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令和3年4月下旬、広島県北部の三次(みよし)市に滞在した。私はかなり昔に三次市内にある宿泊施設に滞在し心地よい日々を過ごした。懐かしい思い出の土地である。<br />三次市へ行く前にいろいろ調べてみたところ、毛利元就の本拠地であった吉田郡山城跡※(現在の安芸高田市)を三次市から日帰りで訪れることが可能であることが分かった。<br />レンタカーやタクシーを使わないと交通の便が悪いことは覚悟をした上で、三次滞在の二日目に一日がかりで吉田郡山城を訪れることにした。<br /><br />※現在地元では「郡山城」との呼称の方がポピュラーなようである。この旅行記では本文中で「郡山城」に表記を統一する。<br />(2021.04.29作成開始)

毛利氏の本拠地・吉田郡山城跡を訪れる

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2021/04/24 - 2021/04/24

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旅行記グループ 令和二年〜三年 城巡りの旅

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この旅行記のスケジュール

2021/04/24

この旅行記スケジュールを元に

令和3年4月下旬、広島県北部の三次(みよし)市に滞在した。私はかなり昔に三次市内にある宿泊施設に滞在し心地よい日々を過ごした。懐かしい思い出の土地である。
三次市へ行く前にいろいろ調べてみたところ、毛利元就の本拠地であった吉田郡山城跡※(現在の安芸高田市)を三次市から日帰りで訪れることが可能であることが分かった。
レンタカーやタクシーを使わないと交通の便が悪いことは覚悟をした上で、三次滞在の二日目に一日がかりで吉田郡山城を訪れることにした。

※現在地元では「郡山城」との呼称の方がポピュラーなようである。この旅行記では本文中で「郡山城」に表記を統一する。
(2021.04.29作成開始)

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  • 広島県三次(みよし)市内で宿泊したホテル。午前05時00分に起床する。<br />ホテルの自室で昨日のうちに用意しておいたパンで手早く食事を済ます。<br />06時55分に出かける。ゆっくり歩いてJR三次駅へ向かう。

    広島県三次(みよし)市内で宿泊したホテル。午前05時00分に起床する。
    ホテルの自室で昨日のうちに用意しておいたパンで手早く食事を済ます。
    06時55分に出かける。ゆっくり歩いてJR三次駅へ向かう。

    三次駅

  • 三次駅を07時21分に発つ芸備線の広島行き列車に乗る。土曜日のまだ早朝である。車内は空いている。

    三次駅を07時21分に発つ芸備線の広島行き列車に乗る。土曜日のまだ早朝である。車内は空いている。

  • 定刻の07時49分に郡山城に最も近い吉田口駅に着く。駅員のいない小さな無人駅である。

    定刻の07時49分に郡山城に最も近い吉田口駅に着く。駅員のいない小さな無人駅である。

    吉田口駅

  • わずかな待ち時間で郡山城跡の登山口に近い場所へ行くバスに乗る。吉田口駅のバス停からの発車予定時刻は07時56分。1分くらいの遅れで到着した。<br />ちなみに、この日の朝かなり早く三次を発ったのはこのバスに乗り遅れると次のバスまで相当時間が空いてしまうためである。

    わずかな待ち時間で郡山城跡の登山口に近い場所へ行くバスに乗る。吉田口駅のバス停からの発車予定時刻は07時56分。1分くらいの遅れで到着した。
    ちなみに、この日の朝かなり早く三次を発ったのはこのバスに乗り遅れると次のバスまで相当時間が空いてしまうためである。

  • 08時10分、安芸高田市役所前のバス停で下車。写真は市役所の庁舎である。

    08時10分、安芸高田市役所前のバス停で下車。写真は市役所の庁舎である。

  • この日の訪問前にGoogle Mapの地図を事前にチェックし、郡山城跡のある郡山への登山口が歴史民俗博物館の裏手にあることを知った。バス停からそちらへ向けて歩いて行く。<br /><br />手前の交差点の右側奥にある山の中腹に何やら白いサインのようなものが目につく。<br />毛利氏の家紋である「一文字に三つ星(一文字三星)」であることは言うまでもない。<br /><br />これから郡山城跡へ向かう私を招いているようにも見える。<br />カモ~ン!

    この日の訪問前にGoogle Mapの地図を事前にチェックし、郡山城跡のある郡山への登山口が歴史民俗博物館の裏手にあることを知った。バス停からそちらへ向けて歩いて行く。

    手前の交差点の右側奥にある山の中腹に何やら白いサインのようなものが目につく。
    毛利氏の家紋である「一文字に三つ星(一文字三星)」であることは言うまでもない。

    これから郡山城跡へ向かう私を招いているようにも見える。
    カモ~ン!

  • ちなみに前の写真のサインが設置されているのは上の図(現地に設置されている案内板)の中心より少し右下の「展望台」と記されている場所。この後私も訪れる。<br />サインの見える山が郡山城跡の中心である。

    ちなみに前の写真のサインが設置されているのは上の図(現地に設置されている案内板)の中心より少し右下の「展望台」と記されている場所。この後私も訪れる。
    サインの見える山が郡山城跡の中心である。

  • しばらく歩くと安芸高田市歴史民俗博物館の前に出た。<br />開館は午前09時00分。それまでまだ30分以上ある。

    しばらく歩くと安芸高田市歴史民俗博物館の前に出た。
    開館は午前09時00分。それまでまだ30分以上ある。

    安芸高田市歴史民俗博物館 美術館・博物館

  • 敷地の隅にポストが立っている。何だか登山カードを入れるポストにも似ている。<br />中に郡山城跡の詳しい案内地図が入れられている(次の写真)。

    敷地の隅にポストが立っている。何だか登山カードを入れるポストにも似ている。
    中に郡山城跡の詳しい案内地図が入れられている(次の写真)。

  • 地図にモデルとなるルートが示されていて参考になる。<br />この地図が入手できたので、博物館の開館を待たず先に郡山城跡のある山を登ることにした。

    地図にモデルとなるルートが示されていて参考になる。
    この地図が入手できたので、博物館の開館を待たず先に郡山城跡のある山を登ることにした。

  • 08時30分に登り始める。正面に見えている山が郡山城跡である。

    08時30分に登り始める。正面に見えている山が郡山城跡である。

  • しばらく歩いて行くと道路の右手に「毛利公居館御里屋敷跡」と記された石柱が立っている。<br />毛利元就の時代、郡山城の麓のこの場所に領主が暮らす居館が建っていたと考えられている(異説もある)。現在は旧安芸高田少年自然の家(現在は廃館のようである)の敷地内である。

    しばらく歩いて行くと道路の右手に「毛利公居館御里屋敷跡」と記された石柱が立っている。
    毛利元就の時代、郡山城の麓のこの場所に領主が暮らす居館が建っていたと考えられている(異説もある)。現在は旧安芸高田少年自然の家(現在は廃館のようである)の敷地内である。

  • 同じ敷地の隅に毛利元就公像が建てられている。<br />甲府駅前にある有名な武田信玄公像と少し似ている印象である。

    同じ敷地の隅に毛利元就公像が建てられている。
    甲府駅前にある有名な武田信玄公像と少し似ている印象である。

  • 毛利元就像の前で記念撮影。

    毛利元就像の前で記念撮影。

  • すぐ近くの道路に「史跡郡山城阯(址)」の碑が立っている。

    すぐ近くの道路に「史跡郡山城阯(址)」の碑が立っている。

    郡山城跡(広島県安芸高田市) 名所・史跡

  • 傍らの解説板。<br />戦国武将・毛利元就の居城として知られる郡山城は、吉田盆地を見渡す可愛(絵の)川と多治比川の合流点の北側に築かれ、戦国期最大級(東西1.1km、南北0.9km)の山城である。<br />昭和15(1940)年8月、「毛利氏城跡郡山城跡」として国の史跡に指定された。<br />現在は郡山城跡の北西に位置する多治比猿掛城跡※とともに「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されている。<br />※元就が父弘元に連れられて郡山城から移り住んだ城跡。元就はここで27歳まで過ごしている。

    傍らの解説板。
    戦国武将・毛利元就の居城として知られる郡山城は、吉田盆地を見渡す可愛(絵の)川と多治比川の合流点の北側に築かれ、戦国期最大級(東西1.1km、南北0.9km)の山城である。
    昭和15(1940)年8月、「毛利氏城跡郡山城跡」として国の史跡に指定された。
    現在は郡山城跡の北西に位置する多治比猿掛城跡※とともに「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されている。
    ※元就が父弘元に連れられて郡山城から移り住んだ城跡。元就はここで27歳まで過ごしている。

  • 少し登った先から山の上へかけての一帯は公園のように整備されている。<br />その一番手前の左側に毛利元就公の火葬場跡と伝えられている場所があり、石碑と解説板が建てられている。1571年6月、元就公は城の麓にある御里屋敷で逝去した。享年75歳。<br />

    少し登った先から山の上へかけての一帯は公園のように整備されている。
    その一番手前の左側に毛利元就公の火葬場跡と伝えられている場所があり、石碑と解説板が建てられている。1571年6月、元就公は城の麓にある御里屋敷で逝去した。享年75歳。

  • 毛利元就公の火葬場跡の右側には山の上から流れ下る大通院谷川を護岸したものがあり、その両岸が公園のように整備されている。

    毛利元就公の火葬場跡の右側には山の上から流れ下る大通院谷川を護岸したものがあり、その両岸が公園のように整備されている。

  • ここは郡山城の西端部にあたり、谷川の砂防工事にともなう発掘調査で約100mもの薬研堀※、石塁をともなう屋敷跡など戦国期の遺構や、郡山築城以前の旧石器時代からの遺物が大量に出土した。大通院谷遺跡と呼ばれている。<br />出土品は、この日城跡の見学を終えたあと訪れた安芸高田市歴史民俗博物館で展示されている。<br />※堀の形状の一つで、薬研のように断面がV字形になっているもの。

    ここは郡山城の西端部にあたり、谷川の砂防工事にともなう発掘調査で約100mもの薬研堀※、石塁をともなう屋敷跡など戦国期の遺構や、郡山築城以前の旧石器時代からの遺物が大量に出土した。大通院谷遺跡と呼ばれている。
    出土品は、この日城跡の見学を終えたあと訪れた安芸高田市歴史民俗博物館で展示されている。
    ※堀の形状の一つで、薬研のように断面がV字形になっているもの。

  • 薬研堀の遺構らしき水路が谷の奥まで延びている。

    薬研堀の遺構らしき水路が谷の奥まで延びている。

  • 手元の詳細な地図を見ると、現在郡山城跡のある山へ登るルートは二つある。一つはバス停から来る途中目にした展望台の下から展望台を経由する急登のルート。<br />もう一つが上の写真の車が停まっている場所から左に入った地点からの比較的緩やかな尾根伝いの登りルートである。<br /><br />薬研堀遺構と大通院谷遺跡はこの写真の場所からさらに奥へ続く。郡山城跡の西端にあるこの大規模な薬研堀は、城の西側の防御施設として重要なものであったことが伺える。

    手元の詳細な地図を見ると、現在郡山城跡のある山へ登るルートは二つある。一つはバス停から来る途中目にした展望台の下から展望台を経由する急登のルート。
    もう一つが上の写真の車が停まっている場所から左に入った地点からの比較的緩やかな尾根伝いの登りルートである。

    薬研堀遺構と大通院谷遺跡はこの写真の場所からさらに奥へ続く。郡山城跡の西端にあるこの大規模な薬研堀は、城の西側の防御施設として重要なものであったことが伺える。

  • 前の写真の車の向かい側に見えている解説板。<br />毛利元就の時代に郡山城を舞台にした唯一の大きな戦いが1540年9月から翌年1月にかけての郡山合戦である。<br />元就が毛利家の当主となり入城した時の郡山城は、南東の端にある「本城」と呼ばれた小さな尾根上が城の中心であった。<br />元就時代に郡山(城跡のある山)全山の城郭化が進められた。<br />

    前の写真の車の向かい側に見えている解説板。
    毛利元就の時代に郡山城を舞台にした唯一の大きな戦いが1540年9月から翌年1月にかけての郡山合戦である。
    元就が毛利家の当主となり入城した時の郡山城は、南東の端にある「本城」と呼ばれた小さな尾根上が城の中心であった。
    元就時代に郡山(城跡のある山)全山の城郭化が進められた。

  • 天文9(1540)年尼子詮久(あきひさ、のちの晴久)の大軍が郡山城へ侵攻した。<br />尼子詮久軍は多治比川を挟んで郡山城の正面に位置する光井山と青山(上の写真、右が光井山)に陣を敷き本格的な山城(陣城※)を築いた。<br />※ 戦場で臨時の城を造ること。<br /><br />解説板の説明と照らし合わせながら正面の山をじっくり眺める。はるか昔の合戦の模様がわずかであるが脳裏に浮かび、感無量である。

    天文9(1540)年尼子詮久(あきひさ、のちの晴久)の大軍が郡山城へ侵攻した。
    尼子詮久軍は多治比川を挟んで郡山城の正面に位置する光井山と青山(上の写真、右が光井山)に陣を敷き本格的な山城(陣城※)を築いた。
    ※ 戦場で臨時の城を造ること。

    解説板の説明と照らし合わせながら正面の山をじっくり眺める。はるか昔の合戦の模様がわずかであるが脳裏に浮かび、感無量である。

  • 少し古い案内板の地図。地図の中のPが3枚前の写真の車が停まっている位置。<br />道は二つの方向に延びている。毛利隆元公の墓所へ往復してから左上の登山口へ行くことにする。

    少し古い案内板の地図。地図の中のPが3枚前の写真の車が停まっている位置。
    道は二つの方向に延びている。毛利隆元公の墓所へ往復してから左上の登山口へ行くことにする。

  • 右手の道は家紋のサインが設置されている展望台へ至るもう一つの登山口へ続く。

    右手の道は家紋のサインが設置されている展望台へ至るもう一つの登山口へ続く。

  • 毛利隆元公の墓所。墓石の背後に土が盛られている。

    毛利隆元公の墓所。墓石の背後に土が盛られている。

  • 毛利元就の長男として生まれた隆元は元就が亡くなる8年前に41歳の若さで亡くなった。

    毛利元就の長男として生まれた隆元は元就が亡くなる8年前に41歳の若さで亡くなった。

  • 駐車場まで引き返し、いよいよ郡山の登山口へ進む。入口には石の鳥居が立っている。

    駐車場まで引き返し、いよいよ郡山の登山口へ進む。入口には石の鳥居が立っている。

  • なだらかな道をしばらく歩くと、毛利元就公の墓所が見えて来た。

    なだらかな道をしばらく歩くと、毛利元就公の墓所が見えて来た。

  • その手前の平らな土地に「洞春寺跡」の碑が建てられている。<br />ここは郡山城跡のある郡山の西側の尾根とさらに西の尾根に挟まれた谷間の一番奥で山の麓にあたる。<br />郡山城とは、さきほど見た薬研堀により隔てられている。<br />郡山城の中心へ至る尾根伝いの緩やかな登山道が毛利元就の墓所の裏を通っているため、戦国期には薬研堀によってこの地への敵の侵入が阻まれていた。

    その手前の平らな土地に「洞春寺跡」の碑が建てられている。
    ここは郡山城跡のある郡山の西側の尾根とさらに西の尾根に挟まれた谷間の一番奥で山の麓にあたる。
    郡山城とは、さきほど見た薬研堀により隔てられている。
    郡山城の中心へ至る尾根伝いの緩やかな登山道が毛利元就の墓所の裏を通っているため、戦国期には薬研堀によってこの地への敵の侵入が阻まれていた。

  • 毛利元就の菩提を弔うため天正元(1573)年に創建。現在は山口市内に移転している。

    毛利元就の菩提を弔うため天正元(1573)年に創建。現在は山口市内に移転している。

  • 毛利元就公の墓所。<br />逆光のため全体を写真に収めるのが困難である。石柱の背後に大きな木が生えている。<br />石塀の前へ行き合掌外する。

    毛利元就公の墓所。
    逆光のため全体を写真に収めるのが困難である。石柱の背後に大きな木が生えている。
    石塀の前へ行き合掌外する。

    毛利元就の墓 名所・史跡

  • 元就公の墓所の隣(一段低い場所)にある毛利一族の墓所。<br />先祖の合墓、元就の兄興元、興元の長子幸松丸、元就の長子隆元の夫人の墓が並ぶ。<br /><br />ちなみに元就の父広元の墓はここにはなく、郡山城跡の北西にある猿掛城跡(多治比猿掛城跡)の近くにある。

    元就公の墓所の隣(一段低い場所)にある毛利一族の墓所。
    先祖の合墓、元就の兄興元、興元の長子幸松丸、元就の長子隆元の夫人の墓が並ぶ。

    ちなみに元就の父広元の墓はここにはなく、郡山城跡の北西にある猿掛城跡(多治比猿掛城跡)の近くにある。

  • 墓所の境内に元就の「百万一心」の伝説を記念して昭和6(1931)年に建立された記念碑。1931年は満州事変が起こった年である。

    墓所の境内に元就の「百万一心」の伝説を記念して昭和6(1931)年に建立された記念碑。1931年は満州事変が起こった年である。

  • 元就公の墓所の裏手にある登山口からいよいよ郡山城跡のある郡山へ登る。<br /><br />勝手な推測だが、毛利元就公の墓所を訪れる人の7~8割は駐車場に車を置いてここまで来て、引き返すのではないだろうか。<br />端から郡山城跡の中心部である山頂を目指すつもりの私は、覚悟を決めて歩き出す。博物館の裏から歩き始めてちょうど1時間が経っていた。

    元就公の墓所の裏手にある登山口からいよいよ郡山城跡のある郡山へ登る。

    勝手な推測だが、毛利元就公の墓所を訪れる人の7~8割は駐車場に車を置いてここまで来て、引き返すのではないだろうか。
    端から郡山城跡の中心部である山頂を目指すつもりの私は、覚悟を決めて歩き出す。博物館の裏から歩き始めてちょうど1時間が経っていた。

  • しばらくはこの写真のようななだらかな山道が続く。整備されていて歩きやすい。

    しばらくはこの写真のようななだらかな山道が続く。整備されていて歩きやすい。

  • 道から少し逸れた場所に石塔が立っている。

    道から少し逸れた場所に石塔が立っている。

  • 毛利元就公の葬儀の導師をつとめた嘯岳禅師の墓である。

    毛利元就公の葬儀の導師をつとめた嘯岳禅師の墓である。

  • 少し先に二つの古墳がある。案内板の矢印の方向を見てもただの土の山があるばかり。

    少し先に二つの古墳がある。案内板の矢印の方向を見てもただの土の山があるばかり。

  • 眺望の良い場所で少し休憩する。<br />その昔尼子軍が陣を敷いた山が見えている。

    眺望の良い場所で少し休憩する。
    その昔尼子軍が陣を敷いた山が見えている。

  • 緩やかに登る尾根を伝って歩き、ようやく郡山城跡の中心部に到達した。10時00分少し前である。

    緩やかに登る尾根を伝って歩き、ようやく郡山城跡の中心部に到達した。10時00分少し前である。

  • ここは「御蔵屋敷跡」という。本丸のある城の中心を取り巻く郭の一つである。<br />幕府の命令で江戸初期に崩された石垣がそのまま残っている。

    ここは「御蔵屋敷跡」という。本丸のある城の中心を取り巻く郭の一つである。
    幕府の命令で江戸初期に崩された石垣がそのまま残っている。

  • 郡山城跡の中心部。⑥が御蔵屋敷跡の位置。<br />このあと⑥→④→⑤の時計回りで郭をめぐり、三の丸→二の丸を経て①本丸へ向った。

    郡山城跡の中心部。⑥が御蔵屋敷跡の位置。
    このあと⑥→④→⑤の時計回りで郭をめぐり、三の丸→二の丸を経て①本丸へ向った。

  • 確かに崩れた石垣の痕跡がはっきり確認できる。<br />少し前にじっくり見学した岡山県高梁市の備中松山城と比べるべくもないが、この郡山城が約400年前の江戸初期までに廃城となったことを考えると、むしろよく形をとどめているとも言える。

    確かに崩れた石垣の痕跡がはっきり確認できる。
    少し前にじっくり見学した岡山県高梁市の備中松山城と比べるべくもないが、この郡山城が約400年前の江戸初期までに廃城となったことを考えると、むしろよく形をとどめているとも言える。

  • 釣井の壇と呼ばれる郭に残る井戸の跡。本丸に最も近い水源である。

    釣井の壇と呼ばれる郭に残る井戸の跡。本丸に最も近い水源である。

  • この解説板の地図は分かりやすい。郭の配置、三の丸、二の丸、本丸との位置関係が一目で分かる。

    この解説板の地図は分かりやすい。郭の配置、三の丸、二の丸、本丸との位置関係が一目で分かる。

  • 三の丸跡。中心部は毛利輝元時代の改修により整備されている。

    三の丸跡。中心部は毛利輝元時代の改修により整備されている。

  • 本丸跡。元就により拡張された後の郡山城の中心である。城主の館が建っていたと考えられ、北端の山頂部(写真奥)には櫓台が残る。

    本丸跡。元就により拡張された後の郡山城の中心である。城主の館が建っていたと考えられ、北端の山頂部(写真奥)には櫓台が残る。

  • 本丸北端の山頂部。現在は石柱が立てられている。<br />ここが郡山城跡の最高部で標高390mである。

    本丸北端の山頂部。現在は石柱が立てられている。
    ここが郡山城跡の最高部で標高390mである。

  • このあと、地図のルートを辿って本丸から展望台を経て郡山城跡のある山を下山する。<br /><br />三の丸から御蔵屋敷跡へ行く途中、7枚前の図の中の③の地点が上の写真。手前は帯郭と呼ばれる細長い場所である。

    このあと、地図のルートを辿って本丸から展望台を経て郡山城跡のある山を下山する。

    三の丸から御蔵屋敷跡へ行く途中、7枚前の図の中の③の地点が上の写真。手前は帯郭と呼ばれる細長い場所である。

  • 石垣の前に立つ解説板。<br />この部分の石垣が元就~輝元時代の石垣の姿を比較的よく留めているとのこと。

    石垣の前に立つ解説板。
    この部分の石垣が元就~輝元時代の石垣の姿を比較的よく留めているとのこと。

  • この写真の左端中央部から右上にかけてかすかに通路の痕跡のようなものが見て取れる。前の写真の解説板にある「帯郭から三の丸へ登る斜めの階段状の通路」である。<br />ちなみに今朝ポストの中から取ってきた地図の表紙となるページにもこの場所の写真が使われている。<br /><br />現在の郡山城跡に残る遺構のハイライトと言えるであろう。これから郡山城跡を訪れる予定の方の参考になれば幸いである。

    この写真の左端中央部から右上にかけてかすかに通路の痕跡のようなものが見て取れる。前の写真の解説板にある「帯郭から三の丸へ登る斜めの階段状の通路」である。
    ちなみに今朝ポストの中から取ってきた地図の表紙となるページにもこの場所の写真が使われている。

    現在の郡山城跡に残る遺構のハイライトと言えるであろう。これから郡山城跡を訪れる予定の方の参考になれば幸いである。

  • 御蔵屋敷跡から下り始めて数分後。地図に勢溜の壇と記されている緩やかに下っている郭の先端近くに展望台のような場所がある。<br />ネットが張られているのは市の教育委員会による作業中の場所。

    御蔵屋敷跡から下り始めて数分後。地図に勢溜の壇と記されている緩やかに下っている郭の先端近くに展望台のような場所がある。
    ネットが張られているのは市の教育委員会による作業中の場所。

  • 手前の樹木に遮られイマイチだが城の正面方向が見渡せる。

    手前の樹木に遮られイマイチだが城の正面方向が見渡せる。

  • 勢溜の壇を降りてすぐ左に分岐する道を案内表示に従って進むと「万願寺跡」に出る(上の写真)。

    勢溜の壇を降りてすぐ左に分岐する道を案内表示に従って進むと「万願寺跡」に出る(上の写真)。

  • 郡山城が整備されるよりもかなり以前からこの場所に寺院が建てられていたとのこと。蓮池の跡らしいものはほとんど消滅しかけている。

    郡山城が整備されるよりもかなり以前からこの場所に寺院が建てられていたとのこと。蓮池の跡らしいものはほとんど消滅しかけている。

  • 尾崎丸。郡山城跡の南端近くの尾根に築かれた郭である。隆元が本城(この後訪れる)から移り住んだと伝わる。<br />堀切(人工的に造られた谷、現在は土砂で埋まりかなり浅くなっているようである)によって本丸に続く尾根から切り離されている。<br />大坂城における真田丸と同じで、郡山城に攻め寄せた敵を城の前面にあるここに引きつけて戦う役割があったと考えられる。

    尾崎丸。郡山城跡の南端近くの尾根に築かれた郭である。隆元が本城(この後訪れる)から移り住んだと伝わる。
    堀切(人工的に造られた谷、現在は土砂で埋まりかなり浅くなっているようである)によって本丸に続く尾根から切り離されている。
    大坂城における真田丸と同じで、郡山城に攻め寄せた敵を城の前面にあるここに引きつけて戦う役割があったと考えられる。

  • 最後に立ち寄ったのが「本城」である。ここは最初に郡山城が築城された時の中心部で、現在の郡山城跡の南東に突き出した尾根の上にある。<br />堀切によって背後の尾根からは遮断されている。西の端に櫓台がある。一時毛利隆元がここに居住していた。<br /><br />上の写真は、山を下る道を本城へ続く分岐からかなり進んで本城のある尾根の手前の谷の部分である。この上が本城である。

    最後に立ち寄ったのが「本城」である。ここは最初に郡山城が築城された時の中心部で、現在の郡山城跡の南東に突き出した尾根の上にある。
    堀切によって背後の尾根からは遮断されている。西の端に櫓台がある。一時毛利隆元がここに居住していた。

    上の写真は、山を下る道を本城へ続く分岐からかなり進んで本城のある尾根の手前の谷の部分である。この上が本城である。

  • 写真では分かりにくいが、手前が本白城側、奥が堀切。

    写真では分かりにくいが、手前が本白城側、奥が堀切。

  • 本城の本丸跡。解説板が立てられている。

    本城の本丸跡。解説板が立てられている。

  • このあと椿事が起こった。<br />本丸から元の道へ戻る崖のような場所で私のすぐそばに一匹の蛇がいたのである(写真)。<br />鎌首を持ち上げて獲物を狙っているような姿である。<br />後でネットで調べても何という種なのかよく分からない。シロマダラという蛇が似ているような気もする。

    このあと椿事が起こった。
    本丸から元の道へ戻る崖のような場所で私のすぐそばに一匹の蛇がいたのである(写真)。
    鎌首を持ち上げて獲物を狙っているような姿である。
    後でネットで調べても何という種なのかよく分からない。シロマダラという蛇が似ているような気もする。

  • 分岐点へ戻り、ふたたび尾根伝いの山道を下る。<br />12時00分展望台に到着。朝市役所前のバス停の先で遠くに眺めた毛利家の家紋のサインがあるばしょである。

    分岐点へ戻り、ふたたび尾根伝いの山道を下る。
    12時00分展望台に到着。朝市役所前のバス停の先で遠くに眺めた毛利家の家紋のサインがあるばしょである。

  • 展望台は二階建ててなある。毛利氏の家紋「一文字三星」は二階に掲げられているが、残念なことに背後からしか見られない。

    展望台は二階建ててなある。毛利氏の家紋「一文字三星」は二階に掲げられているが、残念なことに背後からしか見られない。

  • 二階からの眺望。

    二階からの眺望。

  • 展望台の下のやや急な階段を下るとようやく麓の家々が見えて来る。少し高台にある郡山公園(興禅寺跡)に着いた(上の写真)。<br />この一帯には毛利氏時代に臨済宗の寺院が建っていた。

    展望台の下のやや急な階段を下るとようやく麓の家々が見えて来る。少し高台にある郡山公園(興禅寺跡)に着いた(上の写真)。
    この一帯には毛利氏時代に臨済宗の寺院が建っていた。

    郡山公園 公園・植物園

  • 12時35分までに山を下り終え、郡山の麓にある清(すが)神社を訪れた。<br />正中2(1325)年から残る棟札があり(このあと博物館で見学した)それ以前の創建が確実な古社。<br />戦国期には郡山の鎮守社として毛利氏の祈願所となった。

    12時35分までに山を下り終え、郡山の麓にある清(すが)神社を訪れた。
    正中2(1325)年から残る棟札があり(このあと博物館で見学した)それ以前の創建が確実な古社。
    戦国期には郡山の鎮守社として毛利氏の祈願所となった。

    清神社 寺・神社

  • 清神社の社殿の前に聳える杉の巨木。<br />元は六本あったが1999年9月台風で一本が根元14mを残して倒伏した。

    清神社の社殿の前に聳える杉の巨木。
    元は六本あったが1999年9月台風で一本が根元14mを残して倒伏した。

  • 神社を参拝後、山の麓を回り博物館の方向へ。<br />旧安芸高田少年自然の家(現在は廃館のようである)の敷地の隅にある「三矢の訓跡碑」を見に行く。有名な三本の矢の伝説を記念して、この場所にかつて建っていた大江中学校生徒会の手で昭和31(1956 )年に建てられたものである。

    神社を参拝後、山の麓を回り博物館の方向へ。
    旧安芸高田少年自然の家(現在は廃館のようである)の敷地の隅にある「三矢の訓跡碑」を見に行く。有名な三本の矢の伝説を記念して、この場所にかつて建っていた大江中学校生徒会の手で昭和31(1956 )年に建てられたものである。

  • 13時近くになっていた。博物館の見学は後回しにしてランチを取ることに。<br />博物館と市役所の間にあるゆめタウン吉田へ。1階のフードコートは土曜日の昼過ぎのわりには空いている。

    13時近くになっていた。博物館の見学は後回しにしてランチを取ることに。
    博物館と市役所の間にあるゆめタウン吉田へ。1階のフードコートは土曜日の昼過ぎのわりには空いている。

  • ラーメンなどと比較した後、インド料理屋の本日のカレーセットを食べることにした。外国人男性のワンオペだが料理の提供は速かった。

    ラーメンなどと比較した後、インド料理屋の本日のカレーセットを食べることにした。外国人男性のワンオペだが料理の提供は速かった。

  • チキンとナスのカレー。ナンはお代わり無料。税込み600円である。<br />カレーもナンも美味しい。ナンをお代わりしてお腹いっぱいになる。

    チキンとナスのカレー。ナンはお代わり無料。税込み600円である。
    カレーもナンも美味しい。ナンをお代わりしてお腹いっぱいになる。

  • 13時40分に博物館に戻る。帰りのバス・列車時刻に合わせて1時間余りの見学である。

    13時40分に博物館に戻る。帰りのバス・列車時刻に合わせて1時間余りの見学である。

    安芸高田市歴史民俗博物館 美術館・博物館

  • 展示品は撮影禁止である。<br />1階の休憩コーナー(ここは無料で利用できるようだ)には毛利氏と郡山城に関するビデオ上映コーナーもある。

    展示品は撮影禁止である。
    1階の休憩コーナー(ここは無料で利用できるようだ)には毛利氏と郡山城に関するビデオ上映コーナーもある。

  • 博物館の見学を終え、帰りのバス(15時11分発の予定)に合わせて市役所前のバス停へ向かう。少し遅れてバスが到着した。

    博物館の見学を終え、帰りのバス(15時11分発の予定)に合わせて市役所前のバス停へ向かう。少し遅れてバスが到着した。

  • 写真は吉田口駅内にあるお好み焼き屋。<br />帰りの電車に乗るときは営業していた。

    写真は吉田口駅内にあるお好み焼き屋。
    帰りの電車に乗るときは営業していた。

    吉田口駅

  • 15時45分発の三次行きに乗る。吉田口駅が無人駅のため車内で精算する。<br />三次駅に定刻16時15分到着。<br />【了】

    15時45分発の三次行きに乗る。吉田口駅が無人駅のため車内で精算する。
    三次駅に定刻16時15分到着。
    【了】

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