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「我孫子市史」による岡発戸八幡神社の由緒正徳四年(一七一四)の創立と伝え、創建当初の花表(鳥居)の棟札があり、本殿は創建以来のものという。社地は台地の突端に位置し、北方の利根川との間に水田が広がっている。その開発にともなって集落が発達し、八幡神を勧請奉祀したのであろう。古来、若宮八幡と称され、近隣に八幡井戸がある。明治の「神社明細帳」には、「社殿間数間口七尺 奥行九尺」とあり、ほかに、境内社の三峰社として、「建物間口三尺 奥行四尺 祭神伊邪那岐命」、「明治三年四月十九日信徒者十七人ニテ建立」と記されている。三峰社の社殿は現在の社殿の後方にあったが、老朽して廃された。鳥居は、木造の両部鳥居である。<br />参考にさせていただいたブログは下記です。<br />石仏神心 101 北総石仏 我孫子市の石仏 岡発戸に詳しく書かれています。<br />http://sekibutu.blogspot.com/

我孫子市の岡発戸・八幡神社・相馬霊場(22)・百庚申(11基)

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2021/01/16 - 2021/01/16

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中国の風景

中国の風景さん

「我孫子市史」による岡発戸八幡神社の由緒正徳四年(一七一四)の創立と伝え、創建当初の花表(鳥居)の棟札があり、本殿は創建以来のものという。社地は台地の突端に位置し、北方の利根川との間に水田が広がっている。その開発にともなって集落が発達し、八幡神を勧請奉祀したのであろう。古来、若宮八幡と称され、近隣に八幡井戸がある。明治の「神社明細帳」には、「社殿間数間口七尺 奥行九尺」とあり、ほかに、境内社の三峰社として、「建物間口三尺 奥行四尺 祭神伊邪那岐命」、「明治三年四月十九日信徒者十七人ニテ建立」と記されている。三峰社の社殿は現在の社殿の後方にあったが、老朽して廃された。鳥居は、木造の両部鳥居である。
参考にさせていただいたブログは下記です。
石仏神心 101 北総石仏 我孫子市の石仏 岡発戸に詳しく書かれています。
http://sekibutu.blogspot.com/

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
4.0
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 成田街道の湖北台団地入口の交差点から成田方向に300m行く。

    成田街道の湖北台団地入口の交差点から成田方向に300m行く。

  • 角に道標であろう石造物が3基重なっている。

    角に道標であろう石造物が3基重なっている。

  • 石造物が3基重なっている。

    石造物が3基重なっている。

  • 入ると赤い鳥居が迎えてくれます。

    入ると赤い鳥居が迎えてくれます。

  • 八幡神社の扁額が掛かっています。

    八幡神社の扁額が掛かっています。

  • 鳥居の脇には石造物が2基。左は天保三年(1832)道祖神。右は判読不能。

    鳥居の脇には石造物が2基。左は天保三年(1832)道祖神。右は判読不能。

  • 手水舎。

    手水舎。

  • 石灯籠。

    石灯籠。

  • 参道脇の樹木の後ろに石造物が並ぶ。

    参道脇の樹木の後ろに石造物が並ぶ。

  • 文字青面金剛王。

    文字青面金剛王。

  • 文字青面金剛、下部に三猿。元禄五年(1692)三猿庚申塔です。

    文字青面金剛、下部に三猿。元禄五年(1692)三猿庚申塔です。

  • 青面金剛像、下部にショケラを踏んで三猿。享保十八年(1733)六臂ショケラ持青面金剛塔ですが「青面金剛菩薩」と彫られている。

    青面金剛像、下部にショケラを踏んで三猿。享保十八年(1733)六臂ショケラ持青面金剛塔ですが「青面金剛菩薩」と彫られている。

  • 青面金剛像、下部にショケラを踏んで三猿。享保戊戌(三年)の六臂合掌型青面金剛塔。

    青面金剛像、下部にショケラを踏んで三猿。享保戊戌(三年)の六臂合掌型青面金剛塔。

  • 文字庚申塔が9基。百庚申の残骸。

    文字庚申塔が9基。百庚申の残骸。

  • 後ろに青面金剛像が2基。百庚申の残骸。

    後ろに青面金剛像が2基。百庚申の残骸。

  • 文字青面金剛王。

    文字青面金剛王。

  • 文字青面金剛。左端は宝暦六年(1756)「青面金剛」塔ですが、台石には一猿一鶏しか見当りません。

    文字青面金剛。左端は宝暦六年(1756)「青面金剛」塔ですが、台石には一猿一鶏しか見当りません。

  • 狛犬。

    狛犬。

  • 脇に、我孫子地区を中心に近世後期に発生伝播した待道講の本社が祀られています。小ぶりの石鳥居が待道大権現の本社です。隣接する白泉寺から八幡神社に安置されました。待道講は北総地区の女人講として利根川右岸と江戸川左岸に挟まれた極限られた地域に営まれた信仰です。以下「我孫子市史民俗文化財編」第4章第2節の「待道講と血盆経信仰」をご覧ください。<br />待道(まちどう)の伝説<br />ある夫婦がいて、妊娠してお腹が大きい嫁と、その旦那が待ち合わせをしたものの、どこでどう間違えたか別々の場所で待ち続けてしまう。妊娠した嫁は待っている間に産気づき道端で子供を生んで死んでしまった。それで道で待ということから、待道と云われるようになり、祀られたと云う。

    脇に、我孫子地区を中心に近世後期に発生伝播した待道講の本社が祀られています。小ぶりの石鳥居が待道大権現の本社です。隣接する白泉寺から八幡神社に安置されました。待道講は北総地区の女人講として利根川右岸と江戸川左岸に挟まれた極限られた地域に営まれた信仰です。以下「我孫子市史民俗文化財編」第4章第2節の「待道講と血盆経信仰」をご覧ください。
    待道(まちどう)の伝説
    ある夫婦がいて、妊娠してお腹が大きい嫁と、その旦那が待ち合わせをしたものの、どこでどう間違えたか別々の場所で待ち続けてしまう。妊娠した嫁は待っている間に産気づき道端で子供を生んで死んでしまった。それで道で待ということから、待道と云われるようになり、祀られたと云う。

  • 手水は寛政九年(1797)・鳥居は天保十一年(1840)・小ぶりの燈篭は文政十二年(1829)玉垣は安永四年(1775)。

    手水は寛政九年(1797)・鳥居は天保十一年(1840)・小ぶりの燈篭は文政十二年(1829)玉垣は安永四年(1775)。

  • 正面に八幡神社拝殿。

    正面に八幡神社拝殿。

  • 右は文政九年(1826)廿三夜供養塔、左は判読不能。他に明治九年改刻・疱瘡神・大杉殿石祠などがある。

    右は文政九年(1826)廿三夜供養塔、左は判読不能。他に明治九年改刻・疱瘡神・大杉殿石祠などがある。

  • 稲荷大神。

    稲荷大神。

  • 判読不能の石祠が並ぶ。

    判読不能の石祠が並ぶ。

  • 右は冨士大山登山記念。中央冨士山。左は冨士大山登山記念碑。

    右は冨士大山登山記念。中央冨士山。左は冨士大山登山記念碑。

  • 八幡神社本殿を横から見る。八幡神社の扁額が置いてある。

    八幡神社本殿を横から見る。八幡神社の扁額が置いてある。

  • 八幡神社の脇の道を下った途中に林の中に入る路があります。

    八幡神社の脇の道を下った途中に林の中に入る路があります。

  • 八幡の井戸、「湖北七ツ井戸」の一つで、元旦に神棚に供える神水として、又生活用水として貴重な井戸であったと「我孫子市史跡ガイドブックに載っています。

    八幡の井戸、「湖北七ツ井戸」の一つで、元旦に神棚に供える神水として、又生活用水として貴重な井戸であったと「我孫子市史跡ガイドブックに載っています。

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