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 今年は日本仏教の開祖と言える聖徳太子1400年遠忌にあたります。遠忌とは五十年忌の後50年ごとに遺徳を追慕して行う法会で「おんき」と読みます。<br /> 聖徳太子(574~622)の祖父欽明天皇の時代に日本にもたらされた仏教は、蘇我氏(仏教派)対物部氏(排仏派)との崇仏論争のすえ争いになります。両派が武力でぶつかり合ったのが丁未の乱(ていびのらん)です。この戦には幼少にもかかわらず、既に仏教に帰依していた聖徳太子(厩戸皇子)も参戦しています。戦で、聖徳太子が「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願したといい、今の四天王寺がそれです。<br /> 多少のご縁がある、安福寺所蔵の夾紵棺の国立博物館展示という御目出度いお話を聞いて、本日お天気も良いのでコロナ禍ではありますが、いつもの誰とも「接せず」「話さず」というスタイルで、記録を焼き直す小旅行に・・・<br />

聖徳太子の棺(夾紵棺:きょうちょかん)2021年奈良・東京国立博物館で展示される

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2021/01/17 - 2021/01/17

103位(同エリア153件中)

旅行記グループ 河内温泉大学演習 その1

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河内温泉大学名誉教授

河内温泉大学名誉教授さん

 今年は日本仏教の開祖と言える聖徳太子1400年遠忌にあたります。遠忌とは五十年忌の後50年ごとに遺徳を追慕して行う法会で「おんき」と読みます。
 聖徳太子(574~622)の祖父欽明天皇の時代に日本にもたらされた仏教は、蘇我氏(仏教派)対物部氏(排仏派)との崇仏論争のすえ争いになります。両派が武力でぶつかり合ったのが丁未の乱(ていびのらん)です。この戦には幼少にもかかわらず、既に仏教に帰依していた聖徳太子(厩戸皇子)も参戦しています。戦で、聖徳太子が「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願したといい、今の四天王寺がそれです。
 多少のご縁がある、安福寺所蔵の夾紵棺の国立博物館展示という御目出度いお話を聞いて、本日お天気も良いのでコロナ禍ではありますが、いつもの誰とも「接せず」「話さず」というスタイルで、記録を焼き直す小旅行に・・・

旅行の満足度
5.0
同行者
一人旅
交通手段
自家用車 バイク

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  •  聖徳太子を越えたに思えた、ハルカスタワーですが。コロナ禍では少し縮んで見える。

     聖徳太子を越えたに思えた、ハルカスタワーですが。コロナ禍では少し縮んで見える。

  •  聖徳太子が朝鮮から連れてきたという大工集団等の番匠幟が境内に今も建っています。

     聖徳太子が朝鮮から連れてきたという大工集団等の番匠幟が境内に今も建っています。

  •  八尾大聖勝軍寺(下の太子) 守屋の首洗い池とか。洗いすぎて水切れでした。

     八尾大聖勝軍寺(下の太子) 守屋の首洗い池とか。洗いすぎて水切れでした。

  •  大聖勝軍寺山門前、前住職とは飲み仲間で豪快な方でした。

     大聖勝軍寺山門前、前住職とは飲み仲間で豪快な方でした。

  •  やがて太子が政治の中心人物なると、仏教も政(まつりごと)の中心となり広く浸透していきます。金銅製の仏像や仏具そして寺が全国に造営されていきます。また、玉虫厨子や正倉院所蔵の仏教に伴う工芸品などの技術も大きく花開きます。「聖徳太子1400年遠忌記念特別展」では、1章聖徳太子と仏法興隆 2章法隆寺の創建 3法隆寺とその東院 4聖徳太子と仏の姿 5聖徳太子と仏法興隆 の五部構成で仏教と聖徳太子のひととなりを展示されるそうです。<br /> 一昨日柏原歴史資料館より、夾紵棺が奈良国立博物館へ向けて出立したと聴いています。

     やがて太子が政治の中心人物なると、仏教も政(まつりごと)の中心となり広く浸透していきます。金銅製の仏像や仏具そして寺が全国に造営されていきます。また、玉虫厨子や正倉院所蔵の仏教に伴う工芸品などの技術も大きく花開きます。「聖徳太子1400年遠忌記念特別展」では、1章聖徳太子と仏法興隆 2章法隆寺の創建 3法隆寺とその東院 4聖徳太子と仏の姿 5聖徳太子と仏法興隆 の五部構成で仏教と聖徳太子のひととなりを展示されるそうです。
     一昨日柏原歴史資料館より、夾紵棺が奈良国立博物館へ向けて出立したと聴いています。

  •  柿食えば・・・と正岡子規も句に詠う法隆寺西院の池端。

     柿食えば・・・と正岡子規も句に詠う法隆寺西院の池端。

  •  矢田丘陵から西院伽藍を望む、結構な傾斜地に建っている事がわかります。中国から来て大和川で都に向かう渡来人に、倭の国力を見せつける素晴らしい設えですね。

     矢田丘陵から西院伽藍を望む、結構な傾斜地に建っている事がわかります。中国から来て大和川で都に向かう渡来人に、倭の国力を見せつける素晴らしい設えですね。

  •  日常は「斑鳩宮」で生活したと云われる宮跡の石像。この辺りと飛鳥を結ぶ道を「太子道」と呼び習わしています。

     日常は「斑鳩宮」で生活したと云われる宮跡の石像。この辺りと飛鳥を結ぶ道を「太子道」と呼び習わしています。

  •  同説明板

     同説明板

  •  太子道が町内を貫く安堵町では大きな聖徳太子の模型を作っていました。10メ-トルはあろうかという太子と黒い馬が刈るが方向に向かって建っていました。

     太子道が町内を貫く安堵町では大きな聖徳太子の模型を作っていました。10メ-トルはあろうかという太子と黒い馬が刈るが方向に向かって建っていました。

  •  道中の神社では「十七条憲法」を推考している場面を再現した人形も置かれていました。

     道中の神社では「十七条憲法」を推考している場面を再現した人形も置かれていました。

  •  「聖徳太子と法隆寺」展1章の聖徳太子と仏法興隆では重要文化財の「菩薩立像」と並んで展示されるのが、柏原市玉手山安福寺(大崎信宥前住職:ぎょくしゅざんあんぷくじ)蔵の「夾紵棺」断片です。夾紵棺とは7世紀に見られる天皇クラスにしか使われない高級な棺で、通常は麻布を漆で重ね合わせて作られています。しかし、安福地蔵の夾紵棺は45層もの絹の織物を用いた極めて特殊な構造です。その幅は聖徳太子の棺台(叡福寺北古墳)に一致することから、専門家の間では聖徳太子の棺である可能性が高いと指摘されてきました。<br /><br /> 復元された棺(柏原歴史資料館) 

     「聖徳太子と法隆寺」展1章の聖徳太子と仏法興隆では重要文化財の「菩薩立像」と並んで展示されるのが、柏原市玉手山安福寺(大崎信宥前住職:ぎょくしゅざんあんぷくじ)蔵の「夾紵棺」断片です。夾紵棺とは7世紀に見られる天皇クラスにしか使われない高級な棺で、通常は麻布を漆で重ね合わせて作られています。しかし、安福地蔵の夾紵棺は45層もの絹の織物を用いた極めて特殊な構造です。その幅は聖徳太子の棺台(叡福寺北古墳)に一致することから、専門家の間では聖徳太子の棺である可能性が高いと指摘されてきました。

     復元された棺(柏原歴史資料館) 

  •  元々安福寺の床下にあったという夾紵棺を先々代の住職が見つけ、花台にと床の間に置いていた物を夾紵棺と判定したのが、当時安福寺を宿泊所と使用していた関西大学大学院生だった猪熊兼勝氏京都(元橘大学文学部教授)です。近くの玉手山5号墳の実地調査に氏が来られていなかったら、今も安福寺の花台の一つに過ぎなかったのかも知れないと思うと、氏の柏原での古墳調査は1400年を繋ぐ歴史の結節点であったかも知れません。

     元々安福寺の床下にあったという夾紵棺を先々代の住職が見つけ、花台にと床の間に置いていた物を夾紵棺と判定したのが、当時安福寺を宿泊所と使用していた関西大学大学院生だった猪熊兼勝氏京都(元橘大学文学部教授)です。近くの玉手山5号墳の実地調査に氏が来られていなかったら、今も安福寺の花台の一つに過ぎなかったのかも知れないと思うと、氏の柏原での古墳調査は1400年を繋ぐ歴史の結節点であったかも知れません。

  •  別角度から見ると左端が直角に見えます。これこそ、棺であった証拠でしょう。これを発見した猪熊学生には「国民栄誉賞」を捧げたい程ですね。

     別角度から見ると左端が直角に見えます。これこそ、棺であった証拠でしょう。これを発見した猪熊学生には「国民栄誉賞」を捧げたい程ですね。

  •  さらに歴史は大きな結節点と共に課題を我々に投げかけている様に思えます。それは、なぜ聖徳太子の棺の断片と云えども、安福寺に在るのかという謎です。<br /><br /> 廟へ向かう小道 愚僧はこの小道が一番好きです。前住職のお話では、瓦を縦に積む技法は高くつく(!)との事でした。<br /><br />

     さらに歴史は大きな結節点と共に課題を我々に投げかけている様に思えます。それは、なぜ聖徳太子の棺の断片と云えども、安福寺に在るのかという謎です。

     廟へ向かう小道 愚僧はこの小道が一番好きです。前住職のお話では、瓦を縦に積む技法は高くつく(!)との事でした。

  •  安福寺が一宇の寺から現状の尾州徳川家との深い関係のある寺へと変わっていく中に「珂憶上人」がおられる。珂憶上人は尾州徳川二代「光友」の深い帰依を受け、安福寺を菩提寺として一族の廟を設け、以来明治まで多くの寄進を受けていた。また、珂憶上人は聖徳太子信仰にも篤く、四天王寺や叡福寺そして叡福寺の南にある西法院との関わりは、人の往き来や寄進記録などでもうかがえるという。また、西法院の偏額は珂憶上人のもの。<br /><br /> 屋根に多少の円みがある珂憶造りと云われる本堂。

     安福寺が一宇の寺から現状の尾州徳川家との深い関係のある寺へと変わっていく中に「珂憶上人」がおられる。珂憶上人は尾州徳川二代「光友」の深い帰依を受け、安福寺を菩提寺として一族の廟を設け、以来明治まで多くの寄進を受けていた。また、珂憶上人は聖徳太子信仰にも篤く、四天王寺や叡福寺そして叡福寺の南にある西法院との関わりは、人の往き来や寄進記録などでもうかがえるという。また、西法院の偏額は珂憶上人のもの。

     屋根に多少の円みがある珂憶造りと云われる本堂。

  •  徳川光友公一族の廟です。

     徳川光友公一族の廟です。

  •  叡福寺山門(上の太子)

     叡福寺山門(上の太子)

  •  山内から北古墳(聖徳太子廟)を望む。

     山内から北古墳(聖徳太子廟)を望む。

  •  聖徳太子磯長墓拝所。

     聖徳太子磯長墓拝所。

  •  西法院。

     西法院。

  •  同説明板。

     同説明板。

  •  柏原市の玉手地区は大坂夏の陣の後は、ひっそりとした平安の中で歴史を刻んできました。春には苺が真っ赤な実を付け、夏には無花果。そうこうしている内に稲穂が実る。豊穣の地であります。<br /> 自然が身じろぎもせず流れる様に、安福寺の境内でも一心に御仏に人々の安寧を願い続けるお堂の中に「聖徳太子の棺」が置かれていたというのも、和をもって貴しとする聖徳太子の真心が貫かれていたのでしょう。<br /> 石川方向から玉手山に差し掛かる直前に、一の門があります。華燭な門構えでも無いので通り過ぎてしまいそうです。しかし、この門を通り抜け横穴群の先には尾州徳川公と珂憶上人に招かれたように夾紵棺がねむっておられます。<br /><br /> おことわり:本日の取材で得た写真と既に所蔵している数枚を組み合わせて構成ました。

     柏原市の玉手地区は大坂夏の陣の後は、ひっそりとした平安の中で歴史を刻んできました。春には苺が真っ赤な実を付け、夏には無花果。そうこうしている内に稲穂が実る。豊穣の地であります。
     自然が身じろぎもせず流れる様に、安福寺の境内でも一心に御仏に人々の安寧を願い続けるお堂の中に「聖徳太子の棺」が置かれていたというのも、和をもって貴しとする聖徳太子の真心が貫かれていたのでしょう。
     石川方向から玉手山に差し掛かる直前に、一の門があります。華燭な門構えでも無いので通り過ぎてしまいそうです。しかし、この門を通り抜け横穴群の先には尾州徳川公と珂憶上人に招かれたように夾紵棺がねむっておられます。

     おことわり:本日の取材で得た写真と既に所蔵している数枚を組み合わせて構成ました。

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