2019/11/17 - 2019/11/22
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兵馬俑坑で発掘されたのは、武士俑(兵士俑、歩兵俑)、御手俑(御者俑)、立射俑、跪射俑、騎兵俑、将軍俑、軍吏俑、文官俑、百戯俑(力士俑)と、楽士俑に呼び分けられています。その表現の豊かさと、技能の高さには驚かされます。
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三つの兵馬俑坑の内、最初に発見された1号坑の紹介の続きです。東西の長さ230メートル、南北の幅62メートル、深さ5メートル、総面積14260平方メートルの規模を持ちます。先に、兵馬俑坑発見の経緯は紹介しましたので、兵馬俑坑を眺めながら、その主人公の秦始皇帝の生涯について紹介します。中国の近現代史でも評価が分かれた人です。
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写真は、先程の兵馬俑の右下付近の武人俑のズームアップ光景です。始皇帝(紀元前259年2月18日~紀元前210年9月10日)は、古代中国の戦国時代の秦の第31代王(在位:紀元前247~紀元前221年)で、初代皇帝(在位:紀元前221年~紀元前210年)でした。49年の生涯でした。始皇帝が中国統一後、僅か15年で秦は滅亡しました。
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横から眺めた1号坑の光景が続きます。秦国が、圧倒的な軍事力と緻密な統制力を背景に天下を統一したのは、紀元前221年のことでした。その2年後、始皇帝は征服した諸国を自ら巡る、初めての全国巡行に出発しました。中国北西部にある秦の都『咸陽(かんよう)』から東に向かい、山東省の『泰山(たいざん)』を目指しました。
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泰山は、古来より不老長寿を願う人々に崇められてきた霊峰です。ここで始皇帝は、『封禅(ほうぜん)』と呼ばれる儀式を行いました。偉大な王にのみ許された儀式であり、ここで始皇帝は自らを神であると宣言し、その治世が永劫に続くよう願ったといわれています。
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その後、更に東へ進んだ始皇帝は、41歳にして初めて海を見たようです。中国全土を統一した始皇帝も、雄大な大海原を前にして、その果てにまでは力が及ばないことを痛感したのかも知れません。そして、ここで『徐福(じょふく)』という人物と出会いました。徐福は、始皇帝に『財宝と引き換えに不老不死の薬を手に入れてみせましょう』と申し出ました。
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当時の寿命では、老境に差し掛かっていた始皇帝は、この徐福に財宝を与え、薬を探すよう命じました。この徐福は、肉体の不滅を説く思想を持ち、加持祈祷、医学、薬学をもって、不老不死を目指す『神仙術(しんせんじゅつ)』の使い手でした。神仙術などは、『方士(ほうし)』と呼ばれていました。後に中国に広まった『道教』も、この神仙術に起源を持つとされます。
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徐福との出会いにより、始皇帝は宮廷に次々と方士を召抱え、不老不死を目指すこととなりました。絶大な権力を持ち、自らを神と称した始皇帝も、死の影が見え始めたことから、徐々に冷静な判断力を失っていったようです。徐福伝説は、日本各地にも残されています。ここで、一旦、秦の始皇帝の生涯の紹介を中断します。発掘作業が続く場所にやって来ました。
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イチオシ
部分的に照明を用いて発掘作業中の1号坑の光景です。専門家の方が精密な作業に従事されているようでした。女性の方二人が、わき目もふらずに作業を進められていました。左の方は、マスクを装着した上に、さらに特殊な顔覆いを装着されているようです。
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発掘作業が進み、馬体がはっきりと見えてきた光景です。4頭立ての戦車らしい2組です。身体が割れた部分は、テープを用いて原型が復元されていましたが、頭部は脱落し、その前に据えられていました。足もほとんど折れているようです。この後、秦の始皇帝の生涯の紹介を再開します。
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巡行は南へと進み、湖南省にある霊山『湘山(しょうざん)』に立ち寄ろうとしましたが、嵐により長江が荒れたことで断念しました。荒れ狂う長江を前にした始皇帝は、『この嵐は湘山に祀られた神の仕業に違いない』として激怒、湘山の木をすべて切り倒させました。当時、赤は罪人が身にまとう色であり、赤土の露出した湘山は『罪人の山』と化しました。
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イチオシ
発掘作業と、修復作業が済んだ後で並べられた陶俑の光景です。1号坑の発掘作業は、急がずに徐々に進められています。神をも恐れぬ傲慢な振舞いに、住民たちは始皇帝に対して深い恨みを抱くようになったようです。紀元前215年、不老不死の薬を探すよう命じられていた方士の一人が、ある預言書を王宮に持ち帰ってきました。その一節が始皇帝の目を釘付けにしました。
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素の一節とは、『秦を滅ぼす者は胡なり』でした『胡(こ)』とは、北方の異民族である『匈奴((きょうど)』のことでした。匈奴の侵攻を恐れた始皇帝は、臣下の制止も聞かずに、北方へ軍を派遣するための『直道(ちょくどう)』を全長900キロにも亘り造らせました。そして、この直道を使い30万もの軍隊が北方に派遣させ、その前線は最大で現在の内モンゴル自治区にまで及んだとされます。
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秦の時代の巨大建設、『万里の長城』が今も残っています。秦の時代は土を固めたり、石を積み上げただけのものでした。秦の時代、長城の建設には300万もの人民が駆り出されたとされ、それは秦の人口の15%にも及びました。そして、長城と並ぶ始皇帝の巨大建築事業が『始皇帝陵』の建設です『始皇帝陵』は、彼が13歳の時から造りはじめ、40年の歳月をかけて完成しました。
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権力の象徴ともいえる中国皇帝の陵墓としては最大のものが、『始皇帝陵』です。
造営当時は今よりも一回り大きく、高さは87メートル、二重の城壁に守られ、建設には70万人が動員されました。そして、始皇帝陵の西側からはおびただしい数の人骨も発見されました。労役に駆り出され、命を落とした者達のものです。 -
1号坑が収納された建物の側面光景です。1号坑の北面になるようです。中から見ても、外に回っても巨大な建物です。壁面には、疾駆する戦車のレリーフ図が並んでいました。兵馬俑1号坑の紹介はここまでです。
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1号坑の見学を終え、歩いて2号坑に向かう途中にあった観光案内図の紹介です。東(イースト)が上に記された地図です。確か、兵馬俑が向いている方角でした。1号坑が中心に記され、2号坑がその左上(北側)、3号坑が左下に位置していました。現在地が、2号坑と3号坑の中間点に赤く記された場所です。
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ここからは、兵馬俑坑2号館の紹介です。その建物入口光景です。1号館の14260平方メートルの平面面積に対し、6000平方メートルですから、半分以下の規模になります。
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兵馬俑坑2号館の寒内光景です。発掘作業が保留されているような光景でした。秦始皇帝の生涯について紹介に戻ります。次々と巨大建築を造らされることで国力は弱まり、人々の不満が溜まっていきました。農民は畑仕事も出来ないほど酷使されていたといい、秦の国は綻びを見せ始めたのです。
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イチオシ
秦が中国を統一できた理由の一つに、生まれや身分に捉われない人材の登用がありました。始皇帝は、法に明るい官僚『法吏(ほうり)』、薬学に詳しい『方士(ほうし)』そして、孔子にその教えを求め、伝統を尊ぶ学者『儒生(じゅせい)』と呼ばれる三つの集団を抱え、意見を聞きながら政治を行っていました。紀元前213年、始皇帝47歳を祝う宴の席で、法吏と儒生の権力争いが表面化しました。
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『法による中央集権が始皇帝の中国統一を成し遂げた』という法吏に対し、儒生は『始皇帝の偉業は過去に学びを求めたからこそ』といい、法吏は『今の世から目をそらし、伝統ばかりを振りかざす儒生こそ人の心を惑わす輩』と強くこれに反論、儒生の知識の拠り所となる書物は焼き捨てるべきで、儒生をも殺すようにとまで始皇帝の前で言い放ちました。
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始皇帝が聞き入れたのは法吏の意見でした。これが『焚書(ふんしょ)』という大規模な書物焼却の引き金になり、政治判断のバランスが崩れ始めました。やがて、その弾圧は、いつまでも不老不死の薬を見つけ出せない方士にも向けられました。
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始皇帝は、儒生と方士を生き埋めにする『坑儒(こうじゅ)』を行い、次々と粛清を断行しました。その結果、自分に都合のよいことをいう者ばかりを傍に置き、始皇帝の暴走を止めるものは誰一人いなくなってしまいました。いわゆる、裸の王様状態です。
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49歳になり、ますます死を恐れるようになった始皇帝は、紀元前210年、最後の巡行に出発しました。それは自ら不老不死の薬を追い求める旅でもありました。しかし、この旅の途中、始皇帝は病に倒れます。初めて中国を統一した稀代のカリスマは、同年、その生涯を閉じました。
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秦の都、『咸陽(かんよう)』からはるか遠い地で息を引き取った始皇帝でした。しかし、巡行の途中で始皇帝は長男『扶蘇(ふそ)』を後継者とする遺書を残していましたが、始皇帝の臨終に立ち会ったのは、三男『胡亥(こがい)』ら3人しかいませんでした。
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権力を握る絶好の機会を前に、胡亥は遺書を握りつぶし、匈奴との最前線に赴いていた扶蘇には、匈奴を一掃出来ないことへの始皇帝の怒りを綴った偽の詔書を送り、自害に追い込みました。胡亥は、始皇帝の葬儀を取り仕切り、自らが皇帝の後継者であることを示しました。
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しかし、胡亥は始皇帝以上に独裁的であり、官僚、大臣、そして肉親までもことごとく処刑していきました。一方で、始皇帝の死が各地に知れわたると、民衆の大規模な反乱が勃発しました。秦の圧政に苦しめられていた民衆は、軍を創設するまでになり、咸陽へと迫りました。
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この出来事を見ますと、秦は始皇帝の名の下に、危ういバランスでまとまっていたことがよく分かります。そして、紀元前206年12月、咸陽の宮殿に火が放たれました。統一からわずか15年、秦王朝はここに滅亡しました。
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秦の滅亡後、権力を握ったのは反乱軍のリーダーの一人である『劉邦(りゅうほう)』でした。劉邦は、漢王朝を打ち立て、都を西安に定めました。漢は秦の統治を手本としながらも、厳格すぎる法律や圧政を見直し、より柔軟な統治を行いました。秦を反面教師とした漢王朝(紀元前206~紀元220年)は、前漢と後漢をあわせ、その後400年余続きました。
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伝説によれば、始皇帝は、宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたという。水銀には防腐効果があり屍は腐らないのですが、死臭対策の記録が在ることから、死因は水銀中毒ではなく(趙高と李斯に因る)毒殺の可能性が高いとの説が有力なようです。
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写真紹介パネルの光景です。左側の写真には『陶俑出土現状(Pottery Figure Being Excavated)』のタイトルがありました。右側は『又(サンズイ)墓墓道(Han Tomb Passage)』の出土写真です。
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