2018/08/07 - 2018/08/07
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su3さん
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引き続き高野山ウロウロ。2日目です。奥の院ではとにかく墓をいっぱい見ました。有名な家柄が勢ぞろい。
高野山見学の後には粉河寺にも寄りました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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二日目は高野山観光情報センターの駐車場に車を停めて歩きます。
トイレを借りがてら高野山観光情報センターによってみましたが、外国人用の資料とかもあって、世界遺産の観光地なんだなと実感しました。 -
高野山観光情報センターをでて大師教会の庭を眺めつつ歩きます。
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朝の大師教会も良いものです。
高野山大師教会 寺・神社・教会
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こちらもグローバル化してますね。
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大師教会の隣には常喜院地蔵堂。さすり地蔵、一願地蔵、聞き耳地蔵、水かけ不動などが祀られていましたが、中でもひときわ目を引いたのが赤地蔵尊。堂内は香の香りと流れている水の音が響いて不思議な空間になっていました。
常喜院地蔵堂 名所・史跡
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天気も良いし、まだそれほど熱くないからということで小田原通りをてくてく散歩がてら奥の院へ向かいます。
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途中に見えた目を引く建物の成福院摩尼宝塔。なぜ正面に大理石の獅子がいる?と好奇心に駆られて中に入ってみたところ、ビルマでの戦没者供養のために建てられた塔だからということが分かりました。成福院の元住職が陸軍嘱託としてビルマ戦線を体験したことから建てられたそうです。
成福院 摩尼宝塔 名所・史跡
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宝生流の80曲ある謡曲の中伝序之分9番の内の一つ、高野物狂についての札が立っていました。たしかに高野山は謡蹟なんですよね。高野物狂の内容について書かれていました。
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謡曲の札の先を進むと橋が見えました。
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奥の院の入口に到着。
高野山奥の院 寺・神社・教会
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まずは手水舎で手を清めましょう。
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一の橋を渡って奥に進みます。
ちなみに一の橋の正式名は大渡橋。正式の参拝は一の橋から参道を歩くものだそうで、弘法大師は参詣する人々を、ここまで送り迎えしてくれると言い伝えられ、一礼してから橋を渡るのがしきたりなんだそうです。橋から御廟まで2kmあるとか。結構な距離がありますね。高野山 一の橋 名所・史跡
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橋を渡ると道が二手に分かれてました。
大通りの方に行けばいいよね? -
こちらは奥州仙台の伊達家墓所。
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そのお隣に伊予宇和島の伊達家墓所。
海を巧みに利用した城のある愛媛の宇和島の伊達家ですね。
嫡子と庶子の墓所が仲良く隣り合わせなんですね。 -
加賀藩の墓所。
祀られているのは加賀藩三代藩主前田利常と四代藩主光高で、百万石の加賀の割にひっそりと建っている感じでした。 -
司馬遼太郎の文学碑。
高野山管見の冒頭部分が刻まれていました。 -
薩摩の島津家墓所。
島津家は奥の院内に計3ヶ所あるそうで、そのうちの1箇所になります。 -
岡山の池田家墓所。
意外にも小さい五つの墓石が並んでいます。右側から2代目藩主の綱政、榮光院殿浄林妙清大姉、3代藩主の継政、真証院殿願譽心行西岳大信女、4代藩主の宗政だそうです。 -
津山の森家墓所。
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そのお隣は森蘭丸とは兄弟にあたる森忠政の墓所
後日、この方の造った津山城に行ったのですが、森家墓所のお隣に別建てで建てられているのがよくわかりました。 -
どんどん奥に進みましょう。
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立派な杉の木の根元を横切ります。
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周防の毛利家墓所。
奥までずらり。 -
筑後の有馬家墓所。
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河野水軍で知られる伊予の河野家墓所
右側が河野通直の母親、左が河野通直の墓になります。 -
これは墓石ではなく記念塔のようです。
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道中、いくつもの町石が立っていました。
町石は道しるべとして建てられたもので、根本大塔から弘法大師御廟のあいだに36基、また、約22km離れた九度山町の慈尊院から根本大塔のあいだにも180基が建てられています。鎌倉時代以前は木製だったそうです。 -
江崎グリコの文字に!?となりましたが、江崎グリコの創業者である江崎利一と、従業員物故者の墓なんだそうです。墓石の家紋の部分がグリコのランナーのマークになっていました。
江崎グリコの他にも企業の墓所や戦争慰霊碑などがたくさんありました。 -
それにしても参道を歩いているとなんだがいい匂いがします。
何ででしょうね。高野山奥の院 寺・神社・教会
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他の墓所とはちょっと違う龍泉院墓所。高野山にある龍泉院のことでしょうか。
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八代将軍吉宗公之墓所となっていますが、どうやらここ数年前に標柱が建てられたらしく吉宗公墓所の真偽は不明なんだそうです。供養塔なんでしょうかね。
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高松の松平家墓所と書かれているけれど、刻まれている文字の内容から京極家の五輪塔じゃないかといわれている墓石。
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丸亀の京極家墓所。
珍しい形の凝った造りの墓所ですね。石廟の中には簡素な卵塔が建てられていました。 -
小田原の北条氏墓所はこの奥。
少し進むとたくさんの五輪塔がありました。墓所の隣には碑文があり、秀吉は氏政の弟北条氏規を河内狭山に封じ、狭山に移った北条家は明治に至って華族に列せられていると書かれていました。まだ続いているかもしれないんですね。 -
信州の松本家墓所。
松本藩初代藩主・水野忠清、2代藩主・忠職、5代藩主・忠幹とその奥さんなどの五輪塔がありました。 -
信州の諏訪家墓所。
諏訪大社の大祝の家柄である諏訪家。武田信玄の時代に諏訪頼重の娘が信玄の側室となり勝頼を生み、後に勝頼は織田・徳川によって滅ぼされます。が、血筋は途絶えておらず、維新後は子爵に叙せられたそうです。 -
肥前の鍋島家墓所の入口。
この奥に鍋島直茂と、その正室の墓所がありました。鍋島藩といえば化け猫ですよね。幕末には高い技術力で維新に貢献した藩でもありました。 -
豊前の中津藩奥平家墓所。
藩主の五輪塔の周りには奥平家ゆかりの五輪塔も沢山ありました。 -
奥州の南部家墓所。
南部というと南部鉄器を思い出してしまいますが、南部家は清和源氏の血を引く武家の名門なんですよね。 -
蝦夷の松前家墓所。
元の姓は蠣崎だったのですが、徳川家康に蝦夷地の地図を差出し恭順の意を示したころに松前の地名を姓としたところから始まっています。松前漬け、美味しいですよね。 -
武田信玄と武田勝頼の墓所。
左の大きいほうが信玄、右の小さい方が勝頼の供養塔です。武田信玄のほうは最初に3回忌のときに建てられたとか。武士らしく質素な墓所を希望したそうで、信玄の人柄があらわれているとのことです。 -
紀州藩の第7代藩主、徳川宗将墓所。
在位は短く特に有名というわけではありませんが、一人で祀られていました。我々が知らない何かがあったんでしょうか。紀州の徳川は徳川御三家として大きな家ですが、意外と小さいんですね。ただ、作りは凝っているなと思いました。紀州家は五輪塔を立てていないそうです。 -
弘法大師が腰かけた石。
疲れたら座って休みたくなりますよね。 -
播州姫路の酒井家墓所。
山陽道に睨みをきかせる上で重要な拠点だったため、関ケ原の戦い以上、姫路城主は頻繁に替わったのですが、酒井家は江戸の半ばに代わって明治維新まで続いた家柄。 -
紀州徳川家2代光貞 3代綱教 4代頼職 6代宗直墓所。
こちらも7代藩主宗将と似た作りですね。墓所は4つに仕切られて、それぞれに石の扉がついています。集合住宅みたい。5代目は将軍になった吉宗なのでこちらにはありません。 -
周防岩国の吉川家墓所。
毛利元就の次男が養子に入った家ですね。 -
ずらりと五輪塔が綺麗に並んでいて圧巻でした。
毛利を支えた家柄なだけあるということでしょうか。 -
上州館林の榊原康政墓所。
康政は徳川家康四天王の一人です。榊原家は祖父の代から松平氏に仕えたという家柄。 -
阿波徳島の蜂須賀家墓所。
中央の大きい五輪塔が蜂須賀小六の孫である蜂須賀至鎮の墓で、蜂須賀小六の墓は右側にある小さい宝篋印塔。秀吉との所縁が深い小六(正勝)は小さい塔なんですね。 -
伊達政宗の墓所。
独眼竜政宗の一周忌のときに立てられた五輪塔が真ん中にあり、五輪塔の周囲には後を追って殉死した20人の墓がありました。 -
鳥取の池田家墓所。
1632年に鳥取藩主であった池田光政と岡山藩主であった池田光仲が入れ替わっているんですよね。二人は一字違いやんな。 -
薩摩の島津家初代二代墓所。
初代藩主の家久、二代藩主の光久、そしてその子・綱久の墓所です。世継ぎとして生まれた綱久は早くに亡くなったため、その長男の綱貴が3代藩主になりました。けれども二代目と一緒に祀られています。中央の一番大きい初代藩主家久の五輪塔は奥の院で4番目に大きい4番石と言われているそうです。 -
石田三成の五輪塔。
割と好きな武将なんですよね。頭がよく、民に親しまれている城主のイメージがあります。調略などは得意ではなかったようですが。死の10年前に造られた逆修墓だそうです。 -
明智光秀の墓。
首塚や胴塚は全国に8箇所ほどあるそうで、織田信長の怨念によって、五輪塔を何度立てても割れてしまうという伝承があるとか。明智光秀を示す銘文がなく、あくまで伝承で光秀の墓といわれているとのことです。 -
信州高遠の内藤家墓所。
内藤家は三万石の小藩ながら、藩祖の内藤清成が家康から、現在の新宿御苑にあたる広大な土地を拝領して幕末まで保有していたんですよね。 -
上州高崎の安藤家墓所。
高崎初代藩主・安藤重信、2代藩主・重長、3代藩主・重博の五輪塔がありました。 -
越後村上の内藤候墓所。
村上といえば鮭ですね。(じゅるり) -
長州萩の益田家墓所。
益田家は石見国の豪族だったそうで、後に毛利氏に属し長州藩の永代国家老として明治維新まで続いた家柄なんだそうです -
奥州の相馬家墓所。
相馬野馬追や相馬盆唄が有名な相馬。近頃だと東日本大震災の被災地ですね。 -
日向飫肥の伊東家墓所。
五輪塔がみっちりと並んで会話をしている様。 -
紀州徳川家 8代重倫 9代治貞 11代斉順 12代斉彊の墓所。
こちらも集合住宅みたいです。 -
筑後久留米の有馬家墓所。
久留米有馬家は摂津有馬氏で赤松氏の流れを汲む一族だそうです。久留米といえば久留米ラーメンに久留米絣。 -
陸奥白河二本松の丹羽家墓所。
五輪塔には織田家の重臣として名を馳せた丹羽長秀の子、長重が祀られています。 -
出羽庄内藩主の酒井家墓所。
庄内といえば羽黒山の五重塔や月山がありますよね。 -
伊勢桑名城主本多忠勝の墓所。
本田忠勝は徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、天下三名槍の蜻蛉切を有していた勇猛果敢な武将です。戦国の世に生きながら、単騎で敵陣に駆けこむなどの暴れぶりでも、57の全ての戦で無傷という強者。 -
参道に戻り階段を登っていくと、
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あ、橋が見えました。
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こちらが身を清めるための中の橋。正式名は手水橋といいます。
流れる川は金の河と呼ばれていますが、金は死の隠語、つまりは三途の川を意味しているんだそうです。中の橋が現世と来世の境で、中の橋を渡るとこれから先は、あの世ということですね。中の橋 名所・史跡
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橋を渡ったところにある汗かき地蔵と姿見の井戸(右端)。
汗かき地蔵は世の中の人々の苦しみを身代わりになり、一身に受けているので、いつも汗をかいていると伝えられています。ありがとう、お地蔵さま。汗かき地蔵 (高野山奥の院) 寺・神社・教会
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ちなみに汗かき地蔵をお祀りしているお堂の右側に姿見の井戸がありますが、この井戸には言い伝えがあって、井戸の中を覗き込んで自分の顔が映らなければ三年以内に死んでしまうのだとか。のぞき込んでいる人がかなりいて…皆さんどうだったんでしょうね。
実はこの井戸にはもう一つ言い伝えが残っており、姿見の井戸は別名、薬井とも呼ばれていて、昔の人はこの井戸の水で目を洗えばどんな眼病もたちまちに治ったのだそうです。 -
中の橋を渡ってすぐのところにあった泉州岸和田の岡部家墓所。
岸和田といえばだんじり祭が有名ですが、岡部家三代目の頃より始まっているものなんだそうです。 -
禅尼上知碑というこの供養塔に耳を当てると極楽の声に似た音が聞こえるといわれている碑。北朝時代のもののようです。
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覚鑁坂を上りましょうか。
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この覚鑁坂は43段あるのですが、それは42=死を超えるという意味があるとされています。43段を無事に超えれば何でもないのですが、途中で転んでしまうと3年以内に死んでしまうと言い伝えられています。そのようなことから、この覚鑁坂は『3年坂』とも呼ばれています。
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覚鑁坂を登り切った道から右に逸れ、更に階段に登ります。
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密厳堂に到着。
高野山から離れ根来寺を興した覚鑁上人を祀るお堂です。 -
この辺りは企業の墓所がたくさんありました。
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伊予大洲の加藤家墓所。
大洲は肱川おろしが発生するところですよね。 -
信州高遠の鳥居家墓所。
鳥居家といえば伏見城の戦で鳥居元忠が石田三成の大軍を迎え撃ち、全滅したことを思い出します。血天井が有名ですよね。 -
丹波出石の小出家墓所。
小出家は後に無嗣断絶となり、松平氏が藩主として入封することになったそうです。 -
1599年に島津親子が高麗戦争時の戦死者のために建てた供養塔で、敵味方なく供養しているとのこと。きっとこの戦争について色々思うところがあったんでしょうね。
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豊後岡の中川家墓所。
だいぶ朽ちていますね。 -
安芸の浅野家墓所。
浅野長晟夫人だった徳川家康の三女・振姫の墓で高齢出産のため出産の16日後に38歳で亡くなった方だったとか。 -
泉州熊取の根来家墓所。
根来衆は1585年豊臣秀吉の紀州征伐によって滅ぼされましたが、江戸幕府の鉄砲隊の一つ、根来組で存続していったそうです。近畿には雑賀衆や根来衆といった鉄砲に長けた一族が多いですよね。 -
道の奥に建つビルマ方面戦没者納骨堂。
こちらに来る前に伺った城福院摩尼宝塔を思い出しました。 -
伊勢亀山の石川家墓所と江戸焼死者追悼碑。
石川家で祀られているのは石川憲之という方で、江戸初期に起きた明暦の大火で被災者救援に活躍した方なんだとか。 -
備後福山の水野家墓所。
右が初代備後福山藩主・水野日向守勝成、左が二代藩主・勝俊の生母・香源院の五輪塔です。 -
芭蕉の『父母のしきりにこいし雉の声』の碑。
池大雅の字で刻まれており、父が十三歳の時、母は四十歳の時に他界している芭蕉が、雉の声に亡き父母への思慕の情をかきたてられ、この句を詠んだそうです。 -
伊予松山の松平(久松)家墓所。
2代城主・松平定頼の墓所です。前に訪れた松山城は楽しかったな。 -
加賀前田家二代利長墓所。
五大老の職を継ぎ、徳川家康と対峙する立場に置かれますが、なんとか難局を乗り切って加賀百万石の前田家を存続させた方ですよね。 -
「三番石」または「三番碑」と呼ばれ、奥の院で3番目に大きな五輪塔です。
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参道をはさんで利長墓所の前に建てられている前田利長夫人墓所。
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圓光大師法然上人御廟。
高野山は真言宗なのに浄土宗の開祖である法然上人も祀られているのが不思議な感じもしますね。 -
こちらにも安芸の浅野家墓所がある。
中央が浅野長政、右側が浅野幸長の供養塔だそうです。こちらは奥の院で2番目に大きい石塔で、二番碑と呼ばれています。 -
結城(松平)秀康及び同母霊屋。
二棟とも越前産の笏谷石を用いており、全て石でできていました。右の秀康霊屋は入母屋造正面軒唐破風附、左の母であるお万の方の霊屋は切妻造妻入となっています。結城を治めた秀康の嫡男である忠直が秀康の霊屋を、秀康がお万の方の霊屋を造ったそうです。秀康といえば天下三名槍の御手杵を持っていた人としても有名ですよね。 -
肥前島原の松平家墓所。
7代続いた歴代藩主たちが仲良く祀られているといった感じでしょうか。 -
摂津尼崎の青山幸成墓所。
松平家に仕えた譜代大名で、青山幸成は大坂の陣で戦功があり、後に老中になったという方だそうです。 -
織田信長の墓所は豊臣家の墓所のすぐ近くの小さな坂を少し上がった左手にありました。意外と小さかったです。天台宗の比叡山延暦寺を焼き討ちした方とはいえ、こちらに墓があるというのも仏の教えからきているんでしょうね。
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橋が見えました。
玉川にかかる御廟橋です。36枚の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え、金剛界37尊を表しています。つまり、この橋から先が浄土とされるわけです。
手前の手水舎で手を清め、服装をただし、合掌一礼してから橋を渡します。橋から先は写真も動画も撮影禁止です。橋を渡った先に小さなお堂があり、一か所だけ腕が入る穴がありました。中を覗くと弥勒石を持ち上げることができるようになっており、皆さん順に持ちあげています。片手で持ちあげると願いが叶うと云われているそうで、せっかくだからとチャレンジしてみました。重いと感じたら心がその分悪に染まっているそうですが、私の悪人度合いはそこそこでした。
階段を上がった場所にある燈籠堂に入ると奉納された吊り燈籠が全面にずらりと並んでいて壮観でした。法皇が献灯し、千年以上燃え続けている燈籠もあるそうです。堂の裏に回り込む道を進むと、目の前に弘法大師御廟がありました。また、灯籠堂地下にはたくさんの身代わり大師と最奥部にお大師さまに一番近づくことができる祭壇があり、高野槙が刺さりまくっていました 。庭の苔が素晴らしかったです。御廟橋 名所・史跡
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御廟橋を渡って浄土からあの世に戻った後は、豊臣家墓所に行ってみましょうか。
ちなみに豊臣秀吉は初め高野山を攻めていましたが、高野山の降伏時に交渉で訪れた木喰応其の働きかけにより、以後は保護する立場になりました。 -
他の武将よりも少々広い敷地にあり、直接墓所に入れないように柵も設けられていました。母のなか、弟の大和大納言秀長夫妻、秀次の母である姉のとも、長男の鶴松、それに淀君の逆修碑とされるも六基がたっていました。流石に秀次はここに入れてもらえなかったか…。
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もと来た道を戻ります。中の橋を渡ってあの世から現世に戻りましょうか。
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どんどん下って行きます。
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参道が分岐したところに近づいてきましたね。
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一の橋付近まで来て後ろを振り返ると、何だか戻ってきた感がありました。
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奥の院から出た後は、一の橋観光センターで前日に予約していた昼食。
1人予約だったのですが団体さん扱い扱いされて、なんだか修学旅行を思い出しました。更に写真とは違った修学旅行に出てくる団体用の料理っぽい物が出てきました。ちょっと不思議な感じで昼食終了。一の橋観光センター (本店) お土産屋・直売所・特産品
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食後は暑い中でしたが、バスもなかったのでてくてく歩いて小田原通りへ向かいます。
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食後は前日に気になっていた高野山大師堂へ。
高野山大師堂 専門店
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蓮華お香の匂いがとても良くて商品を購入したら、おまけにお香と塗香をいただきました。
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小田原通りから続く路地を通って
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石門を通り抜け
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金剛三昧院に到着。
北条政子が、夫と息子の菩提を弔うために建立した寺院です。 -
山門左隣の奥には国宝・多宝塔が見えますね。
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拝観料を払えば中を見学できるとのことでしたが、時間の関係で外から眺めて終わりました。宿坊もあるそうで、せっかくなら泊まるという手もありかなと思いながら。
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帰り道に御菓子司かさ國の横を通ると何やらおいしそうなものがずらり。こちらのお店はみろく石をかたどったという和菓子や高野通宝という高野山で使われていた藩銭を形どった和菓子が有名だそうで、お客さんがたくさんいらっしゃいました。
みろく石本舗かさ國 グルメ・レストラン
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店内に入ると美味しそうな和菓子がたくさん並んでいます。名物は『みろく石』ですが、今回は漉し餡を葛で固めた『お菓子屋さんのお豆腐』を購入してお店の奥のスペースでお茶と共に頂きました。美味しかったので、持ち帰り用も購入。
この後は高野山観光情報センター横の駐車場へ徒歩で移動し、途中で見た般若湯も購入してから高野山を後にしました。 -
せっかく和歌山に来たのだから地元の産物を手に入れたいとJA紀の里ファーマーズマーケットめっけもん広場に寄った際に、スタンプラリーに判を押してもらったところでスタンプ捺印コンプリートしたので店員さんに驚かれました。和歌山をすべて巡らないとコンプリートできない仕様でしたので。
こちらのお店で10個入り600円の桃を見つけてしまい、桃好きとしては手を出さずにいられなくなって一箱買いました。そして後ほど買った自分をほめたたえたという。
休憩がてら、前日にかげろうカフェで頂いた柚もなかを駐車場車内でパクリ。柚の香りがふんわり薫って緑茶に合うお味でした。 -
買い物を終えて移動したら、赤い欄干の橋を渡って次の目的地に進みます。
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粉河寺の大門に到着。
高野山の大門に比べてしまうと小さいですが、重要文化財に指定されているだけあってやはり立派ですね。当時の建築としてはあまり類のない手法で建てられた江戸時代の建物なんだそうです。粉河寺 花見
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大門手前横には善光寺。
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反対側には蛭子社。
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仏師春日作の金剛力士像・阿形と、
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仏師春日作の金剛力士像・吽形。
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大門を出ると道しるべがありました。まっすぐ行くと本堂、右に進むと旧南丘家住宅という紀州藩鷹狩り役人餌差の住宅があるとか。この辺りで鷹狩りしてたんですね。
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大門をくぐってまず現れるのが不動堂。弘法大師が爪で彫ったとされる不動明王がいらっしゃるとか。凄い爪をしてたんですね、大師様。
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粉河という名の由来は、今は長屋川という名の大門から中門へとつづく小さな川に、「粉をすって入れたような白い流れ」からきているといわれているのですが、この橋の下の川が長屋川何ですかね。白くはなかったな。
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こちらは紀の川市中津川の行者堂まで行く道なんだそうです。行者堂は葛城修験道の聖地だとか。
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粉河寺は770年創建と伝えられる寺院で、粉河観音宗の総本山です。横に広がっているんですね。
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地蔵堂。
子どもの無病息災を祈願する子育地蔵を祀られています。ちょうど生まれて半年たつ姪っ子がいたので、すくすく育ちますようにとお参り。 -
本坊。遅い時間だったので山門は締まってました。
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こちらは本坊のとなりにある童男堂。童男=千手観音の化身なんだそうで、男の子供という意味ではないんですね。正堂の中央に一間の礼堂がある珍しい造りの建物。
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本堂まで歩を進めましょう。
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お釈迦様の足跡が刻まれているという仏足石。滅茶苦茶彫られた感がありますが、元々足跡っぽかったんでしょうね。後ろの碑の文字は願海上人という方の筆だとか。
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出現池。
こちらの池から童男大士が白馬に乗って柳の枝を手に現れたんだそうです。…白馬の王子(神)。童男大士は現世利益の仏として特に病気平癒の霊験あらたかにして、祈願成就すれば、この池に放生をする風習があるそうです。池の中央に、童男大士石像が置かれています。 -
童男大士石像の左手前には千手観音がいらっしゃいました。真の姿を現したという所でしょうか。
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馬蹄石。「出現池の庭」を囲む壁に開けられた窓の下に真ん中がへこんだ石が置かれていました。童男が乗っていた馬が踏んだんでしょうかね。
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念仏堂。
光明殿ともいい、阿弥陀如来いらっしゃいます。江戸時代後期に建てられた総欅造りの建物。 -
露座仏(粉河寺阿弥陀如来像)。
紀州八代藩主・徳川重倫らによって寄進された像だそうです。 -
聖徳太子を祀っている太子堂。なぜここに聖徳太子が祀られているのか謎。
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中門に向かいましょうか。
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手水舎に寄りましょうか。
木鼻の装飾にいた獅子は口に指入れて舌出していてコミカルでした。 -
盥漱盤の蓮のデザインが何とも面白いですね。江戸時代から有名になった粉川鋳物の代表作なんだそうです。
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中門に到着。
堂々とした佇まいですね。 -
入母屋造りで本瓦葺きの楼門の表裏両脇に四天王がいらっしゃいました。正面の軒の額には山号の「風猛山」の文字。第10代紀州藩主.徳川治宝の筆だそうです。
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門の正面を守るのは広目天と、
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多聞天。
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背面には増長天と、
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持国天。
四天王たちはイケメンでした。 -
手水舎の彫刻も面白かったのですが、中門も細かな彫刻が彫られていて、いかにも江戸時代のものらしい生き物がちらほら。この象なんて若冲の絵にありそうな感じ。
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中門を過ぎて、更に歩を進めます。
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本殿が見えました。
堂々とした佇まいですね。 -
丈六堂。
丈六とは一丈六尺の略で、一丈六尺の阿弥陀如来が祀られていました。 -
本堂の方に向かいます。
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本堂前には石組みの粉河寺庭園。
縦方向に組まれた庭園はなかなかに壮観です。粉河寺庭園 公園・植物園
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本堂到着。
現在の建物は1720年の再建で、三十三箇所のお寺の中で最も大規模な本堂。 江戸時代中期の寺院建築を代表する建造物とされ、祀られている本尊の千手千眼観音菩薩は絶対秘仏で、内内陣の地中に埋められているとか。
また、本堂欄間には夜な夜な本堂を抜けだし近くの田畑を荒らし家畜を襲ったと言い伝えがある左甚五郎作の野荒しの虎があるそうです。虎は目に釘を打ち込まれ動きを封じられているとか。 -
拝観時間の終わりに近かったので拝観は諦め、お参りだけします。
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寺紋の井桁が描かれた大きな赤提灯が一際目を引きますね。
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外陣の中央に懸けられた懸仏には御本尊の千手観音が海の中を龍に乗って現れる姿が彫られていました。
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こちら賓頭盧さん。
御釈迦様の弟子の一人で、名前はピンドーラ.バーラドヴァージャと言い、身代わり地蔵とも言われています。自分の身体の悪いところと同じところを撫でると、病気や怪我が完治するという言い伝えがあるそうで、頭と足と腰をしっかり撫でましたが、これいかに。 -
天井までびっしり千社札が貼り付けてありました。
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本尊の両側には侍者として28部衆、内陣の背面に裏観音、東に鬼子母神、西に不動明王、大日如来、閻魔大王、その他諸仏が祀られているそうです。
それにしても軒下の垂木がなんとも美しい。 -
本堂右にある鐘楼は、50円で一回付くことができます。
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境内の奥には巨大な楠。
町指定天然記念物だそうで、立派すぎて見惚れました。隣に駐車されているバイクと比べると、その巨大さが分かりますよね。光仁天皇(770年)の頃、粉河寺の開祖である大伴孔子古はこの木に踞して下を通る鹿を狙ったとか。 -
瓦葺の六角堂。
内部に西国三十三観音が祀られていて、1720年に建立された建物です。平成7に補修されています。 -
六角堂の横には湯浅桜。
紀州湯浅の住人藤原宗永が、本寺の本尊千手観音のお告げで本堂の東南方向に植えたとされる桜の木だそうです。 -
目がよくなるようにおまいするために薬師堂にも行ったのですが、振り向いて見えた本堂側面の面白さだけ写真に撮って薬師堂の写真を撮り忘れました。
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とても複雑な作りの本堂は入母屋に破風が施され、複数の棟が組み合わさり、折り重なるように屋根と破風が付く八棟造りといわれる作りで、派手で何とも言えない力強さがあるけれど、堂々として落ち着いた印象を受けました。
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本堂を反対側から見ても面白い造りです。
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瓦葺方型の建物で767年建立とされる千住堂。
普段は中に入れませんが、堂内は正面に千手観世音菩薩が安置され、その両側に歴代の紀州藩主と所縁のある方の位牌が安置されているとか。本尊は絶対秘仏の千手観世音菩薩なのですが、御開帳されるときもあるようで、時期は不定期なんだそうです。 -
本堂と千住堂の間に鳥居が見えました。
行ってみましょうか。 -
ちょっと疲れているけれど頑張って階段上るぞ!
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到着~。
春日造の社殿は江戸中期に建てられたものだとか。
粉河寺の開基とされる大伴孔子古の子の船主が783年に上丹生谷村の丹生神社を勧請し、延暦年間にこの場所に建立したのが始まりとされている粉河産土神社は、旧粉河村の総鎮守であると同時に粉河寺の鎮守としての役割もあるようです。粉河産土神社 寺・神社・教会
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鳥居を抜けた先にはおんどり石という大きな石がありました。
元寇で元の大軍を前に日本の武士たちが退去を余儀なくされた際、丹生大明神が鶏に乗り現地に赴き、神力で大風吹き起こして元の軍船を全滅して敵を退けたという言い伝えがあり、その時の鶏が石となって産土神社境内に坐り続けて、神社を守護しているのだとか。
更に正月三日にはこの「おんどり石」が一声鳴いて石段を登ると云われ、鳴き声聞くものは長生きをすると言われているそうです。 -
大麻で身を払い、二礼、二拍手、一礼してねと書いてありますね。
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では大麻でお祓いした後に拝みましょうか。
若干、神主さんになった気分になりました。 -
右端の社殿に寄った折、紀州三大祭りの1つ粉河祭がこの粉河産土神社の夏の祭礼で、渡御が古式に従い行われている祭りだと教えてもらいました。なかなか面白そうな祭りだったので一度見てみたいかも。地図を見せてもらいながら小学校の敷地に神域あるということを教えてもらえたのは楽しい思い出になりました。
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粉河産土神社を出た後は、粉河寺庭園脇の道を進みます。
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粉河寺庭園は本堂の前庭とその下の広場の段差を埋めるために作られた変わった庭園です。高低差を活かしながら、巨石やソテツやサツキで構成されています。巨大なソテツがあるところなんか割と暖かい和歌山らしいなと思いました。
他に類を見ない、なかなかに見事な枯山水でした。 -
本堂拝観時間もとっくに過ぎ、日も傾き始めたのでこれにて退散。
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さあ、帰りましょうか。
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中門を通って大門に向かいます。
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さよなら、粉河寺。
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大門を出て少し歩いた先にある大神社の御神木。
天然記念物として樹齢千年ともいわれる楠です。大神社 (紀ノ川市) 寺・神社・教会
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天正年間藤堂高虎が猿ヶ丘城粉河秋葉山に在城の際、氏神として崇敬された神社だそうで、高虎が伊勢へ転封の折に現社殿を改築したといわれています。
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駅から大門までのとんまか通りには京都国立博物館にある粉河寺縁起絵巻の話が掲示されていました。
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こちらは観音の化身が河内の長者の娘の病を癒し、それに感謝して一族皆出家して、粉河の別当となったという霊験物語。
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元気になった娘とそれを囲む家族。
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お礼を受け取らない童男行者。紅の袴と守り刀だけもらって去っていきまいた。
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童男行者が千手観音だと判明し、後に粉河寺が建てられたのでした。
一通り読み終えた後は車に乗り込み高速に向かいます。
目指すは岡山。 -
泉大津PAでトイレ休憩と夕食。
気を張って運転して疲れていたのか、何を食べたのか覚えていないっていう。 -
11階にパノラマルームがあるということだったので向かってみたところ、うわぁ!綺麗。
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ほぼ貸し切り状態で関空や神戸方面を眺めました。
ここからだと夜景も綺麗だろうなと思ったり。 -
休息を終えて岡山への移動中、神戸元町付近では乗車していても分かる中華の香りがしました。
高速道路周遊プランの関係で、神戸西インターから高速を使って岡山に行こうとしたのですが、インターへ向かうための坂道が混み過ぎていて思いのほか時間がかかってしまい、宿に着いた時には大幅に到着予定時間を遅れてしまいました。
守衛さんやホテルの方々がいい人ばかりで、遅くてもちゃんと受付をしてもらえたり、大浴場の閉める時間を少しだけのばしてもらえたので、無事にホテルに入り、すぐにお風呂を済ませて就寝。皆さま、ありがとうございました。
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この旅行記へのコメント (3)
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- su3さん 2021/06/02 06:09:09
- 楽しい土地です
- それほど大きい街ではないので迷子を楽しめるんですよ、高野山って。
わざと迷子になって、それを楽しむのも良いかもしれませんね。
短い滞在時間でしたら、地図を片手にメジャーな場所を2,3か所pickupするのが良いかもしれません。
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- bangkokdaisukiさん 2021/06/01 21:22:23
- 本堂 すばらしい !
- なんだかこんなにたくさんあって、迷子にならないのでしょうか。
心配になりました。
本堂も素晴らしく、見たいところが増えてしまいました。
- su3さん からの返信 2021/06/02 06:10:30
- 間違えてしまいました
- コメント欄に返信してしまいました(;´∀`)
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