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古都・西安の紹介です。銅車馬(どうしゃば)は、始皇帝陵で出土した特筆される銅製品です。秦の始皇帝の御車の隊列を模したものと考えられ、修復作業を終えて、現在は兵馬俑博物館に所蔵されています。

2019秋、中国旅行記25(3/34):11月18日(1):西安(2):早朝散策、明代の西安城壁、兵馬俑博物館、銅車馬

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2019/11/17 - 2019/11/21

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旅行記グループ 2019秋、中国旅行記25(上巻)

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旅人のくまさん

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古都・西安の紹介です。銅車馬(どうしゃば)は、始皇帝陵で出土した特筆される銅製品です。秦の始皇帝の御車の隊列を模したものと考えられ、修復作業を終えて、現在は兵馬俑博物館に所蔵されています。

交通手段
観光バス
  • 中国旅行2日目の朝です。少し早起きして、泊まったホテル界隈を散策しました。城壁に囲まれた旧市街の中ですから、地図無しで散策しても、道に迷うことはなさそうでした。泊まったホテルの至近距離にあった、城壁と城壁の上の城郭の光景です。右手に見える刊行案内看板には、『西安火車站地区・平安地図』のタイトルがありました。

    中国旅行2日目の朝です。少し早起きして、泊まったホテル界隈を散策しました。城壁に囲まれた旧市街の中ですから、地図無しで散策しても、道に迷うことはなさそうでした。泊まったホテルの至近距離にあった、城壁と城壁の上の城郭の光景です。右手に見える刊行案内看板には、『西安火車站地区・平安地図』のタイトルがありました。

  • 同じく、泊まったホテルの至近距離にあった、城壁と城壁の上の城郭の光景です。城壁の一部には穴があけられて、市内交通の通路になっているようでした。西安の明朝時代の城壁都市は、中国で最大かつ最もよく保存されている古代都市とされ、国家の主要文化遺物保護施設となっています。西安市を代表する観光施設の一つにもなっています。

    同じく、泊まったホテルの至近距離にあった、城壁と城壁の上の城郭の光景です。城壁の一部には穴があけられて、市内交通の通路になっているようでした。西安の明朝時代の城壁都市は、中国で最大かつ最もよく保存されている古代都市とされ、国家の主要文化遺物保護施設となっています。西安市を代表する観光施設の一つにもなっています。

  • 西安明城壁の壁は、陝西省西安市の中心部の繁華街に位置していて、その壁の高さは12メートル、壁上の幅は12~14メートル、壁の下の幅は15~18メートルです。長方形の城壁の総延長は、13.74キロあり、その面積は11.32平方キロです。城壁内には、有名な西安鐘楼と太鼓楼があります。この城壁の建設には11年かかり、明代が始まって10年目の1378年に完成しました。

    西安明城壁の壁は、陝西省西安市の中心部の繁華街に位置していて、その壁の高さは12メートル、壁上の幅は12~14メートル、壁の下の幅は15~18メートルです。長方形の城壁の総延長は、13.74キロあり、その面積は11.32平方キロです。城壁内には、有名な西安鐘楼と太鼓楼があります。この城壁の建設には11年かかり、明代が始まって10年目の1378年に完成しました。

  • 城壁の開口部から眺めた、西安駅方面の光景です。西安の明代(1368~1644年)城壁には、主に四つの門があります。長楽門(東門)、永寧門(南門)、安定門(西門)、安遠門(北門、古代門)の四つです。この開口部は、安遠門(北門)より東に位置するようです。

    城壁の開口部から眺めた、西安駅方面の光景です。西安の明代(1368~1644年)城壁には、主に四つの門があります。長楽門(東門)、永寧門(南門)、安定門(西門)、安遠門(北門、古代門)の四つです。この開口部は、安遠門(北門)より東に位置するようです。

  • 早朝の散策を終えて、泊まったホテル近くに戻ってきました。出発まで、もう暫く時間がありますが、観光バスは既に近くにスタンバイしているようでした。あるいは別のグループの観光バスだったかも知れません。

    早朝の散策を終えて、泊まったホテル近くに戻ってきました。出発まで、もう暫く時間がありますが、観光バスは既に近くにスタンバイしているようでした。あるいは別のグループの観光バスだったかも知れません。

  • 予定の時刻の8時頃に観光バスでホテルを出発し、『秦始皇兵馬俑博物館』に到着しました。西安市の中心部から、西北方面に位置しています。現地時刻は9時少し前ですから、約1時間かかりました。少し離れた場所で観光バスを降り、底からは徒歩での見学です。

    予定の時刻の8時頃に観光バスでホテルを出発し、『秦始皇兵馬俑博物館』に到着しました。西安市の中心部から、西北方面に位置しています。現地時刻は9時少し前ですから、約1時間かかりました。少し離れた場所で観光バスを降り、底からは徒歩での見学です。

  • 『秦始皇兵馬俑博物館』の入口光景です。 秦の始皇帝(紀元前259~紀元前210年)は、 紀元前221年に初めて中国統一 を成し遂げた皇帝として、世界史に名を残した人です。

    イチオシ

    『秦始皇兵馬俑博物館』の入口光景です。 秦の始皇帝(紀元前259~紀元前210年)は、 紀元前221年に初めて中国統一 を成し遂げた皇帝として、世界史に名を残した人です。

  • 正面から眺めた、『秦始皇兵馬俑博物館』の看板が懸かった入口正面光景です。日本人ですと、無意識に『秦始皇帝』と呼んでしまいそうですが、看板には『帝』の文字がありませんでした。現代中国語では、『秦始皇帝』、または『秦始皇』と呼称されています。古代中国の戦国時代の秦の第31代王(在位:紀元前247~紀元前221年)で、初代皇帝(在位:紀元前221~紀元前210年)です。

    正面から眺めた、『秦始皇兵馬俑博物館』の看板が懸かった入口正面光景です。日本人ですと、無意識に『秦始皇帝』と呼んでしまいそうですが、看板には『帝』の文字がありませんでした。現代中国語では、『秦始皇帝』、または『秦始皇』と呼称されています。古代中国の戦国時代の秦の第31代王(在位:紀元前247~紀元前221年)で、初代皇帝(在位:紀元前221~紀元前210年)です。

  • 『秦始皇兵馬俑博物館』のゲートを通過し、振り返って眺めた建物光景です。秦始皇帝は、中国統一後、経済や政治改革を次々と実行しました。領地が世襲される封建制を廃止し、郡県制(中央集権型)への移行を行いました。また、道路整備・交通規則の制定なども行いました。紀元前に『封建制を廃止』といわれても、これも、日本人の感覚ではピンときません。

    『秦始皇兵馬俑博物館』のゲートを通過し、振り返って眺めた建物光景です。秦始皇帝は、中国統一後、経済や政治改革を次々と実行しました。領地が世襲される封建制を廃止し、郡県制(中央集権型)への移行を行いました。また、道路整備・交通規則の制定なども行いました。紀元前に『封建制を廃止』といわれても、これも、日本人の感覚ではピンときません。

  • 最初に見学に向かったのは、『銅車馬館』です。天候にも恵まれ、紅葉を眺めながらの構内移動でした。始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)は、『封建制を廃止』のほか、万里の長城や秦始皇帝陵の建設などを行ったことでも有名です。法による統治を敷き、批判する儒者・方士や書物の弾圧を行った焚書坑儒でも知られます。紀元前210年、旅の途中で49歳で急死するまで君臨しました。

    最初に見学に向かったのは、『銅車馬館』です。天候にも恵まれ、紅葉を眺めながらの構内移動でした。始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)は、『封建制を廃止』のほか、万里の長城や秦始皇帝陵の建設などを行ったことでも有名です。法による統治を敷き、批判する儒者・方士や書物の弾圧を行った焚書坑儒でも知られます。紀元前210年、旅の途中で49歳で急死するまで君臨しました。

  • 以前に見学した時には、この近くに観光バスが停車したような記憶もありました。ここまで、少なくない距離を歩きました。『皇帝』は、神話的な三皇五帝より二つの漢字を抜き取って作られました。ここには、始皇帝が黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いているようです。(ウィキペディア)

    以前に見学した時には、この近くに観光バスが停車したような記憶もありました。ここまで、少なくない距離を歩きました。『皇帝』は、神話的な三皇五帝より二つの漢字を抜き取って作られました。ここには、始皇帝が黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いているようです。(ウィキペディア)

  • 日本でもお馴染みの、葉を落とし、黄色に熟れた柿の実の光景です。先ほど紹介した、『黄帝(こうてい)』は、神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされます。また、三皇の内に数えられることもあります。本来は『皇帝』と表記されましたが、戦国時代末期に五行思想の影響で『黄帝』と表記されるようにな利ました。

    日本でもお馴染みの、葉を落とし、黄色に熟れた柿の実の光景です。先ほど紹介した、『黄帝(こうてい)』は、神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされます。また、三皇の内に数えられることもあります。本来は『皇帝』と表記されましたが、戦国時代末期に五行思想の影響で『黄帝』と表記されるようにな利ました。

  • 左側の入口の脇には、人が多い時には、3列に並んで入城するように注意書きがあるようです。右側の赤い帯には『人人把好消防関』の文字がありましたから、日本風に略して例えれば『火の用心』の注意喚起を促すスローガンのようでした。

    左側の入口の脇には、人が多い時には、3列に並んで入城するように注意書きがあるようです。右側の赤い帯には『人人把好消防関』の文字がありましたから、日本風に略して例えれば『火の用心』の注意喚起を促すスローガンのようでした。

  • 展示館が正面に見える場所に到着しました。左手前に見える標識には。『秦始皇兵馬俑博物館』の文字がありました。右端に見える落款は、『葉剣英』でした。『葉剣英(1897~1986年)』は、民解放軍の創立者の一人で、軍人で政治家です。中華人民共和国元帥、国防部長や全国人民代表大会常務委員会委員長、中国共産党中央委員会副主席などの要職を務めました。周恩来の盟友だったようです。

    展示館が正面に見える場所に到着しました。左手前に見える標識には。『秦始皇兵馬俑博物館』の文字がありました。右端に見える落款は、『葉剣英』でした。『葉剣英(1897~1986年)』は、民解放軍の創立者の一人で、軍人で政治家です。中華人民共和国元帥、国防部長や全国人民代表大会常務委員会委員長、中国共産党中央委員会副主席などの要職を務めました。周恩来の盟友だったようです。

  • ここからは『胴車馬館』の展示物の紹介です。1980年10月3日、程学華率いる始皇帝陵試掘分隊が、始皇帝陵墳丘から20メートルの地点の地下7メートルの深さで金製・銀製の塊と金糸のふさを発見しました。さらに11月3日、2乗の銅車、8頭の銅馬および2体の御者が、地下7.8メートルの深さで出土しました。(ウィキペディア)『銅車馬』発見の様子です。こちらは『一号銅車馬』です。

    ここからは『胴車馬館』の展示物の紹介です。1980年10月3日、程学華率いる始皇帝陵試掘分隊が、始皇帝陵墳丘から20メートルの地点の地下7メートルの深さで金製・銀製の塊と金糸のふさを発見しました。さらに11月3日、2乗の銅車、8頭の銅馬および2体の御者が、地下7.8メートルの深さで出土しました。(ウィキペディア)『銅車馬』発見の様子です。こちらは『一号銅車馬』です。

  • 4頭立ての『一号銅車馬』の御者の横顔のズームアップ光景です。二つの銅車馬は、出土時には破壊され変形していました。このため、半年に亘って『2号銅車馬』の修復作業が行われ、1981年10月1日に一般公開されました。こちらの『1号銅車馬』は、1987年5月に一般公開されました。

    4頭立ての『一号銅車馬』の御者の横顔のズームアップ光景です。二つの銅車馬は、出土時には破壊され変形していました。このため、半年に亘って『2号銅車馬』の修復作業が行われ、1981年10月1日に一般公開されました。こちらの『1号銅車馬』は、1987年5月に一般公開されました。

  • 斜め後ろから眺めた、『1号銅車馬』の光景です。『立車』と呼ばれ、車体の右には盾と鞭、前には弩と矢が掛けられています。車上には1本の傘が立てられ、傘の下には高さ91センチの銅御者1体が手綱を引いて立っています。傘には後龍文あるいは後鳳文が描かれています。中国では『銅車馬』と呼ばれていますが、和訳すれば『銅馬車』となります。

    イチオシ

    斜め後ろから眺めた、『1号銅車馬』の光景です。『立車』と呼ばれ、車体の右には盾と鞭、前には弩と矢が掛けられています。車上には1本の傘が立てられ、傘の下には高さ91センチの銅御者1体が手綱を引いて立っています。傘には後龍文あるいは後鳳文が描かれています。中国では『銅車馬』と呼ばれていますが、和訳すれば『銅馬車』となります。

  • 『一号銅車馬各部位名称』のタイトルがあった説明スケッチの光景です。先に紹介した、4頭立ての手綱を握り、傘を差した二輪車です。先程の説明文にあったように、左手横には、武器の弩(ど)が置かれていました。東アジア、特に中国において古代から近世にかけて使われた射撃用の武器の一種です。中国における最初の文献的証拠は『孫子』とされます。

    『一号銅車馬各部位名称』のタイトルがあった説明スケッチの光景です。先に紹介した、4頭立ての手綱を握り、傘を差した二輪車です。先程の説明文にあったように、左手横には、武器の弩(ど)が置かれていました。東アジア、特に中国において古代から近世にかけて使われた射撃用の武器の一種です。中国における最初の文献的証拠は『孫子』とされます。

  • 『二号銅車馬各部位名称』のタイトルがあった説明スケッチの光景です。一号と同じ四頭立てですが、御者が座っているのは、幌を被った二輪車の前部です。こちらも、各部名称が細かく記されていました。おそらく、各種の文献が残っているためでしょう。

    『二号銅車馬各部位名称』のタイトルがあった説明スケッチの光景です。一号と同じ四頭立てですが、御者が座っているのは、幌を被った二輪車の前部です。こちらも、各部名称が細かく記されていました。おそらく、各種の文献が残っているためでしょう。

  • 右斜め前から眺めた、『二号銅車馬』の光景です。『一号銅車馬』と同様に、ばらばらに壊れてしまった銅車馬が、傷跡を残さないまでに、綺麗に修復されていました。写真紹介は省略しましたが、ばらばらに壊れて出土した時の模様や、その後の涙ぐましい修復作業の写真もありました。

    イチオシ

    右斜め前から眺めた、『二号銅車馬』の光景です。『一号銅車馬』と同様に、ばらばらに壊れてしまった銅車馬が、傷跡を残さないまでに、綺麗に修復されていました。写真紹介は省略しましたが、ばらばらに壊れて出土した時の模様や、その後の涙ぐましい修復作業の写真もありました。

  • 『二号銅車馬』の銅車の部分のズームアップ光景です。現地ガイドさんの説明によれば、この銅車に乗った始皇帝が、横に開けられた『小窓から外の様子を窺っていたのでは』と、説明されていました。『2号銅車馬』は、『安車』などとも呼ばれていたようです。(ウィキペディア)

    『二号銅車馬』の銅車の部分のズームアップ光景です。現地ガイドさんの説明によれば、この銅車に乗った始皇帝が、横に開けられた『小窓から外の様子を窺っていたのでは』と、説明されていました。『2号銅車馬』は、『安車』などとも呼ばれていたようです。(ウィキペディア)

  • 同じく、『二号銅車馬』の銅車の部分のズームアップ光景です。先程とは反対側になります。同じように、『秦始皇帝』が外を覗いていたらしい小窓がありました。4頭立ての二輪馬車は、実際の車馬の2分の1の比率でできているようです。(ウィキペディア)

    同じく、『二号銅車馬』の銅車の部分のズームアップ光景です。先程とは反対側になります。同じように、『秦始皇帝』が外を覗いていたらしい小窓がありました。4頭立ての二輪馬車は、実際の車馬の2分の1の比率でできているようです。(ウィキペディア)

  • 右前から眺めた、四頭立ての馬のズームアップ光景です。現代で例えれば、足が長くスマートなサラブレッドやアラブ馬ではなく、蒙古馬のような、体調の低い馬を連想します。その子孫は日本や朝鮮半島にも残されているようです。生き生きとした馬の表情は、2千年以上の時の経過を忘れさせてくれます。

    右前から眺めた、四頭立ての馬のズームアップ光景です。現代で例えれば、足が長くスマートなサラブレッドやアラブ馬ではなく、蒙古馬のような、体調の低い馬を連想します。その子孫は日本や朝鮮半島にも残されているようです。生き生きとした馬の表情は、2千年以上の時の経過を忘れさせてくれます。

  • 同じく、左前から眺めた、『二号銅車馬』の四頭立ての馬のズームアップ光景です。修復されて、かつての色彩も再現されているようでした。発掘当時の写真を見ますと、馬体の色は、この展示品のように白く綺麗な色をしていました。馬も車も青銅製で、轡や馬車の金属部分は大量の金や銀で装飾されていたようです。

    同じく、左前から眺めた、『二号銅車馬』の四頭立ての馬のズームアップ光景です。修復されて、かつての色彩も再現されているようでした。発掘当時の写真を見ますと、馬体の色は、この展示品のように白く綺麗な色をしていました。馬も車も青銅製で、轡や馬車の金属部分は大量の金や銀で装飾されていたようです。

  • 『銅馬車」と同じ、出土品の展示になるようです。文字も一緒に撮影してみましたが、まったく読み取ることは出来ませんでした。イメージ的には金製のネックレスやブレスレットなどの装飾品のように見えました。、『二号銅車馬』は、『副車』とも呼ばれました。始皇帝は滅多に乗らなかったものの、行幸の際には副官クラスが乗った馬車とされます。この副車は始皇帝の行幸の際に、始皇帝が乗っているものと間違えられて襲撃を受けたこともあったようです。

    『銅馬車」と同じ、出土品の展示になるようです。文字も一緒に撮影してみましたが、まったく読み取ることは出来ませんでした。イメージ的には金製のネックレスやブレスレットなどの装飾品のように見えました。、『二号銅車馬』は、『副車』とも呼ばれました。始皇帝は滅多に乗らなかったものの、行幸の際には副官クラスが乗った馬車とされます。この副車は始皇帝の行幸の際に、始皇帝が乗っているものと間違えられて襲撃を受けたこともあったようです。

  • 同じく、『銅馬車」と同じ、出土品の展示になるようです。こちらは装飾品ではなく、工芸品になるようです。左下付近に二文字だけ『工芸』の簡体字が見えました。銅馬車に使用されていた部品かも知れません。間違えられて襲撃を受けたことがあったため、以来、行幸の際の警備はさらに厳しくなり、一号車のような警護車が副車の前を走っていたとも言われています。出土した時の写真でも、一号車と二号車が縦に並んでいました。

    同じく、『銅馬車」と同じ、出土品の展示になるようです。こちらは装飾品ではなく、工芸品になるようです。左下付近に二文字だけ『工芸』の簡体字が見えました。銅馬車に使用されていた部品かも知れません。間違えられて襲撃を受けたことがあったため、以来、行幸の際の警備はさらに厳しくなり、一号車のような警護車が副車の前を走っていたとも言われています。出土した時の写真でも、一号車と二号車が縦に並んでいました。

  • こちらの展示品には『連接工芸』の表示がありました。馬の首の模型に装着された、馬具類です。説明文には、『金銀』の二文字が辛うじて読み取れました。馬具類の材質を表示しているようでした。<br />

    こちらの展示品には『連接工芸』の表示がありました。馬の首の模型に装着された、馬具類です。説明文には、『金銀』の二文字が辛うじて読み取れました。馬具類の材質を表示しているようでした。

  • 入館前に写真を撮る余裕がありませんでしたが、『胴車馬』が展示されていた展示館と同じようなデザインの建物光景です。銅馬車館の正式名称は、『秦始皇帝陵文物陳列庁』のようですが、この建物は、『兵馬俑2号坑』の立もの入口でした。後ほど見学しました。

    入館前に写真を撮る余裕がありませんでしたが、『胴車馬』が展示されていた展示館と同じようなデザインの建物光景です。銅馬車館の正式名称は、『秦始皇帝陵文物陳列庁』のようですが、この建物は、『兵馬俑2号坑』の立もの入口でした。後ほど見学しました。

  • 『秦始皇帝陵文物陳列庁』の棒車馬の見学を終えて、次は兵馬俑坑の見学です。最も規模が大きな、兵馬俑1号坑に向かいました。その途中の光景です。

    『秦始皇帝陵文物陳列庁』の棒車馬の見学を終えて、次は兵馬俑坑の見学です。最も規模が大きな、兵馬俑1号坑に向かいました。その途中の光景です。

  • 店先にカラフルな人形が並んでいたお土産店の光景です。お店の看板は、『秦始皇帝陵博物院文創展』の立派過ぎるほどの名前でした。

    店先にカラフルな人形が並んでいたお土産店の光景です。お店の看板は、『秦始皇帝陵博物院文創展』の立派過ぎるほどの名前でした。

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