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秦の始皇帝所縁の兵馬俑坑の紹介です。兵馬俑坑は、1997年(平成9年)6月に初めて見学し、今回が4回目になります。2011年に見学して以来、8年振りとなりました。世界遺産中の世界遺産は、何度見ても見飽きることはありません。

2019秋、中国旅行記25(4/34):11月18日(2):西安(3):兵馬俑1号坑、朝日に照らされた兵馬俑

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2019/11/17 - 2019/11/21

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旅行記グループ 2019秋、中国旅行記25(上巻)

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旅人のくまさん

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秦の始皇帝所縁の兵馬俑坑の紹介です。兵馬俑坑は、1997年(平成9年)6月に初めて見学し、今回が4回目になります。2011年に見学して以来、8年振りとなりました。世界遺産中の世界遺産は、何度見ても見飽きることはありません。

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  • 兵馬俑1号坑の建物入口光景です。最初に兵馬俑坑の発見に関する、簡単な年表の紹介です。1974年3月29日に1号坑、1976年4月23日に2号坑、1976年5月11日に3号坑が発見されました。また、先に紹介した有名な2台の銅車馬は、1980年12月に出土しています。<br />

    兵馬俑1号坑の建物入口光景です。最初に兵馬俑坑の発見に関する、簡単な年表の紹介です。1974年3月29日に1号坑、1976年4月23日に2号坑、1976年5月11日に3号坑が発見されました。また、先に紹介した有名な2台の銅車馬は、1980年12月に出土しています。

  • 正面から眺めた兵馬俑1号坑の光景です。右手から朝日が射し込んでいました。地元の農民の方が偶然に発見し、その後の調査で東西230メートル、南北62メートルの坑に、6000体もの兵馬俑が発見されることとなりました。他にも二つの坑に2000体の兵馬俑が見つかり、発見順に1号坑、2号坑、3号坑と名付けられました。

    正面から眺めた兵馬俑1号坑の光景です。右手から朝日が射し込んでいました。地元の農民の方が偶然に発見し、その後の調査で東西230メートル、南北62メートルの坑に、6000体もの兵馬俑が発見されることとなりました。他にも二つの坑に2000体の兵馬俑が見つかり、発見順に1号坑、2号坑、3号坑と名付けられました。

  • 兵馬俑1号坑の天井光景です。6000体もの兵馬俑が発見された場所ですから、覆いが主体の建物とはいえ、巨大な造りです。1974年3月29日に初めて発見された場所も表示がされているはずです。1997年(平成9年)6月に見学した際、その発見者の方に、その場でサインして貰ったカタログを購入しました。

    イチオシ

    兵馬俑1号坑の天井光景です。6000体もの兵馬俑が発見された場所ですから、覆いが主体の建物とはいえ、巨大な造りです。1974年3月29日に初めて発見された場所も表示がされているはずです。1997年(平成9年)6月に見学した際、その発見者の方に、その場でサインして貰ったカタログを購入しました。

  • 東側からの陽が射した方面のズームアップ光景です。後ほど、明るくなった場所を重点に兵馬俑の撮影を行うことにしました。ネット情報からの紹介ですが、『横に4体並んだ隊列が9坑、その両側を横2列の兵の坑が囲み、そして手前に横列68体の兵が3列並んでいる。』と紹介されていました。後ろの方はまだ発掘作業の最中です。

    東側からの陽が射した方面のズームアップ光景です。後ほど、明るくなった場所を重点に兵馬俑の撮影を行うことにしました。ネット情報からの紹介ですが、『横に4体並んだ隊列が9坑、その両側を横2列の兵の坑が囲み、そして手前に横列68体の兵が3列並んでいる。』と紹介されていました。後ろの方はまだ発掘作業の最中です。

  • 同じく、東側からの陽が射した方面のズームアップ光景です。説明パネルには『1号坑的兵器」のタイトルがありました。この場合の『的』は『の』と和訳してよさそうです。具体的には、弓、弩、矛、剣をはじめ、数多くのものが列挙してありました。

    同じく、東側からの陽が射した方面のズームアップ光景です。説明パネルには『1号坑的兵器」のタイトルがありました。この場合の『的』は『の』と和訳してよさそうです。具体的には、弓、弩、矛、剣をはじめ、数多くのものが列挙してありました。

  • 陣構えについては、『陣構えとみれば方形陣で、9列の隊列が主力軍、手前の3列が先鋒、横2列の右翼と左翼、最後尾にはしんがりの隊列がいる』と解説したネット情報もありました。また、『両翼のそれぞれ外側1列の兵は横を向いている.横からの敵の攻撃に備えているようだ。』とも分析されていました。

    陣構えについては、『陣構えとみれば方形陣で、9列の隊列が主力軍、手前の3列が先鋒、横2列の右翼と左翼、最後尾にはしんがりの隊列がいる』と解説したネット情報もありました。また、『両翼のそれぞれ外側1列の兵は横を向いている.横からの敵の攻撃に備えているようだ。』とも分析されていました。

  • 兵士に挟まれるような場所に並んでいた3頭の陶馬の光景です。鞍を付けていない裸馬のように見えましたが、腐食などで喪失してしまった結果かもしれません。兵士たちが手にした武器の柄など、木製などのものは、すべて喪失しています。

    兵士に挟まれるような場所に並んでいた3頭の陶馬の光景です。鞍を付けていない裸馬のように見えましたが、腐食などで喪失してしまった結果かもしれません。兵士たちが手にした武器の柄など、木製などのものは、すべて喪失しています。

  • 四列に整列した兵士俑の光景です。兵馬俑で感心させられるのが、兵士の顔形や髪型、服装までも、写実的に造られていることです。最初に見学した、1997年の時も、兵士や指揮者の地位や出身地なども、類推できるとお聞きした記憶があります。

    四列に整列した兵士俑の光景です。兵馬俑で感心させられるのが、兵士の顔形や髪型、服装までも、写実的に造られていることです。最初に見学した、1997年の時も、兵士や指揮者の地位や出身地なども、類推できるとお聞きした記憶があります。

  • 同じく、四列に整列した兵士俑の光景です。先程の写真は、向かって左側の陣容でしたが、こちらは右側の陣容です。全員揃って、欠けた兵士の姿は見当たらないようです。前から6列目まで24名が揃っていました。

    同じく、四列に整列した兵士俑の光景です。先程の写真は、向かって左側の陣容でしたが、こちらは右側の陣容です。全員揃って、欠けた兵士の姿は見当たらないようです。前から6列目まで24名が揃っていました。

  • 秦の始皇帝は、紀元前221年に初めて中国を統一し、漢、趙、魏、楚、燕という6ケ国の漢民族を強力な一つの中央集権国家として秦王朝を確立し、中国の自国の土地の境界線を引きました。始皇帝陵の兵馬俑においては、兵馬など軍隊を中心にしながらも、生活に必要なものもあり、規模は中国最大級です。以降の時代は、小型化や簡素化が進みました。

    秦の始皇帝は、紀元前221年に初めて中国を統一し、漢、趙、魏、楚、燕という6ケ国の漢民族を強力な一つの中央集権国家として秦王朝を確立し、中国の自国の土地の境界線を引きました。始皇帝陵の兵馬俑においては、兵馬など軍隊を中心にしながらも、生活に必要なものもあり、規模は中国最大級です。以降の時代は、小型化や簡素化が進みました。

  • 正面から眺めた、兵馬俑1号坑の光景です。右手前に見える説明パネルには、『1号坑概況』のタイトルがありました。その概要は、遺構の大きさが東西230メートル、幅(寛)62メートル、総面積が14260平方メートルというものです。その内の発掘調査された部分が4000平方メートル(約28%)とも表示されていました。

    正面から眺めた、兵馬俑1号坑の光景です。右手前に見える説明パネルには、『1号坑概況』のタイトルがありました。その概要は、遺構の大きさが東西230メートル、幅(寛)62メートル、総面積が14260平方メートルというものです。その内の発掘調査された部分が4000平方メートル(約28%)とも表示されていました。

  • 『1号坑概況』のタイトルがあった説明パネルの紹介の続きです。14260平方メートルの約3割の4000平方メートルの発掘調査が済んだ時点での概況です。陶俑と陶馬が2000件、戦車が20両と表示されていました。埋蔵品全体では、陶俑と陶馬が6000件、戦車が50両強と見積もられています。

    『1号坑概況』のタイトルがあった説明パネルの紹介の続きです。14260平方メートルの約3割の4000平方メートルの発掘調査が済んだ時点での概況です。陶俑と陶馬が2000件、戦車が20両と表示されていました。埋蔵品全体では、陶俑と陶馬が6000件、戦車が50両強と見積もられています。

  • あらためて、兵馬俑についての歴史と概要を紹介しておきます。古代中国の俑は死者の墓に副葬される明器(冥器)の一種として、被葬者の死後の霊魂の『生活』のために製作されました。春秋戦国時代には殉葬の習慣が廃れて、人馬や家屋や生活用具をかたどった俑が埋納されるようになり、華北では主として陶俑が、湖北湖南の楚墓ではとくに木俑が作られました。(ウィキペディア)

    あらためて、兵馬俑についての歴史と概要を紹介しておきます。古代中国の俑は死者の墓に副葬される明器(冥器)の一種として、被葬者の死後の霊魂の『生活』のために製作されました。春秋戦国時代には殉葬の習慣が廃れて、人馬や家屋や生活用具をかたどった俑が埋納されるようになり、華北では主として陶俑が、湖北湖南の楚墓ではとくに木俑が作られました。(ウィキペディア)

  • 兵馬俑についての歴史と概要の紹介の続きです。兵馬俑は戦国期の陶俑から発展したものですが、秦代の始皇帝陵兵馬俑において、その造形と規模は極点に達しました。漢代以降も兵馬俑は作られましたが、その形状はより小型化し、意匠も単純化されたものとなりました。

    兵馬俑についての歴史と概要の紹介の続きです。兵馬俑は戦国期の陶俑から発展したものですが、秦代の始皇帝陵兵馬俑において、その造形と規模は極点に達しました。漢代以降も兵馬俑は作られましたが、その形状はより小型化し、意匠も単純化されたものとなりました。

  • 始皇帝陵の存在は、『史記』や『漢書』など、古代中国の歴史書に記されていました。『史記』は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷(紀元前145/135年?~紀元前87 /86年? )によって編纂された中国の歴史書です。正史の第一に数えられます。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談が父です。『史記』は、 本紀12巻、表10巻、書8巻、世家30巻、列伝70巻から成る紀伝体の歴史書です。

    始皇帝陵の存在は、『史記』や『漢書』など、古代中国の歴史書に記されていました。『史記』は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷(紀元前145/135年?~紀元前87 /86年? )によって編纂された中国の歴史書です。正史の第一に数えられます。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談が父です。『史記』は、 本紀12巻、表10巻、書8巻、世家30巻、列伝70巻から成る紀伝体の歴史書です。

  • 次に『漢書(かんじょ)』の紹介です。中国後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書です。二十四史の一つで、本紀12巻、列伝70巻、表8巻、志10巻の計100巻から成る紀伝体です。前漢の成立から王莽政権までについて書かれました。『後漢書』との対比から『前漢書』とも呼ばれます。思想的には、儒教的な観点により統一されています。

    次に『漢書(かんじょ)』の紹介です。中国後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書です。二十四史の一つで、本紀12巻、列伝70巻、表8巻、志10巻の計100巻から成る紀伝体です。前漢の成立から王莽政権までについて書かれました。『後漢書』との対比から『前漢書』とも呼ばれます。思想的には、儒教的な観点により統一されています。

  • 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書です。『史記』は、日本でも古くから読まれていて、元号の出典として12回採用されています。(ウィキペディア)『漢書』の形式は、中国での正史編纂の規範となりました。

    『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書です。『史記』は、日本でも古くから読まれていて、元号の出典として12回採用されています。(ウィキペディア)『漢書』の形式は、中国での正史編纂の規範となりました。

  • 1962年に陝西省文物管理委員会が始皇帝陵園の調査を行い、78の遺跡を確認したのが始皇帝陵の考古調査の嚆矢とされます。しかし、この時はまだ、兵馬俑の存在は知られていませんでした。地域住人の間では、以前から水を枯らす化け物として兵馬俑の存在は薄々知られていたとの報告もあるようです。(ウィキペディア)

    イチオシ

    1962年に陝西省文物管理委員会が始皇帝陵園の調査を行い、78の遺跡を確認したのが始皇帝陵の考古調査の嚆矢とされます。しかし、この時はまだ、兵馬俑の存在は知られていませんでした。地域住人の間では、以前から水を枯らす化け物として兵馬俑の存在は薄々知られていたとの報告もあるようです。(ウィキペディア)

  • 1974年3月29日、臨潼県西揚村の住民6人が村の南に井戸を掘ろうとして土を掘っていた際、住民のひとり、楊志発によって兵馬俑の最初の破片が発見されました。当初、住民たちにはこの発見の価値は理解されず、発見を知らされた臨潼県文化館も、現場の保護と陶俑の修復を命じたのみで上級部門への報告はされませんでした。

    1974年3月29日、臨潼県西揚村の住民6人が村の南に井戸を掘ろうとして土を掘っていた際、住民のひとり、楊志発によって兵馬俑の最初の破片が発見されました。当初、住民たちにはこの発見の価値は理解されず、発見を知らされた臨潼県文化館も、現場の保護と陶俑の修復を命じたのみで上級部門への報告はされませんでした。

  • 発見から2カ月後、たまたま新華社通信の記者の藺安穏が県文化館に立ち寄り、陶俑が秦代の俑であることを見抜きました。藺安穏の記事が中国共産党の内部報である『状況匯編』に掲載され、指導部の目に止まりました。そこで国務院副総理の李先念が国家文物局に遺跡の保護を命じ、同年7月、陝西省が袁仲一を隊長とする考古隊を編成して、現地発掘を開始させました。

    発見から2カ月後、たまたま新華社通信の記者の藺安穏が県文化館に立ち寄り、陶俑が秦代の俑であることを見抜きました。藺安穏の記事が中国共産党の内部報である『状況匯編』に掲載され、指導部の目に止まりました。そこで国務院副総理の李先念が国家文物局に遺跡の保護を命じ、同年7月、陝西省が袁仲一を隊長とする考古隊を編成して、現地発掘を開始させました。

  • 正面から奥の方をズームアップしての紹介です。現在も発掘調査が継続されていました。その様子は、、この写真の右手方面に回り込んで見学した時に紹介します。20年以上前に現地でお聞きしたことですが、兵馬俑は、発掘した後に空気に触れると、短時間で退色するようです。このため、その防止技術が確立するまで、発掘調査を見合わせるというものでした。

    正面から奥の方をズームアップしての紹介です。現在も発掘調査が継続されていました。その様子は、、この写真の右手方面に回り込んで見学した時に紹介します。20年以上前に現地でお聞きしたことですが、兵馬俑は、発掘した後に空気に触れると、短時間で退色するようです。このため、その防止技術が確立するまで、発掘調査を見合わせるというものでした。

  • 朝日に照らされた兵馬俑の側面光景です。兵馬俑の1号坑は、僅かに陶馬俑の姿もありますが、ほとんどが兵士俑です。発掘後、短時間で退色するのを防止する技術が確立するまでは、100年以上待っても発掘調査を見合わせるようなお話が、微かに記憶に残っています。発掘調査を指揮する、国レベルの高位者の判断ともお聞きしました。

    朝日に照らされた兵馬俑の側面光景です。兵馬俑の1号坑は、僅かに陶馬俑の姿もありますが、ほとんどが兵士俑です。発掘後、短時間で退色するのを防止する技術が確立するまでは、100年以上待っても発掘調査を見合わせるようなお話が、微かに記憶に残っています。発掘調査を指揮する、国レベルの高位者の判断ともお聞きしました。

  • ここからは、正面から向かって右側の側面い移動しての見学です。撮影している側から、朝日が射し込んだ場所の兵馬俑の光景です。中央付近の四列縦隊の列の兵士は、4人のところが2人や3名のところ等がありました。また、胴体だけで、首のない兵士俑も目立ちました。推測ですが、盗掘化、不正持ち出しにでも遭ったのでしょうか。

    ここからは、正面から向かって右側の側面い移動しての見学です。撮影している側から、朝日が射し込んだ場所の兵馬俑の光景です。中央付近の四列縦隊の列の兵士は、4人のところが2人や3名のところ等がありました。また、胴体だけで、首のない兵士俑も目立ちました。推測ですが、盗掘化、不正持ち出しにでも遭ったのでしょうか。

  • 同じく、前の方が朝日が射し込んだ場所の兵士俑、後の方が朝日が直接は射し込んでいたい兵士俑の光景です。手前から二列目(中央裂)の前方付近には、首がない兵士俑の内、1体だけが、頭部の一部が欠けて残ったものがありました。<br />

    同じく、前の方が朝日が射し込んだ場所の兵士俑、後の方が朝日が直接は射し込んでいたい兵士俑の光景です。手前から二列目(中央裂)の前方付近には、首がない兵士俑の内、1体だけが、頭部の一部が欠けて残ったものがありました。

  • 朝日が射した、横向きの兵士俑の姿のズームアップ光景です。当初は、4列で計12名の兵士だったかもしれませんが、2人欠けて10名の兵士達でした。服装はすべて一緒でしたが、髪型が違う人が2人ほどいました。イメージ的には、同じ位に付いた、同じ部族の人達のようです。

    イチオシ

    朝日が射した、横向きの兵士俑の姿のズームアップ光景です。当初は、4列で計12名の兵士だったかもしれませんが、2人欠けて10名の兵士達でした。服装はすべて一緒でしたが、髪型が違う人が2人ほどいました。イメージ的には、同じ位に付いた、同じ部族の人達のようです。

  • 時間の都合で、説明パネルのすべてを撮影することは出来ませんでしたが、その一部を紹介します。2番のパネルは、『地面(Brick Floor)』のタイトルでした。45センチの厚みを持った版築の地面の上に置かれたブロック風のレンガ敷です。『rammed earth(版築:はんちく)』は、土を建材に用い強く突き固める方法で、堅固な土壁や建築の基礎部分に用いられます。

    時間の都合で、説明パネルのすべてを撮影することは出来ませんでしたが、その一部を紹介します。2番のパネルは、『地面(Brick Floor)』のタイトルでした。45センチの厚みを持った版築の地面の上に置かれたブロック風のレンガ敷です。『rammed earth(版築:はんちく)』は、土を建材に用い強く突き固める方法で、堅固な土壁や建築の基礎部分に用いられます。

  • 8番のパネルのタイトルは『戦車遺迹(The Remains of Chariots)』です。『Chariots』は、古代の戦車、その遺跡(Remains)です。『チャリオット(Chariot)とは古代の戦争に用いられた戦闘用馬車です。一般に戦車と訳されます。木製部分が腐朽、もしくは焼失した戦車遺物の遺跡です。中国では近代戦の戦車は、タンク(Tank)を音訳した、『坦克』の表記が用いられます。

    8番のパネルのタイトルは『戦車遺迹(The Remains of Chariots)』です。『Chariots』は、古代の戦車、その遺跡(Remains)です。『チャリオット(Chariot)とは古代の戦争に用いられた戦闘用馬車です。一般に戦車と訳されます。木製部分が腐朽、もしくは焼失した戦車遺物の遺跡です。中国では近代戦の戦車は、タンク(Tank)を音訳した、『坦克』の表記が用いられます。

  • 9番のパネルのタイトルは『立柱(Pillars)』です。立柱直径が30センチで、1.1~1.5メートル間隔で建てられたものです。隔壁の両側に設けられています。この棚木の上にお覆いを乗せ、その上に土を被せて兵馬俑坑を地下の世界にしていたようです。

    9番のパネルのタイトルは『立柱(Pillars)』です。立柱直径が30センチで、1.1~1.5メートル間隔で建てられたものです。隔壁の両側に設けられています。この棚木の上にお覆いを乗せ、その上に土を被せて兵馬俑坑を地下の世界にしていたようです。

  • 10番のパネルのタイトルは『修復中的秦俑(The Pottery Figures under Restonation)』です。説明文で、10~100個に割れた陶俑や陶馬を接着剤を用いて修復していることが説明されていました。

    10番のパネルのタイトルは『修復中的秦俑(The Pottery Figures under Restonation)』です。説明文で、10~100個に割れた陶俑や陶馬を接着剤を用いて修復していることが説明されていました。

  • 紹介した4つの説明パネルの内、8番に相当する『戦車遺迹(The Remains of Chariots)』の光景です。古代戦車では、小さい頃に見た映画の古代ローマ時代の戦車での戦いが強く印象に残っています。チャールトン・ヘストン主演の『ベン・ハー(1959年)』でした。

    紹介した4つの説明パネルの内、8番に相当する『戦車遺迹(The Remains of Chariots)』の光景です。古代戦車では、小さい頃に見た映画の古代ローマ時代の戦車での戦いが強く印象に残っています。チャールトン・ヘストン主演の『ベン・ハー(1959年)』でした。

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