西安旅行記(ブログ) 一覧に戻る
興慶宮公園の前庭付近の紹介と、隋の初代皇帝・文帝(在位581~604年)が建立したとされる大興善寺の紹介です。随は、魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後、分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した中国王朝です。当時の日本は小野妹子などを遣隋使として派遣しました。

2019秋、中国旅行記25(8/34):11月18日(6):西安(7):興慶宮、大興善寺、狛犬、天王殿、四天王像、大雄宝殿

26いいね!

2019/11/17 - 2019/11/21

172位(同エリア1560件中)

旅行記グループ 2019秋、中国旅行記25(上巻)

0

30

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

興慶宮公園の前庭付近の紹介と、隋の初代皇帝・文帝(在位581~604年)が建立したとされる大興善寺の紹介です。随は、魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後、分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した中国王朝です。当時の日本は小野妹子などを遣隋使として派遣しました。

PR

  • 由緒ありそうな建物ですが、『興慶宮』の遺構ではないようです。ネット情報では、興慶宮の遺構は礎石のみとの記述を目にしました。柱などが赤いのは、ベンガラを使った塗装のようですが、その他にも緑色や黄色の彩色もされていました。755年から763年にかけて起きた『安史の乱』以後、興慶宮は政治上の重要な地位を失い、退位した皇帝が住むところとなりました。

    由緒ありそうな建物ですが、『興慶宮』の遺構ではないようです。ネット情報では、興慶宮の遺構は礎石のみとの記述を目にしました。柱などが赤いのは、ベンガラを使った塗装のようですが、その他にも緑色や黄色の彩色もされていました。755年から763年にかけて起きた『安史の乱』以後、興慶宮は政治上の重要な地位を失い、退位した皇帝が住むところとなりました。

  • 同じく、由緒ありそうな建物ですが、『興慶宮』の遺構ではない建物の光景です。籐椅子のセットが置かれ、芭蕉のような植物や、葡萄棚らしいものもありましたが、あまり手入れはよくないように見受けました。唐末期の戦乱により、興慶宮の全ての建築は焼かれてしまい、清の初めの頃には、もはや廃墟になってしまいました。先ほど紹介した、『安史の乱』は、『安禄山の乱』とも呼ばれます。

    同じく、由緒ありそうな建物ですが、『興慶宮』の遺構ではない建物の光景です。籐椅子のセットが置かれ、芭蕉のような植物や、葡萄棚らしいものもありましたが、あまり手入れはよくないように見受けました。唐末期の戦乱により、興慶宮の全ての建築は焼かれてしまい、清の初めの頃には、もはや廃墟になってしまいました。先ほど紹介した、『安史の乱』は、『安禄山の乱』とも呼ばれます。

  • 『安史の乱』は、唐の節度使の安禄山と、その部下の史思明およびその子供達によって引き起こされた大規模な反乱でした。安禄山は、西域のサマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血でもありました。貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相の李林甫に近付き、玄宗から信任され、さらに玄宗の寵妃の楊貴妃に取り入りました。

    『安史の乱』は、唐の節度使の安禄山と、その部下の史思明およびその子供達によって引き起こされた大規模な反乱でした。安禄山は、西域のサマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血でもありました。貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相の李林甫に近付き、玄宗から信任され、さらに玄宗の寵妃の楊貴妃に取り入りました。

  • 興慶宮公園の中の花飾りの光景です。花壇の中に、色とりどりの季節の花が咲き揃っていました。一番手前に、ピンクの花を咲かせた樹木のような花飾りは、菊の花でした。『安史の乱』の説明の続きです。宰相の李林甫の死後、楊貴妃の従兄で、宰相となった楊国忠との対立が深刻化し、ついにその身に危険が迫ると、安禄山は755年11月に挙兵しました。

    興慶宮公園の中の花飾りの光景です。花壇の中に、色とりどりの季節の花が咲き揃っていました。一番手前に、ピンクの花を咲かせた樹木のような花飾りは、菊の花でした。『安史の乱』の説明の続きです。宰相の李林甫の死後、楊貴妃の従兄で、宰相となった楊国忠との対立が深刻化し、ついにその身に危険が迫ると、安禄山は755年11月に挙兵しました。

  • 正面から眺めた、興慶宮公園の中の花飾りの光景です。樹木のように仕立てられたピンクの花の菊の飾りの後ろには、常緑樹のソテツ(蘇鉄)がありました。地植えの草花もあるようでしたが、菊は飾り付けに持ち込まれたらしく、少し草臥れていました。安禄山には、盟友である史思明、参謀の次男安慶緒、漢人官僚の厳荘や高尚、突厥王族出身の蕃将の阿史那承慶、契丹人の孫孝哲らが参画しました。

    正面から眺めた、興慶宮公園の中の花飾りの光景です。樹木のように仕立てられたピンクの花の菊の飾りの後ろには、常緑樹のソテツ(蘇鉄)がありました。地植えの草花もあるようでしたが、菊は飾り付けに持ち込まれたらしく、少し草臥れていました。安禄山には、盟友である史思明、参謀の次男安慶緒、漢人官僚の厳荘や高尚、突厥王族出身の蕃将の阿史那承慶、契丹人の孫孝哲らが参画しました。

  • 安禄山は、唐の国軍の内のかなりの割合の兵力を玄宗から委ねられていました。親衛隊8000騎、藩漢10万~15万の軍団で構成されました。唐政府軍側は平和に慣れきっていたことから役に立たず、安禄山軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の副都の洛陽を陥落させました。 756年正月、安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り、『燕国』の建国を宣言しました。

    安禄山は、唐の国軍の内のかなりの割合の兵力を玄宗から委ねられていました。親衛隊8000騎、藩漢10万~15万の軍団で構成されました。唐政府軍側は平和に慣れきっていたことから役に立たず、安禄山軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の副都の洛陽を陥落させました。 756年正月、安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り、『燕国』の建国を宣言しました。

  • 興慶宮公園の前庭の光景が続きます。唐軍は洛陽から退きましたが、司令官・封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却の罪で処刑されました。新たに哥舒翰が兵馬元帥に任じられ、潼関に赴任しました。哥舒翰は病気をもって固辞しようとしましたが、玄宗皇帝に拒絶されたと伝えられます。騎兵を率いる王思礼と歩兵を率いる李承光が対立していて、唐軍の統制力は低かったようです。

    興慶宮公園の前庭の光景が続きます。唐軍は洛陽から退きましたが、司令官・封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却の罪で処刑されました。新たに哥舒翰が兵馬元帥に任じられ、潼関に赴任しました。哥舒翰は病気をもって固辞しようとしましたが、玄宗皇帝に拒絶されたと伝えられます。騎兵を率いる王思礼と歩兵を率いる李承光が対立していて、唐軍の統制力は低かったようです。

  • 興慶宮公園の前の筋肉質の狛犬の光景です。口を開けた雄獅子です。唐は756年6月、蕃将の哥舒翰に命じ潼関から東に出撃させましたが、哥舒翰は安禄山軍に敗北しました。パニックに陥った唐朝廷は、楊国忠の進言により、756年6月、宮廷を脱出し、玄宗は蜀へと敗走しました。蜀は、現在の四川省成都市付近です。楊国忠は、安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪され、息子の楊暄の兄弟と共に兵士に殺害されました。皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとして、玄宗の意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺されました。

    イチオシ

    興慶宮公園の前の筋肉質の狛犬の光景です。口を開けた雄獅子です。唐は756年6月、蕃将の哥舒翰に命じ潼関から東に出撃させましたが、哥舒翰は安禄山軍に敗北しました。パニックに陥った唐朝廷は、楊国忠の進言により、756年6月、宮廷を脱出し、玄宗は蜀へと敗走しました。蜀は、現在の四川省成都市付近です。楊国忠は、安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪され、息子の楊暄の兄弟と共に兵士に殺害されました。皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとして、玄宗の意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺されました。

  • こちらは、口を開けた雌獅子です。同じように逞しい筋肉質でした。失意の中、玄宗皇帝は退位しました。皇太子の李亨が、霊武で粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなります。 756年9月、粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求め、10月に、オルド・バリクの会見でウイグル帝国第二代ハーンの葛勒可汗は要請に応じました。また、756年、アッバース朝のカリフであるマンスールは、唐を支援するため4000人のアラブ兵を派遣しました。762年4月に玄宗が逝去し、その直後に粛宗も逝去し、代宗が即位しました。762年10月、唐・ウイグル連合軍は、洛陽の奪回に成功、史朝義は敗走し、8年に及ぶ安史の乱は終結しました。

    こちらは、口を開けた雌獅子です。同じように逞しい筋肉質でした。失意の中、玄宗皇帝は退位しました。皇太子の李亨が、霊武で粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなります。 756年9月、粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求め、10月に、オルド・バリクの会見でウイグル帝国第二代ハーンの葛勒可汗は要請に応じました。また、756年、アッバース朝のカリフであるマンスールは、唐を支援するため4000人のアラブ兵を派遣しました。762年4月に玄宗が逝去し、その直後に粛宗も逝去し、代宗が即位しました。762年10月、唐・ウイグル連合軍は、洛陽の奪回に成功、史朝義は敗走し、8年に及ぶ安史の乱は終結しました。

  • 興慶宮公園の見学を終えて、次にやって来たのは、唐の前の時代、隋の文帝が建立した『大興善寺』です。西安市雁塔区に位置します。仏教復興の象徴、または国寺として建立したお寺です。大興善寺は、文帝が即位後に新都として造営を開始した大興城のメイン・ストリートである朱雀門街の中ほどになる、大興城の中心に当たる位置の靖善坊に置かれました。

    興慶宮公園の見学を終えて、次にやって来たのは、唐の前の時代、隋の文帝が建立した『大興善寺』です。西安市雁塔区に位置します。仏教復興の象徴、または国寺として建立したお寺です。大興善寺は、文帝が即位後に新都として造営を開始した大興城のメイン・ストリートである朱雀門街の中ほどになる、大興城の中心に当たる位置の靖善坊に置かれました。

  • 再建された建物らしく、まだ新しい石造の壁面光景です。『有情利楽』の陽文字が刻まれていました。唯識論の中の一節のようです。ところで、寺名の『大興』は、開皇2年(582年)の大興城造営と同時に詔勅によって定められた大興殿、大興門、大興県、大興園などの施設と同様、都城名に由来しています。『善』の字は、その坊名から一字拝借したものです。

    再建された建物らしく、まだ新しい石造の壁面光景です。『有情利楽』の陽文字が刻まれていました。唯識論の中の一節のようです。ところで、寺名の『大興』は、開皇2年(582年)の大興城造営と同時に詔勅によって定められた大興殿、大興門、大興県、大興園などの施設と同様、都城名に由来しています。『善』の字は、その坊名から一字拝借したものです。

  • 逞しい筋肉質の興慶宮公園の前の狛犬と比較しますと、控えめの顔付きに見える『大興善寺』の前の狛犬の光景です。北周末の大象元年(579年)に仏教復興に伴って陟古(ヤマヘン)桟寺に置かれた菩薩僧120名が、580年には正式の得度を受け、大興善寺が建立されると、移されて住僧となりました。『大興善寺』は、その建立の当初から、仏教治国策の中心寺院として構想されました。菩薩僧とは、修行段階の僧の呼び名です。

    逞しい筋肉質の興慶宮公園の前の狛犬と比較しますと、控えめの顔付きに見える『大興善寺』の前の狛犬の光景です。北周末の大象元年(579年)に仏教復興に伴って陟古(ヤマヘン)桟寺に置かれた菩薩僧120名が、580年には正式の得度を受け、大興善寺が建立されると、移されて住僧となりました。『大興善寺』は、その建立の当初から、仏教治国策の中心寺院として構想されました。菩薩僧とは、修行段階の僧の呼び名です。

  • 控えめの顔付きに見える『大興善寺』の前の狛犬の姿です。当然ながら、一対で置かれていました。どちらも本体とは台座の石質が異なり、台座の方はまだ新しい造りのようです。紐のようなものを咥え、舌を出したユニークな姿でした。

    控えめの顔付きに見える『大興善寺』の前の狛犬の姿です。当然ながら、一対で置かれていました。どちらも本体とは台座の石質が異なり、台座の方はまだ新しい造りのようです。紐のようなものを咥え、舌を出したユニークな姿でした。

  • 『有情利楽』とセットで記された四文字です。こちらの四文字は『荘厳国土』でした。唯識論の一節を引用し、現在でも『国土を荘厳し、有情を利楽させよう』などのスローガン風に唱えられているようです。(2008年、中国仏教協会総合研究室次長・宏度師など)

    『有情利楽』とセットで記された四文字です。こちらの四文字は『荘厳国土』でした。唯識論の一節を引用し、現在でも『国土を荘厳し、有情を利楽させよう』などのスローガン風に唱えられているようです。(2008年、中国仏教協会総合研究室次長・宏度師など)

  • ここからは、『大興善寺』の境内に入場しての参拝と見学です。境内は由緒ある敵視的建造物ですが、その周辺は高僧ビル化していました。闍那崛多・那連提耶舎・達磨般若・毘尼多流支らの西域からの渡来僧や、浄影寺の慧遠や曇遷・霊裕らの高僧名僧、60名余も集められ、訳経事業が行なわれました。

    ここからは、『大興善寺』の境内に入場しての参拝と見学です。境内は由緒ある敵視的建造物ですが、その周辺は高僧ビル化していました。闍那崛多・那連提耶舎・達磨般若・毘尼多流支らの西域からの渡来僧や、浄影寺の慧遠や曇遷・霊裕らの高僧名僧、60名余も集められ、訳経事業が行なわれました。

  • 『大興善寺』での訳経事業は、その後の初唐の時代の西明寺や大慈恩寺を舞台として行なわれた玄奘らの大規模な訳経の魁をなすものです。 屋根も壁もベンガラ色に統一し、緑色の線引きがアクセントになった建物の光景です。僧房の一つのように見えました。

    『大興善寺』での訳経事業は、その後の初唐の時代の西明寺や大慈恩寺を舞台として行なわれた玄奘らの大規模な訳経の魁をなすものです。 屋根も壁もベンガラ色に統一し、緑色の線引きがアクセントになった建物の光景です。僧房の一つのように見えました。

  • こちらは黒い本瓦が葺かれた、シックな造りの建物です。中二階風の部分に『天王殿』の大きな文字が記されていました。隋の時代の国を代表するお寺ですから、住僧のうち、那連提耶舎が外国僧主となり、僧猛は隋国大統、曇遷が昭玄大統、曇延が昭玄統となり、天下の僧徒を統制する立場に就きました。

    イチオシ

    こちらは黒い本瓦が葺かれた、シックな造りの建物です。中二階風の部分に『天王殿』の大きな文字が記されていました。隋の時代の国を代表するお寺ですから、住僧のうち、那連提耶舎が外国僧主となり、僧猛は隋国大統、曇遷が昭玄大統、曇延が昭玄統となり、天下の僧徒を統制する立場に就きました。

  • 門の前の狛犬は、控えめの顔付きでしたが、境内の中の狛犬は威風堂々としていました。冗談ですが、門前の狛犬は引退して余生を送る立場、こちらは現役バリバリの狛犬のように見えました。右足の下に玉を置いた、雄獅子の姿です。

    門の前の狛犬は、控えめの顔付きでしたが、境内の中の狛犬は威風堂々としていました。冗談ですが、門前の狛犬は引退して余生を送る立場、こちらは現役バリバリの狛犬のように見えました。右足の下に玉を置いた、雄獅子の姿です。

  • 雄獅子と同じように、口を閉じた吽形ではなく口を開けた阿形の姿です。それでも雌獅子のようです。左足の下に子獅子がいました。雄獅子に負けないほどの力が漲った姿です。

    雄獅子と同じように、口を閉じた吽形ではなく口を開けた阿形の姿です。それでも雌獅子のようです。左足の下に子獅子がいました。雄獅子に負けないほどの力が漲った姿です。

  • 振り返って眺めた山門の光景です。『五岡唐鎮』の金文字の表示がありましたが、『五岡』が具体的には何を示すのかは分かりませんでした。『唐王朝」は、618年、隋の将軍、李淵(りえん)が隋を倒して建国しました。初代皇帝が李淵(高祖)で、在位618~626年でした。2代目が李世民(りせいみん・太宋)で、在位626~649年、約300年続き、10世紀初頭の907年に滅亡しました。

    振り返って眺めた山門の光景です。『五岡唐鎮』の金文字の表示がありましたが、『五岡』が具体的には何を示すのかは分かりませんでした。『唐王朝」は、618年、隋の将軍、李淵(りえん)が隋を倒して建国しました。初代皇帝が李淵(高祖)で、在位618~626年でした。2代目が李世民(りせいみん・太宋)で、在位626~649年、約300年続き、10世紀初頭の907年に滅亡しました。

  • ここからは、『大興善寺』の建物内の光景です。日本では『布袋さま』として親しまれている『布袋(ほてい:生年不詳~917年? )は、唐代末から五代時代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧です。大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれ、日本では七福神の一神として信仰されています。

    ここからは、『大興善寺』の建物内の光景です。日本では『布袋さま』として親しまれている『布袋(ほてい:生年不詳~917年? )は、唐代末から五代時代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧です。大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれ、日本では七福神の一神として信仰されています。

  • 狛犬の次に、お寺の守りを固めるのは『四天王』です。『四天王(してんのう)』は、仏教観における須弥山・中腹に在る四天王天の四方において、仏法僧を守護している四神です。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天で、『四大王(しだいおう)』とも呼ばれます。左が琵琶を手にした東方の持国天、右が刀を持った南方の増長天になるようです。

    イチオシ

    狛犬の次に、お寺の守りを固めるのは『四天王』です。『四天王(してんのう)』は、仏教観における須弥山・中腹に在る四天王天の四方において、仏法僧を守護している四神です。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天で、『四大王(しだいおう)』とも呼ばれます。左が琵琶を手にした東方の持国天、右が刀を持った南方の増長天になるようです。

  • 四天王像紹介の続きです。左が西方の広目天のようです。広目天は邪鬼の上に静かに立ち、筆と巻物を持つ姿に表されていることが多いようです。右が北方の多聞天(毘沙門天)になるようです。左手に宝塔を捧げ持ち、右手で宝棒を握る姿です。

    四天王像紹介の続きです。左が西方の広目天のようです。広目天は邪鬼の上に静かに立ち、筆と巻物を持つ姿に表されていることが多いようです。右が北方の多聞天(毘沙門天)になるようです。左手に宝塔を捧げ持ち、右手で宝棒を握る姿です。

  • 『大雄宝殿』の建物光景です。本堂に相当する建物のように見えました。高い基壇の上に建てられ、屋根瓦も格式高そうな黄色でした。『五方五仏』の扁額を中心に、右に『胚(月偏無し)振宗風』、左に『光大法門』の扁額が並んでいました。後ほど入場して見学しました。

    『大雄宝殿』の建物光景です。本堂に相当する建物のように見えました。高い基壇の上に建てられ、屋根瓦も格式高そうな黄色でした。『五方五仏』の扁額を中心に、右に『胚(月偏無し)振宗風』、左に『光大法門』の扁額が並んでいました。後ほど入場して見学しました。

  • 『三州感応』の扁額がかかった建物の光景です。中央に雲に乗る仏像の下部が見え、『功徳無量』の文字が記された賽銭箱がありました。増長天の八将の一神、韋駄(韋陀)天に関連するようでしたが、詳しいことは分かりませんでした。ネット検索では、早稲田大学図書館の台湾・満州民俗版画の『三州感応韋陀 』の情報などがありました。

    『三州感応』の扁額がかかった建物の光景です。中央に雲に乗る仏像の下部が見え、『功徳無量』の文字が記された賽銭箱がありました。増長天の八将の一神、韋駄(韋陀)天に関連するようでしたが、詳しいことは分かりませんでした。ネット検索では、早稲田大学図書館の台湾・満州民俗版画の『三州感応韋陀 』の情報などがありました。

  • 右手前に『浄手処』の赤い立札がありましたが、その背後の建物とは関係がなさそうでした。二階建てのこじんまりとした、窓の少ない石造建築物です。書物庫か、鐘楼・鼓楼のような造りの建物に見えました。

    右手前に『浄手処』の赤い立札がありましたが、その背後の建物とは関係がなさそうでした。二階建てのこじんまりとした、窓の少ない石造建築物です。書物庫か、鐘楼・鼓楼のような造りの建物に見えました。

  • 『心音』らしい文字の扁額が懸かった建物のズームアップ光景です。1階正面の扉は閉まったままでした。『心音』の扁額は、鐘楼か鼓楼を連想させますが、詳しいことは分かりません。

    『心音』らしい文字の扁額が懸かった建物のズームアップ光景です。1階正面の扉は閉まったままでした。『心音』の扁額は、鐘楼か鼓楼を連想させますが、詳しいことは分かりません。

  • ブロンズ製の大きな置物の光景です。デザイン的には、大きな香炉のように見えました。足になって、鼻で支えているのが牙を持った象、最上部に大きな蓋が付いている造り物に見えました。

    ブロンズ製の大きな置物の光景です。デザイン的には、大きな香炉のように見えました。足になって、鼻で支えているのが牙を持った象、最上部に大きな蓋が付いている造り物に見えました。

  • 二匹の龍のレリーフ像の光景です。『大雄宝殿』が置かれたの基壇の石段部分に置かれていました。かつての中国では、龍は皇帝をイメージし、特別な場所以外には使用されなかったようです。ただし、使用される場合は、5本指ではなく、三本指か四本指で表現されたようです。この龍も宮殿ではなく、寺院の龍ですから、三本指と四本指で表現されていました。

    二匹の龍のレリーフ像の光景です。『大雄宝殿』が置かれたの基壇の石段部分に置かれていました。かつての中国では、龍は皇帝をイメージし、特別な場所以外には使用されなかったようです。ただし、使用される場合は、5本指ではなく、三本指か四本指で表現されたようです。この龍も宮殿ではなく、寺院の龍ですから、三本指と四本指で表現されていました。

  • 『大雄宝殿』の建物正面光景です。中央下部に『五方五仏』の扁額が懸かっていました。真言密教では、大日如来と、如来から生じた、これをとりまく四仏を含めて五仏と呼んでいるようです。金剛界では、大日如来を中心に東西南北に大日如来の四つの智慧を表す阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来が配置されます。(高野山・成身会)

    『大雄宝殿』の建物正面光景です。中央下部に『五方五仏』の扁額が懸かっていました。真言密教では、大日如来と、如来から生じた、これをとりまく四仏を含めて五仏と呼んでいるようです。金剛界では、大日如来を中心に東西南北に大日如来の四つの智慧を表す阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来が配置されます。(高野山・成身会)

この旅行記のタグ

関連タグ

26いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

中国で使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
中国最安 283円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

中国の料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから海外旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP