柏・流山旅行記(ブログ) 一覧に戻る
手賀の集落から県道印西・柏線に戻ります。信号のあるY字路から西へ行けば柳戸(やなど)地区となります。200mほど進むと東武バスの一ツ井戸バス停があります。一ツ井戸は県道から南下へ降りたところのT字路傍に東屋風に保存されています。崖上の下柳戸集落では男子が朝野良仕事に出るときは天秤棒に水桶を提げて一ツ井戸において置き、昼食時・帰宅時に水を運び上げた辛い歴史のある所だそうです。「下柳戸には婿にやるな」という俚諺もあったとか。(沼南町教育委員会・沼南の歴史をあるく から参照引用)柳戸には昔、手賀沼の渡し場があって”柳渡”と称したとか。柳のたくさんあった岸辺なのか、柳のように細長い水路が通っていたのか「柳の渡」≒「柳戸」に転化したと考えられていると「沼南風土記」に書かれています。昔は手賀原氏の鎮守とされ、手前の直線路は馬場跡とされています。手賀・片山両地区(両地区の境界にある)の鎮守であり、現本殿は文化十四年(1817)の再建です。<br />参考にさせていただいたブログは下記です。<br />石仏神心 58 北総石仏 旧沼南町の石仏 柳戸に詳しく書かれています。<br />http://sekibutu.blogspot.com/

柏市の旧沼南町・柳戸・兵主八幡神社・石祠

8いいね!

2020/10/31 - 2020/10/31

962位(同エリア1195件中)

中国の風景

中国の風景さん

手賀の集落から県道印西・柏線に戻ります。信号のあるY字路から西へ行けば柳戸(やなど)地区となります。200mほど進むと東武バスの一ツ井戸バス停があります。一ツ井戸は県道から南下へ降りたところのT字路傍に東屋風に保存されています。崖上の下柳戸集落では男子が朝野良仕事に出るときは天秤棒に水桶を提げて一ツ井戸において置き、昼食時・帰宅時に水を運び上げた辛い歴史のある所だそうです。「下柳戸には婿にやるな」という俚諺もあったとか。(沼南町教育委員会・沼南の歴史をあるく から参照引用)柳戸には昔、手賀沼の渡し場があって”柳渡”と称したとか。柳のたくさんあった岸辺なのか、柳のように細長い水路が通っていたのか「柳の渡」≒「柳戸」に転化したと考えられていると「沼南風土記」に書かれています。昔は手賀原氏の鎮守とされ、手前の直線路は馬場跡とされています。手賀・片山両地区(両地区の境界にある)の鎮守であり、現本殿は文化十四年(1817)の再建です。
参考にさせていただいたブログは下記です。
石仏神心 58 北総石仏 旧沼南町の石仏 柳戸に詳しく書かれています。
http://sekibutu.blogspot.com/

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
3.5
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • 県道柏ー印西線228号の六所神社入り口から東へ300m手賀への分岐の信号のある交差点を手賀方向に700m進むと八幡神社に着きます。

    県道柏ー印西線228号の六所神社入り口から東へ300m手賀への分岐の信号のある交差点を手賀方向に700m進むと八幡神社に着きます。

  • 八幡神社の手前200m程の長い参道があります。

    八幡神社の手前200m程の長い参道があります。

  • 200m程の長い参道があります。そして200m程の参道は元は”ばんば”と呼ばれ原氏の専用馬場であったとのことです。のち、原氏の重臣が内神として守り、享保七年(1722)に二の鳥居(沼南最古)が立てられました。<br />

    200m程の長い参道があります。そして200m程の参道は元は”ばんば”と呼ばれ原氏の専用馬場であったとのことです。のち、原氏の重臣が内神として守り、享保七年(1722)に二の鳥居(沼南最古)が立てられました。

  • 参道の途中には石祠が並んで居ます。

    参道の途中には石祠が並んで居ます。

  • 木造の祠。

    木造の祠。

  • 木造の祠

    木造の祠

  • 石祠が並んで居ます。

    石祠が並んで居ます。

  • 出羽三山の大神。

    出羽三山の大神。

  • 神社の前には二の鳥居。

    神社の前には二の鳥居。

  • 神社前には八幡前のバス停。県道から外れて28.八幡前 29.手賀 30.手賀東小学校、31.手賀東小学校入口で県道に戻る。 

    神社前には八幡前のバス停。県道から外れて28.八幡前 29.手賀 30.手賀東小学校、31.手賀東小学校入口で県道に戻る。 

  • 沼南の歴史をあるく、9、兵主八幡神社。昔は手賀原氏の鎮守とされ、手前の直線路は馬場跡とされています。手賀・片山両地区(両地区の境界にある)の鎮守であり、現本殿は文化十四年(1817)の再建です。

    沼南の歴史をあるく、9、兵主八幡神社。昔は手賀原氏の鎮守とされ、手前の直線路は馬場跡とされています。手賀・片山両地区(両地区の境界にある)の鎮守であり、現本殿は文化十四年(1817)の再建です。

  • 無数の石祠が並ぶ。文化十四年(1817)、本殿が手賀・片山の両村で造営されてから両村鎮守となりました。(風土記参照)境内は両村や庚申講・女人講などからの寄進で石造物が満杯状態です。先程の二の鳥居写真の中でも本殿前参道両側に常夜灯・御神灯が両側8基が写っています。境内全部あわせると石造物の正確な数は知れません

    無数の石祠が並ぶ。文化十四年(1817)、本殿が手賀・片山の両村で造営されてから両村鎮守となりました。(風土記参照)境内は両村や庚申講・女人講などからの寄進で石造物が満杯状態です。先程の二の鳥居写真の中でも本殿前参道両側に常夜灯・御神灯が両側8基が写っています。境内全部あわせると石造物の正確な数は知れません

  • 道路に面した三の鳥居。

    道路に面した三の鳥居。

  • 無数の石祠、石碑が並ぶ。

    無数の石祠、石碑が並ぶ。

  • 石燈籠。

    石燈籠。

  • 拝殿前の四の鳥居。

    拝殿前の四の鳥居。

  • 兵主、八幡、両神社。<br />「兵主(ひょうしゅ)とはもとは中国の風雷神で、はじめ但馬(鳥取県=引用文献の誤りで正しくは兵庫県)養父の郷に祀られたと伝える。・・・八幡はもとは豊前の国(大分県)宇佐郡に祀る神・・・綾機アヤハタ織の技術・・・アヤハタの略化・やはた(八幡)と考えられる・・」(金石文Ⅱから引用です。但馬自体は鳥取県でも正しいですが、養父(やぶ)は兵庫県にあります。

    兵主、八幡、両神社。
    「兵主(ひょうしゅ)とはもとは中国の風雷神で、はじめ但馬(鳥取県=引用文献の誤りで正しくは兵庫県)養父の郷に祀られたと伝える。・・・八幡はもとは豊前の国(大分県)宇佐郡に祀る神・・・綾機アヤハタ織の技術・・・アヤハタの略化・やはた(八幡)と考えられる・・」(金石文Ⅱから引用です。但馬自体は鳥取県でも正しいですが、養父(やぶ)は兵庫県にあります。

  • 石燈籠と狛犬。

    石燈籠と狛犬。

  • 石燈籠と狛犬。

    石燈籠と狛犬。

  • 手水舎。

    手水舎。

  • やっと拝殿です。

    やっと拝殿です。

  • 無数の石祠、石碑が並ぶ。

    無数の石祠、石碑が並ぶ。

  • 本殿。

    本殿。

  • 周りは鎮守の森です。

    周りは鎮守の森です。

8いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP