飾っている額は桐と竹と鳳凰が浮き彫りにされています。草創期の日赤をもりたてた昭憲皇太后のアイデアを基にしたものだそうです。
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和風のデザインと赤い十字の組み合わせが不思議な感じがします。
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現在南に面している全面ガラス張りの廊下は本来北側にあったもので、暗くなりがちな北面を明るくするための工夫だったようです。
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赤十字は戦時における戦傷者の看護を目的として作られた国際組織です。クリミア戦争におけるナイチンゲールの献身的な活動が人々に感銘を与えた後、1859年のイタリア統一戦争の際に両軍の軍医らに呼びかけて医療の先頭に立ったのが、赤十字生みの親であるアンリ・デュナンです。その後の彼の提唱のもとに1864年ジュネーブ条約が調印され、赤十字が創設されました。
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ヨーロッパの赤十字活動を見聞し日本でその創設に関わったのは佐野常民です。西南戦争の勃発を知った彼は博愛社を設立して兵士の救護にあたりました。戦後もその組織を存続させ、明治20年に日本赤十字社と名を改めるとともに、万国赤十字同盟に加盟します。
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「北里研究所本館・医学館」
八角尖塔を頂く木造2階建てのこの建物は、日本の細菌学の先駆者北里柴三郎が大正4年に芝白金三光町に建てた研究所の本館です。北里自身が学んだドイツの研究所に倣い、ドイツバロック様式を基調に新時代の意匠を加味した建物です。 -
屋根は腰折屋根で天然スレートを葺き、小屋裏に明かりを入れる屋根窓を配しています。
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東大で医学を修めた北里柴三郎はドイツに留学してコッホのもとで細菌学を研究し、破傷風菌の培養と破傷風の血清療法によって学界に認められました。帰国した翌年の明治25年に福沢諭吉の後援を得て日本初の伝染病研究所を設立します。大正3年に同研究所が東大に移管されると野に下り、独自にこの北里研究所を創立しました。
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北里の胸像はペスト菌の発見の功績で贈られたもので、制作したのは大熊氏廣で、大理石の台座には漢文で功績が刻まれています。その中には黒死病の文字も読み取れます。残念ながらここに置かれた像はレプリカでした。
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展示物の中には馬の全採血の模型がありました。破傷風やジフテリアやハブ毒蛇咬症など治療用の抗毒素結成の製造のために、十分に力価が上昇した免疫馬の血清を得るために馬を倒馬器に固定しています。
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こちらは馬を使った痘疱掻取の模型です。伝染病研究所では伝染病の研究と同時に各種の抗血清や痘苗を作成しました。天然痘の予防には牛痘苗を未感染者へ植える種痘が最近まで行われました。
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白鳥の首と呼ばれるフラスコです。パスツールは腐敗が空気中の微生物によっておこることを証明するためにこのフラスコを製作しました。フラスコの口が白鳥の首のように曲がっていて、空気中の微生物が落ち込まないため、一度沸騰させた培養液は腐敗することはありません。この実験で微生物の自然発生説は否定されます。
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「長崎居留地二十五番館」
長崎に3ヶ所あった東山手と南山手と大浦の居留地のうち南山手二十五番の建物です。この建物の最初の居住者はスコットランド出身のコルダーで、彼は慶応3年に来日し、最初に長崎のボイド商会、その後横浜の三菱製鉄所、神戸の大阪造船所を経て、三菱が長崎造船所を国から払い下げを受けた際にマネージャーとして請われて再び長崎の地を踏んでいます。 -
当初は造船所近くの会社が用意した住宅に住んでいましたが、明治22年に造船所のある飽の浦を見下ろす高台の南山手に居を構えました。大阪造船所時代には日本初の「ドライドック」を建造し、また長崎造船所では日本初の鋼鉄船で昭和37年まで高島炭鉱と長崎を結んでいた「夕顔丸」を建造するなど、明治期日本の造船業の発展に寄与しました。明治25年に病に倒れて45歳の生涯を長崎で終え、現在も長崎の坂本国際墓地に葬られています。
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建物は三方にベランダを廻らし、各室に暖炉を設けるなど典型的な居留地建築ですが、外壁は下地板の外に下見板を張り上げ、室内側は木摺下地に漆喰を塗り、防寒と防音に効果をあげています。その他にも東南アジアのいわゆる植民地建築の影響を受けて軒が深くなっています。
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棚の上に飾られた凧はバラモン凧です。五島列島の福江島に古くから作り伝えられたのがこのバラモン凧で、絵柄は鬼が真正面から兜をくわえこんだ姿で敵に後姿を見せぬ勇者の姿を表現しているそうです。赤い兜の部分に白い十字があり、クルスを意味しています。五島の方言で「ばらか」に由来し、「荒々しく向こう見ず」、「活発で元気がいい」という意味があるそうです。母と旅した九州の旅の最後に泊った長崎の旅館を思い出しました。
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並んでいる土人形は古賀人形と呼ばれるもので、京都の伏見人形、仙台の堤人形とともに日本三大土人形の1つに数えられています。さすが明治村は調度品まで隙が無いなと感心しました。
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その姿は日本唯一の海外との貿易港であった土地柄を反映して、長崎の方言で中国人を意味する「阿茶さん」と呼ばれる中国人がシャモを抱えたものや、カピタン(オランダ商館長)が銃を持ち猟に出かける姿を基にした「オランダさん」、商館長の夫人の「西洋婦人」など、異国の人物をモチーフにしたものが多くあります。
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屋根が冗長になるのを避けて、本屋根からベランダの屋根を1段下げているなど、植民地建築の影響を受けて軒が深くなっていたりします。
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隣接する瀟洒な建物は「神戸山手西洋人住居」です。
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2軒が並んでいるように見えますが、それぞれ木造総2階建ての主屋と付属屋からなる住宅でありますが、建物の沿革は明確にはなっていないようです。明治20年代に建てられたものと推定され、当初は外国人のものであったと思われますが、日本人の増田周助の所有であったとの記録があります。
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隣の長崎居留地二十五番館と同じ頃の外人住居ですが、雰囲気にはかなり違ったものがあります。平家建てでゆったりとした長崎二十五番館が明治初期の植民地住宅的な雰囲気を遺すのに対し、この神戸の建物はより本格的な西洋館になっています。
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30年ほど前に2か月以上も三宮に滞在しながら神戸にたくさんある洋館の1つも見る事がありませんでした。今から思えば毎晩のように飲み歩いて、当時のギャランティは飲食代で消えてしまいました。一緒に遊んでいた妻は会社から緊急の生活費貸し付けを申請していました。唯一ヨドコウ迎賓館のフランク・ロイド・ライトの設計した建物を見ておいたのが救いです。
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「宗教大学車寄」
この建物は現在明治村3丁目の岬の広場に「東屋(あずまや)」のように建てられていますが、本来は明治41年東京の巣鴨に新築された私立宗教大学本館の車寄せだったものです。 -
木造2階建ての本館校舎は講堂を中心に左右に教室を配した一文字型の大きな建物で、その正面にこの車寄がありました。この高さ6.9メートルの車寄からも想像できるように、本館はバロック風の大屋根を頂く壮大な明治末期の特色ある洋風建築だったそうです。
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「品川燈台」
安政5年に欧米の列強5ヶ国と結ばれた通商条約に従って各地に港が開かれましたが、列強国の関税率等に対する要求はさらに厳しくなり、慶応2年に日本は改税約書を受け入れることになります。その第11条で開港場に出入する外国船のために燈台や航路標識を設けることが取り決められます。この燈台は品川沖の第ニ台場の西端に建てられ、明治3年に点燈されました。 -
石油による光で100燭光、光源の高さは地上から19尺(約5.8メートル)海面上52尺(約16メートル)、光の届く距離は約18キロと記録されています。灯台の脇に置かれたのは「霧砲」で、濃霧時に安全に船舶が航行できるようにするための霧信号の装置の1つです。
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神島灯台に設置されていたレンズが展示してあり、実際にライトが付けられて回転します。これは明治30年にフランスで考案された水銀槽式回転機械というものです。神島灯台のレンズと回転機械は昭和2年に設置されたもので、光の暗闇の時間がない不動光ではなく、30秒ごとに3回光が閃光する回転光です。
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我が家にもこのような灯台のレンズの技術で製作された湾曲したレンズを使ったアールデコのスタンドが2台あるのですが、改めて大きさやデザインが似ていると思いました。
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灯台のレンズのデザインは機能的なアールデコ様式だと思いした。
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「亦楽庵」は京都の医家で漢学者だった、福井恒斎が明治10年頃に自宅の庭に建てたものと伝えられています。利休以後の茶室は様々な形が創出されますが、その多くはより小さく閉じられた空間が継承されてきました。
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この「亦楽庵」では開け放つ試みがなされており、利休四畳半の茶室の一方に引き違い障子戸を立て、瓦を敷いた土間を介して庭との結び付きを求めています。
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隣には西園寺公望別邸の「坐漁荘」があります。初めここには1人でやってきました。3丁目の見学は妻が園内マップを見て「休憩している。」とパスされていました。園内のいくつかの建物は建物ごとのガイドツアーがありますが、その多くはコロナの影響で中止になっていました。ところが尾の建物はあと10分でガイドツアーが始まるというので、戻って妻を連れてきました。
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西園寺公望は明治3年に法学を学ぶため渡仏して、10年間フランスに滞在した後に帰国し、中江兆民等と東洋自由新聞を発刊し、ブルジョア自由主義の普及に努めます。廃刊後は政府に入り、憲法調査のため伊藤博文に従って外遊し、次いで各国公使や大臣を歴任し、明治39年には伊藤博文のあとを受け、政友会を率いて内閣を組織します。その政治姿勢は終始平民主義を貫き、我が国の元勲と呼ばれるにいたります。
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この「坐漁荘」は西園寺公望が政治の第一線から退いた後の大正9年に駿河湾の奥の清水港近くの興津の海岸に建てた別邸です。旧東海道に沿って建てられた低い塀の奥に、玄関と台所と2階建て座敷の屋根が幾重にも重なります。
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造桟瓦葺で軒先に軽い銅板を廻らした純和風建物ですが、小屋組には強い海風に耐えられるよう工夫がみられ、梁を斜めに渡して鉄筋の水平筋違いを十字に張っているそうです。
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「坐漁荘」の名には"なにもせず、のんびり坐って魚をとって過ごす"という意味がこめられていましたが、実際には事あるごとに政治家の訪問を受けざるを得なかったようです。
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この邸宅を見学していて思ったのが京都にある祖父の実家の造りに似ているなという事です。
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昭和4年に海に面した座敷の横に洋間とその奥には脱衣室を兼ねた化粧室や洋風便器の置かれた便所が増築されました。晩年になって別邸に洋間を設けたことは、若い時から西欧に遊学して洋風生活に親しんでいたとは言え、洋間の居住性を評価したのでしょう。額の「坐漁荘」漁の文字は魚の形をしています。
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和室と洋間の間の設えも工夫がなされています。
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洋間の奥はサンルームになっていて、解放された広い窓が気持ちよいです。窓ガラスは輸入されたもので、現在とは違って紫外線が通るガラスが用いられたそうです。
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洋間の吊り棚の意匠はエリザベス様式の代表的なデザインの「バルボスレッグ」のようです。10年間フランスに滞在した経験による遊び心を感じます。
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洋間の奥にある洗面所は和風の佇まいです。浴室への手摺にもなる曲竹は床柱のようにも思えます。洗面台の舟は銅板で出来ています。左官岡部が傷まないように桧の1枚板が張られ、洗面台の腰は檜皮葺になっているのは水に強いからでしょう。床も水のかかりそうなところは栗の板のようで、釿(ちょうな)の跡のようなデザインが美しいです。
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洗面台の反対側は準和室の設えで、水回りの部屋とは思えません。天井は銘木の丸太を挟んで網代と煤竹を組んだ凝った造りになっています。
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風呂場も水のかかる腰部は石張りになっています。床も簀の子敷きの贅沢な造りです。湯船の脇には緊急時用のボタンと、脱出用の扉もありました。
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屋根は屋形舟のような傾斜したデザインになっています。この屋根と窓の配置などは祖父の実家の二条陣屋の苫舟の間を思い出します。昔は神泉苑の池だった窓の外には釣瓶が架けられ、階下の井戸から水が汲めるような設えになっています。
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この邸宅の風呂場の天井は竹が組まれていますが、全く隙間が無いように削り合わせてあります。
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そのまま階段を上がって2階の見学に移ります。この邸宅はハイカラさんの衣装を着た若い女性スタッフが説明をしてくれました。50年前に思った質問をしても的を得ない回答でしたが、習ったことは流ちょうに教えてくれました。
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この檜皮葺の壁が美しい坪庭も祖父の実家の水神様を祀った祠を思い出します。
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現在は2階の座敷の障子を開け放つと、遠い山並みを背景に入鹿池が見渡せますが、興津に建てられた当時は右手に清水港から久能山が、左手に伊豆半島が遠望されたそうです。
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2階の窓ガラスも紫外線を通すものが使われたそうです。現在の景色もそれなりに美しいです。
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窓の下に植えられた槇(まき)の木は興津から移植されたものだそうです。現在興津には「興津坐漁荘記念館」があり、この建物を模した建物が建てられているそうです。
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和室の欄間も凝った造りになっています。一見2枚の板を渡しただけのように見えますが、その間にはスライスされた竹が組み込まれています。
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この書幅は西園寺公望が昭和14年に中国唐時代の書家である韓退之の詩を揮毫したもので絶筆といわれます。
「夜歌」 静夜有清光。間堂仍独息。念身幸無恨。志気方自得。楽哉何所憂。所憂非我力。」 -
江戸東京たてもの園で高橋是清邸を見学したことがありますが、昭和11年の二二六事件の現だったたてものなので緊張しましたが、この邸宅は趣味の良さと感じるにとどまりました。
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裏側は妙に色気のある雰囲気で遊郭のようにも見えました。
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幸田露伴住宅「蝸牛庵」
明治18年に坪内逍遥は「小説神髄」を刊行して小説の新しい方向を提唱し、これに応じる形で二葉亭四迷の「浮雲」が生まれましたが、逍遥の内面尊重の主張はさらに幸田露伴へと受け継がれ、東洋的な観念を主題とする作品に結実します。露伴は自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵)」と呼び、やどかりのように幾度となく住まいを変えています。隅田川の東にあったこの家もその内の1つで、明治30年からの約10年間を過ごしています。 -
「芝川又右衛門邸」
この屋敷は現在の西宮市甲東園に明治44年に大阪の商人芝川又右衛門の別荘として建てられました。設計者は当時京都工等工芸学校図案科主任で、後に京都帝国大学建築学科の創設者となる武田五一です。 -
芝川又右衛門は先代が大阪伏見町に唐物商(輸入業)「百足屋」を開業し、三井八郎右衛門や住友吉左衛門などと共に明治12年の大日本持丸長者鑑に名を連ねた豪商の1人です。又右衛門は明治29年に果樹園「甲東園」を拓き、明治44年には別荘としてこの建物を建築し、さらに日本庭園や茶室を整えて関西財界人との交友の場としました。
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当時の甲東園には駅(停車場)がなかったため、芝川又右衛門は駅の設置を阪急に依頼し、設置費用と周辺の土地1万坪を阪急に提供しました。この土地1万坪が甲東園一帯の土地開発の端緒となったといわれます。
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武田五一は明治34年から約2年半欧州へ留学し、帰国直後に貿易商の福島行信の依頼を受け、日本で初めて当時欧米で流行していたアールヌーボー様式を取り入れた住宅を設計しました。その後に議院建築視察のため再度欧米視察をし、帰国後に芝川又右衛門より「洋館」の依頼を受け、ヨーロッパのグラスゴー派やウィーンのゼツェッションと数寄屋など日本建築の伝統とを融合したこの洋館を建てました。
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この洋館は何度か増改築がなされており、現在確認できる範囲では、昭和2年に和館増築に併せ、洋館の外装など今回見るような姿に大きく変更されました。日本における郊外住宅の魁ともいわれるものですが、阪神大震災の際被害を受けた平成7年の秋に解体され、平成17年1月に修復工事に着手して平成19年9月に竣工しました。
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芝川家の記録には明治44年に完成した建物を見た家族の「畳がリノリュームになっただけで、まるで洋館らしいところはない」という言葉が遺されているそうです。外壁は杉皮張りで、1階ホールは聚楽壁に網代と葦簾を市松状に用いた天井が用いられています。
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関東大震災後の昭和2年に隣接地に和館を増築する際、耐火を意識して外壁はスパニッシュ風な壁に変更されました。 関東大震災の際に木造建築が火災で大きな被害を受けたことから、外壁にスパニッシュ風な壁を用いることが大正末から昭和初期にかけて関西を中心に大流行したそうです。
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和風建築の杉材の美しい天井ですが、一部分だけアールヌーボーのようなデザイン画取り入れられています。翼を広げた天使のようでもあり、猫の顔のようでもあり。湯気を抜く管機構のような役割だったのでしょうか。
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この邸宅もガイドさんの説明で見学できるのですが、最終回の午後3時の回に少し遅れたのですが、うまい具合に前の回の見学者とガイドさんが話をしてたので間に合いました。
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一転してキッチンは完全な洋風の造りになっていたのでびっくりしました。
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子供の頃に横須賀中央の駅から坂道を上がった上に海上自衛隊の古い邸宅があり、母の兄が建物の管理で家族と一緒に住んでいました。その家の台所がこんな雰囲気だった気がします。敷地には広大な森があり、夏休みには泊りがけで遊びに行き、カブトムシを捕った思い出があります。
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1階の次は玄関ホールにある階段から2階に上がります。
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2階から上にあがる階段もありますが、この邸宅には3階はありません。網代の天井が美しいです。
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2階は完全に和風のデザインになっています。これは建設当時から替えられたもののような気がしました。鴨居から天井までの高さがアンバランスなのと秘密がこの部屋にはあります。
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床の間は2畳の畳敷きの立派なものです。床柱は木目から鉄刀木(タガヤサン)だと思われます。床框もよく見ると漆塗りの框の上に別の材で被せるなど手が込んでいます。
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そしてこの部屋が元々は洋間だったであろう仕掛けがこの中にあります。
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何と1階と同じ位置に暖炉がありました。これにはびっくりしました。
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2階の奥にはまた洋間がありました。置かれてあったのは古いトーネット社の椅子です。中央が曲げ木の椅子の209で建築家ル・コルビュジエはこの椅子に魅せられ、1927年にドイツ・シュツットガルトのヴァイセンホフ・シードラングのような多くの建物でこの椅子を使っています。左の椅子は創業者であるトーネット自身が1885年に手がけて以来同社の代表的作品となり、数あるデザイナーズチェアの中でも名作として名を馳せたSCHAUKELSTUHLロッキングチェアです。この辺の説明は全くありません。
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階段から見下ろした玄関ホールの扉は丁番が異様に長く、設計者のこだわりを感じます。
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玄関横にはステンドグラスの開き扉があります。これは昼間のためのデザインです。
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夜になるとその鉛の溶接部分が浮かび上がり、別の顔を見せてくれます。内外装の壁は漆喰の上に手で渦巻の形をつけて、乾燥してから金色に塗られています。これは上野の岩崎久彌の邸宅の「金唐革紙(きんからかわし)」をイメージしたのではないかと思いました。
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もう一度1階のホールに戻り暖炉の写真を撮りました。最初にこの部屋で邸宅の説明を受けるのですが、部屋の椅子はトーネット社のものでしたし、見学に当たっては手指の消毒プラス手袋着用になっていました。暖炉の周囲のタイルは大正3年に建てられた中国の瀋陽の張氏帥府の「大青楼」のインテリアを思い出しました。
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ここの見学が終ると午後3時30分です。妻を待たせているので慌てて戻ります。名古屋駅まで戻るバスが午後4時30分発なので残り時間は1時間しかありません。
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「京都七条巡査派出所」
江戸幕府の崩壊で無政府状態にあった東京では、明治元年に薩摩や長州等の藩兵が組織され、その警護と治安に当たることになります。これが日本における警察のはじめで、京都七条巡査派出所は京都駅の近くの下京区七条の通りに面し、西本願寺龍谷大学の入口角に建てられました。木造の建物ですが、当時流行していたレンガ造洋風建築に似せて化粧レンガを張りあげ、左官仕上げの帯を入れています。 -
母方の祖母が子供の頃に西本願寺の娘さんのところに遊びに行く際に白い馬が牽く馬車が迎えに来たと聞いたことがあります。その当時の祖母の家は京都駅のすぐ東側にあったと聞くので、この派出所の前も通ったのだろうかと思いました。
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「札幌電話交換局」
グラハム・ベルが電話を発明すると、翌年の明治10年に日本にも紹介され、明治23年には東京と横浜で電話交換業務が開始され、以後徐々に全国に普及していきました。この札幌電話交換局は明治31年暮れに竣工し、明治33年から交換業務を開始しています。 -
外廻りの壁を厚い石で築き、内部の床と間仕切り壁と屋根の小屋組を木造で組み上げ、屋根には桟瓦を葺いています。1階の窓は葉飾りを刻んだ要石を持つアーチ窓で、2階はまぐさ式の窓に小庇がつけられています。2階窓下の胴蛇腹には大きな円形の花紋が連続して刻まれ、全体の雰囲気を和らげる効果をあげています。壁面を胴蛇腹で分け、上下階の窓のデザインをかえる手法は、西欧でよく用いられたもので、ここでも単調になりがちな外観を印象深いものにしています。この建物は明治43年に大増築がなされており、明治43年の創建と思われてきましたが、明治31年竣工の記念的建造物であることが判明します。
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「安田銀行会津支店」
明治12年に国立銀行の設立認可が153行で打ち切られると、それ以降は私立銀行の設立が急速な勢いで増えました。安田銀行も明治12年に認可を受け、翌13年に開業しています。最初は栃木と宇都宮の2店のみでしたが、その後東北地方に展開し、明治23年には会津若松に若松支店が設けられました。当初は既存の土蔵造りの建物を借りて営業していましたが、明治40年にこの建物が新店舗として落成しました。 -
突き当りの「東山梨郡役所」までのレンガ敷きの道が続く風景は明治村の中でも美しい一画です。「安田銀行会津支店」を見たばかりなので大内宿の町並みを連想してしまいました。
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「京都中井酒造」
中井家は江戸時代の天明7年に京都河原町二条で商売を始めました。その後の享和3年に御幸通りで酒屋を開業しましたが、元治元年に長州藩と会津と薩摩両藩が京都御所蛤御門付近で衝突した事件(禁門の変)で焼失し、この建物が再建されました。軒が低くて屋根に緩いカーブを持たせているのは「むくり屋根」といい、京都地方伝統の姿です。軒下の漆喰塗りの壁には虫篭窓(むしこまど)が開けられ、屋根裏部屋の明り取りとなっています。1階正面の目の粗い格子は酒屋格子といって無双窓になっていて、内側に薄い格子板が添わされているので左右にずらすだけで遮蔽ができるようになっています。 -
「千早赤阪小学校講堂」
1階が雨天体操場で2階が講堂となっているこの建物は、もとは大阪市北区大工町の堀川尋常小学校にありましたが、昭和4年に同校の校舎が新築されるに際し、南河内郡千早赤阪村の小学校に移築されたものです。 木造2階建て桟瓦葺寄棟造で、建物の四周に幅1間(約1.8メートル)の吹放ち(ふきはなち)の廻廊をめぐらせています。2階の外壁は洋風下見坂で、出隅みには柱型を付けて軒には蛇腹をまわしています。壁面に整然と並べたれた堅長の窓には欄間と上げ下げガラス戸が入れられています。 -
「東松家住宅」は名古屋の中心部の堀川沿いにあった商家で、明治20年代後半までは油屋を生業とし、その後昭和の初めまで堀川貯蓄銀行を営んでいました。塗屋造りという江戸時代以来の伝統工法で建てられているこの建物は、創建以来再三の増改築を経ています。江戸末期には平屋であったものを、明治28年に後方へ曳家(ひきや)の上、2階の前半部を増築して現在の店構えを完成させ、明治34年に3階以上を増築したそうです。
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江戸時代にはいかに富裕でも武家以外のものが3階建ての建物を造ることは許されず、慶応3年になってはじめて京都と東京でこの禁令が解かれ、以後順次全国で認められるようになります。しかし大正8年に市街地建築物法により木造高層住宅が禁止されたので、3階建以上の木造住宅はわずか50年ほどの間しか造られていません。
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「第四高等学校物理化学教室」
明治19年に「中学校令」が公布され、東京大学予備門が第一高等中学校に、大阪の大学分校が第三高等中学校に改組されました。引き続き翌年には仙台に第二、金沢に第四、熊本に第五高等中学校が設置され、明治27年の「高等学校令」により、いずれも高等学校に改称と改組されました。この物理化学教室は高等中学校時代の明治23年に創建され、以後、第四高等学校から金沢大学へと引き継がれてきた建物です。 -
「東山梨郡役所」は廃藩置県によって始められた地方行政をより効率的に行うため、明治11年に「郡区町村編制法」が施行されます。これにより県令の任命する郡長が、県令の指示のもとで郡内の町村の行政を指導監督することになります。山梨県は施行当初4郡に分けられましたが、明治13年の太政官布告により9郡に改編されます。東山梨郡が誕生したのはこの時で、日下部村をはじめ30の村が編入されました。
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発足当初は仮庁舎を使って業務が開始されましたが、明治18年に新庁舎としてこの建物が日下部村に落成します。当時の山梨県令藤村紫朗は大変開明的な人物で、地元に多くの洋風建築を建てさせ、人々はそれらを「藤村式」と呼びますがこの東山梨郡役所もその一例です。正面側にベランダを廻らせ、中央棟と左右翼屋で構成する形式は、先の三重県庁舎と同様に内務省に代表される当時の官庁建築の特徴です。
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この建物は自由に館内を見学することが出来ますが、ここもイベントの対象ではないようで、見学者は誰もいませんでした。天井照明のメダリオンのモールディングは和風の意匠ですが、このランプでは無いものが吊られていたのだと感じます。
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2階には明治時代の日本で近代化に貢献された外国人の方を紹介するコーナーがありました。このパネルは片倉工業の生糸商標「KATAKURA INDUSTRY.Ltd. Denierer Raw Silk」のデザインです。世界遺産にもなっている富岡製糸場の最後の民間オーナーで、全国の製糸工場を多くを経営していました。舞楽の代表的な衣装の襲装束のデザインが素晴らしいです。
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「清水医院」
江戸時代の五街道の1つ中山道は近江草津で東海道と分かれ、大垣から岐阜を経て鵜沼から木曽川に沿って信濃へ抜け、さらに江戸へと通じていました。木曽路の中程の妻篭と木曽福島の中間の須原の地にこの清水医院は建てられました。建造の詳しい年月は明らかではないが、その様式から凡そ明治30年代と推定されます。 -
須原に生まれた清水半次郎は東京に出て医学を学んだ後に、地元の木曽谷に戻り医院を開業しましたが、この医院は旅篭の立ち並ぶ街道沿いでひときわ目立つものであったそうです。この清水医院には島崎藤村の姉の園子も入院しており、彼女をモデルにした藤村の小説「ある女の生涯」では、須原の蜂谷医院とされて当時の様子が記されています。子供の頃家族で木曽街道を旅して際に、馬籠で藤村記念館へ行ったことを思い出しました。そんな思い出が還暦を迎える頃になってじわじわ心に沁みてきます。
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玄関を入ると通り土間に面して待合室と薬局があり、薬局には小さな投薬口が設けられています。畳敷きの待合室に続いて板張りの診療室となりますが、待合室の廻りの襖には様々な養生訓が黒々と大書されています。
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「三重県庁舎」
明治維新政府による地方行政は明治2年の版籍奉還に続く明治4年の廃藩置県に始まります。この時から中央政府によって任命された府知事と県令が各府県に派遣されるようになりますが、さらに明治6年には地方行政と勧業のための中央官庁として内務省が設置され、地方行政は急速にその整備が進められていきます。 -
府知事と県令を迎えた各府県では、当初は既存の建物を県庁舎として使っていましたが、開明的な県令は先を争うように洋風の新庁舎を建設するようになります。この三重県庁舎も明治9年に県令の岩村定高によって計画され、3年後の明治12年に完成したものです。
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この建物も見覚えがありました。50年前にここへ来たときに家族で撮った写真が残っていました。それとNHKの「坂の上の雲」でもロケで使われていました。1つは2009年放送の第2回「青雲」で、秋山真之(本木雅弘)と正岡子規(香川照之)が揃って東京大学予備門に合格して校門をくぐったシーンです。
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そして早々に試験の答案を出して予備門の校庭で談笑する子規や夏目漱石(小澤征悦)らに、バルコニーから真之が声を掛けるシーンです。このドラマを観て松山城にも行きましたし、大連から旅順と日露戦争の戦跡も訪ねました。
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この建物は探偵イベントのポイントのようで表にたくさんの人が座っているのが、建物に敬意を払っていないようで嫌な感じがしました。内部の見学には興味が無いようなので静かに見学出来ました。
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この本館は東京の築地ホテル館に似たハイカラな建築物であったことから、落成当時は地方より弁当持参で見物に来る客が多かったとそうです。また、玄関を中心とした左右対称構造とベランダを2層巡らした構造は当時の内務省庁舎に倣ったものだそうです。
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建材は海路で東京から四日市港に運ばれ、更に津へ送られたそうです。玄関の礎石や角柱や櫛形アーチには地元産の井関石が採用され、廊下は当初は吹放しでしたが後に窓ガラスが入れられました。
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どの部屋も格天井に照明用のメダリオンの付いたモールディングが重厚なイメージを与えます。
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50年前にも建物の中は見学していると思いますが、全く記憶がありません。明治村は1丁目から5丁目までに分かれ、新しく建てられる建物に合わせて拡張していると聞きました。50年前には品川燈台と宇治山田郵便局舎の前で撮った写真もあったので、その後5丁目が拡張されたのかもしれません。
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1階には旧赤坂離宮に納められていた家具が置かれてありました。これは朝日之間に置かれてあったチェストで、家具を納入したのはエンシェルというフランス人で、彼は1900年のパリ万国博覧会や1904年のセントルイス万国博覧会の内装も手掛けています。フランス有数の室内装飾化でレジオン・ドニュール・オフィシエ勲章を受章しています。
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こちらは孔雀之間に置かれたテーブルで、同じフランス18世紀末様式のデザインです。この家具を納入したのはふーるじあというフランス人で、彼はヨーロッパの多くの王室へも家具を納入しています。東宮御所の大部分の家具も彼により納入され、航跡があったとして日本政府より勲五等旭日章が授与されています。
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「二重橋飾電燈」
「二重橋」は皇居前広場から見て奥の橋で「江戸城西の丸下乗橋」の通称です。堀から石垣までが大変高いために、江戸時代はここに橋を架けるに際に橋脚を建てることが難しく、実際の橋の下に支えのための橋を設け二重としました。明治21年の皇居造営に伴い新しい鉄橋に架け替えられると、手前の橋と重なって二重に見えるようになりました。この鉄製の飾電燈はその新しい鉄橋の両たもとに計4基立てられたものの1つで、橋とともにドイツで造られた典型的なネオ・バロック様式のデザインです。 -
「鉄道局新橋工場と明治天皇・昭憲皇太后御料車」
維新の後に新政府は政治安定のためには東西両京を結ぶ鉄道が必要として調査に着手しました。そして明治5年に新橋と横浜の間に初めての蒸気機関車が走り、ついで明治7年には大阪と神戸間も開通して東西の基点ができました。 -
客車や機関車の国産化が進められるのと同様に鉄道施設の国産化も行われます。明治22年に建てられたこの鉄道局新橋工場は日本で製作された鋳鉄柱と小屋組鉄トラス、鉄製下見板とサッシを組み立てたもので、屋根は銅板で葺かれています。
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「明治天皇御料車(6号御料車)」
この御料車は明治時代に製造された6両の御料車のうち1番最後のものです。車輌の全長は20メートル余で総重量約33.5トンの木製3軸ボギー車です。この車輌は歴代の御料車の中でもっとも豪華な車輌といわれ、車内天井に張られた蜀江錦や御座所内の金糸の刺繍や七宝装飾、螺鈿装飾や木画といわれる木象嵌など日本の伝統的な工芸技術の粋を集めています。 -
昭憲皇太后御料車(5号御料車)
御料車とは天皇と皇后、皇太后と皇太子のための特別な車輌のことで、5号御料車は最初の皇后用御料車として製作された車輌です。全長16メートル、総重量約22トンの木製2軸ボギー車で、車内には帝室技芸員(現在の人間国宝)の橋本雅邦や川端玉章が描いた天井画、昭憲皇太后のご実家一条家の家紋の藤をあしらった布が椅子や腰張りに使用されています。 -
「大井牛肉店」
横浜と長崎に続き慶応3年に神戸が開港します。外国船が寄港して外国人居留地には外国人の住宅が次々と建てられます。これに伴い外国人相手の商売が興り、船や在住外国人に牛肉を納める者達も出てきました。その1人の岸田伊之助が明治20年頃に牛肉販売と牛鍋の店として建てたのが大井牛肉店です。 -
大井牛肉店正面を飾る柱のデザインはギリシャ・ローマ建築の様式の一種のコリント式を模した華やかなものです。洋風が目立つ正面の意匠の中でひときわ異彩をはなつ玄関の庇は京風のむくり破風に鶴を飾り、金の浮き文字看板を掲げています。30年ほど前に仕事の合間に本店まで出向き、京都の祖母に味噌漬けの高いお肉を送ったのですが、味噌漬けのお肉は嫌いといわれてがっかりした記憶が蘇りました。
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日本では獣の肉は嫌われていましたが、開国に伴い外人が牛肉を食する習慣を知ると「牛肉食わねば開化不進奴」と粋がる風潮が東京を皮切りに次第に全国に広がります。明治村の大井牛肉店は牛鍋屋としての営業も行っていますが食べている時間はありません。
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「三重県尋常師範学校・蔵持小学校」
三重県庁舎と同じ清水義八の設計になり、三重県庁舎と同様にE字形左右対称2階建てでしたが、昭和48年明治村に移築保存するに際して特色ある中央玄関部分と右翼の2教室分のみを遺しました。県庁舎が清水義八による洋風建築初期の作品で、古典的な印象を与えるのに対して約10年のちに設計されたこの建物ではデザインが消化されて、中央の玄関部を除けば穏やかにまとめられている。玄関は4本の円柱を立てたアーケードとし、2階にベランダを設け、入母屋の屋根をいただきます。アーチや入母屋の破風に草花をモチーフとした縁飾りをあしらい、懸魚にも洋風の雰囲気を遺しています。 -
「赤坂離宮正門哨舎」
銅板葺の丸屋根をいただき、外壁を白ペンキで塗ったこの建物は、赤坂離宮正門両脇の内外に創建当初から警護のため設けられていた4基の哨舎のうちの1つです。設計にあたった片山東熊は明治10年に開講された工部大学校造家学科でイギリス人建築家のジョサイア・コンドルの教えを受けた第1回卒業生の4人のうちの1人で、卒業後は工部省を経て宮内省内匠寮に移り、帝国奈良博物館や帝国京都博物館を手がけて宮廷建築家となりましたた。 -
「聖ヨハネ教会堂」
この教会堂は明治40年に京都の河原町通りに建てられたプロテスタントの一派日本聖公会の京都五條教会で、2階が会堂で1階は日曜学校や幼稚園に使われていました。中世ヨーロッパのロマネスク様式を基調に細部にゴシックのデザインを交えた外観で、正面左右に高い尖塔が建てられ、奥に十字形大屋根がかかる会堂が配された教会です。 -
正面になるの妻側と交差廊の両妻には大きな尖塔アーチの窓が開けられ、室内が明るくなるように設計されています。構造は1階がレンガ造りで2階が木造で造られ、屋根には軽い金属板が葺かれており、これは日本に多い地震への配慮とも考えられます。
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50年前にここへ来た時の写真が残っていました。当時5歳の弟も今では55歳になりました。
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開国後多くの宣教師が来日しますが、その中には宣教だけでなく実業面や教育面でも業績を遺した人もいました。この教会堂を設計したアメリカ人ガーディナーもその1人で、ハーバード大学で建築を学んだガーディナーは明治13年に来日し、立教学校の校長として教育宣教にあたる一方、建築家としても立教大学校校舎や明治学院ヘボン館を設計しています。
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十字形平面の会堂内部は化粧の小屋裏をあらわし、柱などの骨組が細目に見えることもあって、実際より広く感じさせます。京都の気候に合わせて使ったと言われる天井の竹の簀も、明るい窓の光を反射させてより開放感を増しています。
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アジアでもヨーロッパでも旅をしていると小さな町でもこういった教会を見つけることがあります。日本では明治村やたてもの館に移築されていることが多いですが、保存を考えると仕方ないことかもしれません。
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この教会は京都の五条河原町に建っていたようですが、すぐ近くには五条楽園という遊郭街があります。当時は清濁が混在した町だったのでしょうか?11月に京都に行った際に叔母たちに聞いてみようかと思います。
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「西郷從道邸」
木造総2階建て銅板葺のこの洋館は明治10年代のはじめに西郷隆盛の弟の西郷從道が東京上目黒の自邸内に建てたものです。西郷從道は明治初年から度々海外に視察に出掛け、国内では陸海軍と農商務と内務等の大臣を歴任し、維新政府の中枢に居た人物で、在日外交官との接触も多かったようです。そのため「西郷山」と呼ばれる程の広い敷地内に和風の本館と少し隔てて本格的な洋館を接客の場として設けました。 -
建物は在日中のフランス人建築家のレスカスの設計と考えられ、半円形に張り出されたベランダや上下階の手摺のデザインもさることながら、耐震性を高めるための工夫がこらされています。屋根に重い瓦を使わずに軽い銅板を葺いたり、壁の下の方にレンガを重り代わりに埋め込み、建物の浮き上がりを防いでいます。NHKの大河ドラマの「せごどん」を思い出しますが、弟の成功に影には兄の犠牲があったのだろうかと思います。
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「森鴎外・夏目漱石住宅」
明治中期のごくありふれた建坪39坪(129.5㎡)余りのこの建物には、数々の由緒が遺されています。明治20年頃に医学士の中島襄吉の新居として建てられたものですが、空家のままであったのを明治23年に森鴎外が借り受けて1年余りを過ごしました。 -
ここも記憶があったのでデータを見てみると写真が残っていました。母がポーズを取っている後ろで男3兄弟が何かを見ています。
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その後の明治36年から39年までは夏目漱石が借りて住んでいました。鴎外はここに移り住む同じ年の1月に処女作小説「舞姫」を発表して、この家では「文づかひ」などの小説を執筆して文壇に入っていきました。その後数々の作品を残し、明治の文豪の1人に挙げられますが、本業は陸軍の軍医で明治17年から4年間ヨーロッパに留学しています。津和野を旅した時に鴎外の生家へも足を伸ばしたことを思い出しました。
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約10年遅れてこの家に住んだ漱石はここで「吾輩は猫である」を発表して文壇にその名を高めました。文中に描写された家の様子は、猫のためのくぐり戸をはじめ、よくこの家の姿を写しています。2人の文豪が相次いで住んだことは由緒のあることですが、この家が当時の典型的中流住宅であって、かつ現代住宅へ発展していく新しい芽がいくつか含まれている点も注目されます。
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3畳の女中部屋の前にほんの短いものですが中廊下のはじまりが見られ、各部屋の独立へと一歩踏み出しています。また、南の面に書斎を突き出して建てており、この形が後に洋間の応接室として独立しています。西郷從道邸や学習院長官舎等と比較すると一般庶民の洋風化の限界はそこまでだと思います。しかし、50年前我々兄弟は何に関心を持っていたのでしょうか?
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ここに住んだ時期に鴎外は雑誌「しがらみ草紙」を編集刊行し、留学体験に想を得たドイツ3部作の3作目の「文づかひ」を発表し、漱石は「吾輩は猫である」の他に「坊ちゃん」や「草枕」などの名作を世に送りだします。
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この家に中も見学できるようでしたが、もう時間がありません。走りながら妻と待ち合わせした入口へ戻ります。1丁目の見学は「旧三重県庁」以外は1に出走りながらの見学です。
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何とか午後4時30分発の名鉄バスセンター行きのバスに乗ることが出来ました。帰りのバスも乗客は数人だけでした。
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またいつかここへ来ることがあるだろうかと、50年前のことを思い出しながら考えます。門の前で記念写真を撮らなかったのがちょっと残念でした。
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小牧市内を抜ける時に小牧城が綺麗に見えました。1563年に織田信長が小牧山城を建築し居城としていますし、1584年には徳川家康が小牧長久手の戦いで自からの陣としたことで有名なところです。
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高速道路に入ってしばらくする尾バスの左側を飛行機が横切っていきました。一瞬えっと思いましたが、小牧基地に着陸する機体だったのだと分かりました。航空自衛隊の第404飛行隊のKC-767、コールサイン「COBBY」が2機見えました。
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そして名古屋城が見えてくると名古屋市内に入ります。
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帰りはオアシス21のバス停で降りることにしました。そこからぶらぶら歩いて広小路通りから大津通りに入ります。街灯のデザイン画名古屋っぽいなと思ったのでテレビ塔を入れて1枚。
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大和屋守口漬総本家の本店の前も通過しました。今年の春に池袋で仕事をさせてもらったので、ここでも記念に写真を1枚。
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名古屋といえば松坂屋ですね。百貨店に入ると仕事を思い出すので絶対に入りません。
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そしてこの日の晩ご飯は「山本屋総本家」で味噌煮込みうどんにしました。妻は「山本屋本店」だと思っていたらしく「前に来たのと店が違う。」と言っていますが、こちらは初めてなのでどちらでも構いません。
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調べてみると「山本屋総本家」が味噌煮込みうどんとしては古い店のようです。どちらにしろオアシス21から歩いてこれる本店であればよかったのです。
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ビールを飲んでしばらくすると味噌煮込みうどんがやってきました。妻が卵入りがいいというので親子煮込みうどんにしました。うどんはこの土鍋の蓋に乗せて食べるので蓋には空気抜きの穴が開いていません。
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開けた瞬間大盛りにすればよかったなと思いました。うどんの硬さに驚きましたが、濃厚な味噌味がたまりません。頂き物の味噌煮込みうどんは食べたことがありますが、やっぱり名古屋で食べるのは気分が違います。
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妻は広告代理店につてもていた頃に何度か名古屋には来ているので、ひつまぶしも味噌煮込みうどんも食べたことがありました。旅行の前まで黙っていました。
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妻に習ってご飯を追加でいただきました。少し硬くなった卵を乗せて、濃厚な味噌のお出汁と一緒にいただくと最高でした。
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長い1日が終わりました。翌日はもう1度犬山に行って城下町と犬山城を見学して東京に帰る予定でした。本当はこの日に木曽川鵜飼の会社から電話が無いので諦めていました。ところが翌日嬉しい誤算があり、旅は面白い方に転がっていきます。
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