2021/05/03 - 2021/05/03
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令和3年のゴールデンウィークに大分県の中津市を訪れた。過去に何度か訪れていたが、中津城にある復元された天守閣(奥平家歴史博物館)、福澤諭吉旧居、中津市歴史博物館の三施設を見学するのは初めてであった。
一日目はこれら三施設の見学に時間を費した。二日目は中津市内の中心部に残る中津城の遺構と寺院などをじっくり見て歩いた。
(2021.06.02作成開始)
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【二日目】
昼近くに外出する。中津耶馬渓観光協会で貰った地図などを参考にJR中津駅から反時計回りでかつての城下町を歩くことにする。
写真はJR線の高架の下の道。駅から少し西へ進んだところ。 -
少し先に南北に延びる新博多町アーケードがある。残念ながら昔の賑わいは見られないようだ。
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少し先で鉄道の高架線路をくぐって南側へ。上の写真の手前側が萱津(かいず)町。萱津の地名は14世紀にこの地を治めた領主の名に由来すると考えられている。
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前の写真の左側に安養寺がある。その墓地の外側にこの解説板が貼り付けられている。
黒沢庄右衛門という中津藩時代の著名な人物の墓があるとのことなので時間をかけて探してみた。しかし、どうしても発見出来なかった。
気になってネットで調べてみても、決定的な画像は今のところ発見出来ていない。 -
萱津町にある大江八幡宮。祭神は応神天皇・仁徳天皇・菟道稚郎子皇子。
天平勝宝年間(749~757年)、宇佐神宮から分霊を勧請したのが始まりという。幕末~明治時代の国学者・渡辺重春が執筆した豊前志には、境内前に大家川が流れ松や杉などが神々しく立つ美しい神社と記されている。
戦国時代、黒田官兵衛が中津城を築城する際に神域を縮小。また細川忠興が金谷堤を築き大家川を塞いだため、神域も景観も随分と変わってしまったという。
中津を代表する祭り・中津祇園は、もともとこの神社の祭礼だったが、1880年に中津公園内に中津神社が創建された際、踊車(山車)は中津神社に寄進され上祇園祭として巡行されるようになった。 -
ふたたび線路沿いに西へ進むと、鉄道のガードのすぐ北側にある金谷口に着いた。金谷口は外堀に囲まれた城内へ通じる六箇所あった木戸口の一つである(上の写真の奥が城内側)。
かつての中津城下町は外側全体を堀(外堀)と土塁でぐるりと囲む「総構(そうがまえ)」の構造であった。
堀の内側には「おかこい山」と呼ばれる土手を築き守りを強固にしていた。往時約2.4kmに及んだおかこい山の大半は失われたが、何箇所かにその一部が残っている。
ちなみに、前日に見学した南部小学校近くの「三ノ丁おかこい山」は中堀おかこい山の一部である。 -
ここではJRの線路沿いに西へ延びる「おかこい山」の一部(市指定史跡)を見ることが出来る(上の写真)。
城内の西側は広場となっていて、おかこい山についての解説板が設置されている。 -
金谷口の南へ。観光地図には「金谷武家屋敷跡」と記されている。建物は残っていないが写真のような細い路地が見られる。
金谷武家屋敷跡 名所・史跡
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金谷本町にある水島公園。中津出身の水島銕也(てつや、1864-1928)の生誕地である。
水島銕也は神戸高等商業学校(現在の神戸大学)の創設委員で初代校長。多くの実業家(出光興産の創業者出光佐三など)を育て、商業教育に尽力した。水島公園/水島銕也生誕の地 公園・植物園
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線路の南側を西へ進み山国川の土手に出る。しばらくは土手伝いに北上する。
鉄道の鉄橋を上りの特急列車が通過して行く。 -
高架の線路をくぐった先で少し東へ入ると、おかこい山で囲まれた旧城下町の南西角が見える。この角を中心にL字型に残るおかこい山は、最高部が5.3m。おかこい山の遺構として最も良い状態で残っている場所である。
この写真の線路沿いの奥のおかこい山が先ほど訪れた金谷口まで続いている。
写真の左手は広津口(渡守口)と呼ばれる城下町への入口まで続く。 -
広津口(渡守口)。左が城下町側。おかこい山の右下の小さな水路は外堀の名残である。かつては右の住宅が建っている部分も堀であった。
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広津口に立つ解説板の写真。おかこい山西側の外堀の規模がよく分かる。
写真中央の寺院が自性寺。このあと訪れる。 -
自性寺は奥平藩歴代の菩提寺。藩祖信昌公が三河新城にいた時、金剛山万松寺と称して創建。その後いく度か藩の転封に従い移り、享保2(1717)年6代藩主昌成公の時、中津に転封※。延享2(1745)年、自性寺と改称する。
※奥平氏が中津を領有したのは1717年~1869年(廃藩)。自性寺 寺・神社・教会
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自性寺の本堂と墓地。
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境内に立つ織部灯籠(キリシタン灯籠)。同じものを熊本県八代市や広島県三次市でも見たことがある。
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解説板。細川忠興の妻ガラシャ(明智光秀の娘、キリシタンとして有名)との関わりが興味深い。
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境内の奥にある奥平家墓所の入口。無料で見学できる。
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門扉の透かし。奥平家の家紋が彫られている。
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一番奥の大きな五輪塔は奥平家12代藩主(中津7代)昌猷(まさみち)公の墓。
江戸時代は参勤交代制度があったため中津で亡くなり葬儀を出した藩主はこの人だけ。 -
墓地の奥におかこい山がある。写真の中央左寄りの部分が先ほど外側から見た旧城下町の南西角である。
この自性寺周辺のおかこい山だけが県指定史跡。他の三箇所(昨日見た三ノ丁と今日見た金谷口ともう一箇所)は市指定史跡である。 -
ちょうど特急列車が通過した。おかこい山と線路の位置関係がよく分かる。
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自性寺を去るとき、境内の隅にたつ碑が目に入った。
田原淳(たわらすなお、1873~1952)。中津出身の著名人の一人。刺激伝導系の発見により心臓ペースメーカーの父として世界的に知られる医学博士である。 -
広津口へ戻り北上する。写真は小倉口。
中津城に入る6つの木戸口(城戸口)の一つ。小倉側に通じる橋が架かっていた。 -
西門跡。西門は内堀で囲まれた中津城の中心に至る南西角の入口である。
西門は櫓門であったとされ、門の前は桝形の構造をしている。 -
西門の石垣にはかつて「慶長12年9月」の文字が刻まれていた。
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西門の外側の石垣。見えている水路はかつての内堀の名残。さらに左へ行くと山国川の土手がある。
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西門を通って城の中心方向へしばらく進むと「汐湯」という銭湯が建っている。現在は営業していないようだ。
ここは明治29(1896)年創業の老舗で建物は元旅館。別室で食事を楽しむことも出来たようである。 -
汐湯の旅館風の建物の奥が水門跡。虎口の石垣が良い状態で残る。江戸時代には本丸の北側からだけではなく、この辺りからも内堀へ水が入り潮の干満で水が入れ替わっていたと推察されている。
この写真の右へ行く道は、昨日訪れた中津市歴史博物館と内堀との間につながっている。 -
中津市歴史博物館の前を通って現在の中津城跡の南側の入口の手前にある蓬莱園という施設の敷地に入る。
もとは明治15(1882)年に建てられた劇場「蓬莱観」があった。戦時中建物は取り壊しにあったが、戦後に現在の庭園として整備された。蓬莱園 公園・植物園
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新たに建てられた建物は現在カフェを営業しているが、通りに面した入口には「御自由にお入りください」との案内があった。
門をくぐって入ってみるが、庭園はかつてのようには整備されていないようで残念である。 -
この後は昨日訪れなかった城の本丸の南東に位置する黒門跡から大手門跡にかけての一帯を歩き回ってみた。
写真は南部小学校の敷地の北側に残る石垣(修復されたもの)。 -
校舎側。この石垣は大手門前の虎口を構成していた。
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南部小学校と通りを挟んだ向かいに建つ中津カトリック教会。昭和13(1938)年に建てられた。
中津カトリック教会 寺・神社・教会
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最後に中津城跡の西側の中津川の土手をぶらぶら歩いてみた。
上の写真は土手の内側に建っている汐湯(旅館風の建物)。旅館の客室風の造りがよく分かる。 -
写真中央の左手は汐湯の銭湯部分の建物だと考えられる。川側へ張り出した構造物を見ると、現在の土手が築かれる前は中津川の川原は建物の真下まで広がっていたと考えられる。
建物の奥は先ほど見た西門の外側の石垣に続く土塁であろう。 -
本丸の北寄りの西側に残る鉄門跡。この写真の中央部分は今はふさがれているが、かつては鉄板を用いた強固な門扉を持つ楼門があった。
中津城の絵図には、写真の手前に張り出した石垣の櫓台に城内でもっとも高い三層櫓が描かれている。天守閣があったとすればこの場所が最有力の候補地である。 -
北門橋を渡り中津川の左岸から中津城跡を眺める。写真の中央右寄りの建物(鉄門跡)のあたりに三層櫓の天守が建っていたとすれば、城の姿は現在とは大きく異なっていたであろう。
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中津城跡をあとにして東へ向かう。今日の観光の最後に中津駅と福澤諭吉旧居の間にある寺院群へ。
途中、一軒の商店前で見かけた標識。
後藤又兵衛は、黒田官兵衛に仕え「黒田二十四騎」に数えられる武将。「槍の又兵衛」の呼び名を持つ。
官兵衛亡き後、黒田家を出奔。のちに豊臣秀頼に仕え大坂夏の陣で討ち死にした。 -
南部小学校の敷地の南側の道を東へ進み、信号のある交差点で福沢通りを横切ると路地の奥に立派な門が見える(上の写真)。宝蓮坊(真宗大谷派の寺院)の楼門である。
このあたりは寺町と呼ばれる。中津城の総曲輪(そうくるわ)内の東側にあって城下防衛を目的に造られた町である。
黒田氏入封以前からの寺院のほか、黒田、細川、小笠原、奥平の各時代に開基された寺院を加え、計12の寺院がある。宝蓮坊 寺・神社・教会
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宝蓮坊は慶長5(1600)年、細川忠興が中津城に入封の際、行橋の浄喜寺の村上良慶を伴って中津浄喜寺を開基させた。これが後に宝蓮坊と改称された。
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観光地図に記された散策ルートは石畳の道として整備されている。
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松巌寺(しょうがんじ)。 臨済宗妙心寺派。
延宝6(1678)年、奥平家6代目の奥平昌章(まさあきら)の実父・五島淡路守盛勝の菩提を弔うため現在の栃木県宇都宮市に建立。実父の戒名が「松巌寺殿罷屋寿休大居士」であったことから「松巌寺」と名付けられた。松厳寺 寺・神社・教会
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享保2(1717)年、奥平氏の転封に伴い中津に移転したが、同19(1734)年の中津大火で焼失。
現在の本堂は文政11(1828)年に再建し、昭和63(1988)年に大改修を施したものである。
写真は本堂前。白砂が敷かれた庭が美しい。 -
少し先に朱色の壁が一際目立つ寺がある。合元寺(ごうがんじ)。浄土宗西山派。
通称「赤壁寺」と言われるこの寺は天正15(1587)年に黒田官兵衛が中津に入った際、官兵衛に従って姫路から中津に来た空誉上人(くうよしょうにん)が開山した。合元寺(赤壁寺) 寺・神社・教会
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写真は合元寺の山門。
黒田氏の中津入封直後、先祖伝来の中津の土地を守り続けてきた宇都宮一族(先祖は北関東出身)は黒田氏に反旗を翻したが、幾度もの激しい攻防が繰り広げられるも最後には降伏。 -
黒田氏は宇都宮鎮房を中津城内で討ち、その直後に合元寺で待機していた家臣を急襲した。不意を突かれた家臣たちは奮戦むなしくこの寺で最期を遂げたという。
この時、返り血を浴びた壁は、何度塗り替えても血痕が浮き出てしまうため、赤塗りにしたという伝説が残っている。
戦国末期のこうした血なまぐさいエピソードも、令和の今、穏やかなこの寺の佇まいを見ていると遠い昔の神話のように思われる。 -
円応寺(えんのうじ、 圓應寺)。浄土宗。
天正15(1587)年、黒田官兵衛の開基、 真誉見道(しんよけんどう)上人の開山で黒田、細川、小笠原と各藩主に守護された。
慶長5(1600)年、見道和尚は黒田氏に従って福岡に移り、同名の円応寺(現:福岡市中央区大手門)を開いた。円応寺 寺・神社・教会
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当寺の境内に河童の墓と呼ばれる五輪塔がある。『下毛郡誌』によると、この墓は宇都宮鎮房が誘殺されたとき、鎮房に一の太刀を浴びせた野村太郎兵衛祐勝の墓であるとされている。野村太郎兵衛は黒田24騎の一人である。
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河童の墓に関しては別の言い伝えもあり、境内に詳しい解説板が立っている。
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境内の奥にある河童の池。私が訪れたときは水が抜けて干上がっていた。
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この後、円応寺の東側の少し先にあるおかこい山の遺構を見に行った。
途中で東林寺(東林禅寺)という臨済宗妙心寺派の寺の前を通った。
解説板によると、承久元(1219)年、聖一国師の開山で中津最古の寺院であったが、大友勢の兵火で七堂伽藍が焼失。
享保2(1717)年、奥平昌成公の中津城入城とともに、中興の開祖、秀岩(しゅうがん)大禅師の精勤により法城の隆昌を果たした。
境内には天満社があったため菅原道真の画像や縁起の軸物が残っている。また、流浪の俳人種田山頭火の句碑も建っている。 -
「山頭火の句碑」の文言に惹かれて境内に立ち寄る。
昭和13(1938)年3月15日、種田山頭火は中津の木村宇平宅を訪ねている。その時詠んだ句である。
あなたを待つとてまんまるい月の -
最後に昨日から四箇所目となるおかこい山を見に行った。
上の写真のフェンスの奥は水が流れる細い溝となっている。中津城の外堀の名残である。 -
今日見た金谷口と自性寺境内にあるおかこい山と比べると規模は小さい。
【了】
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