2018/08/08 - 2018/08/08
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su3さん
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高速道路活用の旅。
高梁の城を見て尾道で中華そば(うどん)を食べて日生でカキオコを食す。食い気が勝って岡山を拠点に一日の内に2県を行ったり来たり。ホテルに帰り着いた時はクタクタだったけれど、楽しかった!
- 旅行の満足度
- 5.0
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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昨日買った桃を朝食代わりに食べて頭スッキリ。
朝に果物を食べると体が喜ぶな。 -
高野山にある御菓子司かさ國で購入した「お菓子屋さんのお豆腐」もパクリ。漉し餡を葛で固めた冷たい和菓子で、口当たりも良く緑茶とよく合いました。
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身支度を整えて車に乗り込み、高速道路をひた走って高梁市へ。
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道の奥にある回転場らしきところに着くと、あれ?なんかいる。
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ニホンザルの群れが木陰でたむろしていました。子猿がかわいい。
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このあたりはサルがよくいるようで、エサを与えたり刺激しないでねという看板がありました。あの集団を見た後だとサルがいる地域なんだなと納得できます。
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備中松山城展望台はここから歩いてすぐみたいですし、サクサク進みましょうか。
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階段を登っていく、
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アスレチックのような二階建ての展望台が登場。もちろん上ってみましたとも。
備中松山城展望台 名所・史跡
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備中松山城が見えます。雲海がある時期だとあの城のちょっと下あたりまで雲海が広がるのでしょうね
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城の下には高梁の町が広がっています。
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雲海のない季節ということもあって展望台を独り占め。もう暑いけれど、良い天気で見晴らし最高。
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展望台から車で移動するる途中に、間違えて武家屋敷の道を通ってしまった後は、臥牛山中腹の下太鼓の丸跡にある、ふいご峠無料駐車場で車を停めました。トイレを済ませてからふいご峠を登り城を目指します。
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高梁地区の案内板近くにはたくさんの杖がありました。やっぱり結構な山登りになるんですね、これ。
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気を取り直して出発進行。
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虻と戦いながら山道を登っていきます。
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城主からの登山心得登場。
慌てずゆっくり進ませていただきます。 -
途中、台湾から来たらしき集団とすれ違いました。小学生から中学生くらいの子供がほとんどだったのでワイワイと元気いっぱいでしたが、暑さと疲れでちょっとぐったりしている子も。
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中太鼓の丸跡に到着。大手門跡と下太鼓の丸跡の中間地点にあたります。
こちらには中太鼓櫓が建っていたんだそうです。 -
平面になっているところに登ってみましょうか。
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中太鼓の丸は防衛の拠点だっただけでなく、こちらに置かれていた太鼓で御根小屋と天守と連絡をする通信網の要衝だったんだそうです。街がよく見えます。
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この辺りからは手摺りが付いていて階段が登りやすいようになっていました。確かに急な坂道ですものね。
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看板発見
城主、優しいな。
お言葉ありがたく頂戴いたします。 -
心得が書かれた看板を過ぎて更に登ります。木漏れ日がキラキラしていて綺麗。
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最後の看板
お邪魔いたしまする。 -
石垣が見えてきました。
ゴールが違いと分かると足取りも少し軽くなります。 -
階段を登り切った先にあるこのアングルからの景色でワクワクが止まりませんでした。こんな山の上に凄いものがある。城はやはり要塞だなと実感しつつも歩を進めます。
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真田丸で使われた場所を探してみましょうか。
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どうやらこの場所も真田丸のオープニングに使われてたようです。CGでだいぶ加工されていたので、ちょっと違う姿なんですけれどね。
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こちらの右手側にある場所も真田丸のオープニングで使われました。オープニングでは土塀と木が追加され、階段には水が流れていましたが。
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階段を登ったところからも見てみました。
天然の岩盤をはじめ、自然の地形を巧妙に活かして建てられているのが備中松山城の大きな特徴とされ、難攻不落の名城であったといわれるのも納得の城跡です。 -
後ろを見れば大手櫓のあった場所。
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この階段を登っているときに見えた、土塀に並ぶ狭間の形が楽しかったな。
三の平櫓東土塀は現存する唯一の土塀なんだそうで、こちらも真田丸のオープニングで使われた場所。
暑かったので影を求めて土塀に沿って階段を移動している人が多かったです。私も例に漏れず影の下を歩いていました。 -
三ノ平櫓跡。
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三の丸。
思っていたより意外と広かったです。 -
土塀も国の重要文化財なんですね。
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三の丸から更に二の丸への階段を登っていきます。
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階段横の木々たち。
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木陰に入って一休み。
それにしても暑いなー。 -
四ノ平櫓跡。
こちらにも心得がありました。よりかかるべからず。 -
こちらの石垣は城内で最も古い石垣なんだそうです。
野面積みという自然石を積んだ石垣なんですが、技術的には初期の石積み方法なんでちょっと荒い感じもありますね。まあ、そこがいいんですけれど。 -
毛利氏が造らせた最も古い石垣の横の階段を登ります。
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二の丸に到着。
その奥には本丸が見えますね。 -
二の丸からは三の丸と土塀がよく見えます。
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何の穴かなと思ったら雪隠。つまりトイレですね。
二の丸の端にありました。 -
城主一覧。
色んな家が入れ代わり立ち代わり城主になってたんですね。 -
二の丸から見える本丸は、復元された五ノ平櫓がよく見えます。明治6年の建物の払い下げで搬出困難で取り壊しを免れたため、現在でもしっかり天守が残っているという珍しい山城。
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本丸に足を運んでみましょうか。
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五の平櫓と六の平櫓の間にをつなぐように設置された本丸南御門を通り抜けると、
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正面に天守閣が見えました。
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後ろを振り向くと五ノ平櫓の中にある資料館の入口が見えました。入ってみましょうか。
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中には復元についての資料がありました。
平成6年度から始まった発掘調査、文献調査、復元の設計、土台づくり、木材加工、瓦ぶき、土壁などの左官などが簡単に紹介されていて、ケースには使用した材料や資料が少し展示されていました。 -
南御門横の六ノ平櫓の横に給水所がありました。
暑すぎるくらい暑い日だったのでこの場所のお茶が命綱のように思えてならぬ。 -
こちらの天守閣は居館や政庁などの役割が無い城だったので、二層二階建ての小さな天守閣になっています。ちなみに山麓にある高校のある場所にそれらの機能がある建物が立っていました。
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天守閣右横にある本丸東御門。
通り抜けはできません。 -
天守閣を下から眺めたところ。
唐破風出格子窓の下の土地には、秋になると赤い秋冥菊が咲くんだそうです。備中兵乱で亡くなった歴代城主の怨念で赤い菊しか咲かないという伝説もあるんだとか。 -
中に入ってみましょうか。
竪板張りの黒い腰板は高知城などにも見られる張り方で、珍しいものなんだそうです。備中松山城 名所・史跡
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建物に入ると直ぐに接続廊下でした。
元々この本丸は八ノ平櫓と天守閣が廊下で繋がっていたそうです。現在は八ノ平櫓は復元されていないため、その廊下の一部が再現されていました。 -
正面には石落しと狭間。
廊下にも石落しや狭間があったんですね。さすが要塞。 -
階段を登って一階部分に到着。
一階はパネルなどの展示物と囲炉裏や装束の間がありました。 -
天守閣の内部構造図。
天守閣が残っている城は全国でも12城しかありませんが、備中松山城はそのうちの一つ。現存天守の中では最も規模が小さいものになりますが、唯一の山城でもあります。 -
外からは中が見えにくく、中からは外を伺いやすい武者窓がずらり。正方形の柱を角が館の内側と外側に来るように並べているだけなのに、凄く機能的。
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高梁には幕末維新にゆかりがある人が多く、それ関連のみどころがある場所もいっぱいありますよ、というMAPがありました。備中松山城に来る前に間違えて通ってきた武家屋敷通りも載っていました。
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武者窓の横には狙撃できるように狭間。小さな穴で外から攻撃されにくく、内側を外よりも広くして見えやすいようにしている狭間は鉄砲だけでなく弓を打つ狭間もあります。長方形は弓、正方形は鉄砲の狭間です。
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梁の構造が美しい。
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幾度もこの地で起こった戦から篭城戦を想定して囲炉裏が作られていました。天守閣に囲炉裏があるのは全国でも珍しいそうです。
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一階床部分から一段高いところにある装束の間にも行ってみましょうか。
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籠城時の城主一家の居室で床下には侵入できないように石が詰められているとか。戦に敗れた時の死に場所でもあるという説明文に、天守閣は最後の砦なんだなと実感。
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装束の間から外を見ると二重櫓がみえました。普段は中の様子を見ることができませんが、年に数回程度、特別公開があって中を見ることができるとか。建物が払い下げになった後は山小屋とされていたんだそうです。
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こちらの部屋も武者窓になっていますね。
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修理についての記載もありました。
廃城令後も高所にあるため打ち捨てられていた備中松山城は、古くは昭和3年から始まった大修理、最近では平成6年から始まった大修理がなされて、現在の姿になっています。
昭和の大修理のきっかけになったのは、中学校に赴任してきた信濃友春が城と城下に興味を持ち行った研究の発表によったものだったそうです。 -
昭和3年に応急修理された二重櫓は、部材が緩み、雨漏りなどにより部材が腐朽し倒壊寸前のところを、一度解体して組み立て直されました。天守も昭和15年にも部材の腐朽や地盤沈下による基礎の傾きがみられたことなどから、再度、修理されたようです。
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解体修理や部分修理を施しても40年ほど経つと、石垣が崩れ気味になったり、床面沈下、漆喰の剥落、蟻害などが出てきてしまったので、平成になって改めて大修理を施したそうです。
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修理をしたことで部材の種類、修理による損傷、壁の構造からわかる建設当時の使用想定など色々なことが分かったようです。初期の壁の構造からは、建設時には実戦を想定していない城づくりをしていたということがわかったそうでちょっと意外でした。
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天守の唐破風に使われていた板や裏甲には釘がたくさん使われていま。虫食い跡が酷い柱も展示されていましたが、こんなに喰われてたら建物は崩れるよね。
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ボロボロの蕪懸魚。屋根の破風板部分に取り付けられた妻飾りなんですが、江戸時代の創建材で平成の修理時に取り換えたものだそうです。
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棟木・梁など建物内部の高所に取り付けていた棟札。
意外と大きい。 -
備中松山城の歴史について。
鎌倉時代に山陰と山陽を結び東西の主要街道も交差する要地として、秋庭三郎重信が臥牛山の大松山に砦を築いたことが始まりです。秋庭氏、高橋氏により備中松山城の縄張は少しずつ拡張し、臥牛山全域が一大要塞となり、山麓に城主の居所と政庁である御根小屋も設けられました。
秋庭氏に代わって城主になった三村氏と宇喜多氏との争いが発端になり、備中で最も激しい戦いである備中兵乱の後、毛利氏が城を手に入れた番城とする頃には、現存する備中松山城の前身ができあがっていたと考えられています。
備中兵乱の頃には砦二十一丸と呼ばれた出丸が築かれていたという記録もあるそうです。 -
江戸の世になり、備中国奉行として小堀親子が赴任してきて後、息子の小堀遠州が荒れていた備中松山城と御根小屋の修復を進めました。
池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と藩主が変わっていくのですが、水谷氏が藩主を務めているときに水谷勝隆が高梁川河口の大規模な新田開発や河川交通の整備を進め、その息子の水谷勝宗が城下町を完成させるとともに、備中松山城を3年かけて修築しました。このときに現存する天守や二重櫓などが建てられ、現在の備中松山城の形となったそうです。
このような経緯を経て、現在の備中松山城は、大松山を中心とした中世城郭と、小松山の近世城郭の両方を残した、非常に珍しい形で現在までその姿をとどめています。 -
城主の居館や政庁になった御根小屋について。
江戸時代には備中松山城を御山城、御根小屋を御城と呼んでいたそうで、現在はその敷地全部に高等学校が立っています。小堀遠州によって再建された石垣や土塀、御殿の庭などの一部は残っているようです。髙梁市歴史博物館に近世の御根小屋復元模型があるとか。 -
三村氏と明善寺合戦と備中兵乱。
三村氏、宇喜多氏、尼子氏(中山氏)、毛利氏、織田氏が、対立・同盟を時の状況をに合わせて目まぐるしく行い、明善寺合戦、備中兵乱と激しい戦の後に三村元親が倒され、助命される見通しだった三村元親の幼い息子・勝法師丸も、利発過ぎて小早川隆景に危険とみなされ斬首され三村氏は途絶えました。当時8歳の勝法師丸が刑の執行を伝えるられて扇に書き付けた『夢の世に 幻の身の 生れ来て 露に宿かる 宵の雷』という辞世の句などを見るにつけても、その聡明さは隠しきれなかったのでしょうね。 -
築城と庭造りの名手・小堀遠州、玉島新田の開拓や高梁川水路の開発を成功させた水谷勝隆、3年越しで備中松山城の修築をした勝宗、治水工事、土木工事に尽力した勝美の水谷三代、忠臣蔵で有名な大内倉之助についての記載もありました。
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藩政改革を行った山田方谷と彼を登用した藩主・板倉勝静。板倉勝静は大政奉還の折には老中首座として幕府の舵取りを行い、慶喜が大政奉還を進めると、勝静はこれに全面賛成ではないものの、実現に協力しました。しかし、後に旧幕府軍として五稜郭に拠ってあくまでも戦う意思を示しました。隠居してからは明治新政府から何度も仕官要請がありましたがすべて辞退して、上野東照宮の宮司などを務めています。
新選組七番隊隊長の谷三十郎は備中松山藩出身の谷三兄弟の長兄で、弟の昌武も周平と名を変えて新選組に入隊しています。次男の万太郎は大阪で道場を続けたとか。 -
儒学者・山田方谷は板倉勝静に抜擢され、藩政改革を実施します。節約、大阪の蔵屋敷まで廃止した借財整理、鉄を切り札とした産業振興、藩札整理、文武推奨、士民撫育の思想を広めるなどを行ったこの改革は成功し、登用前は表向き5万石の備中松山藩の実収入が2万石もなかったため借金だらけだったところ、8年後には借金をすべて返済し、更に10万石の収入を得るまでになりました。
また、大政奉還後に朝敵になった備中松山藩を無血開城に導き、この地を戦火から救っています。明治政府から要職への誘いを断り、教育に尽力しました。
ちなみに彼が作った『里正隊』『農兵隊』を高杉晋作が参考にして奇兵隊を作ったとされています。 -
天守閣の最上階に到着。
部屋の奥に一段高い場所が作られていて、唐戸で区切られた御社壇がありました。 -
御社壇には3振りの宝剣が納められ、沢山の神々を祀っているそうです。
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こちらがその宝剣の写真。
領内の刀工水田国重作の直刀で、写真を見ると外装は黒漆塗の鞘に朱漆で蕨手の模様が描かれた拵で、下の階にあった刀身の写真には、3振りとも三ツ巴紋の入った鰭がつき、珍しい形態をしていました。高梁市歴史美術館に収蔵されているようです。 -
二階からの眺め。
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天井板が無いので梁がよく見えますね。
一通り堪能したので、階段を下りましょうか。 -
出入り口に戻ります。天守閣の石垣がしっかり見えますね。
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天守閣を後にしましょうか。
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城から出た時の景色が思いのほか広々として見えて清々しくもあります。右手にある道は元々廊下だったんですよね。
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八ノ平櫓跡。
ここの櫓跡が再現されたら先ほどの接続廊下も復元されるんですかね。ちょっと見てみたい気もします。 -
二の丸へ降りましょうか。
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二の丸に降りてすぐのこのアングルは真田丸のオープニングで使われた場所。真田丸のオープニングで城と土塀が映ってた!
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遠くに町が見えますね。良い景色。
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このあたりの日陰で一休みしたら
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三の丸横を通って更に下に進みます。
のんびり山道を下り駐車場に戻ると、駐車場に入れない車が行列を成していました。 -
備中松山城を堪能した後は、再び高速道路に乗り尾道へ。
一年ぶりの商店街。 -
今回の目的地はこちら。
地元の方が美味しいと教えてくれた店で、こちらは昔からある尾道ラーメンのお店なんだとか。割と早い時間に閉まってしまう店で、実は前年に行けなかった思い出があるのでhttps://4travel.jp/travelogue/11492469今回はリベンジなのです。めん処 みやち グルメ・レストラン
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値段はとても良心的。
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一度、食べてみたかったうどん中華。
中華スープの中にある麺がうどんなんですが、中華麺じゃなくても美味しい!とするする完食。 -
せっかくだから食べ比べてみようと中華麺の中華そばも頼んで食べてみる。
あれ?スープが若干かえてある。
そしてこれもとても美味しい!
二杯食べたので、お店の方によく食べるねー、と吃驚されました。
美味しい麺類はたくさん食べれるものなのです。
お腹に余裕があったら気になっていた天ぷら中華も食べたかった…。 -
腹ごなしに商店街をぶらぶら
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地面に書いてあるのは…電車ごっこができるかな。
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相変わらずいい感じのお店。
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こういう路地が魅力的なんですよね。
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この辺りは瀬戸内レモンが有名なだけあって、こちらはそれらの製品を扱っているお店。ディスプレイもレモンでぎっしりで
島ごころ 尾道長江店 グルメ・レストラン
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夕食は高速を飛ばして日生へ。途中で通った福山の道路に石があると思ったらこっちに向かって歩いて来る亀でした。
日の落ちる頃に到着したのはタマちゃん。この地のB級グルメのカキオコが美味しいというので、牡蠣の季節じゃなくてもカキオコを食べることができるお店を探したらここがヒット。タマちゃん グルメ・レストラン
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平日で牡蠣のシーズンじゃないのもあって行列はできていなかったので、すぐに中に入れました。
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天かすとオリーブオイルをたっぷりかけて豪快に焼かれていくカキオコ。
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半分は塩、半分はソースでどうぞといわれてまずは塩部分をパクリ。たっぷりのぷりぷりした牡蠣が入っていて噛むと口の中に書きの味が広がる。ふわふわサクサクジューシーで美味しいなと思いつつソース部分もパクリ。天かすたっぷりでオリーブオイルを使っているのに、思ったよりもさっぱりしていて食べやすくあっという間に間食してしまいました。
カロリーは気にしない。
こちらのお店では生シラスのお好み焼きもあるとメニューに書いてありました。どんな感じかな? -
ちなみに私の横では地元の高校生が味を変えて一人2枚のお好み焼きを食べてました。この後も夕食も食べると話していたので、高校生の胃袋凄いな、と思いながら、パクパク平らげる姿にちょっと小気味よさすら感じました。
満腹になった胃をさすりながらホテルに帰って就寝。
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