2017/12/05 - 2017/12/07
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旅人のくまさんさん
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『三木合戦絵図』は、三幅で構成された絵図で、別所氏所縁のお寺では、今も絵解きの法話が行われています。その内容を盛り込んだ24場面の合戦図などの紹介です。
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イチオシ
本丸址に掲示してあった『三木合戦図』です。『三木合戦絵図』は、三幅で構成された絵図で、原本図と模写図の2組があります。原本図は別所氏の遺臣来住(きし)安芸守景政の寄進と伝えられ、寛永年間(1624年頃)に制作されたようです。この合戦図は、24場面でした。全体を右端から4分割し、6場面ずつで説明します。右上から下に、次の列の順に番号を付して説明します。
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○第1場面:合戦支度が整った三木城本丸の光景です。天守と櫓(矢倉)。その下には兵士が持った軍旗がはためきます。
○第2場面:騎馬姿の城主の別所小三郎長治です。長槍を持つのが織田との戦いを主導した、叔父で鷹尾山城主の別所山城守義親、手綱を持つのがその妻です。
○第3場面:天正6年2月、加古川加須屋敷における軍評定です。城座が秀吉、下座が別所義親です。決裂しました。
○第4場面:天正6年4月、秀吉が別所軍の野口城を襲った場面です。
○第5間面:天正6年7月、三木城の支城の一つ、神吉城の戦い場面です。一連の戦いの中で、最も激戦となりました。
○第6場面:天正6年7月、三木城の支城の一つ、仕方城が落ちた場面です。右端は、一人落ち延びた仕方城主です。 -
○第7場面:天正6年10月、三木城内での軍評議の場面です。別所忠親と久米忠勝が論戦しました。
○第8場面:天正6年10月、平井山合戦の図です。
○第9場面:天正7年5月、別所方の魚住港での兵糧荷揚げの場面です。右上に見えるのが魚住城です。
○第10場面:天正7年5月、丹生山合戦の場面です。羽柴軍が別所軍の兵糧運びを襲い、明要寺の砦を落とした場面です。
○第11場面:天正7年5月、淡河合戦の場面です。豊臣秀長軍が淡河城に攻めてきた時、馬の群れを放ち、騎馬軍を混乱させ、その隙に三木城へ逃げ延びました。
○第12場面:秀吉方の平井山陣営の様子です。軍師の竹中半兵衛が亡くなりました。秀吉側であったにも関わらず今でも地元で手厚く供養されています。 -
○第13場面:天正7年9月、大村合戦の場面です。
○第14場面:天正7年9月、大村合戦での夜戦で戦う、別所吉親の妻の奮戦場面です。
○第15場面:天正7年9月、毛利・別所軍が攻め落とした、秀吉の部将・谷衛好が守る平田出城での合戦の場面です。
○第16場面:天正8年正月、宮の上合戦の別所方、別所友之の騎乗姿です。別所友之が籠った宮の上砦も落城しました。
○第17場面:天正8年正月11日、友之が籠った鷹の尾城の陥落場面です。残兵は三木城に引き上げました。
○第18場面:天正8年正月、三木城大手門での戦いの場面です。 -
○第19場面:天正8年5月16日、秀吉が三木城開城の申出を受け、酒肴を贈った時の光景です。秀吉方の使者は浅野長政です。
○第20場面:天正8年5月17日、秀吉から差し入れられた酒での、三木城での最後の晩餐の光景です。
○第21場面:天正8年5月17日、別所長治兄弟の室とその子、別所吉親kの妻の自害の場面です。当時の作法で、別所長治兄弟が手を下したともされます。
○第22場面:天正8年5月17日、別所長治公と弟の知之の自害の場面です。介錯の人も記録に残っているようです。立会は、龍雲寺恵善禅師です。
○第23場面:別所長治塚での供養の光景です。現在は、龍雲寺に長治公と夫人の首塚があります。
○第24場面:法界寺本堂における別所長治公一族の供養の光景です。 -
元に戻って、『三木合戦図(みき・がっせんず)』のタイトルがあった、第1場面から、第9場面までの光景です。
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次は最後になる、第16場面から、第24場面までの光景です。三木城所縁の雲龍寺では、今も住職による絵解きが行われているようでした。
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『三木城址』のタイトルがあった説明看板の紹介です。15世紀後半に別所則治によって、上の丸台地に築かれた城であることなどが紹介されていました。『三木の干し殺し』で落城しましたが、豊臣家の直轄地となり、城代などが置かれました。慶長5年(1600年)池田輝政の姫路城の支付城となり、元和3年(1615年)、一国一城令で廃城になったことが説明されていました。
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『四百年祭記念之碑』のタイトルがあった石碑の光景です。天正8年(1580年)に部下と領民の命に代えて亡くなった、別所長治公の400年記念として、昭和56年(1981年)に建てられた記念碑でした。
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『四百年祭記念之碑』のタイトルがあった石碑の裏面の光景です。別所長治公四百年記念際の実行委員会の名前や、協賛者の氏名が記されていました。
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『三木城包囲の秀吉軍・武将配置図』のタイトルがあった図面の光景です。別所長治が籠城した三木城には、東播磨一帯から約7500人が集まりました。別所氏に同調した国人衆をはじめ、その家族や浄土真宗の門徒なども含まれ、いわゆる諸篭り(もろごもり)となり、食糧問題が重要なカギとなりました。天正6年3月29日に秀吉は三木城包囲を開始し、食糧難で開城したのは、天正8年(1580年)1月17日でした。1年10ヶ月に及ぶ籠城戦でした。
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『歴史街道・三木城址』のタイトルがあった説明看板の光景です。左側に、現況の平面図が記されていました。室町時代の15世紀後半から、江戸時代初期の廃城までの歴史などが説明されていました。
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部分的に復興された本丸址の周りの土塀の光景です。400年記念事業の成果かも知れません。狭間が設けられていました。『模擬城壁』と呼ばれているようです。発掘調査結果がうまく生かされたかどうか、少し心配になる光景でした。
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『かんかん井戸』と呼ばれている本丸井戸の光景です。この井戸は三木城本丸跡に残る唯一の井戸です。口径3.6メートル、深さ約25メートルを測る大きなものです。石を投げ込むと『カンカン」と音がすることから『かんかん井戸』とも呼ばれています。
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同じく、『かんかん井戸』と呼ばれている本丸井戸の光景です。危険防止のための金網が張られ、周りには柵がありました。この井戸には、抜け穴説もあるようです。
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『本丸井戸(かんかん井戸)』のタイトルがあった説明文です。口径3.6メート、深さ25メートルの大型の井戸であることが紹介されていました。藩主使用の馬の鐙が出土し、雲龍寺で保存されていることも紹介されていました。
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三木城の本丸址で見かけた、真っ赤な実を付けた樹木の光景です。ナナカマド当たりのようです。今年は、北海道南部のお城巡りでも街路樹のナナカマドの実を目にしました。
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イチオシ
少しズームアップした、ナナカマド(七竈)の実の光景です。葉は緑を保っていましたが、紅葉が綺麗な樹木としても知られています。バラ科ナナカマド属の落葉高木です。
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更にズームアップした、ナナカマドの実の光景です。『大変燃え難く、7度竃に入れても燃えない』ということか名前の由来とされますが、これは俗説とする説もあります。それにしても、綺麗な赤い木の実です。小鳥さん達にとっても御馳走のようです。
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本丸址の周りの光景です。復興された城壁と、記念碑や慰霊碑が並んでいました。別所氏時代の城の守りは、堀と土塁だったようです。周りの木々は、すっかり葉を落としていました。
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復興された城壁と、記念碑か慰霊碑のズームアップ光景です。三木城は堅城ですが、『三木合戦』以前にも幾度か落城の憂き目にあっています。その都度、防備が強化され、日本有数の堅城になったようです。しかし残念なことには、現在の三木城跡には当時を偲ばせる物がほとんどありません。
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ブロック囲いの中に収められた地蔵尊などの光景です。お揃いの赤い前掛け姿でした。お供えの花は、白や黄色の菊の花などでした。台座の『十一面観世音』、『地蔵菩薩』や『西国巡礼供養』などの文字が読み取れました。
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二基並んだ、石碑の光景です。どちらにも大峰山・三十三度詣らしい文字が見えました。紀伊半島中央部にある修験道のメッカ、大峰山へ三十三回登拝した記念に建てられた石碑のようです。
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建物礎石らしい石でしたが、詳しいことは分かりませんでした。建物ではなく、石碑や石像などの台座だったかもしれません。
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立札などは見当たりませんでしたが、池を設けた庭園跡のようでした。いつ頃に造園されたものかも、名前も分かりません。ネット検索中ですが、参考になる情報が見付かっていません。
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同じく、庭園跡の光景です。大きな石材が使われた、かなりの推進を持った井戸でした。推測ですが、もし、別所氏時代の池であれば、籠城時の溜池として使われたかもしれません。
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同じく、庭園跡の光景です。三木城時代に使われた石材が無造作に積み重ねられていました。江戸時代になり、元和2年(1616年)三木城は、小笠原忠真を領主とする明石藩に編入され、元和3年(1617年)、幕府による一国一城令により廃城となりました。三木城にあった資材は明石城の建設部材として使用されたと伝えられていますが、その時に残された三木城の石とされます。
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『謹忠招魂碑』らしい文字が刻まれた石標の光景です。関連する資料を保管したらしい、倉庫を兼ねた造りの台座の上に立っていました。
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三木城の本丸址の光景です。石の柵が建っている場所が、『かんかん井戸』と呼ばれている本丸井戸跡です。発掘調査が行われた井戸です。この井戸から、藩主使用の馬の鐙が出土し、雲龍寺で保存されています。
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三木城址の実測平面図です。発掘調査時に作成された資料のようでした。『三木城本丸跡・二の丸跡・測量図』のタイトルがありました。上側半分が本丸跡、下側半分が二の丸跡になります。青色で示された部分が、平成19年度の発掘調査場所のようでした。それ以外にも、平成15年度のトレンチ箇所らしい図示がありました。
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