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手賀地区では早くから布教基地となったキリスト教会や混合墓地など、特異な石造物を見ることができます。県道柏ー印西線282号の手賀への分岐点から東へ県道を300m程進むと廃品置き場の隣の林の中に原氏の墓所があります。ここは「御墓山」と呼ばれる山林です。千葉介勝胤より相馬郡手賀の六百貫を原胤定が受領し胤親-久胤と続きます。石塔の解説は(歴史あるき)より引用。旧沼南町教育委員会発行の「沼南町史金石文Ⅰ・Ⅱ」」「沼南の歴史をあるく」「沼南風土記」を使用し引用は(金石文・歴史あるき・風土記)から引用いたしました。<br />参考にさせていただいたブログは下記です。<br />石仏神心 53 北総石仏 旧沼南町の石仏 手賀に詳しく書かれています。<br />http://sekibutu.blogspot.com/<br />

柏市の旧沼南町・手賀・原氏の墓所・石仏

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2020/11/04 - 2020/11/04

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中国の風景

中国の風景さん

手賀地区では早くから布教基地となったキリスト教会や混合墓地など、特異な石造物を見ることができます。県道柏ー印西線282号の手賀への分岐点から東へ県道を300m程進むと廃品置き場の隣の林の中に原氏の墓所があります。ここは「御墓山」と呼ばれる山林です。千葉介勝胤より相馬郡手賀の六百貫を原胤定が受領し胤親-久胤と続きます。石塔の解説は(歴史あるき)より引用。旧沼南町教育委員会発行の「沼南町史金石文Ⅰ・Ⅱ」」「沼南の歴史をあるく」「沼南風土記」を使用し引用は(金石文・歴史あるき・風土記)から引用いたしました。
参考にさせていただいたブログは下記です。
石仏神心 53 北総石仏 旧沼南町の石仏 手賀に詳しく書かれています。
http://sekibutu.blogspot.com/

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
3.5
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 県道柏ー印西線282号の手賀への分岐点から東へ県道を100m程進むと庚申塔、原氏墓所、畑の中の庚申塔と続く。

    県道柏ー印西線282号の手賀への分岐点から東へ県道を100m程進むと庚申塔、原氏墓所、畑の中の庚申塔と続く。

  • 県道柏ー印西線282号の手賀への分岐点。

    県道柏ー印西線282号の手賀への分岐点。

  • 東へ県道を100m程進むと庚申塔が並んで居ます。

    東へ県道を100m程進むと庚申塔が並んで居ます。

  • 青面金剛像他4基。

    青面金剛像他4基。

  • 青面金剛像がショケラを踏んで、下部に三猿。

    青面金剛像がショケラを踏んで、下部に三猿。

  • 文字青面金剛尊、下部に三猿。

    文字青面金剛尊、下部に三猿。

  • 庚申。

    庚申。

  • 庚申塔、下部に三猿。

    庚申塔、下部に三猿。

  • 県道に沿って並んで居ます。

    県道に沿って並んで居ます。

  • 更に県道を100m程東へ進んだ廃品置き場の隣の林の中に原氏の墓所があります。ここは「御墓山」と呼ばれる山林です。千葉介勝胤より相馬郡手賀の六百貫を原胤定が受領し胤親-久胤と続きます。石塔の解説は(歴史あるき)より引用。<br />

    更に県道を100m程東へ進んだ廃品置き場の隣の林の中に原氏の墓所があります。ここは「御墓山」と呼ばれる山林です。千葉介勝胤より相馬郡手賀の六百貫を原胤定が受領し胤親-久胤と続きます。石塔の解説は(歴史あるき)より引用。

  • 沼南の歴史をあるく 8、原氏の墓所。

    沼南の歴史をあるく 8、原氏の墓所。

  • 正面右側の五輪塔は戦国末期にこの地を領した手賀原氏の供養塔で、江戸初期に建てられました。左側には、免因保護に一生を捧げた原胤昭と刑余者たちの墓石が並んでいます。

    正面右側の五輪塔は戦国末期にこの地を領した手賀原氏の供養塔で、江戸初期に建てられました。左側には、免因保護に一生を捧げた原胤昭と刑余者たちの墓石が並んでいます。

  • 原一族の墓。城主の墓といえ個人の地所です。

    原一族の墓。城主の墓といえ個人の地所です。

  • 原一族の墓。墓地の左手に4基の角柱型墓塔が並んでいます。白色墓塔3基の真中が原胤昭之墓(近衛文麿筆)となっています。江戸幕府最後の与力であった原胤昭は遠祖・原胤信(原主水)の堅い信仰心に打たれキリスト教解禁の明治7年にキリスト教に入信し、余生を出獄人保護に捧げた人物です。

    原一族の墓。墓地の左手に4基の角柱型墓塔が並んでいます。白色墓塔3基の真中が原胤昭之墓(近衛文麿筆)となっています。江戸幕府最後の与力であった原胤昭は遠祖・原胤信(原主水)の堅い信仰心に打たれキリスト教解禁の明治7年にキリスト教に入信し、余生を出獄人保護に捧げた人物です。

  • 正面右側の五輪塔は戦国末期にこの地を領した手賀原氏の供養塔。

    正面右側の五輪塔は戦国末期にこの地を領した手賀原氏の供養塔。

  • 免因保護に一生を捧げた原胤昭と刑余者たちの墓石が並んでいます。

    免因保護に一生を捧げた原胤昭と刑余者たちの墓石が並んでいます。

  • 百一人首塚。首塚塔、生島氏は教誨師と(金石文)に載っています。見送った死刑囚の供養塔でしょうか?

    百一人首塚。首塚塔、生島氏は教誨師と(金石文)に載っています。見送った死刑囚の供養塔でしょうか?

  • 三名連記の墓石です。原胤昭は亡くなっても引き取り手のない出獄者53人をここに埋葬し23名を刻んだお墓8基をこの敷地内で弔っています。

    三名連記の墓石です。原胤昭は亡くなっても引き取り手のない出獄者53人をここに埋葬し23名を刻んだお墓8基をこの敷地内で弔っています。

  • 三名連記の墓石です。

    三名連記の墓石です。

  • 三名連記の墓石です。

    三名連記の墓石です。

  • 原家の墓。<br />

    原家の墓。

  • 原萬胤之墓、熱心なキリスト教徒でした。十字架は信仰の大将・原萬胤之墓となっていて明治39年に3歳で亡くなっています。後述のキリスト教徒・原胤昭の夭逝した子息の墓ですね。

    原萬胤之墓、熱心なキリスト教徒でした。十字架は信仰の大将・原萬胤之墓となっていて明治39年に3歳で亡くなっています。後述のキリスト教徒・原胤昭の夭逝した子息の墓ですね。

  • 原氏供養の五輪塔。弘化三年(1846)銘の入った石柱で囲まれたところに、五輪塔7基と十字架型墓塔が立っています。正面右の3基は右端は久胤の妹の墓塔で空風火水輪は別石。隣の2基はいずれも元和七年(1621)の一石五輪塔で、江戸町奉行組与力となった子孫・原胤次が建てた両親の供養塔。

    原氏供養の五輪塔。弘化三年(1846)銘の入った石柱で囲まれたところに、五輪塔7基と十字架型墓塔が立っています。正面右の3基は右端は久胤の妹の墓塔で空風火水輪は別石。隣の2基はいずれも元和七年(1621)の一石五輪塔で、江戸町奉行組与力となった子孫・原胤次が建てた両親の供養塔。

  • 原氏供養の五輪塔。中央の大きな五輪塔は現流山市鰭ヶ崎(ひれがさき)の総名主・渡辺寅が文化末か文政初に旧主原氏供養に建立したもの。<br />

    原氏供養の五輪塔。中央の大きな五輪塔は現流山市鰭ヶ崎(ひれがさき)の総名主・渡辺寅が文化末か文政初に旧主原氏供養に建立したもの。

  • 原氏供養の五輪塔。左後方の3基の五輪塔は右が寛永十七年(1640)胤次、中が寛永十八年(1641)胤次の四男主馬介、左が延宝七年(1679)胤次の後嗣・胤重の墓塔です。

    原氏供養の五輪塔。左後方の3基の五輪塔は右が寛永十七年(1640)胤次、中が寛永十八年(1641)胤次の四男主馬介、左が延宝七年(1679)胤次の後嗣・胤重の墓塔です。

  • 周囲は森に囲まれています。

    周囲は森に囲まれています。

  • 県道柏ー印西線282号沿いの畑の中に建ってます。

    県道柏ー印西線282号沿いの畑の中に建ってます。

  • 大日如来庚申塔。寛文八年(1668)舟形金剛界大日如来・庚申塔です。お顔は荒れていますが智拳印と像容から金剛界大日如来、下部に三猿。

    大日如来庚申塔。寛文八年(1668)舟形金剛界大日如来・庚申塔です。お顔は荒れていますが智拳印と像容から金剛界大日如来、下部に三猿。

  • 畑の中にポツンと庚申塔が1塔。

    畑の中にポツンと庚申塔が1塔。

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