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世界文化遺産の『龍門石窟』の紹介です。河南省洛陽市の南方13キロ、伊河の両岸にある石窟寺院です。中国の三大石窟にも数えられています。絶頂期の石窟が、675年(上元2年)に完成した『奉先寺洞』です。

2019秋、中国旅行記25(19/34):11月19日(7):洛陽(7):龍門石窟(1):世界遺産石標、黄河支流・伊河

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2019/11/17 - 2019/11/21

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旅行記グループ 2019秋、中国旅行記25(上巻)

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旅人のくまさん

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世界文化遺産の『龍門石窟』の紹介です。河南省洛陽市の南方13キロ、伊河の両岸にある石窟寺院です。中国の三大石窟にも数えられています。絶頂期の石窟が、675年(上元2年)に完成した『奉先寺洞』です。

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  • 龍門石窟に到着しました。そのチケット売り場です。ツアーに参加しての見学ですから、チケット手配は現地ガイドさんにお任せです。『票務中心(チケッツ)』の標識がありました。

    龍門石窟に到着しました。そのチケット売り場です。ツアーに参加しての見学ですから、チケット手配は現地ガイドさんにお任せです。『票務中心(チケッツ)』の標識がありました。

  • チケット売り場付近の樹木の紹介です。黄色の実がすずなりでした。『センダン(栴檀)』の実のようです。センダン科センダン属の落葉高木です。別名として『オウチ(楝)』や、『アミノキ』などがあります。

    チケット売り場付近の樹木の紹介です。黄色の実がすずなりでした。『センダン(栴檀)』の実のようです。センダン科センダン属の落葉高木です。別名として『オウチ(楝)』や、『アミノキ』などがあります。

  • 黄色の実がすずなりになった、栴檀の枝先のズームアップ光景です。5~6月頃に、若枝の葉腋に淡紫色の5弁の花を円錐状に多数付けます。ヒヨドリなどの餌になりますが、サポニンを多く含むため、人や犬が食べると食中毒を起こし、摂取量が多いと死亡の危険性が指摘されています。

    黄色の実がすずなりになった、栴檀の枝先のズームアップ光景です。5~6月頃に、若枝の葉腋に淡紫色の5弁の花を円錐状に多数付けます。ヒヨドリなどの餌になりますが、サポニンを多く含むため、人や犬が食べると食中毒を起こし、摂取量が多いと死亡の危険性が指摘されています。

  • 龍門石窟の入口まで運んでくれる電気自動車の光景です。今回のツアーメンバーは30名弱ですから、2台に分乗して入口に向かいました。それほどの移動距離ではありませんでした。

    龍門石窟の入口まで運んでくれる電気自動車の光景です。今回のツアーメンバーは30名弱ですから、2台に分乗して入口に向かいました。それほどの移動距離ではありませんでした。

  • 『龍門石窟』の世界遺産標識の光景です。見学者が多い中、逆光撮影になりましたので、帰りにもう一度撮影しました。中国三大石窟は、『敦煌莫高窟』、『雲崗窟』と、『龍門石窟』ですが、現地ガイドさんは、しきりに『中国五大石窟』をPRしていました。ベゼクリク千仏洞は見学したことがありますが、もう1っ箇所は知らない石窟でした。

    『龍門石窟』の世界遺産標識の光景です。見学者が多い中、逆光撮影になりましたので、帰りにもう一度撮影しました。中国三大石窟は、『敦煌莫高窟』、『雲崗窟』と、『龍門石窟』ですが、現地ガイドさんは、しきりに『中国五大石窟』をPRしていました。ベゼクリク千仏洞は見学したことがありますが、もう1っ箇所は知らない石窟でした。

  • 『龍門石窟景区簡介』のタイトルがあった、旅行案内の説明パネルの光景です。冒頭に、1961年に国務院から全国第一重点文物保護単位に指定されたことから、ユネスコの世界文化遺産までの経緯が記されていました。その後に、北魏時代の493年、洛陽の孝文帝による建設が始まったことなどが説明されていました。

    『龍門石窟景区簡介』のタイトルがあった、旅行案内の説明パネルの光景です。冒頭に、1961年に国務院から全国第一重点文物保護単位に指定されたことから、ユネスコの世界文化遺産までの経緯が記されていました。その後に、北魏時代の493年、洛陽の孝文帝による建設が始まったことなどが説明されていました。

  • 『龍門石窟景区尋覧全景図』のタイトルがあった観光案内看板の光景です。現在位置が中央上部やや右寄りの『龍門博物院』の近くに記されていました。中央を流れるのは黄河の支流の『伊河(いが)』です。この川の両岸に龍門石窟があります。今回見学した『西山石窟』と、対岸の『東山石窟』です。

    『龍門石窟景区尋覧全景図』のタイトルがあった観光案内看板の光景です。現在位置が中央上部やや右寄りの『龍門博物院』の近くに記されていました。中央を流れるのは黄河の支流の『伊河(いが)』です。この川の両岸に龍門石窟があります。今回見学した『西山石窟』と、対岸の『東山石窟』です。

  • 電気自動車を下りて、広い柳並木を歩いて『龍門石窟』がある場所に向かいました。この辺りの道路は、一般車の乗り入れが規制されているようでした。全員が、徒歩での移動です。

    電気自動車を下りて、広い柳並木を歩いて『龍門石窟』がある場所に向かいました。この辺りの道路は、一般車の乗り入れが規制されているようでした。全員が、徒歩での移動です。

  • 少し足を止めて、柳の木陰から眺めた、『伊河(いが)』の流れの光景です。前方に何連にもなったアーチ橋が見えてきましたが、その橋のある場所が『龍門石窟』の入口でした。大きなものは高さ17メートル、小さなものはわずか2センチといわれる大小合わせて10万体に及ぶ仏像が400年以上にもわたって掘り続けられた、中国の石刻芸術の至宝です。

    少し足を止めて、柳の木陰から眺めた、『伊河(いが)』の流れの光景です。前方に何連にもなったアーチ橋が見えてきましたが、その橋のある場所が『龍門石窟』の入口でした。大きなものは高さ17メートル、小さなものはわずか2センチといわれる大小合わせて10万体に及ぶ仏像が400年以上にもわたって掘り続けられた、中国の石刻芸術の至宝です。

  • 龍門石窟の北端にある『龍門橋』の光景です。中央上部に『龍門』の文字の扁額と、下部にユネスコ世界遺産の表札が掲げてあります。左端に見える黄葉の樹は、プラタナスです。『褐葉』とも呼ばれる色合いです。

    イチオシ

    龍門石窟の北端にある『龍門橋』の光景です。中央上部に『龍門』の文字の扁額と、下部にユネスコ世界遺産の表札が掲げてあります。左端に見える黄葉の樹は、プラタナスです。『褐葉』とも呼ばれる色合いです。

  • 龍門石窟北端の『龍門橋』のアーチ門の常葺掲げられていた、『龍門』の扁額のズームアップ光景です。『陳願(?)』氏の落款が記されていました。龍門石窟のシンボルと言われるのが、高さ17メートルの廬舎那仏です。<br />

    龍門石窟北端の『龍門橋』のアーチ門の常葺掲げられていた、『龍門』の扁額のズームアップ光景です。『陳願(?)』氏の落款が記されていました。龍門石窟のシンボルと言われるのが、高さ17メートルの廬舎那仏です。

  • 『龍門橋』のアーチ門の中央に加賀下られていた標識類のズームアップ光景です。下部にあるユネスコの世界遺産灯籠の標識には、2000年11月20日に登録されたことが記してありました。上の大きな標識は『龍門石窟』の観光案内図です。『龍門石窟遊覧示意図』のタイトルがありました。

    『龍門橋』のアーチ門の中央に加賀下られていた標識類のズームアップ光景です。下部にあるユネスコの世界遺産灯籠の標識には、2000年11月20日に登録されたことが記してありました。上の大きな標識は『龍門石窟』の観光案内図です。『龍門石窟遊覧示意図』のタイトルがありました。

  • 『龍門石窟』の入口近くの券売所の建物光景です。既に現地ガイドさんが、全員分の入場券を入手していますので、立ち寄る必要はありませんでした。『ガイド・サービス・センター』の表示がありました。<br /><br />

    『龍門石窟』の入口近くの券売所の建物光景です。既に現地ガイドさんが、全員分の入場券を入手していますので、立ち寄る必要はありませんでした。『ガイド・サービス・センター』の表示がありました。

  • 龍門石窟の北端にある『龍門橋』のあちもくぐって、つぎにあったもんおこうけいです。扉も付いていましたが、開け放たれていました。こちらで改札だったか、龍門橋の方だったか、記憶が薄れてしまいました。門の上には、左から読んで、『龍門石窟』の達筆な扁額がありました。こちらが改札場所だったようです。

    龍門石窟の北端にある『龍門橋』のあちもくぐって、つぎにあったもんおこうけいです。扉も付いていましたが、開け放たれていました。こちらで改札だったか、龍門橋の方だったか、記憶が薄れてしまいました。門の上には、左から読んで、『龍門石窟』の達筆な扁額がありました。こちらが改札場所だったようです。

  • 振り返って眺めた、黄河の支流の『伊河』に架かる『龍門橋』のアーチ光景です。伊河を挟んで、両岸にある山の『西山』と『東山』を結ぶ橋です。この橋の上から眺める西山と東山の石窟群の光景もいいようですが、残念ながら時間がありませんでした。

    振り返って眺めた、黄河の支流の『伊河』に架かる『龍門橋』のアーチ光景です。伊河を挟んで、両岸にある山の『西山』と『東山』を結ぶ橋です。この橋の上から眺める西山と東山の石窟群の光景もいいようですが、残念ながら時間がありませんでした。

  • 柳の木の下から眺めた、対岸の寺院光景です。最初の方で紹介した観光案内図を参照しますと、『香山寺』になるようでした。香山寺は、北魏の時代の516年に建設されました。その後、改築を重ねましたが、唐時代の様式に基づいて復元され、現在に至っているようです。

    柳の木の下から眺めた、対岸の寺院光景です。最初の方で紹介した観光案内図を参照しますと、『香山寺』になるようでした。香山寺は、北魏の時代の516年に建設されました。その後、改築を重ねましたが、唐時代の様式に基づいて復元され、現在に至っているようです。

  • 少しだけ撮影場所が変わりましたが、対岸の寺院光景です。香山寺の隣には白園があります。白園は唐の時代の詩人白居易(白楽天)の墓地です。1961年に中国の国家重点文物保護?位にな利ました。残念ながら、見学する時間がありませんでした。

    少しだけ撮影場所が変わりましたが、対岸の寺院光景です。香山寺の隣には白園があります。白園は唐の時代の詩人白居易(白楽天)の墓地です。1961年に中国の国家重点文物保護?位にな利ました。残念ながら、見学する時間がありませんでした。

  • 写真パネルで表示されていた『伊河』の対岸から眺めた龍門石窟の全景です。『伊河』は、黄河の支流になります。『伊河』は、中国語説明文(維基百科)では、黄河の支流の洛水の支流の1つで、洛陽市に源を発し北に流れると紹介されていました。全長368公里、流域面積が6100平方公里です。1公里は、1キロメータです。

    写真パネルで表示されていた『伊河』の対岸から眺めた龍門石窟の全景です。『伊河』は、黄河の支流になります。『伊河』は、中国語説明文(維基百科)では、黄河の支流の洛水の支流の1つで、洛陽市に源を発し北に流れると紹介されていました。全長368公里、流域面積が6100平方公里です。1公里は、1キロメータです。

  • 『龍門石窟』の建設は、北魏の孝文帝が平城から洛陽に遷都した494年(太和18年)に始まります。仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、龍門期(494~520年)と呼ばれる時期の始まりです。孝文帝(467~499年)は、北朝北魏の第6代皇帝(在位:471年9月~499年4月)でした。

    『龍門石窟』の建設は、北魏の孝文帝が平城から洛陽に遷都した494年(太和18年)に始まります。仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、龍門期(494~520年)と呼ばれる時期の始まりです。孝文帝(467~499年)は、北朝北魏の第6代皇帝(在位:471年9月~499年4月)でした。

  • 『伊河』の中州の光景です。複数種類の水鳥さん達が羽根を休めていました。ざっと目算して、10羽ほどでした。親鳥から生を受け継いで、中国4千年の歴史を眺めてきた鳥さん達かもしれません。

    『伊河』の中州の光景です。複数種類の水鳥さん達が羽根を休めていました。ざっと目算して、10羽ほどでした。親鳥から生を受け継いで、中国4千年の歴史を眺めてきた鳥さん達かもしれません。

  • 『伊河』の中州の鳥さん達のズームアップ光景です。ここはカワウ(川鵜)さん達のお休みどころでした。羽繕いをしながらのリラックスタイムでした。日本では『ウミウ(海鵜)』さんが鮎捕りに使われますが、中国では『カワウ(川鵜)』さんが使われていたことを目にしたことがあります。

    『伊河』の中州の鳥さん達のズームアップ光景です。ここはカワウ(川鵜)さん達のお休みどころでした。羽繕いをしながらのリラックスタイムでした。日本では『ウミウ(海鵜)』さんが鮎捕りに使われますが、中国では『カワウ(川鵜)』さんが使われていたことを目にしたことがあります。

  • カワウさんに交じって、白い鳥さんの姿もありました。『コサギ(小鷺)』さんか、『チュウサギ(中鷺)』さんくらいの大きさのようです。黄色い足の指や、冠毛は確認できませんでしたが、コサギさんかもしれません。起用に片足で立って、毛繕いをしていました。

    カワウさんに交じって、白い鳥さんの姿もありました。『コサギ(小鷺)』さんか、『チュウサギ(中鷺)』さんくらいの大きさのようです。黄色い足の指や、冠毛は確認できませんでしたが、コサギさんかもしれません。起用に片足で立って、毛繕いをしていました。

  • 縦長の道案内標識の光景です。施設名と方角の矢印が記してありましたが、左端に、レリーフでその施設の特徴を表示してあったのがユニークでした。10箇所以上の見どころの案内でした。上の4箇所が右向きの矢印、斜め向きの矢印が摩崖三仏を挟んで、下側はすべて左向きの矢印でした。この場所が、摩崖三仏に近い場所であることも示しているようでした。

    縦長の道案内標識の光景です。施設名と方角の矢印が記してありましたが、左端に、レリーフでその施設の特徴を表示してあったのがユニークでした。10箇所以上の見どころの案内でした。上の4箇所が右向きの矢印、斜め向きの矢印が摩崖三仏を挟んで、下側はすべて左向きの矢印でした。この場所が、摩崖三仏に近い場所であることも示しているようでした。

  • 岩山に穿たれた、多くの洞窟の光景です。龍門石窟の特徴は、その硬さとされます。よく比較される雲岡石窟の粗い砂岩質と比較して、緻密な橄欖(かんらん)岩質です。そのため、北魏においては雲岡のような巨大な石窟を開削することが技術的にできませんでした。橄欖岩は火成岩(深成岩)の一種で、SiO2 成分に乏しい超塩基性岩に分類されます。

    岩山に穿たれた、多くの洞窟の光景です。龍門石窟の特徴は、その硬さとされます。よく比較される雲岡石窟の粗い砂岩質と比較して、緻密な橄欖(かんらん)岩質です。そのため、北魏においては雲岡のような巨大な石窟を開削することが技術的にできませんでした。橄欖岩は火成岩(深成岩)の一種で、SiO2 成分に乏しい超塩基性岩に分類されます。

  • 少しだけズームアップした、岩山に穿たれた多くの洞窟の光景です。公孫樹の黄葉が彩りを添えていました。かんらん岩は、マントル上部を構成する岩石の一つであり、そのほとんどが地下深くに存在します。地表で見られるものには、地殻が捲れ上がって、マントル物質が地表に現れたものや、マグマ等が急激に上昇する際に、捕獲岩として運ばれてきたものがあるようです。

    少しだけズームアップした、岩山に穿たれた多くの洞窟の光景です。公孫樹の黄葉が彩りを添えていました。かんらん岩は、マントル上部を構成する岩石の一つであり、そのほとんどが地下深くに存在します。地表で見られるものには、地殻が捲れ上がって、マントル物質が地表に現れたものや、マグマ等が急激に上昇する際に、捕獲岩として運ばれてきたものがあるようです。

  • 更にズームアップした洞窟の光景です。龍門石窟の仏像の様式上の特徴は、面長でなで肩、首が長い造形とされ、華奢な印象を与える点にあります。また、中国固有の造形も目立つようになり、西方風の意匠は希薄となりました。裳懸座が発達して、装飾も繊細で絵画的な表現がされるようになりました。

    更にズームアップした洞窟の光景です。龍門石窟の仏像の様式上の特徴は、面長でなで肩、首が長い造形とされ、華奢な印象を与える点にあります。また、中国固有の造形も目立つようになり、西方風の意匠は希薄となりました。裳懸座が発達して、装飾も繊細で絵画的な表現がされるようになりました。

  • 標識にあった、摩崖三仏龕(がん)方面の仏像のズームアップ光景です。立像が3体、座像が4体あることがネットで紹介されていました。右手が施無畏印の立像のようです。『龕(がん)』は、石窟や家屋の壁面に、仏像・仏具を納めるために設けたくぼみのことです。

    標識にあった、摩崖三仏龕(がん)方面の仏像のズームアップ光景です。立像が3体、座像が4体あることがネットで紹介されていました。右手が施無畏印の立像のようです。『龕(がん)』は、石窟や家屋の壁面に、仏像・仏具を納めるために設けたくぼみのことです。

  • 同じく、摩崖三仏龕(がん)方面の仏像のズームアップ光景です。一番手前が仏座像、その先の二体が立像でした。数多くの仏像が刻まれていましたので、これが摩崖三仏に該当するのか、判断付きませんでした。

    同じく、摩崖三仏龕(がん)方面の仏像のズームアップ光景です。一番手前が仏座像、その先の二体が立像でした。数多くの仏像が刻まれていましたので、これが摩崖三仏に該当するのか、判断付きませんでした。

  • 龍門石窟は、5世紀末の『古陽洞』窟内に見られる私的な仏龕の造営に始まります。宣武帝の計画を受けて開削された『賓陽洞』3窟のうち、実際に北魏に完成したのは賓陽中洞のみです。南と北洞の完成は唐の初期となりました。その他、北魏時期の代表的な石窟としては、『蓮華洞』があります。

    龍門石窟は、5世紀末の『古陽洞』窟内に見られる私的な仏龕の造営に始まります。宣武帝の計画を受けて開削された『賓陽洞』3窟のうち、実際に北魏に完成したのは賓陽中洞のみです。南と北洞の完成は唐の初期となりました。その他、北魏時期の代表的な石窟としては、『蓮華洞』があります。

  • 北魏滅亡後も石窟の造営は細々とながらも継続されました。『薬方洞』は北斉から隋にかけての時期に造営された石窟とされます。 唐代には、魏王李泰が賓陽三洞を修復し、緒(衣偏)遂良に命じて書道史上名高い『伊闕仏龕碑』を書かせ、641年(貞観15年)に建碑しました。『緒(衣偏)堆良(ちょすいりょう)』は、初唐の三大家の一人に数えられる書家で、政治家です。

    イチオシ

    北魏滅亡後も石窟の造営は細々とながらも継続されました。『薬方洞』は北斉から隋にかけての時期に造営された石窟とされます。 唐代には、魏王李泰が賓陽三洞を修復し、緒(衣偏)遂良に命じて書道史上名高い『伊闕仏龕碑』を書かせ、641年(貞観15年)に建碑しました。『緒(衣偏)堆良(ちょすいりょう)』は、初唐の三大家の一人に数えられる書家で、政治家です。

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