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龍門石窟の紹介です。北魏の孝文帝が、大同の平城から洛陽に遷都した494年(太和18年)に建設が始まりました。仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、『龍門期(494~520年)』と呼ばれる時期石窟と仏像群の見学です。かつて見学した『雲岡石窟』を想い出しながらの見学でした。

2019秋、中国旅行記25(20/34):11月19日(8):洛陽(8):龍門石窟(2):奉先寺、毘盧遮那仏、四天王、伊河

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2019/11/17 - 2019/11/21

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旅行記グループ 2019秋、中国旅行記25(上巻)

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旅人のくまさん

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龍門石窟の紹介です。北魏の孝文帝が、大同の平城から洛陽に遷都した494年(太和18年)に建設が始まりました。仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、『龍門期(494~520年)』と呼ばれる時期石窟と仏像群の見学です。かつて見学した『雲岡石窟』を想い出しながらの見学でした。

  • 無数の洞窟が穿たれた『西山石窟』の光景です。観光用に石段が整備されていました。北魏の孝文帝が、大同の平城から洛陽に遷都した494年(太和18年)に建設が始まりました。仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、『龍門期(494~520年)』と呼ばれる時期の始まりです。中国三大石窟の一つ、雲岡石窟は山西省の大同にあります。

    無数の洞窟が穿たれた『西山石窟』の光景です。観光用に石段が整備されていました。北魏の孝文帝が、大同の平城から洛陽に遷都した494年(太和18年)に建設が始まりました。仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、『龍門期(494~520年)』と呼ばれる時期の始まりです。中国三大石窟の一つ、雲岡石窟は山西省の大同にあります。

  • この後紹介する盧舎那仏のお顔は、則天武后モデル説がありますが、現在は否定されています。絶頂期の石窟は、675年(上元2年)に完成した『奉先寺洞』ですが、ここに最大の仏像の盧舎那仏があります。これは、高宗の発願になるものです。皇后の武氏、のちの武則天も浄財を寄進していますが、その後のことです。武則天は弥勒仏の化身と言われ、尊像としても合いません。(ウィキペディア)

    この後紹介する盧舎那仏のお顔は、則天武后モデル説がありますが、現在は否定されています。絶頂期の石窟は、675年(上元2年)に完成した『奉先寺洞』ですが、ここに最大の仏像の盧舎那仏があります。これは、高宗の発願になるものです。皇后の武氏、のちの武則天も浄財を寄進していますが、その後のことです。武則天は弥勒仏の化身と言われ、尊像としても合いません。(ウィキペディア)

  • 武則天の時代には、西山の南方、『浄土洞』の付近まで造営が及びました。このため、武則天末より玄宗にかけての時期には、東山にも石窟が開削されるようになりました。『看経寺洞』がその代表とされます。時間の都合で、残念ながら『東山石窟』は見学していません。中国史上唯一の女帝の武則天(624~705年)は、唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝(在位:690~705年)を建てました。

    武則天の時代には、西山の南方、『浄土洞』の付近まで造営が及びました。このため、武則天末より玄宗にかけての時期には、東山にも石窟が開削されるようになりました。『看経寺洞』がその代表とされます。時間の都合で、残念ながら『東山石窟』は見学していません。中国史上唯一の女帝の武則天(624~705年)は、唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝(在位:690~705年)を建てました。

  • 日本では『則天武后(そくてんぶこう)』と呼ばれることが多いですが、この名称は、彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称とされます。現在の中国では、姓を冠して『武則天』と呼ぶことが一般的になっています。生家の武氏は、唐初時代の政治を担った関隴貴族集団の中では傍流に列する家系でしたが、代々財産家だったとされます。

    日本では『則天武后(そくてんぶこう)』と呼ばれることが多いですが、この名称は、彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称とされます。現在の中国では、姓を冠して『武則天』と呼ぶことが一般的になっています。生家の武氏は、唐初時代の政治を担った関隴貴族集団の中では傍流に列する家系でしたが、代々財産家だったとされます。

  • 武皇后は、高宗に代わり、垂簾政治を行いました。顕慶5年(660年)、新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし、百済を滅ぼしました。倭国(日本)・旧百済連合軍と唐軍が戦った『白村江の戦い』に勝利し、その5年後には、高句麗を滅ぼしました。百済が滅び、唐が攻め入るのを恐れた日本は、各地に防御施設を設けました。今も残る、664年(天智2年)建設の『水城(みずき)』などです。

    武皇后は、高宗に代わり、垂簾政治を行いました。顕慶5年(660年)、新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし、百済を滅ぼしました。倭国(日本)・旧百済連合軍と唐軍が戦った『白村江の戦い』に勝利し、その5年後には、高句麗を滅ぼしました。百済が滅び、唐が攻め入るのを恐れた日本は、各地に防御施設を設けました。今も残る、664年(天智2年)建設の『水城(みずき)』などです。

  • 天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就きました。国号を『周』とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元しました。この王朝を『武周』と呼びます。帝室を老子の末裔と称して『道先仏後』だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後』に改めました。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称しました。写真は『武則天』ではありません。

    天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就きました。国号を『周』とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元しました。この王朝を『武周』と呼びます。帝室を老子の末裔と称して『道先仏後』だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後』に改めました。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称しました。写真は『武則天』ではありません。

  • 『第1280窟(奉先寺)』のタイトルの説明パネルの光景です。奉先寺(ほうせんじ)は、中国の洛陽郊外、龍門最大の規模をほこる寺院です。本尊である大仏の仏座の北側に、唐の玄宗・開元10年(722年)に補刻された『河洛上都龍門之陽大盧舎那像龕記』碑の碑文の記述によれば、大仏龕は高宗の時の創建とされます。『高宗(こうそう:628~683年)は、唐の第3代皇帝(在位:649~683年)です。

    『第1280窟(奉先寺)』のタイトルの説明パネルの光景です。奉先寺(ほうせんじ)は、中国の洛陽郊外、龍門最大の規模をほこる寺院です。本尊である大仏の仏座の北側に、唐の玄宗・開元10年(722年)に補刻された『河洛上都龍門之陽大盧舎那像龕記』碑の碑文の記述によれば、大仏龕は高宗の時の創建とされます。『高宗(こうそう:628~683年)は、唐の第3代皇帝(在位:649~683年)です。

  • 先程の説明パネルには、咸亨3年(672年)に、皇后の武氏が脂粉銭20,000貫を施助し、上元2年(675年)に完成したという。さらに、調露元年(679年)に、勅を奉じて大像龕の南に大奉先寺を置き、翌年の正月に高宗が寺額を書しました。大仏の肉髻から仏座までの高さが17.14m、向背まで含めると約20mです。仏龕の東西の深さが38.7m、南北の広さが33.5mです。

    先程の説明パネルには、咸亨3年(672年)に、皇后の武氏が脂粉銭20,000貫を施助し、上元2年(675年)に完成したという。さらに、調露元年(679年)に、勅を奉じて大像龕の南に大奉先寺を置き、翌年の正月に高宗が寺額を書しました。大仏の肉髻から仏座までの高さが17.14m、向背まで含めると約20mです。仏龕の東西の深さが38.7m、南北の広さが33.5mです。

  • 『第1280窟(奉先寺)』の中心部分のズームアップ光景です。中央の大盧舎那像の大仏の肉髻から仏座までの高さが17.14m、向背まで含めると約20mです。その本尊の面貌は、武皇后、のちの則天武后を写したという説がありますが、時代考証で矛盾があるらしく、今はその説は否定されています。なお、造営の責任者は、中国浄土教の祖の一人である善導でした。

    『第1280窟(奉先寺)』の中心部分のズームアップ光景です。中央の大盧舎那像の大仏の肉髻から仏座までの高さが17.14m、向背まで含めると約20mです。その本尊の面貌は、武皇后、のちの則天武后を写したという説がありますが、時代考証で矛盾があるらしく、今はその説は否定されています。なお、造営の責任者は、中国浄土教の祖の一人である善導でした。

  • 則天武后の顔を写したとの説もあった、大盧遮那像のお顔のズームアップ光景です。『毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)』は、大乗仏教の華厳経において、中心的な存在として扱われる尊格です。密教においては大日如来と同一視されます。尊名は華厳経では『舎』の字を用いて『毘盧舎那』、大日経では『遮』の字を用いて『毘盧遮那仏』と表記されます。

    イチオシ

    則天武后の顔を写したとの説もあった、大盧遮那像のお顔のズームアップ光景です。『毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)』は、大乗仏教の華厳経において、中心的な存在として扱われる尊格です。密教においては大日如来と同一視されます。尊名は華厳経では『舎』の字を用いて『毘盧舎那』、大日経では『遮』の字を用いて『毘盧遮那仏』と表記されます。

  • 先程は右斜め前から拝したお顔でしたが、今度は左斜め前から眺めたお顔です。、大日如来とも呼る毘盧遮那仏は、その成立の起源を、ゾロアスター教の善の最高神アフラ・マズダーに求める学説があります。日本の仏像では、聖武天皇の発願により造られた東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏、東大寺大仏)が有名です。また、鑑真が開創した唐招提寺金堂の中尊も、天平時代の脱乾漆像として有名です。

    先程は右斜め前から拝したお顔でしたが、今度は左斜め前から眺めたお顔です。、大日如来とも呼る毘盧遮那仏は、その成立の起源を、ゾロアスター教の善の最高神アフラ・マズダーに求める学説があります。日本の仏像では、聖武天皇の発願により造られた東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏、東大寺大仏)が有名です。また、鑑真が開創した唐招提寺金堂の中尊も、天平時代の脱乾漆像として有名です。

  • 毘盧遮那仏の左手の脇侍のお顔のズームアップ光景です。きりりと口を閉ざした、剃髪した僧の姿でした。

    毘盧遮那仏の左手の脇侍のお顔のズームアップ光景です。きりりと口を閉ざした、剃髪した僧の姿でした。

  • 同じく、毘盧遮那仏の左手の脇侍のお顔のズームアップ光景です。冠を被った、観音様風の像です。目を閉じて、少し俯き加減の瞑想姿です。

    同じく、毘盧遮那仏の左手の脇侍のお顔のズームアップ光景です。冠を被った、観音様風の像です。目を閉じて、少し俯き加減の瞑想姿です。

  • 毘盧遮那仏の左手に位置する、剃髪した僧の姿の脇侍の全身像です。台座は、蓮座のようでした。

    毘盧遮那仏の左手に位置する、剃髪した僧の姿の脇侍の全身像です。台座は、蓮座のようでした。

  • 毘盧遮那仏の左手の二人の脇侍の全身像です。足元に見える黒い説明パネルは、先に紹介した、『第1280窟(奉先寺)』のタイトルの説明パネルです。

    毘盧遮那仏の左手の二人の脇侍の全身像です。足元に見える黒い説明パネルは、先に紹介した、『第1280窟(奉先寺)』のタイトルの説明パネルです。

  • 毘盧遮那仏の左手に位置する、観音さま風の脇侍の全身像です。『観音菩薩(かんのん ぼさつ)』は、仏教の菩薩の一尊で、『観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)』または『観自在菩薩(かんじざいぼさつ)』とも呼ばれます。『救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)』など多数の別名があり、日本では、畏敬を籠めた愛称の『観音さま』とも呼ばれます。

    毘盧遮那仏の左手に位置する、観音さま風の脇侍の全身像です。『観音菩薩(かんのん ぼさつ)』は、仏教の菩薩の一尊で、『観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)』または『観自在菩薩(かんじざいぼさつ)』とも呼ばれます。『救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)』など多数の別名があり、日本では、畏敬を籠めた愛称の『観音さま』とも呼ばれます。

  • 岩肌の随所に彫刻された、小さな仏像群のズームアップ光景です。その一部を紹介しておきます。この像は、この後紹介する北方を守る『多聞天』の左手にありました。その多聞天の肘と宝塔が、右上に見えています。丈と袖が長い僧衣を着た像は、顔や腕などに、人為的と思われる傷痕が見受けられました。

    岩肌の随所に彫刻された、小さな仏像群のズームアップ光景です。その一部を紹介しておきます。この像は、この後紹介する北方を守る『多聞天』の左手にありました。その多聞天の肘と宝塔が、右上に見えています。丈と袖が長い僧衣を着た像は、顔や腕などに、人為的と思われる傷痕が見受けられました。

  • 毘盧遮那仏の右手に位置する、脇侍の全身像の光景です。左手に置かれた像と同様に、『観音菩薩(かんのん ぼさつ)』のようです。衣装なども似ていました。

    毘盧遮那仏の右手に位置する、脇侍の全身像の光景です。左手に置かれた像と同様に、『観音菩薩(かんのん ぼさつ)』のようです。衣装なども似ていました。

  • 同じく、毘盧遮那仏の右手に位置する脇侍の全身像の光景です。上部から流れ込んだ雨水の影響でしょうか、大きく損傷していました。僧衣から推測しますと、左側に置かれた剃髪した僧と同じように、僧の像のようです。

    同じく、毘盧遮那仏の右手に位置する脇侍の全身像の光景です。上部から流れ込んだ雨水の影響でしょうか、大きく損傷していました。僧衣から推測しますと、左側に置かれた剃髪した僧と同じように、僧の像のようです。

  • 毘盧遮那仏の右手に位置する、四天王像の頭部のズームアップ光景です。右手の上に宝塔を持つ姿です。北方を守る『多聞天』とも呼ばれる『毘沙門天』のようです。『毘沙門』の表記は、ヴァイシュラヴァナを中国で音写したものとされ、『よく聞く所の者』という意味にも解釈できるため、『多聞天(たもんてん)』とも訳されました。夜叉、羅刹を眷属とします。

    イチオシ

    毘盧遮那仏の右手に位置する、四天王像の頭部のズームアップ光景です。右手の上に宝塔を持つ姿です。北方を守る『多聞天』とも呼ばれる『毘沙門天』のようです。『毘沙門』の表記は、ヴァイシュラヴァナを中国で音写したものとされ、『よく聞く所の者』という意味にも解釈できるため、『多聞天(たもんてん)』とも訳されました。夜叉、羅刹を眷属とします。

  • 同じく、毘盧遮那仏の右手に位置する、四天王像の頭部のズームアップ光景です。西方を守る『広目天』でしょうか、龍神、富単那を眷属とします。梵名で ヴィルーパークシャです。その意味は、『種々の眼をした者』とされます。『尋常でない眼、特殊な力を持った眼』から、さらに千里眼と拡大解釈され、『広目』と訳されました。

    イチオシ

    同じく、毘盧遮那仏の右手に位置する、四天王像の頭部のズームアップ光景です。西方を守る『広目天』でしょうか、龍神、富単那を眷属とします。梵名で ヴィルーパークシャです。その意味は、『種々の眼をした者』とされます。『尋常でない眼、特殊な力を持った眼』から、さらに千里眼と拡大解釈され、『広目』と訳されました。

  • 『多聞天』と『広目天』が肩を並べた、毘盧遮那仏の右手の光景です。人の大きさと比べて、四天王像の大きさも並々ならないことが分かります。左が『多聞天』、右が『広目天』と推定しました。<br />

    『多聞天』と『広目天』が肩を並べた、毘盧遮那仏の右手の光景です。人の大きさと比べて、四天王像の大きさも並々ならないことが分かります。左が『多聞天』、右が『広目天』と推定しました。

  • 見学する人がいなくなったところで、少しだけズームアップした、『多聞天』と『広目天』が肩を並べた光景です。『多聞天』は、四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域で、独尊として信仰の対象となり、様々な呼び方があります。中国の民間信仰においての『広目天』は、赤い顔で竜を持った姿で表されたようです。

    見学する人がいなくなったところで、少しだけズームアップした、『多聞天』と『広目天』が肩を並べた光景です。『多聞天』は、四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域で、独尊として信仰の対象となり、様々な呼び方があります。中国の民間信仰においての『広目天』は、赤い顔で竜を持った姿で表されたようです。

  • こちらは毘盧遮那仏の左手に位置する、四天王像の内の2体だったようですが、傷みが進んでいました。『多聞天』と『広目天』以外の四天王とすれば、東方を守る『持国天』と、南方を守る『増長天』になります。『持国天』は、本来はインド神話に登場する雷神インドラ(帝釈天)の配下で、後に仏教に守護神に取り入れられました。『増長天』も、雷神インドラ(帝釈天)の配下でした。

    こちらは毘盧遮那仏の左手に位置する、四天王像の内の2体だったようですが、傷みが進んでいました。『多聞天』と『広目天』以外の四天王とすれば、東方を守る『持国天』と、南方を守る『増長天』になります。『持国天』は、本来はインド神話に登場する雷神インドラ(帝釈天)の配下で、後に仏教に守護神に取り入れられました。『増長天』も、雷神インドラ(帝釈天)の配下でした。

  • 毘盧遮那仏の右手に位置する、四天王像の一人、西方を守る『広目天』として粗油買いした像と、その右手方向の石窟光景です。石窟のほか、摩崖仏もたくさん並んでいました。それらの像に比べますと、こちらの像はかなりの大きさです。

    毘盧遮那仏の右手に位置する、四天王像の一人、西方を守る『広目天』として粗油買いした像と、その右手方向の石窟光景です。石窟のほか、摩崖仏もたくさん並んでいました。それらの像に比べますと、こちらの像はかなりの大きさです。

  • 『奉先寺』の石段を下りかけた途中から、振り返って眺めた、右手方面の光景です。先ほど紹介した、『多聞天』と『広目天』が肩を並べたような像が中央奥に見えました。

    『奉先寺』の石段を下りかけた途中から、振り返って眺めた、右手方面の光景です。先ほど紹介した、『多聞天』と『広目天』が肩を並べたような像が中央奥に見えました。

  • 崖の中腹の『奉先寺』付近から眺めた、『伊河(いが)』と対岸の『東山』方面の光景です。対岸には、『東山石窟』、『香山寺』や白居易(白楽天』のお墓の『白居易墓苑』があります。

    崖の中腹の『奉先寺』付近から眺めた、『伊河(いが)』と対岸の『東山』方面の光景です。対岸には、『東山石窟』、『香山寺』や白居易(白楽天』のお墓の『白居易墓苑』があります。

  • 崖の中腹の『奉先寺』付近から眺めた、『伊河(いが)』と対岸の『東山』方面の光景が続きます。西山から、東山方面を眺めた光景ですから、右手が南側方面になるようです。静かな流れで、判別が付き難いところですが、この辺りでは北側方面が川下になるようでした。

    崖の中腹の『奉先寺』付近から眺めた、『伊河(いが)』と対岸の『東山』方面の光景が続きます。西山から、東山方面を眺めた光景ですから、右手が南側方面になるようです。静かな流れで、判別が付き難いところですが、この辺りでは北側方面が川下になるようでした。

  • 崖の中腹の『奉先寺』付近から眺めた、『伊河(いが)』と対岸の『東山』方面の光景が続きます。展望台になりそうな広場がありました。先程よりは北側になる左手方面の光景です。あまり当にならない判断ですが、左手方面が伊河の川下になるようです。

    崖の中腹の『奉先寺』付近から眺めた、『伊河(いが)』と対岸の『東山』方面の光景が続きます。展望台になりそうな広場がありました。先程よりは北側になる左手方面の光景です。あまり当にならない判断ですが、左手方面が伊河の川下になるようです。

  • 『奉先寺』の見学と産廃を終えて、少し南側になる麓まで下りて来ました。その麓にあった道案内標識です。幟方向に、『葯方洞』、『古陽洞』や『火焼洞』などが記されていました。

    『奉先寺』の見学と産廃を終えて、少し南側になる麓まで下りて来ました。その麓にあった道案内標識です。幟方向に、『葯方洞』、『古陽洞』や『火焼洞』などが記されていました。

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