犬山旅行記(ブログ) 一覧に戻る
名古屋市内の見学は1週間前と昨日で終わり、この日は明治村へ行くことにしていました。梅雨明け前の梅雨前線の発達と線状降水帯の発生など天候が荒れていましたが、変更できる日程もありません。ホテルで朝食をとった後は名鉄バスセンターの窓口で明治村と往復バスのセットになったチケットを購入しました。50年前の大阪万博の帰りに明治村へ行くときも同じバスルートだったので、その足跡をたどりたいと思いました。ただ、直通だと思っていたバスは小牧市内をぐるぐる回るので思ったより時間がかかりました。明治村の見学は5時間ほどしかないので、まずは目的であるフランク・ロイド・ライトの設計した帝国ホテルの見学を真っ先にすることにしました。このために池袋にある自由学園「明日館」の見学もしておきましたから外すわけにはいきません。その後は入口に戻るように見学を進めますが、川瀬巴水の版画になっている「新大橋」を見つけたり、NHKのドラマ「坂の上の雲」のロケに使われた建物を見つけたり、思っていたのと違う楽しさもありました。ただ、小学生の時に来たときに感じていたより敷地が広大になっていて1日では全部見学出来ないなと諦めに近い思いも感じました。

大平洋フェリー創立50周年3船乗り比べツアーと名古屋の旅(14)50年振りに行った明治村で58年振りの帝国ホテルと再会する。

13いいね!

2021/07/04 - 2021/07/04

594位(同エリア1339件中)

kojikoji

kojikojiさん

名古屋市内の見学は1週間前と昨日で終わり、この日は明治村へ行くことにしていました。梅雨明け前の梅雨前線の発達と線状降水帯の発生など天候が荒れていましたが、変更できる日程もありません。ホテルで朝食をとった後は名鉄バスセンターの窓口で明治村と往復バスのセットになったチケットを購入しました。50年前の大阪万博の帰りに明治村へ行くときも同じバスルートだったので、その足跡をたどりたいと思いました。ただ、直通だと思っていたバスは小牧市内をぐるぐる回るので思ったより時間がかかりました。明治村の見学は5時間ほどしかないので、まずは目的であるフランク・ロイド・ライトの設計した帝国ホテルの見学を真っ先にすることにしました。このために池袋にある自由学園「明日館」の見学もしておきましたから外すわけにはいきません。その後は入口に戻るように見学を進めますが、川瀬巴水の版画になっている「新大橋」を見つけたり、NHKのドラマ「坂の上の雲」のロケに使われた建物を見つけたり、思っていたのと違う楽しさもありました。ただ、小学生の時に来たときに感じていたより敷地が広大になっていて1日では全部見学出来ないなと諦めに近い思いも感じました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
4.5
グルメ
4.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
15万円 - 20万円
交通手段
高速・路線バス タクシー 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 1週間のフェリー旅から戻った翌日は犬山の明治村へ行く予定にしていました。朝から天気が気になりますが、なんとか持ちこたえています。

    1週間のフェリー旅から戻った翌日は犬山の明治村へ行く予定にしていました。朝から天気が気になりますが、なんとか持ちこたえています。

  • ただ、テレビの天気予報ではお昼前から夜まで梅雨前線の影響で雨のようです。これでは翌日の犬山の木曽川の鵜飼は開催されないだろうなと感じました。雨が上がっても川の増水は続くでしょうから。

    ただ、テレビの天気予報ではお昼前から夜まで梅雨前線の影響で雨のようです。これでは翌日の犬山の木曽川の鵜飼は開催されないだろうなと感じました。雨が上がっても川の増水は続くでしょうから。

  • 朝食をとった後は名鉄バスセンターに向かって、往復のバスチケットと入場券のセットを購入します。

    朝食をとった後は名鉄バスセンターに向かって、往復のバスチケットと入場券のセットを購入します。

  • 1週間前にフェリーターミナルへ向かったバスの待合室で、今度は明治村行きのバスを待ちます。

    1週間前にフェリーターミナルへ向かったバスの待合室で、今度は明治村行きのバスを待ちます。

  • 明治村行きのバスはこれ1本だけなので乗り遅れるわけにはいきません。名鉄とバスに乗り換えていく方法もありますが、面倒なのでこのルートにしました。

    明治村行きのバスはこれ1本だけなので乗り遅れるわけにはいきません。名鉄とバスに乗り換えていく方法もありますが、面倒なのでこのルートにしました。

  • 日曜日なので混んでいたらと心配しましたが、バスセンターから乗車したのは6人くらいでした。このバスは明治村まで直通かと思っていましたが、小牧辺りを巡回する路線バスのようです。

    日曜日なので混んでいたらと心配しましたが、バスセンターから乗車したのは6人くらいでした。このバスは明治村まで直通かと思っていましたが、小牧辺りを巡回する路線バスのようです。

  • 50年前の大阪万博の帰りに立ち寄った名古屋で犬山城と明治村にも行きましたが、この名鉄バスセンターから行ったことが残された写真から分かっていました。

    50年前の大阪万博の帰りに立ち寄った名古屋で犬山城と明治村にも行きましたが、この名鉄バスセンターから行ったことが残された写真から分かっていました。

  • 明治村行きのバスはこんな具合にガラガラでした。

    明治村行きのバスはこんな具合にガラガラでした。

  • 市内を出る前にオアシス21の地下のバスターミナルにも停まりました。ここから乗車したのはおばさんが2人だけでした。

    市内を出る前にオアシス21の地下のバスターミナルにも停まりました。ここから乗車したのはおばさんが2人だけでした。

  • 名古屋市内から高速に入ると車窓の左に名古屋城が見えました。

    名古屋市内から高速に入ると車窓の左に名古屋城が見えました。

  • 小牧市に入るとメナード美術館の前を通過しました。美術館の存在は知っていましたが、ここにあるとは思いませんでしたのでびっくりしました。ここに収蔵されているギュスターヴ・モローの「サロメの舞踏」やジェームズ・アンソールの「仮面の中の自画像」と「オルガンに向かうアンソール」、その他印象派以降の西洋絵画に良いものがあるのでいつか行ってみたいとは思っていました。今日は泣く泣く通過するだけです。

    小牧市に入るとメナード美術館の前を通過しました。美術館の存在は知っていましたが、ここにあるとは思いませんでしたのでびっくりしました。ここに収蔵されているギュスターヴ・モローの「サロメの舞踏」やジェームズ・アンソールの「仮面の中の自画像」と「オルガンに向かうアンソール」、その他印象派以降の西洋絵画に良いものがあるのでいつか行ってみたいとは思っていました。今日は泣く泣く通過するだけです。

  • いろいろなところを周るので明治村には午前11時10分の到着でした。これでは電車とバスを乗り継いでも到着時間は変わらなかったかもしれません。

    いろいろなところを周るので明治村には午前11時10分の到着でした。これでは電車とバスを乗り継いでも到着時間は変わらなかったかもしれません。

  • 現在「博物館明治村」の正門として使われているこの門は、名古屋の旧制第八高等学校の正門だったものです。50年前に来たときは小学3年生だったのでこの門のことはよく覚えていました。

    現在「博物館明治村」の正門として使われているこの門は、名古屋の旧制第八高等学校の正門だったものです。50年前に来たときは小学3年生だったのでこの門のことはよく覚えていました。

  • ここまでのバスは空いていましたが園内にはたくさんの人がいました。どうやら「明治探偵GAME」というイベントで、謎解きしながら園内を周る若い人の姿が多かったです。日曜日なので多少の混雑は想定していましたが、イベントのことまでは考えていませんでした。

    ここまでのバスは空いていましたが園内にはたくさんの人がいました。どうやら「明治探偵GAME」というイベントで、謎解きしながら園内を周る若い人の姿が多かったです。日曜日なので多少の混雑は想定していましたが、イベントのことまでは考えていませんでした。

  • まずはバスに乗って園内の一番奥の帝国ホテルまで向かう事にします。50年前に来たときはここまで広くなかったように思ったので、建物のガイドをしている女性に尋ねると、建物が増えるにつれてエリアの数も増えているようですとのことでした。

    まずはバスに乗って園内の一番奥の帝国ホテルまで向かう事にします。50年前に来たときはここまで広くなかったように思ったので、建物のガイドをしている女性に尋ねると、建物が増えるにつれてエリアの数も増えているようですとのことでした。

  • この建物はアメリカ人の建築家フランク・ロイド・ライトによって設計され、大正12年の1923年から4年間の工事の後に完成した帝国ホテルの中央玄関部です。

    この建物はアメリカ人の建築家フランク・ロイド・ライトによって設計され、大正12年の1923年から4年間の工事の後に完成した帝国ホテルの中央玄関部です。

  • このファサードと再会するのは実に58年振りのことでした。当時2歳なので全く記憶には残っていませんが、京都へ帰る祖母の見送りで両親と弟と一緒に行ったことが古い写真から分かりました。

    このファサードと再会するのは実に58年振りのことでした。当時2歳なので全く記憶には残っていませんが、京都へ帰る祖母の見送りで両親と弟と一緒に行ったことが古い写真から分かりました。

  • 明治村に移築された写真はよく見掛けますが、元々の場所の写真は意外に見ることは少ないです。記録では11月下旬なので、クリスマスツリーが立っていたり、「警笛禁止」の看板が時代を感じさせます。そして現在はない「帝国ホテル」と「IMPERIAL HOTEL」の看板の文字も見えます。

    明治村に移築された写真はよく見掛けますが、元々の場所の写真は意外に見ることは少ないです。記録では11月下旬なので、クリスマスツリーが立っていたり、「警笛禁止」の看板が時代を感じさせます。そして現在はない「帝国ホテル」と「IMPERIAL HOTEL」の看板の文字も見えます。

  • フランク・ロイド・ライトは屋根を低く抑えた建物が地面に水平に伸び広がる自らの設計手法をプレーリースタイル(草原様式)と呼びましたが、東京の日比谷に建っていた時より明治村に移築された後の方がその美しさを感じます。

    フランク・ロイド・ライトは屋根を低く抑えた建物が地面に水平に伸び広がる自らの設計手法をプレーリースタイル(草原様式)と呼びましたが、東京の日比谷に建っていた時より明治村に移築された後の方がその美しさを感じます。

  • ただ、鳥が羽ばたくように広がっていた両ウイングの建物が失われているのが残念です。

    ただ、鳥が羽ばたくように広がっていた両ウイングの建物が失われているのが残念です。

  • ライトの設計による2代目の帝国ホテルは披露される大正12年に関東大震災に被災しています。周囲の建物が倒壊したり火災に見舞われたにも関わらず、ほとんど無傷のままだったそうです。

    ライトの設計による2代目の帝国ホテルは披露される大正12年に関東大震災に被災しています。周囲の建物が倒壊したり火災に見舞われたにも関わらず、ほとんど無傷のままだったそうです。

  • 現在も残るファサードの池の水が防火水槽の役目を果たしたと聞いたことがあります。

    現在も残るファサードの池の水が防火水槽の役目を果たしたと聞いたことがあります。

  • この中央玄関は建物の特色をよく遺していて、軒や手摺りの白い大谷石の帯が水平線を強調し、その帯が奥へ幾段にも重なって内部空間の複雑さを予想させます。大谷石には幾何学模様の彫刻を施してレンガには櫛目を入れて、柔らかで華麗な外観を構成しています。

    この中央玄関は建物の特色をよく遺していて、軒や手摺りの白い大谷石の帯が水平線を強調し、その帯が奥へ幾段にも重なって内部空間の複雑さを予想させます。大谷石には幾何学模様の彫刻を施してレンガには櫛目を入れて、柔らかで華麗な外観を構成しています。

  • 古い写真と見比べると池の周囲に植えられている植栽も当時のものに合わせているように思えました。

    古い写真と見比べると池の周囲に植えられている植栽も当時のものに合わせているように思えました。

  • 複雑な鉄筋コンクリートの躯体を大谷石とレンガで覆っているとは思えない造形です。移築に当たっては風化の著しい大谷石に代えてプレキャストコンクリートなどの新建材も使ったそうです。

    複雑な鉄筋コンクリートの躯体を大谷石とレンガで覆っているとは思えない造形です。移築に当たっては風化の著しい大谷石に代えてプレキャストコンクリートなどの新建材も使ったそうです。

  • 大谷石は栃木県の宇都宮で産出されたもので、レンガは愛知県の常滑市に設けた帝国ホテル専用の製作所で造られたそうです。レンガのデザインは当時の職人とライトの間で技術的なこだわりがあったとなんでも鑑定団で見たことがあります。

    大谷石は栃木県の宇都宮で産出されたもので、レンガは愛知県の常滑市に設けた帝国ホテル専用の製作所で造られたそうです。レンガのデザインは当時の職人とライトの間で技術的なこだわりがあったとなんでも鑑定団で見たことがあります。

  • 今回の明治村の帝国ホテルを見学する前に池袋にある「明月館」の建築を見学して、職員の方の講義も聞いてきました。それはとても勉強になり、今回の見学にも役立ちました。<br />池袋「明月館」のライト建築の旅行記<br />https://4travel.jp/travelogue/11698193

    今回の明治村の帝国ホテルを見学する前に池袋にある「明月館」の建築を見学して、職員の方の講義も聞いてきました。それはとても勉強になり、今回の見学にも役立ちました。
    池袋「明月館」のライト建築の旅行記
    https://4travel.jp/travelogue/11698193

  • 自由学園の「明月館」をライトに依頼した羽仁吉一ともと子を取り持ったのが遠藤新(えんどう あらた)で、共にクリスチャンであったそうです。そして帝国ホテルと並行して自由学園の設計を行ったそうです。仕事を請け負った理由の1つがライトの叔母の運営する「ヒルサイドホームスクール」の教育理念と羽仁夫妻の教育理念が似通っていたことがあるそうです。

    自由学園の「明月館」をライトに依頼した羽仁吉一ともと子を取り持ったのが遠藤新(えんどう あらた)で、共にクリスチャンであったそうです。そして帝国ホテルと並行して自由学園の設計を行ったそうです。仕事を請け負った理由の1つがライトの叔母の運営する「ヒルサイドホームスクール」の教育理念と羽仁夫妻の教育理念が似通っていたことがあるそうです。

  • エントランスの扉を入ると、最初に感じるのは異常に天井高さが低いという事です。圧迫されるような気持ちになってきます。この低く抑えられた空間から解放する空間演出は日本の建築手法を取り入れていると言われます。

    エントランスの扉を入ると、最初に感じるのは異常に天井高さが低いという事です。圧迫されるような気持ちになってきます。この低く抑えられた空間から解放する空間演出は日本の建築手法を取り入れていると言われます。

  • 階段の下からロビーを見上げて、その圧迫されるような感じを確かめてみます。正面にはフランク・ロイド・ライトの写真パネルが飾られています。

    階段の下からロビーを見上げて、その圧迫されるような感じを確かめてみます。正面にはフランク・ロイド・ライトの写真パネルが飾られています。

  • 昭和30年代を感じさせる公衆電話の扉です。ガラスに手描きされた金の文字と縁取りの黒が懐かしく感じます。もうこんなレタリングが出来る職人さんも少ないでしょうね。現在はカッティングシートの切り文字や出力シートの文字に変わり、簡単に出力できてしまいます。

    昭和30年代を感じさせる公衆電話の扉です。ガラスに手描きされた金の文字と縁取りの黒が懐かしく感じます。もうこんなレタリングが出来る職人さんも少ないでしょうね。現在はカッティングシートの切り文字や出力シートの文字に変わり、簡単に出力できてしまいます。

  • 左手にはフロントのカウンターがありました。この当時の帝国ホテルは270室ありましたが、こんな小さなカウンターで賄えるだろうかと思いました。

    左手にはフロントのカウンターがありました。この当時の帝国ホテルは270室ありましたが、こんな小さなカウンターで賄えるだろうかと思いました。

  • 初代の帝国ホテルの総支配人だった林愛作は旧知のアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトに新館設計の相談を重ね、大正5年の1916年に契約を結んでいます。翌年にライトは来日し、3年後の9月に着工します。ライトは使用する石材から調度品に使う木材の選定に至るまで、徹底した管理体制でこれに臨んだそうです。

    初代の帝国ホテルの総支配人だった林愛作は旧知のアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトに新館設計の相談を重ね、大正5年の1916年に契約を結んでいます。翌年にライトは来日し、3年後の9月に着工します。ライトは使用する石材から調度品に使う木材の選定に至るまで、徹底した管理体制でこれに臨んだそうです。

  • 建物は10のブロックをエキスパンションで繋ぎ合わせた構造になっており、これで建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊があっても全体には累を及ぼさない仕組みにし、大規模ホテルとしては世界で初めて全館にスチーム暖房を採用するなど、耐震と防火に配慮した設計でした。

    建物は10のブロックをエキスパンションで繋ぎ合わせた構造になっており、これで建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊があっても全体には累を及ぼさない仕組みにし、大規模ホテルとしては世界で初めて全館にスチーム暖房を採用するなど、耐震と防火に配慮した設計でした。

  • こうした完璧主義は大幅な予算オーバーを引き起こします。ライトはアメリカでの仕事のため度々帰国しながら施工の総指揮を続けていましたが、大正11年4月に隣接する初代帝国ホテルが失火から全焼すると、新館の早期完成は経営上の急務となります。設計の変更を繰り返すライトと経営陣との衝突は避けられなくなり、さらに当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がるに至って、林は総支配人を引責辞任させられ、ライト自身も精魂を注いだこのホテルの完成を見ることなく離日します。自由学園の職員の方の説明では現在の価値で150億の予算が900億円までになったそうです。

    こうした完璧主義は大幅な予算オーバーを引き起こします。ライトはアメリカでの仕事のため度々帰国しながら施工の総指揮を続けていましたが、大正11年4月に隣接する初代帝国ホテルが失火から全焼すると、新館の早期完成は経営上の急務となります。設計の変更を繰り返すライトと経営陣との衝突は避けられなくなり、さらに当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がるに至って、林は総支配人を引責辞任させられ、ライト自身も精魂を注いだこのホテルの完成を見ることなく離日します。自由学園の職員の方の説明では現在の価値で150億の予算が900億円までになったそうです。

  • ライトの好んだスキップフロアの美しさを感じさせます。また、「明月館」でも同じですが、天井に照明器具は設置されていません。差し込む外光の光と影の美しさと、光を閉じ込めた柱の美しさが際立ちます。

    ライトの好んだスキップフロアの美しさを感じさせます。また、「明月館」でも同じですが、天井に照明器具は設置されていません。差し込む外光の光と影の美しさと、光を閉じ込めた柱の美しさが際立ちます。

  • 谷崎潤一郎が「陰影礼賛」で当時の西洋近代化に邁進していた日本の生活形態の変化の中で失われていく日本人の美意識や趣味生活について心情を綴ったのは昭和8年ですから、17年も前にライトは実践していたのだなと感じます。

    谷崎潤一郎が「陰影礼賛」で当時の西洋近代化に邁進していた日本の生活形態の変化の中で失われていく日本人の美意識や趣味生活について心情を綴ったのは昭和8年ですから、17年も前にライトは実践していたのだなと感じます。

  • 設計を解任されたライトの後は日本における一番弟子だった遠藤新の指揮のもと続けられました。1年後の大正12年の1923年7月に本館は完成します。9月1日に落成記念披露宴が開かれることになっていましたが、関東大震災が東京を襲ったのは、まさに宴の準備に大忙しの時だったそうです。

    設計を解任されたライトの後は日本における一番弟子だった遠藤新の指揮のもと続けられました。1年後の大正12年の1923年7月に本館は完成します。9月1日に落成記念披露宴が開かれることになっていましたが、関東大震災が東京を襲ったのは、まさに宴の準備に大忙しの時だったそうです。

  • 震災にも太平洋戦争の空襲にも耐えたホテルの本館は地盤沈下などの影響で柱が傾き、雨漏りがするといった老朽化の問題もさることながら、都心の1等地を占有する巨大な建造物の客室数がわずか270室では話にならなく解体されることになります。

    震災にも太平洋戦争の空襲にも耐えたホテルの本館は地盤沈下などの影響で柱が傾き、雨漏りがするといった老朽化の問題もさることながら、都心の1等地を占有する巨大な建造物の客室数がわずか270室では話にならなく解体されることになります。

  • 昭和42年の1967年にライトの本館は閉鎖されて翌年春頃までに取り壊されました。跡地に建設された近代的外観の新しい本館は、昭和45年の1970年に開催された日本万国博覧会開会に合せて竣工しています。

    昭和42年の1967年にライトの本館は閉鎖されて翌年春頃までに取り壊されました。跡地に建設された近代的外観の新しい本館は、昭和45年の1970年に開催された日本万国博覧会開会に合せて竣工しています。

  • そして解体後十数年かけてこの明治村にファサード部分が移築されています。子供の頃に行ったのが昭和38年で、その4年後に解体され、明治村に行ったのが万博の帰りなので、その当時はここに存在しなかったわけです。

    そして解体後十数年かけてこの明治村にファサード部分が移築されています。子供の頃に行ったのが昭和38年で、その4年後に解体され、明治村に行ったのが万博の帰りなので、その当時はここに存在しなかったわけです。

  • メインロビー中央には3階までの吹き抜きがあり、中央玄関内の全ての空間はこの吹き抜きの廻りに展開しています。その個々の空間は床の高さや天井の高さがそれぞれに異なっていて、左右の廻り階段を昇る毎に劇的な空間が現れます。

    メインロビー中央には3階までの吹き抜きがあり、中央玄関内の全ての空間はこの吹き抜きの廻りに展開しています。その個々の空間は床の高さや天井の高さがそれぞれに異なっていて、左右の廻り階段を昇る毎に劇的な空間が現れます。

  • 以前1週間ほどかけてアンコールやその周辺の遺跡のレリーフを見て回ったことがありますが、その時のことを思い出させます。宗教的なモチーフはありませんが、この大谷石とレンガの組み合わせがフランク・ロイド・ライト教のモチーフかもしれません。

    以前1週間ほどかけてアンコールやその周辺の遺跡のレリーフを見て回ったことがありますが、その時のことを思い出させます。宗教的なモチーフはありませんが、この大谷石とレンガの組み合わせがフランク・ロイド・ライト教のモチーフかもしれません。

  • 明治村の入口周辺にはイベントのためのたくさんの参加者がいましたが、帝国ホテルはそのイベントに含まれていないのか、そういった人たちは見掛けませんでした。

    明治村の入口周辺にはイベントのためのたくさんの参加者がいましたが、帝国ホテルはそのイベントに含まれていないのか、そういった人たちは見掛けませんでした。

  • 2階のカフェにも寄りたかったのですが、お昼前に回れるだけ建物を見学しないとならないので諦めました。子供の頃の印象で来てしまいましたが、明治村の敷地は何倍にもなっているように思えました。

    2階のカフェにも寄りたかったのですが、お昼前に回れるだけ建物を見学しないとならないので諦めました。子供の頃の印象で来てしまいましたが、明治村の敷地は何倍にもなっているように思えました。

  • フランク・ロイド・ライトとは全く関係ありませんが、この建物が出来た十年ほど後に上高地にも帝国ホテルが建てられます。現在の建物は高橋貞太郎による開業当初の外観を忠実に再現しながら昭和52年の1977年に新築されています。その雰囲気を思い出し、東京に戻ったら行ってみようということになりました。

    フランク・ロイド・ライトとは全く関係ありませんが、この建物が出来た十年ほど後に上高地にも帝国ホテルが建てられます。現在の建物は高橋貞太郎による開業当初の外観を忠実に再現しながら昭和52年の1977年に新築されています。その雰囲気を思い出し、東京に戻ったら行ってみようということになりました。

  • 池袋の「明月館」でも同じですが、ライトのデザインした窓枠やステンドグラスは縦横直角の平行線の組み合わせと1種類の車線で構成されています。ここでは45度という角度だけが使われています。

    池袋の「明月館」でも同じですが、ライトのデザインした窓枠やステンドグラスは縦横直角の平行線の組み合わせと1種類の車線で構成されています。ここでは45度という角度だけが使われています。

  • ここに展示された窓はアメリカのあった建物のデザインのようです。

    ここに展示された窓はアメリカのあった建物のデザインのようです。

  • ここでは2種類の斜線が使われています。「明月館」ではこの斜線が屋根の勾配など全てのディティールに至るまで踏襲されていました。

    ここでは2種類の斜線が使われています。「明月館」ではこの斜線が屋根の勾配など全てのディティールに至るまで踏襲されていました。

  • アメリカでもライトの設計した建物のいくつかは解体されて、一部が美術館に再現されているようです。

    アメリカでもライトの設計した建物のいくつかは解体されて、一部が美術館に再現されているようです。

  • 帝国ホテルの窓のデザインは意外にシンプルでした。

    帝国ホテルの窓のデザインは意外にシンプルでした。

  • バリアフリーなんて全く意識していない設計ですが、ほんの数段の段差が気分を子供にさせ、隠れたくなるような不思議な気分にさせます。

    バリアフリーなんて全く意識していない設計ですが、ほんの数段の段差が気分を子供にさせ、隠れたくなるような不思議な気分にさせます。

  • もう妻がどこへ行ってしまったのかも気にならずに、迷い込むように廊下を歩き回って写真を撮っていました。スリランカにあるジェフリー・バワの設計したホテルと別荘と事務所と自宅を全て周った時のような気分になれました。

    もう妻がどこへ行ってしまったのかも気にならずに、迷い込むように廊下を歩き回って写真を撮っていました。スリランカにあるジェフリー・バワの設計したホテルと別荘と事務所と自宅を全て周った時のような気分になれました。

  • この雰囲気は「明月館」を思い出させます。ちなみに帝国ホテルの建設には900万円の費用が掛かっていますが、「明月館」は6,000円で出来たそうです。そのからくりとして、帝国ホテルで余った材料の端材などが使われたそうです。

    この雰囲気は「明月館」を思い出させます。ちなみに帝国ホテルの建設には900万円の費用が掛かっていますが、「明月館」は6,000円で出来たそうです。そのからくりとして、帝国ホテルで余った材料の端材などが使われたそうです。

  • 2階のカフェの天井も圧迫感のある低さです。シンメトリに置かれたボウル型のプランターを見ているとフランク・ロイド・ライトの設計もアール・デコ様式なんだなと感じます。

    2階のカフェの天井も圧迫感のある低さです。シンメトリに置かれたボウル型のプランターを見ているとフランク・ロイド・ライトの設計もアール・デコ様式なんだなと感じます。

  • 見学中に他の見学者の方が少なくて良かったです。時間がない中で写真を数多く撮りたかったからです。

    見学中に他の見学者の方が少なくて良かったです。時間がない中で写真を数多く撮りたかったからです。

  • フランク・ロイド・ライトの建築デザインにはマヤ文明の遺跡を思わせるものがありますが、この帝国ホテルのデザインと双璧をなすのがロサンゼルスにあるエニスハウスという大邸宅だと思います。

    フランク・ロイド・ライトの建築デザインにはマヤ文明の遺跡を思わせるものがありますが、この帝国ホテルのデザインと双璧をなすのがロサンゼルスにあるエニスハウスという大邸宅だと思います。

  • ハリソン・フォード主演の40年近く前の映画に「ブレード・ランナー」がありますが、個人的には大好きな映画で100回くらいは見ていると思います。その中で主人公のデッカードが済んでいる建物という設定でエニスハウスが出てきます。

    ハリソン・フォード主演の40年近く前の映画に「ブレード・ランナー」がありますが、個人的には大好きな映画で100回くらいは見ていると思います。その中で主人公のデッカードが済んでいる建物という設定でエニスハウスが出てきます。

  • 理由もなく別々に惹かれていたものが、あるタイミングで共通する理由が分かった時は大きな謎が解けたような気になることがあります。

    理由もなく別々に惹かれていたものが、あるタイミングで共通する理由が分かった時は大きな謎が解けたような気になることがあります。

  • 余談ですが、このエニスハウスは映画「ブラックレイン」では若山富三郎演じる大親分の家にもなっていますし、「ツイン・ピークス」のロケ地としても使われています。

    余談ですが、このエニスハウスは映画「ブラックレイン」では若山富三郎演じる大親分の家にもなっていますし、「ツイン・ピークス」のロケ地としても使われています。

  • そう考えると夜の帝国ホテルの見学もしてみたくなります。毎年8月には営業時間が午後9時まで延長される時期があるようなので次の機械があれば行ってみたいと思います。

    そう考えると夜の帝国ホテルの見学もしてみたくなります。毎年8月には営業時間が午後9時まで延長される時期があるようなので次の機械があれば行ってみたいと思います。

  • ライトの提唱するプレイリースタイルは、アメリカの大草原に建つ家とはどういう建物であるべきかということを模索した末に生まれた建築様式です。草原と空と地平線など自然の景観と馴染ませるために建物の高さを抑えつつ、地を這うような佇まいが特長です。軒を深く出すことで水平ラインを強調させて家の中と外をつなぎ、自然と一体化させるよう設計されています。そう考えると白くフラットな天井は空に見えてきます。

    ライトの提唱するプレイリースタイルは、アメリカの大草原に建つ家とはどういう建物であるべきかということを模索した末に生まれた建築様式です。草原と空と地平線など自然の景観と馴染ませるために建物の高さを抑えつつ、地を這うような佇まいが特長です。軒を深く出すことで水平ラインを強調させて家の中と外をつなぎ、自然と一体化させるよう設計されています。そう考えると白くフラットな天井は空に見えてきます。

  • 当時の帝国ホテルで使用された食器はフランク・ロイド・ライトによりデザインされ、ノリタケの前身である日本陶器合名会社が製造しました。この食器は建物が閉鎖されるまで使われたそうです。

    当時の帝国ホテルで使用された食器はフランク・ロイド・ライトによりデザインされ、ノリタケの前身である日本陶器合名会社が製造しました。この食器は建物が閉鎖されるまで使われたそうです。

  • 現在のノリタケでも復刻版が製造されていて、買うことが出来ます。これらの陶器を含め名古屋駅の近くにある「ノリタケの森」の展示室は素晴らしい作品がたくさんありました。

    現在のノリタケでも復刻版が製造されていて、買うことが出来ます。これらの陶器を含め名古屋駅の近くにある「ノリタケの森」の展示室は素晴らしい作品がたくさんありました。

  • こんな和風柄の食器も使われていたのでしょうか?

    こんな和風柄の食器も使われていたのでしょうか?

  • レストランのテーブルセッティングも再現されていました。椅子のデザインがライトのものだと分かりますが、机の上に並んだノリタケらしいプレートやカップ、ソルト・ペッパーミルが実家にあったものと同じなのに驚きました。

    レストランのテーブルセッティングも再現されていました。椅子のデザインがライトのものだと分かりますが、机の上に並んだノリタケらしいプレートやカップ、ソルト・ペッパーミルが実家にあったものと同じなのに驚きました。

  • この日は明治村に着いてからは小雨が降ったり止んだりでしたが、小雨のお陰でしっとりした雰囲気が味わえました。重厚な建物の庇は実際にはデザインされた開口ばかりでその役目をはたしていないように思えます。ただ、雨は建物を伝わずに地面に落ちています。姫路城などに見られる雨樋の代わりの滴水瓦のような合理性を感じます。おかげで無粋な雨樋が無くて済みます。

    この日は明治村に着いてからは小雨が降ったり止んだりでしたが、小雨のお陰でしっとりした雰囲気が味わえました。重厚な建物の庇は実際にはデザインされた開口ばかりでその役目をはたしていないように思えます。ただ、雨は建物を伝わずに地面に落ちています。姫路城などに見られる雨樋の代わりの滴水瓦のような合理性を感じます。おかげで無粋な雨樋が無くて済みます。

  • 最後に正面から写真を撮って明治村の5丁目の建物の見学に移ります。こんなペースでは帰りのバスの時間までに見学が終らないので、興味のある建物だけに絞ることにします。

    最後に正面から写真を撮って明治村の5丁目の建物の見学に移ります。こんなペースでは帰りのバスの時間までに見学が終らないので、興味のある建物だけに絞ることにします。

  • とは言え、こんな風景の中に建つ建物を見てしまうと全部見たくなります。

    とは言え、こんな風景の中に建つ建物を見てしまうと全部見たくなります。

  • 「聖ザビエル天主堂」は見逃すわけにはいきませんが、敷地はあまりにも広大です。

    「聖ザビエル天主堂」は見逃すわけにはいきませんが、敷地はあまりにも広大です。

  • 「内閣文庫」は明治6年に赤坂離宮内に太政官文庫という名で開設された明治政府の中央図書館で、明治23年の内閣制度の制定とともに内閣文庫と改称され、昭和46年国立公文書館が設立されるまで、内外の古文書研究家に広く利用されました。

    「内閣文庫」は明治6年に赤坂離宮内に太政官文庫という名で開設された明治政府の中央図書館で、明治23年の内閣制度の制定とともに内閣文庫と改称され、昭和46年国立公文書館が設立されるまで、内外の古文書研究家に広く利用されました。

  • この建物は明治44年に皇居大手門内に新築された内閣文庫庁舎のうちの本館と事務棟です。本格的なルネッサンス様式のデザインで、明治のレンガと石造建築の教科書的作品です。特に正面中央には高さ7メートルほどの4本の円柱と2本の隅角柱が並び、巨大なぺディメントを受け、その姿は古代ギリシャ・ローマの神殿建築を思わせます。

    この建物は明治44年に皇居大手門内に新築された内閣文庫庁舎のうちの本館と事務棟です。本格的なルネッサンス様式のデザインで、明治のレンガと石造建築の教科書的作品です。特に正面中央には高さ7メートルほどの4本の円柱と2本の隅角柱が並び、巨大なぺディメントを受け、その姿は古代ギリシャ・ローマの神殿建築を思わせます。

  • 皇居正門の「石橋」は皇居前広場から皇居に通じる橋で、岡山産大島花崗岩造りの均整の取れた形とする1弧のアーチを2つ並べた眼鏡橋の形に設計されています。橋の両側の手すりの間に男柱が片側3本ずつ計6本あり、それぞれの男柱石の上に「青銅鋳造飾電燈」が計6基が設置されています。

    皇居正門の「石橋」は皇居前広場から皇居に通じる橋で、岡山産大島花崗岩造りの均整の取れた形とする1弧のアーチを2つ並べた眼鏡橋の形に設計されています。橋の両側の手すりの間に男柱が片側3本ずつ計6本あり、それぞれの男柱石の上に「青銅鋳造飾電燈」が計6基が設置されています。

  • 青銅鋳造飾電燈は昭和61年に鋳型を取って新しく鋳造されたものと交換され、取り外されたもののうち1基が明治村に払い下げられたそうです。現在のものより明治20年に設置されて、歴史を見守ってきたこちらの方が価値があるように思えます。

    青銅鋳造飾電燈は昭和61年に鋳型を取って新しく鋳造されたものと交換され、取り外されたもののうち1基が明治村に払い下げられたそうです。現在のものより明治20年に設置されて、歴史を見守ってきたこちらの方が価値があるように思えます。

  • 「川崎銀行本店」こ<br />の建物は日本橋のシンボルとして永く人々に親しまれてきましたが、昭和61年ビル立て替えのため取り壊され、正面左側角の外壁部分が明治村へ移築されています。日本橋に建て替えられた新ビルは旧建物の中央玄関部分や柱のキャピタル部分などを保存再利用し、旧建物の面影を活かしたポストモダンなデザインとなっています。

    「川崎銀行本店」こ
    の建物は日本橋のシンボルとして永く人々に親しまれてきましたが、昭和61年ビル立て替えのため取り壊され、正面左側角の外壁部分が明治村へ移築されています。日本橋に建て替えられた新ビルは旧建物の中央玄関部分や柱のキャピタル部分などを保存再利用し、旧建物の面影を活かしたポストモダンなデザインとなっています。

  • 日本国内の明治期の建築の多くは取り壊されていますし、韓国では憎悪の対象とされて破壊されています。旧満州であった中国東北部の旅順や大連、長春(旧奉天)や哈爾濱を旅するとその当時の日本による建築が現在も保存されています。そういった部分を見ると同じ隣国でも違いを感じます。

    日本国内の明治期の建築の多くは取り壊されていますし、韓国では憎悪の対象とされて破壊されています。旧満州であった中国東北部の旅順や大連、長春(旧奉天)や哈爾濱を旅するとその当時の日本による建築が現在も保存されています。そういった部分を見ると同じ隣国でも違いを感じます。

  • 「新大橋」<br />隅田川に架けられた橋は上流から順に吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋で、明治の五大橋と言われました。新大橋は明治45年に五大橋の最後の橋として日本橋浜町と深川安宅町の間に架けられました。設計監理には東京市の技術陣が当たりましたが、鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われています。

    「新大橋」
    隅田川に架けられた橋は上流から順に吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋で、明治の五大橋と言われました。新大橋は明治45年に五大橋の最後の橋として日本橋浜町と深川安宅町の間に架けられました。設計監理には東京市の技術陣が当たりましたが、鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われています。

  • 竣工後間もなく橋を渡って市電が開通し、橋の役目は一層高まりますが大正12年の関東大震災の折には、他の鉄橋が落ちる中でこの新大橋だけが残り、避難の道として多数の人命を救ったそうです。

    竣工後間もなく橋を渡って市電が開通し、橋の役目は一層高まりますが大正12年の関東大震災の折には、他の鉄橋が落ちる中でこの新大橋だけが残り、避難の道として多数の人命を救ったそうです。

  • この橋を眺めていてどこかで見たことがあると思い、家に帰って調べてみると思った通り川瀬巴水の版画「東京二十景 新大橋」でした。川瀬巴水は関東大震災の火災で多くのスケッチを失い一時失意の底に沈みますが、その後この作品を含め多くの版画を残しています。

    この橋を眺めていてどこかで見たことがあると思い、家に帰って調べてみると思った通り川瀬巴水の版画「東京二十景 新大橋」でした。川瀬巴水は関東大震災の火災で多くのスケッチを失い一時失意の底に沈みますが、その後この作品を含め多くの版画を残しています。

  • 硬い印象のトラスと対照的に、まわりには繊細な装飾が見られ、歩道の高欄の細かい鉄材を組み合わせたデザインは曲線を多用したアールヌーボーを感じさせます。また、橋の両たもとに置かれた白い花崗岩製の袖高欄と親柱も程良いアクセントとなっています。

    硬い印象のトラスと対照的に、まわりには繊細な装飾が見られ、歩道の高欄の細かい鉄材を組み合わせたデザインは曲線を多用したアールヌーボーを感じさせます。また、橋の両たもとに置かれた白い花崗岩製の袖高欄と親柱も程良いアクセントとなっています。

  • 金沢監獄へ向かう途中でもう一度帝国ホテルのファサードが見えました。背後の森と一体化している姿は、日比谷にあるよりここの方が建物にとって幸せだろうなと感じました。

    金沢監獄へ向かう途中でもう一度帝国ホテルのファサードが見えました。背後の森と一体化している姿は、日比谷にあるよりここの方が建物にとって幸せだろうなと感じました。

  • 「金澤監獄」は八角形の中央看守所を中心に、左右及び正面奥と左右斜め奥に5つの舎房が放射状に配され、移築復原に当たっては正門と中央看守所、第5舎房の一部だけが遺されています。当時の洋式監獄の形を十分にうかがうことができました。

    「金澤監獄」は八角形の中央看守所を中心に、左右及び正面奥と左右斜め奥に5つの舎房が放射状に配され、移築復原に当たっては正門と中央看守所、第5舎房の一部だけが遺されています。当時の洋式監獄の形を十分にうかがうことができました。

  • 明治期に竣工された5つの監獄を「明治五大監獄」と呼び、1901年に建築がスタートした旧奈良監獄を皮切りに、「長崎監獄」「金沢監獄」「千葉監獄」「鹿児島監獄」が竣工します。

    明治期に竣工された5つの監獄を「明治五大監獄」と呼び、1901年に建築がスタートした旧奈良監獄を皮切りに、「長崎監獄」「金沢監獄」「千葉監獄」「鹿児島監獄」が竣工します。

  • 「明治五大監獄」のすべてはジョン・ハビランドの「ハビランド・システム」を取り入れています。1825年にフィラデルフィアのイースタン州立刑務所の設計において、このシステムを確立させたと言われています。監守が立つ監視所を全体の中心に据え、複数の収容棟が放射状に伸びています。この放射状の構造により、監視所に立つ看守の目は常に全方位の収容棟に行き届くようになっています。

    「明治五大監獄」のすべてはジョン・ハビランドの「ハビランド・システム」を取り入れています。1825年にフィラデルフィアのイースタン州立刑務所の設計において、このシステムを確立させたと言われています。監守が立つ監視所を全体の中心に据え、複数の収容棟が放射状に伸びています。この放射状の構造により、監視所に立つ看守の目は常に全方位の収容棟に行き届くようになっています。

  • このシステムを知ったのは旅順郊外にある「日露監獄旧蹟博物館」を見学した時のことでした。

    このシステムを知ったのは旅順郊外にある「日露監獄旧蹟博物館」を見学した時のことでした。

  • 独房の中も人形を置いて再現されていました。我が家は朝ご飯が無いので、明治の監獄以下かもしれません。食事にはラップが掛けられてあるのでレンチン出来たのでしょう。

    独房の中も人形を置いて再現されていました。我が家は朝ご飯が無いので、明治の監獄以下かもしれません。食事にはラップが掛けられてあるのでレンチン出来たのでしょう。

  • 見学者が囚人になって写真が撮れる部屋もいくつかありましたが、コロナのために中止になっていました。一瞬やってみたいと思いましたが、長年保護司を務めた母に申し訳ないなと思いました。

    見学者が囚人になって写真が撮れる部屋もいくつかありましたが、コロナのために中止になっていました。一瞬やってみたいと思いましたが、長年保護司を務めた母に申し訳ないなと思いました。

  • 「宮津裁判所法廷」<br />古来日本では裁判所を行政官庁から独立させる思想はなく、むしろ行政官庁が同時に裁判所でもあることが原則となっていましたが、明治元年の政体書の中で太政官の権力を立法と行政と司法の三権に分離し、司法権を掌る刑法官を設けたのを端緒として、司法権の独立へと向かうことになります。

    「宮津裁判所法廷」
    古来日本では裁判所を行政官庁から独立させる思想はなく、むしろ行政官庁が同時に裁判所でもあることが原則となっていましたが、明治元年の政体書の中で太政官の権力を立法と行政と司法の三権に分離し、司法権を掌る刑法官を設けたのを端緒として、司法権の独立へと向かうことになります。

  • 法廷を復元するに当たり明治村では人形を用いて当時の法廷風景の再現を図っています。この手法は他国の博物館では多く見られますが、非常に分かりやすいと思います。高い壇上に裁判官と検事、書記が座を占め、弁護士と被告人は下段に置かれているのは江戸時代の白洲のようにも見えます。

    法廷を復元するに当たり明治村では人形を用いて当時の法廷風景の再現を図っています。この手法は他国の博物館では多く見られますが、非常に分かりやすいと思います。高い壇上に裁判官と検事、書記が座を占め、弁護士と被告人は下段に置かれているのは江戸時代の白洲のようにも見えます。

  • 「高田小熊写真館」は豪雪地として知られ、日本のスキー発祥の地である越後高田の街なかに、明治41年に頃建てられた洋風木造2階建ての簡素な写真館です。2階がスタジオになっていますが、画家や彫刻家のアトリエのように、北側の屋根がガラス張りの窓になっています。

    「高田小熊写真館」は豪雪地として知られ、日本のスキー発祥の地である越後高田の街なかに、明治41年に頃建てられた洋風木造2階建ての簡素な写真館です。2階がスタジオになっていますが、画家や彫刻家のアトリエのように、北側の屋根がガラス張りの窓になっています。

  • ここもどこかで見たことがあると思っていたら、入口にあったキャプションで謎が解けました。NHKで放送された司馬遼太郎の「坂の上の雲」の第2回「星雲」で、大学予備門で野球に熱中した正岡子規(香川照之)がユニフォーム姿で写真を撮るシーンで使われています。

    ここもどこかで見たことがあると思っていたら、入口にあったキャプションで謎が解けました。NHKで放送された司馬遼太郎の「坂の上の雲」の第2回「星雲」で、大学予備門で野球に熱中した正岡子規(香川照之)がユニフォーム姿で写真を撮るシーンで使われています。

  • また、横須賀水雷団第二水雷艦隊付の辞令を受けた秋山真之(本木雅弘)が久しぶりに再会した広瀬武夫(藤本隆宏)と横須賀の写真館でふんどし姿で写真を撮る第5回「留学生」の回です。

    また、横須賀水雷団第二水雷艦隊付の辞令を受けた秋山真之(本木雅弘)が久しぶりに再会した広瀬武夫(藤本隆宏)と横須賀の写真館でふんどし姿で写真を撮る第5回「留学生」の回です。

  • 妻も「坂の上の雲」のドラマが好きで、3年間楽しみにしていました。そしてその最中に2人で大連と瀋陽と長春と哈爾濱の旧大和賓館のホテルを予約して、電車と夜行寝台を乗り継いで旧満州を旅しました。それなのに、そんなエピソードを見るでもなく隣のレストランへ向かってしまいます。

    妻も「坂の上の雲」のドラマが好きで、3年間楽しみにしていました。そしてその最中に2人で大連と瀋陽と長春と哈爾濱の旧大和賓館のホテルを予約して、電車と夜行寝台を乗り継いで旧満州を旅しました。それなのに、そんなエピソードを見るでもなく隣のレストランへ向かってしまいます。

  • 「明治の洋食屋 オムライス&グリル浪漫亭」でお昼にしました。コロナ禍で座席の制約もありましたが、ほぼ満席状態でした。まずは冷たいビールで喉を潤して、明治のカレーライスを注文しました。あまりに暑すぎて食欲減退です。

    「明治の洋食屋 オムライス&グリル浪漫亭」でお昼にしました。コロナ禍で座席の制約もありましたが、ほぼ満席状態でした。まずは冷たいビールで喉を潤して、明治のカレーライスを注文しました。あまりに暑すぎて食欲減退です。

  • 妻は名物のオムライスをしっかり食べていました。この店では数種類あるオムライスがおすすめのようです。食事中に雨が本降りになり枚s多が、食べ終わるころには小雨になっていました。

    妻は名物のオムライスをしっかり食べていました。この店では数種類あるオムライスがおすすめのようです。食事中に雨が本降りになり枚s多が、食べ終わるころには小雨になっていました。

  • 食事の後も園内をなるべく無駄のないように一筆書きで見学を続けます。まずはレストランの隣にある「菊の世酒蔵」の蔵から始めます。

    食事の後も園内をなるべく無駄のないように一筆書きで見学を続けます。まずはレストランの隣にある「菊の世酒蔵」の蔵から始めます。

  • 5つあるエリアのうちまだ1つも見終わっていません。

    5つあるエリアのうちまだ1つも見終わっていません。

  • 西洋館の多い明治村の中では珍しく和風瓦葺の蔵で、梁間9間(約16メートル)桁行18間(約33メートル)、外壁に厚い土壁を塗り廻した2階建部分と幅2間(約3.6メートル)の吹き放ちの庇部分からなります。明治28年に愛知県の刈谷にあった菊廣瀬酒造の仕込み蔵として建てられました。

    西洋館の多い明治村の中では珍しく和風瓦葺の蔵で、梁間9間(約16メートル)桁行18間(約33メートル)、外壁に厚い土壁を塗り廻した2階建部分と幅2間(約3.6メートル)の吹き放ちの庇部分からなります。明治28年に愛知県の刈谷にあった菊廣瀬酒造の仕込み蔵として建てられました。

  • 杉玉の飾りは元々は奈良県にある大神神社(おおみわ)の風習だったといわれています。大神神社では毎年11月14日になると「おいしいお酒ができるように」という願いを込めて杉玉を飾ってきました。その風習が江戸時代の初期頃から全国の酒蔵に広がったそうです。

    杉玉の飾りは元々は奈良県にある大神神社(おおみわ)の風習だったといわれています。大神神社では毎年11月14日になると「おいしいお酒ができるように」という願いを込めて杉玉を飾ってきました。その風習が江戸時代の初期頃から全国の酒蔵に広がったそうです。

  • 「菊の世」は2017年末をもって製造を引き継いでいた富久娘酒造が酒蔵を閉鎖しているので、現在は幻となってしまった日本酒です。

    「菊の世」は2017年末をもって製造を引き継いでいた富久娘酒造が酒蔵を閉鎖しているので、現在は幻となってしまった日本酒です。

  • 蔵の中は広いスペースがあるので酒造りに関わるいろいろな道具が展示してありました。

    蔵の中は広いスペースがあるので酒造りに関わるいろいろな道具が展示してありました。

  • 松島の瑞巌寺で見た大晦日だけに使う藁沓が頭に残っていたのか、甑(こしき)沓に目がとまりました。甑は強飯?(こわいい)?などを蒸すのに使った器のことなので、酒造用の大型の蒸し器の中にこの藁沓を履いて入ったのだろうかと想像してしまいます。

    松島の瑞巌寺で見た大晦日だけに使う藁沓が頭に残っていたのか、甑(こしき)沓に目がとまりました。甑は強飯?(こわいい)?などを蒸すのに使った器のことなので、酒造用の大型の蒸し器の中にこの藁沓を履いて入ったのだろうかと想像してしまいます。

  • 「聖ザビエル天主堂」までやってきました。この建物は現在の河原町通三条上ル(御池通下ル)の「カトリック河原町教会」のある場所に建っていたそうです。昭和42年までその場所にあったので、母や祖父母も見たことがったのかもしれません。

    「聖ザビエル天主堂」までやってきました。この建物は現在の河原町通三条上ル(御池通下ル)の「カトリック河原町教会」のある場所に建っていたそうです。昭和42年までその場所にあったので、母や祖父母も見たことがったのかもしれません。

  • 日本に渡来しキリスト教の伝道に努めた聖フランシスコ・ザビエルを記念して、明治23年にかつてザビエルがいたことのある京都の地に献堂されたカトリックの教会堂で、フランス人神父の監督の下に本国から取寄せた設計原案に基づき、日本人の手で造られたものです。

    日本に渡来しキリスト教の伝道に努めた聖フランシスコ・ザビエルを記念して、明治23年にかつてザビエルがいたことのある京都の地に献堂されたカトリックの教会堂で、フランス人神父の監督の下に本国から取寄せた設計原案に基づき、日本人の手で造られたものです。

  • 基本構造はレンガ造と木造との併用で、外周の壁をレンガ造で築き、内部の柱や小屋組等を木造で組み上げており、内外の壁は漆喰を塗って仕上げています。正面入口の上には直径3.6メートルを超える大きな薔薇窓が付けられ、切妻の頂点には十字架が掲げられています。

    基本構造はレンガ造と木造との併用で、外周の壁をレンガ造で築き、内部の柱や小屋組等を木造で組み上げており、内外の壁は漆喰を塗って仕上げています。正面入口の上には直径3.6メートルを超える大きな薔薇窓が付けられ、切妻の頂点には十字架が掲げられています。

  • 天主堂という呼び方は現在ではあまり使われず、教会という呼び方が一般的です。「天主」とは中国で使われていた言葉で神様のことを指します。宣教師達は中国で使われていたこの「天主」という言葉を使って、自分たちの新しい教え、神さまのことを布教したいと考えました。当時はまだカトリックという言い方は使われておらず、宗教法人としても天主教団という名称を使っていました。

    天主堂という呼び方は現在ではあまり使われず、教会という呼び方が一般的です。「天主」とは中国で使われていた言葉で神様のことを指します。宣教師達は中国で使われていたこの「天主」という言葉を使って、自分たちの新しい教え、神さまのことを布教したいと考えました。当時はまだカトリックという言い方は使われておらず、宗教法人としても天主教団という名称を使っていました。

  • 入口の欄間にも聖フランシスコ・ザビエルを記念する文言とMDCCCXC(1890年)が読み取れます。クワイヤのベンチに座っている方も見えますが、当然信者さんではなくて休憩している見学者の方です。

    入口の欄間にも聖フランシスコ・ザビエルを記念する文言とMDCCCXC(1890年)が読み取れます。クワイヤのベンチに座っている方も見えますが、当然信者さんではなくて休憩している見学者の方です。

  • 堂内は身廊と左右の側廊からなる三廊式で、前に玄関を張り出し、内陣の横には聖具室を配置しています。大アーケードとトリフォリウム、丸窓のあるクリアストーリーの3層からなる典型的なゴシック様式で、身廊上部には交差リブヴォールトが架けられ、その頂点には木彫のボスが飾られているのが分かります。

    堂内は身廊と左右の側廊からなる三廊式で、前に玄関を張り出し、内陣の横には聖具室を配置しています。大アーケードとトリフォリウム、丸窓のあるクリアストーリーの3層からなる典型的なゴシック様式で、身廊上部には交差リブヴォールトが架けられ、その頂点には木彫のボスが飾られているのが分かります。

  • 身廊の両側に並ぶ柱は軒まで達する太い角柱に幾本もの細い丸柱を付けた束ね柱になっていますが、この柱やリブ等は天井板を除く全ての木造部分は欅で作られ、落着いた光沢を持っています。

    身廊の両側に並ぶ柱は軒まで達する太い角柱に幾本もの細い丸柱を付けた束ね柱になっていますが、この柱やリブ等は天井板を除く全ての木造部分は欅で作られ、落着いた光沢を持っています。

  • 祭壇の中央には右手に十字架を掲げる聖フランシスコ・ザビエルの姿があります。

    祭壇の中央には右手に十字架を掲げる聖フランシスコ・ザビエルの姿があります。

  • 祭壇はアプス(後陣)と呼ばれ、教会堂の中では一番神聖で重要な部分です。

    祭壇はアプス(後陣)と呼ばれ、教会堂の中では一番神聖で重要な部分です。

  • 幼子イエスを抱き抱える戴冠した聖母マリアは緑色のマントを着ています。かなり昔のことですが、聖母マリアが晩年に住んだ家を見たくてトルコのエフェソス遺跡から足を伸ばしたことがあります。

    幼子イエスを抱き抱える戴冠した聖母マリアは緑色のマントを着ています。かなり昔のことですが、聖母マリアが晩年に住んだ家を見たくてトルコのエフェソス遺跡から足を伸ばしたことがあります。

  • アッシジの聖フランチェスコはその特徴的な髪形と茶色い衣をまとい、3つの結び目のある腰ひもは清貧と純潔と従順を表します。殉教者のしるしである棕櫚(しゅろ)の葉と足元の頭蓋骨もアトリビュートです。若い頃「ブラザー・サン・シスター・ムーン」という映画を観てアッシジにも行きましたし、フィレンツェの教会では教会に納められた聖衣を見て感動したことがあります。

    アッシジの聖フランチェスコはその特徴的な髪形と茶色い衣をまとい、3つの結び目のある腰ひもは清貧と純潔と従順を表します。殉教者のしるしである棕櫚(しゅろ)の葉と足元の頭蓋骨もアトリビュートです。若い頃「ブラザー・サン・シスター・ムーン」という映画を観てアッシジにも行きましたし、フィレンツェの教会では教会に納められた聖衣を見て感動したことがあります。

  • 洗礼者ヨハネはラクダ皮を革帯で巻いています。アトリビュートであるキリストを表す長い十字架と、足元には子羊が座っています。左手にはイエスを洗礼する時に使う貝を持っています。

    洗礼者ヨハネはラクダ皮を革帯で巻いています。アトリビュートであるキリストを表す長い十字架と、足元には子羊が座っています。左手にはイエスを洗礼する時に使う貝を持っています。

  • 大天使ミカエルは旧約聖書からユダヤ教、キリスト教、イスラム教へ引き継がれ、教派によって異なるが三大天使・四大天使・七大天使の1人であると考えられています。彼はそれらの宗教においてもっとも偉大な天使の1人であり、「熾天使」として位置づけられます。誰もいないモン・サン・ミッシェルで妻と2人で天空に立つその姿を見たことは忘れられない思い出です。

    大天使ミカエルは旧約聖書からユダヤ教、キリスト教、イスラム教へ引き継がれ、教派によって異なるが三大天使・四大天使・七大天使の1人であると考えられています。彼はそれらの宗教においてもっとも偉大な天使の1人であり、「熾天使」として位置づけられます。誰もいないモン・サン・ミッシェルで妻と2人で天空に立つその姿を見たことは忘れられない思い出です。

  • 聖フランシスコ・ザビエルの足跡をたどって、マカオとマラッカまでは行きましたが、いつかインドのゴアにあるボム・ジェズ教会を参拝してみたいと思っています。ローマのジェズ教会へは参拝しています。

    聖フランシスコ・ザビエルの足跡をたどって、マカオとマラッカまでは行きましたが、いつかインドのゴアにあるボム・ジェズ教会を参拝してみたいと思っています。ローマのジェズ教会へは参拝しています。

  • 養父ヨセフは幼子イエスを抱き抱える姿と、アトリビュートである花の咲いた杖からも読み取ることが出来ます。通常では若々しい聖母マリアに対して老人の姿で表現されますが、この像では若々しい姿です。

    養父ヨセフは幼子イエスを抱き抱える姿と、アトリビュートである花の咲いた杖からも読み取ることが出来ます。通常では若々しい聖母マリアに対して老人の姿で表現されますが、この像では若々しい姿です。

  • ペトロはガリラヤ湖で弟のアンデレと共に漁をしていて、イエスに声をかけられたことにより最初の弟子になります。イエスの受難においてペトロは剣を抜き、大祭司の僕マルコスの右耳を切り落としますが、その後イエスを3度否認したことが福音書に書かれています。皇帝ネロによるキリスト教徒迫害下で逆さ十字架にかけられ、伝承によれば紀元67年に殉教したとされます。アトリビュートは「天国の鍵」です。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の形は空から見ると鍵穴の形をしています。昔ペトロの足跡を追ってトルコのアンタクヤ(ハタイ)の洞窟教会や捕縛されてローマへ送られる途中で難破したマルタ島にも行きました。

    ペトロはガリラヤ湖で弟のアンデレと共に漁をしていて、イエスに声をかけられたことにより最初の弟子になります。イエスの受難においてペトロは剣を抜き、大祭司の僕マルコスの右耳を切り落としますが、その後イエスを3度否認したことが福音書に書かれています。皇帝ネロによるキリスト教徒迫害下で逆さ十字架にかけられ、伝承によれば紀元67年に殉教したとされます。アトリビュートは「天国の鍵」です。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の形は空から見ると鍵穴の形をしています。昔ペトロの足跡を追ってトルコのアンタクヤ(ハタイ)の洞窟教会や捕縛されてローマへ送られる途中で難破したマルタ島にも行きました。

  • 聖ステファノはイエスの死後最初の殉教者です。ある日ステファノはキリスト教を憎んでいる人々に「あいつは神殿を破壊しようとしている」と濡れ衣を着せられてしまいました。裁判に掛けられたステファノは人々に対して「ユダヤ人は今も昔も大きな過ちを犯している。救世主の命を奪い、神を裏切っている」と述べました。それに対してユダヤ人たちは大いに怒り、彼を石打ちの刑で殺してしまいました。彼が左手に石を持っているのはその理由からです。

    聖ステファノはイエスの死後最初の殉教者です。ある日ステファノはキリスト教を憎んでいる人々に「あいつは神殿を破壊しようとしている」と濡れ衣を着せられてしまいました。裁判に掛けられたステファノは人々に対して「ユダヤ人は今も昔も大きな過ちを犯している。救世主の命を奪い、神を裏切っている」と述べました。それに対してユダヤ人たちは大いに怒り、彼を石打ちの刑で殺してしまいました。彼が左手に石を持っているのはその理由からです。

  • イエス・キリストの姿はよく見ると左手と右手に磔刑の痕であるスティグマータ(聖痕)が見られます。左手の指さす茨を乗せた心臓は「イエスの聖心」と呼ばれ、聖寵と救済を意味します。

    イエス・キリストの姿はよく見ると左手と右手に磔刑の痕であるスティグマータ(聖痕)が見られます。左手の指さす茨を乗せた心臓は「イエスの聖心」と呼ばれ、聖寵と救済を意味します。

  • 薔薇窓(ローズ・ウインドウ)はゴシック様式の教会堂建築の大きな特徴の1つで、この窓は昭和48年に京都から移築する際に取り外したオリジナルです。この薔薇窓は本格的なステンドグラスの製造方法が日本に入る前のもので、ガラス絵の手法を用いて色ガラスに白ペンキで模様を描き、外側に透明ガラスを重ねて保護しています。中央から延びる12本の枠線は十二使徒を表しています。

    薔薇窓(ローズ・ウインドウ)はゴシック様式の教会堂建築の大きな特徴の1つで、この窓は昭和48年に京都から移築する際に取り外したオリジナルです。この薔薇窓は本格的なステンドグラスの製造方法が日本に入る前のもので、ガラス絵の手法を用いて色ガラスに白ペンキで模様を描き、外側に透明ガラスを重ねて保護しています。中央から延びる12本の枠線は十二使徒を表しています。

  • この十字架も天主堂が京都にあった当時に建物正面に立っていたものです。1本の欅から全体を彫り出す丸彫りになっています。移築時に表面の劣化が進んでいたので福瀬下物を乗せたそうです。現在の十字架も明治村に移築されてから2代目のものだそうです。

    この十字架も天主堂が京都にあった当時に建物正面に立っていたものです。1本の欅から全体を彫り出す丸彫りになっています。移築時に表面の劣化が進んでいたので福瀬下物を乗せたそうです。現在の十字架も明治村に移築されてから2代目のものだそうです。

  • ようやく5丁目の見学が終って4丁目の「呉服座」に移ります。この芝居小屋は明治初年大阪府池田市の戎神社の近くに建てられて戎座と呼ばれていましたが、明治25年に同じ池田市の西本町猪名川の川岸に移され、名称も呉服座と改められました。ここでは地方巡業の歌舞伎や新派、落語、浪曲、講談、漫才等様々なものが演じられましたが尾崎行雄や幸徳秋水らが立憲政治や社会主義の演説会にも使っていることです。建物の中を見てみたいと思いましたが、実際に演劇が開催されているようで通過します。<br /><br />

    ようやく5丁目の見学が終って4丁目の「呉服座」に移ります。この芝居小屋は明治初年大阪府池田市の戎神社の近くに建てられて戎座と呼ばれていましたが、明治25年に同じ池田市の西本町猪名川の川岸に移され、名称も呉服座と改められました。ここでは地方巡業の歌舞伎や新派、落語、浪曲、講談、漫才等様々なものが演じられましたが尾崎行雄や幸徳秋水らが立憲政治や社会主義の演説会にも使っていることです。建物の中を見てみたいと思いましたが、実際に演劇が開催されているようで通過します。

  • 「半田東湯」<br />この東湯は知多半島の先の三河湾に面する港町亀崎にあったもので、小さな町にふさわしく間口3間のこじんまりとした銭湯です。明治の末頃に建ったと推定され、約半世紀にわたって営業しており、湯水を多く使う商売柄か建物の傷みや改変も少なくなかったようです。

    「半田東湯」
    この東湯は知多半島の先の三河湾に面する港町亀崎にあったもので、小さな町にふさわしく間口3間のこじんまりとした銭湯です。明治の末頃に建ったと推定され、約半世紀にわたって営業しており、湯水を多く使う商売柄か建物の傷みや改変も少なくなかったようです。

  • 「小泉八雲避暑の家」<br />「怪談」で有名な小泉八雲は本名をラフカディオ・ハーンといい、1850年に母の国ギリシャに生まれ、父の国アイルランドで教育を受け、のちにアメリカに渡って新聞記者などをする一方、翻訳や評論や創作等の面で文名を高めました。明治23年に来日し、英語教師として松江中学に赴任し、地元の小泉節子と結婚して明治29年に日本に帰化して小泉八雲と名のった。帝国大学に招聘されて東京に移り、帝大や早稲田大学で英文学を講じます。東京へ移った翌年から夏を焼津で過ごすようになり、その時に身を寄せていたのが、この魚屋の山口乙吉の家である。八雲には「乙吉の達磨」「焼津にて」など焼津を題材とした小説が残されています。

    「小泉八雲避暑の家」
    「怪談」で有名な小泉八雲は本名をラフカディオ・ハーンといい、1850年に母の国ギリシャに生まれ、父の国アイルランドで教育を受け、のちにアメリカに渡って新聞記者などをする一方、翻訳や評論や創作等の面で文名を高めました。明治23年に来日し、英語教師として松江中学に赴任し、地元の小泉節子と結婚して明治29年に日本に帰化して小泉八雲と名のった。帝国大学に招聘されて東京に移り、帝大や早稲田大学で英文学を講じます。東京へ移った翌年から夏を焼津で過ごすようになり、その時に身を寄せていたのが、この魚屋の山口乙吉の家である。八雲には「乙吉の達磨」「焼津にて」など焼津を題材とした小説が残されています。

  • 「本郷喜之床」<br />この家は東京本郷弓町2丁目17番地にあった新井家経営の理髪店喜之床で、2階2間は石川啄木が函館の友人である宮崎郁雨に預けていた母かつと妻節子、長女の京子を迎えて明治42年6月から東京ではじめて家族生活をした新居です。啄木はそこで文学生活をしながら京橋滝山町の東京朝日新聞社校正部に勤めていました。暴風雪の函館の立待岬で石川啄木一族の墓参をしたことを思い出しました。

    「本郷喜之床」
    この家は東京本郷弓町2丁目17番地にあった新井家経営の理髪店喜之床で、2階2間は石川啄木が函館の友人である宮崎郁雨に預けていた母かつと妻節子、長女の京子を迎えて明治42年6月から東京ではじめて家族生活をした新居です。啄木はそこで文学生活をしながら京橋滝山町の東京朝日新聞社校正部に勤めていました。暴風雪の函館の立待岬で石川啄木一族の墓参をしたことを思い出しました。

  • 「六郷川鉄橋」<br />明治5年に日本で初めて鉄道が開業された時に新橋と横浜間に造られた大小22の橋は全て木橋でした。イギリスから鉄材を輸入して組み立てていたのでは、間に合わないという理由でしたが、開通の後の複線化の計画と共に鉄橋への架け替えが進められます。明治10年11月に日本最初の複線用鉄橋としてこの橋が完成しました。

    「六郷川鉄橋」
    明治5年に日本で初めて鉄道が開業された時に新橋と横浜間に造られた大小22の橋は全て木橋でした。イギリスから鉄材を輸入して組み立てていたのでは、間に合わないという理由でしたが、開通の後の複線化の計画と共に鉄橋への架け替えが進められます。明治10年11月に日本最初の複線用鉄橋としてこの橋が完成しました。

  • 18世紀に始まった産業革命により鉄の大量生産が可能になると、橋にもこの優れた材料が使われるようになります。ほんの5日前に北海道の支笏湖畔で明治41年に王子製紙が千歳第一発電所を建設するための物資運搬用に苫小牧から王子軽便鉄道(通称山線)を走らせた際に架けた北海道で現存する最古の鉄橋を見てきたばかりなので興味深く感じます。明治村の見学はまだまだ続きます。

    18世紀に始まった産業革命により鉄の大量生産が可能になると、橋にもこの優れた材料が使われるようになります。ほんの5日前に北海道の支笏湖畔で明治41年に王子製紙が千歳第一発電所を建設するための物資運搬用に苫小牧から王子軽便鉄道(通称山線)を走らせた際に架けた北海道で現存する最古の鉄橋を見てきたばかりなので興味深く感じます。明治村の見学はまだまだ続きます。

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