2019/02/26 - 2019/03/29
412位(同エリア3072件中)
さわ子さん
2019年春、羽田から全日本空輸でロンドンに到着し、イギリス、オランダ、ベルギー、イタリア、ドイツのヨーロッパ5カ国を訪問し、ミュンヘンから羽田に帰って来ました。途中オランダでの思わぬ事故で、フランス.パリをキャンセルする事になりました。今回も絵画鑑賞が主な目的です。
この13回目の旅行記は、デン.ハーグから日帰りでアムステルダムの国立博物館を訪れた記録です。
全体の旅程の概略です。
★ 2月26-27日 ANAでロンドンへ。ロンドンの北、ビスターの友人宅泊。
★ 2月28日 バーミンガム泊。
★ 3月1~2日 リバプール泊。
★ 3月3日 チェスター泊。
★ 3月4~5日 ロンドン泊。
★ 3月6日 船中泊
★ 3月7~13日 デン.ハーグ泊
★ 3月14日 シャルルドゴール空港泊
★ 3月15~16日 ナポリ泊。
★ 3月17~19日 フィレンツェ泊。
★ 3月20~22日 シエナ泊。
★ 3月23~25日 ヴェネツィア泊。
★ 3月26日 ミュンヘン空港泊。
★ 3月27日 ミュンヘン空港からANAで羽田へ。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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今日は少し早起きしました。8時前にはいつもの1番の市電に乗りました。今日はロッテルダム乗り換えでアムステルダムに日帰りです。元々のスケジュールではブリュッセルから高速列車タリス乗って日帰りでした。この理由は前日の旅行記で説明しています。ブリュッセルからだともっと早起きして既にタリスの列車に乗車している筈です。
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デン.ハーグ.H.S.駅ホームのモニター.カメラの映像です。このようにカメラだけでなく、モニター.テレビが各所に設置してあれば、少しは犯罪が少なくなるのではないでしょうか。
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ロッテルダム中央駅に着きました。高速列車タリスの発車時刻9時6分の30分前です。少し早く着き過ぎました。ここからは、元々購入していたブリュッセルとアムステルダム間の往復キップを部分利用します。
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プラットホームは寒いので一旦下の通路の商店街に下りて待ちます。
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ホームに戻ると15分遅れの表示です。高速列車タリスは、パリ=ブリュッセル=アムステルダム間を運行しています。
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ホームのガラス張りの待合室で待ちます。隣のホームの待合室が写っています。小雨が降っています。
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ようやくタリスが到着しました。20分以上の遅れになっています。アムステルダムまで時刻表では38分ですから、とても遅れは取り返せません。
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結局33分遅れでロッテルダム中央駅を出発しました。
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そして最終的に40分以上遅れてアムステルダム中央駅に到着しました。早10時半です。
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いつ見ても素敵なオランダらしいデザインの駅舎です。東京駅ほど大きくありませんが、外観の繊細な装飾です。
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アムステルダム駅前から2番の市電に乗る筈でしたが、停電だそうで2番の市電が動きません。「ダム広場から乗車しなさい」との説明で800m位歩く事になりました。
ダム広場南側のこの建物に、マダム.タッソー館が入っているそうです。 -
正面に飾ってある人形さんです。右の人物は誰なのでしょう?
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ダム広場で2番の市電にどこから乗れるのかさっぱり分からずウロウロしました。しかし結局別の市電で中央駅前に戻って来てしまいました。そうすると2番の市電が動いていました。この写真に、駅前にある観光案内所や交通局が入っている建物が写っています。昔は列車を降りるとここにきて、ホテルを予約しました。今ではネットでの予約ですが。市電の切符はここで買えますが、市電の車内でも買えます。自動販売機ではなく、車内の専用ブースに座っている切符販売員から購入できます。
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前回宿泊したヒルトン.ホテルが見えました。運河を挟んで中央駅の右隣にあります。
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このように見晴らしが大変良いホテルでした。
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市電は、先程のダム広場前を通過します。
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国立博物館(Rijksmuseum)に着きました。建物の南西面が正面です。ここには2015年4月に訪れています。今回は丁度レンブラント没後350年という事で「レンブラントの全て」の表題で特別展が開かれていました。
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こちらは2015年4月に訪れた時の博物館の正面です。この時も「後期レンブラント」の表題で特別展が開催されていました。
この博物館の建物も中央駅の駅舎と同じように、全体的な赤茶色のレンガと灰色の石がアクセントになりオランダらしさが表現されています。 -
このような小さな装飾も素敵です。
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没後350年を記念し、「レンブラントの全て」のタイトルで2019年2月15日から6月10日まで特別展が開かれていました。国立博物館は、館が保有する22点の絵画、60点の下絵、およびコレクションに含まれるレンブラントの300を超える最高の版画を初めて展示するそうです。
レンブラント.ファン.ライン(1606-1669)は、製粉業者の息子としてライデンで生まれました。ラテン.スクールを卒業した後、彼の両親はライデン大学に彼を入学させました。レンブラントはすぐに中退し、ライデンのジェイコブ.ファン.スワネンブルク(1571-1638)の弟子画家となり、後にアムステルダムの歴史画家のピーター.ラストマン(1583-1633)に師事しました。1625年、ライデンに戻って、彼はヤン.リーベンス(1607-1674)と一緒に独立した芸術家として活動を開始しました。 -
レンブラント20才の時の作品「音楽の集い」です。
この絵の主題は謎です。歌と弦楽器の演奏を通して神を賛美する事を勧めているのでしょうか?それとも、老婆を取り持ち女として男を誘惑している場面でしょうか?いずれにせよ、この初期の作品では、レンブラントは彼の身近のものを材料として用いました。彼の母親を老婦人のモデルにしており、レンブラント自身の特徴が若い男性に認められます。 -
レンブラントの24才頃の作品「エルサレムの破壊を嘆くエレミヤ」です。
悲しんだ預言者エレミヤは、頬づえをついて嘆いています。彼はエルサレムが炎の中で(背景)破壊されると預言した事を嘆きます。レンブラントは、明暗の力強いコントラストでドラマ感を高めました。彼は、この頃よく製作した老人のエッチング集から、預言者のあごひげを生やした人物を選び出しました。 -
こちらはレンブラント25才の時の作品「読書する老婦人」です。
ここで光は老婦人の後ろから照らしています。最も明るい光が、本と老婦人の皺のある手に当てられています。彼女の顔は光の影のままです。彼女は、聖書にある断食と祈りを通して神に仕えた年配の未亡人の預言者アンナである可能性があります。 いつものように、レンブラントの母親がこの絵にポーズをとりました。 -
レンブラント27才の時の作品「空想の装束の若い女性」です。
この若い女性の服装は、レンブラントの時代のファッションを反映しているのではなく、何世紀も前に遡ります。これは、これがトローニー、すなわち空想のキャラクター、または風変わりな人物である事を示唆しています。レンブラントは、題材のトロニーのモデルとして、彼の知人、家族、または彼自身をしばしば使いましました。 この女性は、レンブラントが1634年に結婚したサスキア.ウイレンブルグ(1612-1642)によく似ています。 -
こちらはレンブラント29才の時の作品「東洋風の衣装の男」です。
レンブラントは、特異な方法で光と戯れました。ここでは、光が男性のターバンにあたり、顔の右側が強力なスポットライトを浴びたように照らされています。顔の左側は影のままです。このような、肖像画ではないキャラクターの頭部は、17世紀に大変人気がありました。「トルコのトロニー」と呼ばれ、初期から広くコピーされ、模倣されました。 -
レンブラント33才の時の作品「孔雀のいる静物」です。絵画の中央部分だけを撮影しています。聖人や英雄の壮大な物語ではなく、日常生活の場面です。レンブラントとスペインの画家ムリーリョ(1617-1682)は、歴史の画家として高い志を持っていましたが、芸術的な順位で下位にランク付けされたジャンル.シーンや静物画を散発的に描いていました。しかし、ムリーリョはそのような絵画を20枚ほど描き、レンブラントはたった5枚でしたが。
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この肖像画と次掲の肖像画は、オークションを経ず、2016年2月に仲介業者によりルーヴル美術館とこのアムステルダムの国立博物館が共同購入しました。両作品は、1834年に描かれ、その後1878年に大富豪ロスチャイルドの個人所有となり1956年が最後の公開展示でした。それ故両肖像画は、ほとんど知られていないレンブラントの作品となっていました。2枚の売買価格は、レンブラントの作品で市場最高の1億6千万ユーロでした。フランスとオランダが半額づつ支払いました。そして、2枚の絵画は常に一緒に展示する事が定められ、交互に展示場所を移動する事になりました。そのため、他の美術館などへの貸し出しは難しいそうです。
今回レンブラント没後350年を記念する特別展に2枚が展示される事になったようです。
こちらの絵は、新郎のマーテン.スールマンス "Maerten Soolmans (1613-1641)"です。 彼は、宗教戦争中にアントワープからアムステルダムに逃げた裕福なカルヴァン派の家族に生まれ、1628年から1633年までライデンに滞在した時にレンブラントと知り合いになりました。 -
彼は黒い衣装を着ており、大きなストライプ、ブリーチ、同じ素材の短いマントのコート、広くてぴったりとしたレースの襟、滑らかな袖口、ウエスト.バンドと靴のレースのロゼットで構成されています。ガーターには豊かなレースのリボンが付いた白いストッキング。 つばの広い黒の帽子は、彼の豊かな髪を覆っています。 彼はふっくらとしたひげのない顔をしています。彼の右手はマントの下の腰にかかっています。 彼の伸ばした左手は手袋を持っています。
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上掲で説明した、しゃれた足元です。
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これらの肖像画は、レンブラントが、アムステルダムで少壮気鋭の最もファッショナブルな肖像画家となっていた28才の時の作品です。
こちらの絵は、新婦のウージェン.コッピ "Oopjen Coppit (1611-1689) "です。彼女は、は1633年に2才年上のマーテン.スールマンスと結婚しました。彼女は古いレンブラントの常連客も含まれる尊敬される由緒あるアムステルダムの家系の孤児でした。新婦は新郎に祖先の名声をもたらしただけでなく、巨額な持参金ももたらしたので、新郎のスールマンスにとっては素晴らしい結婚になりました。この幸運により、肖像画製作に支払うために必要な資金が簡単に確保できました。
彼女は右手に、金色の鎖が付いた黒いダチョウの羽の団扇を持っています。彼女は左手で、黒いシルクの素敵な斑点のあるガウンを軽く持ち上げます。広くてぴったりとしたレースの襟とレースで縁取られたリスト.バンドが浮き彫りになっています。彼女のウエスト.バンドと靴には、レースのロゼットが付いています。彼女のきれいなカールは、帽子に巻き込まれています。厚い黒いベールが背中に下がっています。彼女の首と腕には、真珠のリングを、耳には小さな真珠の飾りを着けています。金のリングが、レースの襟から細かいチェーンで吊り下げられています。 -
新婦の手元を拡大しました。
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こちらはレンブラントの33才頃の作品「若い女性の肖像」です。多分マリア.トリップではないかと言われています。マリアの父親は、鉄と武器の貿易を通じて莫大な富を築き上げました。1639年、彼女は20歳で未婚でした。この肖像画で、彼女は有り余るお金があるという事実を隠そうとはしません。彼女の襟は、透明な素晴らしいレースでできており、真珠の首飾りを着けています。
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レンブラントの32才頃の作品「石橋がある風景」です。
レンブラントの風景画は数少なく、ほとんどが山を背景にした想像上の景色です。 彼はこの景色のさまざまな部分一つ一つ、例えば橋、小舟や木々を熟知していたかもしれません。それらを実在しない風景の中に組み込みました。 光は魔法のようです。太陽光線が雲を突き破り、接近する雷雨は恐ろしさを2倍にするように見えます。 -
レンブラントの54才頃の作品「聖ペトロの否認」です。全般的に闇夜の暗い背景で描かれているので登場人物の確認が困難です。
最後の晩餐の後イエスは逮捕され、裁判のために大祭司カイアファの家に連行されました。使徒ペテロはイエスを追いかけました。カイアファの家の召使いの女性が彼をイエスの弟子の一人と認識しました。しかし、二人の武装したガードが近ずくと、白いローブを着たペトロは、ジェスチャーで否認します。絵の右側の背後で、ピラトの宮廷に連れて行かれるキリストが、肩越しに振り返っています。 -
これもレンブラントの54才頃の作品です。
レンブラントは息子をフランチェスコ会の修道士として描きました。聖フランチェスコはキリストに仕えることに専念し、清貧と孤立の中で人生を全うしました。1641年に生まれたティトゥスは、レンブラントと彼の最初の妻であるサスキアの4番目で唯一生き残って成長した子供ですが、間もなく亡くなりました。そして数年の内に、レンブラントの家族の生活は貧困と困難に襲われました。絵画では、ティトゥスは暗い茶色のフード付きマントで覆われ、目は曇り、顔は光を浴びています。これは、静けさ、思索、追想の視覚的表現の優れた例です。 -
レンブラント56才の時の作品「布地商組合の見本調査官たち」です。絵画の中央部分を取り込んでいます。
すべてのアーティストにとっての芸術的な課題は、複数の人物を含めて、複雑な構成で大きな絵を描くことです。レンブラントとスペインのベラスケス(1599-1660)の絵画は、まるで映画の静止画を見ているようです。しかし、どちらにも多くの自発的な動きが含まれています。例えば、レンブラントの作品で椅子から立ち上がる男性などです。シーンが息を吹き返し、1つの質問を発します。「次に何が起こるの?」と。 -
レンブラントの59-63才頃の作品「ユダヤの花嫁」です。
真っ赤なドレスを着た女性が真珠のブレスレストとネックレスを着け、男性は左手を彼女の後ろに伸ばし、右手は彼女の胸に置いています。彼は同じく金と茶色の色合いのシャツの上に垂直にプリーツが付いた豪華な服を着ています。彼女の左手の指は彼に優しく触れています。題名の「ユダヤの花嫁」は19世紀初頭に付けられた絵のニックネームです。何の根拠もないそうです。そして、この二人が何者かも議論の的です。最も受け入れられているのは、旧約聖書の創世記に出てくる夫婦のイザックとレベッカではないかという事です。彼らは模範の夫婦です。夫は忠実で堅実で信仰心が強く、妻は控えめで美しく従順でした。 -
1656-58年頃のペンとインクで和紙に描いたグリザイユ画の「インド人の射手」です。
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1639年頃のエッチングの作品で「徴税人ヤン.ユイテンボガート」です。
この絵では、徴税人の豊かな毛皮の服のベルベットのような品質が強調されています。レンブラントは、その男を高尚な人物として描くと同時に、彼の本性を仄めかしています。背景の油絵と豊かなテーブル.クロスを備えた事務所の真ん中に座って、彼に贈られた金の袋に手を伸ばしました。彼はいやらしい手つきで袋を握っています。 -
1652年頃のエッチングの作品で「書斎の学者」です。和紙にプリントされています。
幻影を見ている学者のこの場面は信仰の寓話です。窓際の亡霊は神の知恵を象徴していますが、それは間接的かつ不完全にしか人間には理解されません。レンブラントは、神から与えられた知識の一部を取り入れているかのように、男の頭と肩に降り注ぐ超自然的な光を描いています。この印象は和紙が心地よい温かみのある色調を醸し出してくれています。 -
1640年頃のエッチングの作品で「神殿奉献」です。
右側に暗いローブとスカル.キャップをかぶり、髭を生やした男性(シメオン)が赤子を抱いて座っています。女性(マリア)が彼の前でひざまずいていて、その周りに群衆が立っています。左側には、2人の男性が、目の前に座っている犬と会話しているようです。 -
1654年頃のエッチングの作品で「聖家族のエジプト逃避」です。
「ヘロデが幼子の命を狙っている。エジプトへ行き、そこに留まれ」との天使のお告げで行動している聖家族です。 -
レンブラントの特別展の鑑賞を終えて、本館に入ります。先ずは地下1階の1100-1600年頃の絵画の展示室です。
イタリアの画家カルロ.クリヴェッリ(1430年頃-1495年)により1480年頃に制作された「マグダラのマリア」です。彼女の右手で、象徴である香油の壺を捧げています。 -
カルロ.クリヴェリによって、いわゆる「インターナショナル.ゴシック」スタイルがイタリアで最後の花を開かせました。この完璧に保存されたパネルは、クリヴェッリのキャリアの後半の作品です。それは、クリヴェリが住んでいたマルケ州の人口過疎な農村地域で、マグダラのマリアに捧げられた地方教会の祭壇画でした。
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3月4日の旅行記でロンドンのナショナル.ギャラリーでも紹介しました、イタリア.マルケ州モンテフィオーレ.デッラーゾの聖フランチェスコ教会に保存されているマグダラのマリアです。こちらは、1470年頃の作品と言われています。両方の絵とも、マリアの両手の長い指とその形が印象的です。
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イタリアのルネサンスをオランダへ紹介したオランダの画家ヤン.ファン.スコーレル(1495-1562)の1530年頃の作品「マグダラのマリア」です。
ファン.スコーレルは、彼女を魅惑的で豪華な服装の遊女として描きました。彼女の衣服は、ローマへの旅行中にファン.スコーレルが紹介されたイタリア絵画の影響を示しています。 -
この博物館の地下には、写真のような船の模型を展示した大きな部屋が用意されています。オランダもイギリスやスペインのように海洋大国でした。
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模型の1例で、帆船のカット.モデルです。
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地階から2階の展示室に上がりました。18-19世紀の作品が鑑賞できる階です。館内では、このような2輪スケーターも利用が許可されているようです。
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オランダの印象派を代表する画家イサーク.イスラエルス(1865-1934)作の「浜辺でろばに乗る」です。
ハーグ派の画家とは対照的に、イスラエルスは、デン.ハーグのスヘーフェニンゲン海辺リゾートの観光風でのんびりした情景を描きました。彼はこれらのシーンのモデルとして彼の知り合いの人々を使いました。 -
オランダの画家ヘオルヘ.ヘンドリック.ブレイトネル(1857-1923)の1885年頃の作品「イエロー.ライダー」です。
エリート「イエロー.ライダー」(騎馬大隊)は、砂丘を猛スピードで駆け抜けます。ブレイトネルは、黒と赤のバスビー(毛皮製の高帽)と制服の金のブレード(組みひも)を最大限に活用しました。 これらの色のアクセントの繰り返しは、動きのダイナミズムを強化します。 前方の馬に蹴られた砂は背後の騎手たちの景色を曇らせています。残っているのは、黒、黄、赤のアクセントだけです。 -
同じヘオルヘ.ヘンドリック.ブレイトネルの1894年の作品「白い着物の少女」です。
1893年から1896年までの間、日本の版画に触発されて、ブレイトネルは着物姿の少女の絵画を13枚も描きました。モデルはさまざまなポーズをとり、異なる色の着物を着ています。ここで目を引くのは、刺繍された白いシルクの着物で、赤いトリミングの袖とオレンジの帯が付いています。夢のような女の子は、16歳の裁縫士で、ブレイトネルのレギュラー.モデルの1人です。 -
オランダ.ハーグ派の代表的な画家ヨゼフ.イスラエルス(1824-1911)作の「海辺の子供達」です。
この魅力的なシーンには、あるメッセージが含まれています。ぼろぼろの服と貧弱なおもちゃを持った漁師の子供達は、私たちに彼らの未来を垣間見せてくれます。最年長の少年は家族の重荷を背負い、小さな船は海での過酷な生活を表します。ヨゼフ.イスラエルスは1863年にこの主題を最初に描きました。それは非常に大きな人気を得て、その後彼はこのテーマを頻繁に使いました。 -
ハーグ派に属する画家ポール.ガブリエル(1828-1903)作の「干拓地の水路にある風車」です。
「私たちの国は色で彩られています。しかし繰り返しますが、私たちの国は灰色ではなく、灰色の天気でも、砂丘の灰色でもありません」とガブリエルは手紙で書いています。多くのハーグ派の画家とは異なり、彼は実際に美しい夏の日を描く事を楽しみました。この絵には2つの美があります。それは、草、空、風車の映像と、その水面への反射です。 -
オランダ、ハーグ派の一人に数えられる海洋画家のヘンドリック.ウィレム.メスダフ(1831-1915)作の「波浪の中のフィッシング.ピンク」です。フィッシング.ピンクは、沿岸漁船の事で、人の運送にも利用されました。
メスダフは海、漁師、そしてフィッシング.ピンクに魅了されました。この船は平底で、容易に浜に引き上げる事ができました。この絵は、新しい漁獲が分配されている様子を描いています。 メスダフは、水平フォーマットと荒い筆使いで、日常のシーンを記念碑的な構図に変えました。画家は、スヘーフェニンゲンの現場で下調べを行い、実際の絵画はスタジオで制作しました。 -
絵の左側を拡大しました。浜に引き上げられたフィッシング.ピンクから漁獲が籠を持った多くの女性達に分配されています。
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こちらは絵の右側の拡大です。多数のフィッシング.ピンクが波間に漂っています。
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作者は不明ですが、1850-51年頃に制作された長崎出島の模型です。
日本は西洋への開放の前夜に、オランダとの交易所を長崎の人工島である出島に開設しました。島は非常に小さく、214 x 64メートルしかありませんでした。手前の営門と短い橋で、出島と日本人が住む長崎市街が繋がれていました。日本の当局の許可なしに出島に出入りするのを防止するために、港は厳重に封鎖されていました。 -
オランダの画家ジェイコブ.エドゥアルド.ファン.ヘームスケルク.ファン.ビースト(1828-1894)の1864年の作品です。オランダの蒸気式軍艦メドゥーサが下関を砲撃しています。
1860年頃、日本は西洋との貿易に従事すべきかどうかについて混乱に陥っていました。1863年、尊王攘夷を掲げる長州藩は、下関海峡でオランダの軍艦メドゥーサを含む西側国の艦船を砲撃しました。報復として、西側の同盟国は海峡封鎖を終わらせるために、軍事行動を開始しました。オランダは、この任務のために再びメドゥーサ号を配備しました。
この絵の手前には、手漕ぎの和船や帆掛け船が見えます。水面に浮遊物に掴まった二人、編笠を被って泳いでいる人もいます。 -
写真を拡大しました。長州藩の陸上砲台が砲撃していて、砲煙がたなびいています。
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歴史をテーマにした写実的な絵を多く残したイギリス、ヴィクトリア朝時代の画家ローレンス.アルマ=タデマ(1836-1912)作の「エジプトの未亡人」です。
オランダ出身の芸術家、アルマ=タデマはイギリスで大成功を収めました。古代エジプト、ギリシャ、ローマのシーンの彼の表現は、彼を最も人気のある19世紀の画家の1人にしました。考古学的な細部に満ちたこの絵画では、女性が夫のミイラの遺体を収める二重になった棺の内側の棺の横で喪に服しています。外側の石棺は左に置いてあり、司祭や歌手が他界を嘆いています。 -
前掲の絵画の作者と同じローレンス.アルマ=タデマ作の「ファラオの長子の死」です。
出エジプト記の聖書のこのシーンでは、モーゼとアーロンが息子を悼んでいるファラオを訪ねています。エジプトの統治者の息子は、エジプトからのイスラエル人の解放を確実にするために、神から送られた疫病の1つで亡くなりました。絵画の憂鬱は、父親の激しい悲しみを反映しています。 -
オランダの風景画家ウィナンド.ニュイエン(1813-1839)の24才頃の作品「岩だらけの沿岸の難破船」です。
この絵はオランダのロマン主義のハイライトです。それは自然の中での人間の無意味さを表しています。嵐の間に、3本マストの帆船が岩礁にぶつかり横転しました。乗組員は生存者を求めて必死に浜を捜索します。薄暗い空に太陽光線が突き刺さり、圧倒的な断崖絶壁が見え、人々を更に小さく見えます。 -
絵画の右側を拡大しました。こちらは生き残りの船員が救助作業をしているのでしょうか。
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左側の砂丘では、大勢の人々が救助作業に従事しています。
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博物館3階の中央廊の南西端に『夜景のギャラリー』があり、レンブラントの超大型の絵画が展示してあります。小学生らしいグループが引率されて鑑賞にきています。中央廊のこの展示室と隣り合う『栄光のギャラリー』にはオランダが世界に誇る著名な画家の絵画が展示してあります。
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レンブラントの最大かつ最も有名なキャンバスは、アルクビジエ(銃士).ギルド.ホールのためにに制作されました。このギルド.ホールは、アムステルダムの何箇所かにある市民警備隊、市の民兵隊、警察隊のギルド.ホールの1つでした。レンブラントは、実際に何かの仕事をしている団体の肖像画を描く最初の画家でした。黒い服を着た隊長は彼の副官に大隊が行進を開始するように指示しています。大隊が集合し始めています。レンブラントは、隊長の身振り、手や前景の少女など、特定の細部に光を当てました。少女は大隊のマスコットでした。絵が夜のシーンであると考えられたので、夜警というニックネームがずっと後18世紀末に付きました。当時絵の汚れが堆積し、大変黒ずんでいたからだそうです。
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中央に立つ隊長のフランス.バンニング.コックは、フォーマルな黒の服装と上流階級の白いレースの襟を着け、胸に赤いサッシュをアクセントとして着けています。彼の腰にはレイピア(細くて軽い剣)、手には軍の階級を示すバトンを持っています。彼は前に歩きながら頭を左に向け、手を力強く伸ばし、副官に指示しています。
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副官のウィレム.ファン.ライテンブルグ中尉は、鮮やかな黄色の派手な服装です。首の周りに着けている鋼のゴルゲットと彼が持っている短縮された儀式用のパルチザン(木の棒に槍を付けた武器)によって彼の軍事的役割が表されています。
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隣の『栄光のギャラリー』に移動しました。ヴォールト天井の仕切りとなる袖の装飾です。
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オランダが最も誇る画家のもう一人がフェルメールです。1658年頃に描かれた「小道」として知られる「デルフトの住宅の眺め」です。この建物の描写は、画家が繊細に建物の細部を観察した証拠でしょう。
フェルメールの作品の中でも珍しい絵です。静かな通りに数軒の家と数人の人々。 フェルメールは、そのシーンに緊張とバランスの感覚をはっきりと表現しました。古い壁、磨耗したレンガ、少し汚れた白い漆喰がはっきりと分かります。これがデルフトのどの場所なのかは不明です。石畳の通りの右側の家は、奥へ行く通路の扉や家の玄関扉が開いています。開いた戸口に女性が座って、忙しく裁縫をしています。二人の子供が窓下でかがみこんで遊んでいます。石鹸水が敷石の間の小さな水路を流れ落ちています。おそらく通路の女性が、こすり洗いしたばかりなのでしょう。フェルメールはこの日常のシーンをカジュアルに見せています。世界的に有名ですが、フェルメールのこの絵についてはあまり知られていません。実際、「小道」の場所が特定された事はなく、実際に存在した事も分かっていません。しかし、より重要なのは絵の雰囲気です。子供達が遊びに夢中になっている間、女性は勤勉に働いています。場面は静けさと安全を示しています。 -
左の通路奥に洗濯する女性、右の戸口では縫い物をしている女性、手前では二人の子供がかがんで遊んでいます。煉瓦や漆喰の経年変化を良く描いています。通路の上にある詳細に描かれたレンガは、彼の描き方がどれほど示唆に富んでいるかを示しています。一部の箇所では、キャンバスが絵の具を通して透けて見えますが、色のタッチが組み合わさって、無垢のレンガの印象を作り出しています。窓のシャッターや壁の白い漆喰部分など、他の場所には絵の具が厚く塗られています。ここでは、塗料の表面が漆喰のように剥がれているように見えますが、シャッターの上では、まるで木のように滑らかになっています。
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左隣の家は留守なのでしょうか、扉が閉まっています。樋の水が家の前の道路の溝や運河に流れ込んでいるのでしょう。道路の溝の対角線がなければ、画像の奥行きは少なくなります。そして通路の樋でフェルメールは、通路の女性に鑑賞者の注意を引き付けます。明らかに、アーティストはこのスルー.ビューが重要だと考えました。通路の修正跡が示すように、もともと入り口には2人目の女性がいましたが、彼女の姿が通路からの景色を遮るため、フェルメールがのちに彼女を消し去りました。
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こちらは、フェルメールの1660年頃の作品「牛乳を注ぐミルク.メイド」です。
ミルク.メイドは牛乳を注ぎ、彼女の仕事に完全に没頭しています。牛乳の流れを除いて、他のすべては止まっています。フェルメールは、この単純な日常の活動を取り入れて、印象的な絵画の主題にしたのでしょうか? 女性は明るく照らされた部屋で彫像のように立っています。フェルメールは、オブジェクトの表面上で何百もの色鮮やかな点によって光がどのように表現されるかに目を配っていました。 -
ミルク.メイドは、牛乳を搾り、バターやチーズなどの乳製品を作る女性の事です。ミルク.メイドが、簡素な部屋でテーブルにあるスクワットの陶器の壺に慎重に牛乳を注いでいます。毎日ミルク.メイドは先ず厩舎で働き始め、その後家事をこなしました。絵の中のミルク.メイドは、しっかりとしたリネンのキャップ、青いエプロン、太い前腕から押し上げられた作業用スリーブを身に着けている、丈夫そうな若い女性です。
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ミルクメイドの前のテーブルには、さまざまな種類のパンが載っています。
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こちらは、フェルメールの1663年頃の作品「手紙を読む女性」です。
静かなプライベートなひとときを楽しんでいるこの若い女性は、朝の光の中で手紙を読む事に夢中になっています。彼女はまだ青いナイトジャケットを着ています。絵の中のすべての色は、輝くラピスラズリ.ブルーの二次的なものになっています。 フェルメールは、光の影響を非常に正確に描きました。特に革新的なのは、女性の肌を淡い灰色で描き、壁に映った影を水色で表現したことです。 -
こちらは、フェルメールの1669-70年頃の作品「ラブレター」です。
フェルメールは、この絵に珍しい視点を選びました。前景の薄暗い空間から、別の部屋を垣間見ています。手前の縛られたカーテンは、鑑賞者が非常にプライベートで個人的なシーンを見ているような印象を与えます。市松模様の床の対角線が奥行きと立体感を演出します。 -
優雅な格好の女性が、手紙を渡したばかりのメイドを見つめています。女性がラブレターを受け取った事は、彼女がリュートを所持しているという事実によって明らかにされています。青と金の色は、絵画の構成において重要です。ここでは、金色の装飾がかなりの富を示しています。金は、女性のドレス、暖炉の上部、および多くのオブジェクトに配置され、床の青、メイドのドレス、額縁などを補完しています。その背後にある壁の海景画は、手紙の主題を暗示しているようです。17世紀には、海は愛と、恋人は船と比較されたことがよくありました。
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17世紀のオランダの画家ピーテル.デ.ホーホ(1629-1684)の1660年頃の作品「母の義務」として知られる「子供の髪の虱を獲る母親」です。オランダ全盛時代の風俗画家の一人に数えられ、とくにデルフト時代の風俗画はデルフト派の絵画として高く評価されています。
母親が子供のシラミを徹底的に探し出しています。彼女はデルフト.ブルーのタイルとボックス.ベッドを備えた、落ち着いたオランダの部屋で仕事を続けています。右手前には「カクセル」、つまりトイレの椅子があります。戸口からは日当たりの良い奥の部屋と庭が垣間見えます。 デ.ホーホはこのような「スルー.ビュー」に特化しています。 -
同じくピーテル.デ.ホーホの1656-1660年頃の作品「パントリーの中の子供と女性」です。
デ.ホーホは、ヨハネス.フェルメールと同時に、デルフトで数年間働いていました。どちらのアーティストも、光と空間の使い方に魅了されました。ここでは、デ.ホーホは2つの「透視図」(出入り口から窓を垣間見る)によってスペースを表現しています。1つはセラーに、もう1つはエントランス.ホールに。彼は最も明るい塗料、すなわち真っ白で日光を描きました。このようにして彼は、内部空間の完璧な幻想を作り出しました。 -
オランダ、ライデン生まれの画家ヤン.ステーン(1626-1679)の1660年以降の作品「ダンスの指導」として知られる「猫にダンスを教える子供達」です。17世紀のバロック期に活躍したヤン.ステーンは、静物画、肖像画、歴史画、宗教画など様々なジャンルの作品を800ほど制作しましたが、特に有名なのは農民を描いた風俗画です。
この子供達はいたずらをしています。彼らは猫に17世紀の管楽器であるショームの音楽に合わせて踊るように教えています。彼らが楽しんでいる間、猫は吠える犬と一緒に抗議の金切り声を上げます。窓際の老人は怒って子供たちを叱責します。 -
こちらも同じヤン.ステーンの1665-1668年頃の作品「聖ニコラスの饗宴」です。
聖ニコラスの饗宴は12月に開催されます。オランダでは、何世紀にもわたって同じ方法で祝われてきました。良い子供達は聖人から贈り物を受け取ります。例えば、手前の少女は、おやつがいっぱい入ったバケツを持っています。わんぱくな子供達は、左側の泣いている少年のように、黒い靴の中に小枝の束しかありません。ヤン.ステーンは生まれながらの語り手でした。彼はこの絵に人気のごちそうのすべての要素を組み込むことに成功しました。 -
これは同じヤン.ステーンの1655-1665年頃の作品「酔っ払った夫婦」です。
男と女は酔っ払っているので、泥棒が入っている事に気づきません。男女の愚かさは、仕切り板に貼っていある絵によって強調されています。17世紀に愚かな生き物と見なされていたフクロウが描がかれています。フクロウは、ろうそくや眼鏡を使っても、日中は何も見る事ができません。したがって、酔った夫婦はフクロウと同じくらい盲目であり、英語の慣用語句「コウモリのように盲目」で生き残っているメッセージです。 -
オランダの風景画家サロモン.ファン.ロイスダール(1602-1670)の1649年の作品「渡し船が浮かぶ川の風景」です。
4頭の馬、2頭の牛、5匹の犬、11人の乗客が乗っているこの細長い渡し船は、荷が重く見えます。遠くの船も乗客で混んでいます。ファン.ロイスダールは、平坦で水辺が多いオランダの風景の優れた解説者でした。ここで彼は、実証済みの組み合わせにしました。右側は、背の高い木が並ぶ堤で、左側は地平線まで伸びている水域です。 -
絵の左下部分を拡大しました。漁船も含め多数の船が活躍しています。左後方の3艘の帆掛け船にも多くの人が乗船しているのが見えます。
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ウィレム.ファン.デ.ヴェルデ2世(1633-1707)の1665年頃の作品「凪いだ海のオランダ帆船」です。彼は師でもある父とともに1673年までにイギリスに移り住みました。
穏やかな海上に何隻かの軍艦が、帆が揚げられ、錨が上げられて停泊しています。 小戦隊が出航の準備をしています。要人が乗るスループが通り過ぎ、トランペットの響きと敬礼の礼砲の方向に向かいます。この優れた海洋画家による最高の宝石のような1枚です。 -
左側の帆船を拡大しました。船首では錨の引き揚げが、メイン.マストの周りでは展帆作業が進んでいるようです。この帆船の後方右側では礼砲発射の黒煙が見えます。
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こちらは右側の帆船です。船尾の装飾が見事です。
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本船に向かうスループです。漕ぎ手の他にラッパ手も船首に見えます。
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同じウィレム.ファン.デ.ヴェルデ2世の1680年頃の作品「発砲」です。
穏やかな海面でオランダ軍艦が帆を緩め、大砲を発射しました。軍艦の両側に2隻のスループが見え、帆を下ろした別のオランダ船が遠くに見えます。 -
発砲した軍艦を拡大しました。
ファン.デ.ヴェルデの最高の作品のほとんどは、オランダ沖のオランダの海洋活動を描いています。 彼の最高の作品は繊細で、活気に満ちており、船とその索具が正しく描かれています。また、数多くの人物が加えられており、アーティストは穏やかであれ嵐であれ、海の表現に成功しています。 船はほとんど写真のような正確さで描かれており、17世紀の船の外観を知る最も正確な資料になります。 -
『栄光のギャラリー』の北東端は、グレート.ホールと呼ばれています。特に絵画や彫刻の展示はありませんが、部屋の壁面に装飾としての絵が描かれています。
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その壁面の1例です。
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『栄光のギャラリー』を出て南東翼廊の展示室に向かいます。
歴史的、神話的、または寓話的なテーマを多く描いたフランダースの画家フランス.フランケン(1581-1642)の作品「ブリュッセルのチャールズ5世皇帝退位の寓意」です。
チャールズ5世は中央の玉座に座っています。戦いに疲れ、病気に悩まされ、1555年に帝国を分裂させました。彼は弟のフェルディナンド(王の左側)に神聖ローマ帝国を与え、息子のフィリップ(右側)はスペイン国王とオランダの君主になりました。右前景の4人の人物は、チャールズの広大な帝国がまたがる大陸の南北アメリカ、アフリカ、アジアを象徴しています。 ネプチューン(左手前)は、海での彼の力を誇示しています。 -
鮮やかな色彩の右下の部分を拡大しました。
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フランドルの代表的な画家ヤコブ.ヨルダーンス(1593-1678)作の「オデュッセウスとナウシカの出会い」です。
ヨルダーンスはアントワープで最も著名な画家の一人で、幅広いジャンルの絵を描きました。 ここでは、ホーマーのオデュッセウスのエピソードを描いています。船が難破して衣服を失い疲れ果てたオデュッセウスは、ナウシカ王女とお付きのメイド達を怖がらせます。王女の父は最終的に自分の王国に帰国するのを助けます。 -
冬の景観画で有名なオランダの画家ヘンドリック.アーフェルカンプ(1585-1634)の1620年頃の作品「街の近くで氷を楽しむ」です。
スケートの絵を描く事への情熱は、おそらく彼の子供時代に両親とスケートを練習した時から起こったのでしょう。彼が生まれた16世紀の最後の四半期は、小氷河期の最も寒い時期の1つでした。
画面中央で乞食がお金をねだろうとしています。左側では一人の男が魚を獲るために氷に穴を開けました。貧しい人々は生計を立てるために苦労しなければなりません。普通に生活できる人は氷を楽しみます。そして最も裕福な人は? 右手前を見てください。一部の裕福な女性は、ベルベット.マスクを着用して、目の周りの繊細な肌を寒さから守ります。 -
絵の左側を拡大しました。氷上で魚を釣る人、馬にソリを引かせる裕福な人々が見えます。馬はどのようにして氷の上を走るのでしょうか?馬には特別な蹄鉄がつけられているようには見えません。
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右側の拡大です。右隅には上流社会の人々が集まっています。右上には、何故か絞首台のようなものが描かれています。怖い!
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フランドルの画家アドリアーン.ファン.オスターデ(1610-1685)の1661年の作品「室内の農民」です。ファン.オスターデは、オランダの農民の日常生活を描いた作品で知られています。
3人の男性と1人の女性が今日の出来事を話し、子供が犬を見ながらスープを飲みお粥を食べています。農民の生活は決して悪くはないようです。ファン.オスターデの初期の作品では、農民はいつも喧嘩を繰り返していますが、彼の後の作品では、この作品のように、落ち着いたシーンになっています。 -
農民の野外での祭りや祝賀の様子を多く描いたフランドルの画家ダフィット.テニールス(子)(1610-1690)の1665年頃の作品「カーミス祭の農民」です。
テニールスのカーミス祭のシーンでの農民達は、非の打ちどころのない行動をとります。彼らは、食べたり飲んだり、バグパイプの音楽に合わせてダンスしたり、ただお喋りをしたりしています。この陽気なシーンで唯一の好ましからざる行為は飲み物によって引き起こされます。 左前景の男はもはや脚で立つことができません。色彩は明るく陽気で、洗濯したてのシャツやエプロンが良いアクセントになっています。 -
さまざまなジャンルで活躍したオランダの画家コルネリス.サフトレーフェン(1607-1681)の1642年の作品「村の旅館前の人々」です。
嵐が発生しています。左の男性はすでに飲み過ぎですが、まだ注文しています。青い服の男が持つ危険な短剣はこれからのトラブルを暗示しています。右端の夫婦はいちゃついています。そして、かっこいい男の修道士は彼のカードゲームに夢中になっています。 -
オランダの画家ヘラルト.ドウ(1613?1675)の1960-65年頃の作品「夜間学校」です。
ドウは、ガラス彫刻家の息子として、ガラスの彫刻と塗装を学ぶ事から始めました。1628年に、彼はレンブラントに弟子入りしました。ここでドゥは、キアロスクーロの芸術、即ち彼の専門となった光と陰のコントラストを学びました。彼のろうそくに照らされたシーンは大流行しました。 ドウのこのジャンルの絵画は高額で販売されました。彼の綿密なスタイルは、非常に影響力がありました。 -
オランダの黄金時代の有力で先駆的な画家ヘラルト.デル.ボルフ(1617-1681)の1650-1660年頃の作品「農民の服装で座っている少女」です。
17世紀には、農民の服を着たこの若い女性は、彼女のピンナップされたハーネスと赤いカチューシャから、未婚の田舎の少女としてすぐに認識されたでしょう。テル.ボルフのモデルは、おそらく彼の異母姉妹のジェシーナでした。 彼女は彼に様々な役割で定期的にポーズをとりました。 -
同じ画家ヘラルト.テル.ボルフの1648年頃の作品「ヘレナ.ファン.デル.シャルケ」です。
商人の娘であるヘレナは、テル.ボルフが彼女を描写したとき、3歳でさえなっていませんでした。しかし、彼女のエレガントなドレスと籐のバスケットは、彼女を少し大人っぽく見せます。彼女の衣装は、レース、重い金の鎖で飾られています。彼女の背中に僅かに見えるのは彼女の歩行を助ける手綱の1つです。これにより、母親は子供たちの最初の歩行をサポートおよびガイドし、大きくなれば子供たちが勝手に離れる事を防ぐことができました。 -
オランダ.バロック黄金時代の画家ニコラース.ベルヘム(1620-1683)の1656年の作品「牛の群れ」です。
遊牧民が川の浅瀬に牛を追い込みます。手に負えない牛が水を跳ね、農民の女性の不快感を煽り立てます。別の女性は荷を積んだ牛に乗っています。ベルヘムは、景観の南方の特徴と、北方に見られる種類の松の木を組み合わせました。 -
オランダ黄金時代の景観画家アダム.ピナッカー(1622-1673)の1650-55年頃の作品「イタリア風の川の風景」です。
イタリアの滞在からオランダに戻ると、アダム.ピナッカーは、黄金の地中海の光を浴びた南部の風景画を専門とするようになりました。彼の絵画は、暖かい夏の日の静かな雰囲気が特徴です。黄味を帯びた光と長く伸びた影が、秋の夕方を告げています。この写真は、絵画の下部を拡大し、夕空を除いています。 -
オランダの黄金時代の画家カレル.デュ.ジャルダン(1622-1678)の1652年の作品「山羊を搾乳する少女のいるイタリアの風景」です。この画家は、2度イタリアに滞在し、最後はヴェネツィアで没しました。彼の作品のほとんどは、動物や農民と他のジャンルのシーンを含むイタリア風の風景です。
日差し、暖かい空気、田舎暮らし? 17世紀の絵画収集家もイタリアについてそのような見方をしていました。デュ.ジャルダンは、牧歌的な場面を手がける事の達人でした。左側では、昇る太陽によって青空が黄色を帯び、すぐに谷からの霧が消えます。夫婦でしょうか、男性の青いチョッキと女性の赤いスカートが印象的です。 -
オランダ黄金時代の画家コルネリス.クラース.ファン.ウィーリンゲン(1577-1633)の1621年頃の作品「1607年のジブラルタルの戦い」です。この画家は、ハールレムで船長の息子として生まれ、帆船や海戦の絵を得意としました。
1607年のジブラルタルの戦いは、オランダの独立のためのスペインとの "80年戦争" の最中に発生しました。オランダの艦隊は、ジブラルタル湾に停泊中のスペイン艦隊を奇襲攻撃しました。スペインの旗艦は、より小さなオランダの軍艦の砲撃により船体中央部を破壊されます。そして、ジブラルタル湾の真ん中で爆発しました。これはオランダ艦隊が自身の縄張り水域を越えてスペイン人と戦う最初の海戦になりました。オランダは、4時間ほど続いたこの海戦で大きな勝利を収めます。スペインの損失は甚大でした。スペインの兵士は空中に飛び散り、海で溺れます。この絵画は、輝かしいオランダの勝利を祝うためのものです。 -
中央のオランダとスペインの軍艦を拡大しました。この絵では、砲撃で爆発しているスペインの旗艦にオランダ艦がぶつかっている様子になっています。そのため、オランダ艦では、総員退船の命令がでたようで、兵士や船員が船から逃げ出しています。。
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爆発炎上するスペイン艦の右側です。オランダの国旗を掲げた小舟が海に落ちた人々を救助しているようです。
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オランダ黄金時代の海景画家ウィレム.ファン.デ.ヴェルデ1世(1610-1693)の1659年の作品でグリザイユ画の「ダウンズの海戦」です。
ダウンズの海戦は、"80年戦争"の最中の1639年に発生しました。スペインは、大艦隊でもって軍隊と補給品をフランダースに輸送しようとしました。スペインの艦隊は、オランダの艦隊にイギリス海峡で迎撃されます。マールテン.トロンプ少将が率いるオランダ艦隊は、アントニオ.デ.オケンド提督によって指揮されたスペイン軍を決定的な敗北に追い込みました。トロンプ少将の壮大な勝利とスペインの戦艦サンタ.テレサの捕獲(左側で燃えている大きなスペインの軍艦)は、手ごわいオランダ艦隊の評判を確立しました。 -
画面の左側を拡大しました。左隅には船尾にサンタ.テレサの肖像を掲げたスペインの軍艦サンタ.テレサが攻撃を受けています。中央奥ではスペイン艦が両側をオランダ艦に挟まれています。右端のオランダ艦は、マスト2本を残しただけで大破していますが、最後にはその左のスペイン艦を沈めたようです。
この戦いには、オランダ側は95隻の軍艦、スペイン側は38-53隻の軍艦が参加しました。そしてオランダは10隻を失い、スペインは25-43隻を失いました。スペインの大敗です。 -
画面の右側です。帆走軍艦は、木造なので砲撃で沈める事はできません。砲撃で砲座を破壊したり、マストをへし折ったりして戦闘力を削いで、軍艦に乗船している兵士が乗り移って相手の兵士を倒し、火をつけて船の上部を焼失させてお終いにします。それが手前に浮かぶ船の残骸です。
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この絵画もウィレム.ファン.デ.ヴェルデ1世(1610-1693)の1659年以降のグリザイユ画「リボルノ(レグホーン)の戦い」です。
この海戦は、1653年3月イタリア.ピサの直ぐ南のリボルノ(レグホーン)の沖で第1次英蘭戦争中に発生しました。イギリスの徴用商船サムソンは、コーネリス.トロンプの旗艦ハルベ.マーンとの遭遇の後、イタリアの沖合で炎上し海戦が始まりました。ファン.デ.ヴェルデは、このペン画の中央に両方の軍艦を描いています。 トロンプは、自分を称え、栄光を与えるような絵画をファン.デ.ヴェルデに注文しました。 作品は、今でもトロンプ家の紋章がまだ残った元のフレームに収まっています。 -
画面の中央を拡大しました。右にコーネリス.トロンプの軍艦ハルベ.マーン(三日月の意味です)、左に沈没直近かで炎上中の徴用商船サムソンです。この戦いでイギリス側は、2隻が破壊され沈没し、オランダに3隻が鹵獲されました。そして1隻が遁走しました。
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画面の左側です。象が船尾に描かれた艦は、オランダが徴用したイタリア商船ウィッテ.オリファント(白象の意味)のようです。オランダ艦は、帆に穴が開いたりしていますが、三本マストは健在で、オランダ国旗を高々と掲げています。
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画面の右側の拡大です。左端遠くではイギリスの軍艦でしょうか、爆発して粉々になりつつあるようです。右の2隻はイギリス艦のようで、その1隻は沈没しつつあります。
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こちらは、オランダの海洋画家レイニエ.ヌーム(1623-1667)が1653-1664年頃に描いた同じリボルノ(レグホーン)港沖海戦の絵画です。この海戦で勝利したオランダは、地中海貿易の支配を確実にしました。ヌームは、アムステルダムのレバンティン貿易商工会議所のために描きました。
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左側半分を拡大しました。イギリスの軍艦がオランダの軍艦2隻に挟まれて攻撃を受けています。左のオランダ艦は、ゾーン(太陽の意味)号のようです。
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右半分の拡大です。右下隅には、すでに沈没したイギリス艦のマストが見えます。中央で乱戦中の艦船の中に、船尾に三日月のマークを付けたコーネリス.トロンプの軍艦ハルベ.マーンが見えます。挟み込まれているイギリス艦のマストが倒れる瞬間でしょうか。この海戦にはオランダ側は16隻、イギリス側は6隻の軍艦が参加しました。
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ウィレム.ファン.デヴェルデ1世の1657年の作品「テルハイドの戦い」です。
1652年から1674年の間に、オランダは英国と3回の海戦を体験しました。テルハイドの戦いは、オランダのデン.ハーグ沖で海上封鎖をしていたイギリスの艦隊との海戦でした。オランダ側は、より多くの損害を受けましたが、イギリスは封鎖を解除しオランダの戦略的な勝利に終わりました。この戦いで戦死したオランダの海軍司令官マーテン.ハーペルツ.トロンプを記念して、彼の家族はウィレム.ファン.デフェルデにトロンプの最も有名な戦いの一連のペン画を依頼しました。画家は、細心の注意を払い、正確な彫刻に似たこれらの作品をキャンバス上にペンとインクで描きました。ファン.デフェルデは1653年にテルハイドの戦いを実際に目撃しました。彼は船上で作成したスケッチをこのペン画に活用しました。 -
画面右下隅を拡大しました。この海戦には、イギリス側120隻、オランダ側127隻の軍艦が参加し、イギリスは2隻を失い、オランダは14-30隻の軍艦を失っています。画面の中の大破した艦や沈没した艦はオランダ側でしょうか。
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こちらも同じ1653年8月のテルハイドの戦いを、海洋画と風景画を得意としたヤン.アブラハムシュ.ベアスタテン(1622-1666)が1653-1666年に描いた作品です。
中央には、マーテン.ハーペルツ.トロンプ提督が率いるオランダ艦隊で最大の艦、ブレデローデがイギリスの軍艦を砲撃しています。オランダ共和国はこの戦いに大敗し、致命傷を負った指揮官のトロンプを失いました。その後イギリスとウェストミンスター条約を結び両国の戦いを終わらせましたが。オランダ側は、大きな譲歩を迫られました。 -
画面の左側の拡大です。イギリス艦が多数のオランダ艦を沈めているようです。
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絵画の中央で死闘を続けている軍艦です。左の少し小さな艦は、オランダのトロンプ提督の旗艦ブレデローデで、右の大きな艦は、イギリスのモンクが率いるレゾリューションのようです。オランダ艦はメイン.マストが折られた瞬間です。イギリス艦は後ろのマストが既に無くなっているようです。
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こちらは画面の右側です。手前でイギリス艦が沈み始めています。
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第2次英蘭戦争中の1666年6月、オランダとイギリスの艦隊が北海南部で猛烈な戦いを繰り広げました。いわゆる "4日間の戦い" です。細部とドラマ感に目を向け、ウィレム.ファン.デ.ヴェルデ2世は、戦いの3日目にイギリスの旗艦ロイヤル.プリンス(左)がギャルパーサンドの砂州に座礁し、オランダ側に捕らえられた瞬間を描きました。 彼らの降伏を知らせるために、英国の乗組員は旗を下ろさせました。
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左側の降伏した英国軍艦ロイヤル.プリンスを拡大します。降伏の白旗をマストに掲げています。英国海軍の歴史で初めて、高位の提督が海上で捕虜になる事になりました。オランダ軍はロイヤル.プリンスを離礁させましたが、舵輪装置に大きな損傷を受けていたので、拿捕してオランダに連行する事ができないと判断し、焼却処分します。
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絵の右側には旗艦らしいオランダ軍艦が描かれています。この4日間の海戦で、イギリスは10隻の軍艦を失い、オランダは4隻を失いました。
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ドイツ生まれのオランダ人画家ルドルフ.バクフイゼン(1630-1708)の1689年の作品「ロッテルダム沖、マース川沿いの戦艦ブリーレ」です。
1688年、この船でイギリスに行ったウィリアム3世は、カトリック王ジェームズ2世を権力の座から追い落とし、プロテスタントの信仰を守りました。 赤い旗のラテン語の碑文は、「信仰と自由のため」と解釈されます。 バクハイゼンはこの絵を1689年に描きました。この年は、ウィリアム3世とメアリー.スチュアートがイギリスの王であり王妃でした。 -
展示室にあった帆船の船尾の装飾です。
3時間弱、アムステルダム国立美術館に滞在して外に出ました。午後2時40分です。計画では次にエルミタージュ.アムステルダム美術館に行く予定でしたが、疲れたし、残り時間も2時間を切っているので諦めました。初めての訪問になる筈でしたが残念です。 -
博物館前で客待ちのエコ.バイク.タクシーです。
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博物館近くから市電に乗って中央駅に向かいます。途中の運河沿いには、運河に張り出した多数の出店が見えました。
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駅について軽食を摂りホーム下の通路で乗車待ちです。
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結局アムステルダムには5時間半ほどの滞在になりました。ブリュッセルまで予約していた4時15分発車の高速列車タリスに乗車します。39分後にロッテルダムで途中下車します。
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ガラガラの2等車の車内です。タリスの車両はフランスのTGVと同じアルストムというフランスの会社が製造しています。
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定時にアムステルダム中央駅を発車しました。
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16時54分 、ロッテルダム中央駅に着きました。オランダ人は、この車掌さんのように大きな人が多いです。
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ロッテルダム中央駅から2階建てのインター.シティー列車でデン・ハーグへ走ります。
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6時前にデン.ハーグ.H.S.駅に着いて、1番の市電に乗りました。昨日昼食に寄ったレストラン "Palmette" 前を走ります。
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夕日で黄味を帯びたビネンホフの建物群です。手前のホフ池の畔には、旗が掲げてありますが世界の国旗ではなさそうです。
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ホフ池北西端にある司法評議会に建物です。
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ホテルに帰って来ました。ホテル.インディゴの外観です。この1階に我々の部屋があり、1泊だけ昨日泊まった221号室の部屋は3階にあります。このように1階は天井が高くなっています。昔は銀行として使われていました。
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1階の部屋からババが外を見ています。窓格子がしっかりと守っています。
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部屋からジジを見ます。このように道路のすぐ側ですが、特に騒音に悩まされた事はありませんでした。
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ホテル内の通路です。明日は初めてのライデン訪問です。
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旅行記グループ
イギリス、オランダ、ベルギー、イタリア、ドイツ30日間
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (14)デン.ハーグから日帰りでライデンを訪れました(3月12日)
2019/02/26~
ライデン
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (1)オックスフォードへ日帰り旅行です(2月27日)
2019/02/26~
オックスフォード
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (2)バーミンガムに移動です(2月28日)
2019/02/26~
バーミンガム
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (3)バーミンガムからリヴァプールへ移動します(3月1日)
2019/02/26~
リバプール
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (4)リヴァプールからマンチェスターへ日帰り旅行です(3月2日)
2019/02/26~
マンチェスター
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (5)リヴァプールからチェスターへ移動です(3月3日)
2019/02/26~
リバプール
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (6)チェスターからロンドンへ移動です(3月4日)
2019/02/26~
チェスター
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (7)ロンドンで美術館をハシゴしました(3月5日)
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ロンドン
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (8)ロンドンでまたまた美術館のハシゴです(3月6日)
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ロンドン
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (9)ロンドンからデン.ハーグに船、鉄道で移動し、デルフトを散策し...
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デルフト
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (10)デルフトで再治療の後、デン.ハーグで休養です(3月8日)
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (14)デン.ハーグから日帰りでライデンを訪れました(3月12日)
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フィレンツェ
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (23)シエナからヴォルテッラにデイ.トリップしました(3月21日...
2019/02/26~
ヴォルテッラ
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (25)シエナから午後にヴェネツィアへ移動します(3月23日)
2019/02/26~
シエナ
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (26)晴天の下ヴェネツィアでのんびりです(3月24日)
2019/02/26~
ベネチア
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (27)晴天の下ヴェネツィアで美術館.教会巡りです(3月25日)
2019/02/26~
ベネチア
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (28)ヴェネツィアで美術館.教会巡りの後ミュンヘンに出立です(3...
2019/02/26~
ベネチア
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シニア夫婦の欧州5カ国ゆっくり旅行30日 (29)最終日はミュンヘンの美術館です(3月27日)
2019/02/26~
ミュンヘン
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