2017/12/05 - 2017/12/07
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旅人のくまさんさん
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伊丹城は天正2年(1574年)11月、信長配下となった荒木村重によって攻め落とされ、大幅に改築されて有岡城と名前が改められました。その有岡城は、村重が謀反を起こしたことで、天正7年(1579年)、信長軍に攻め落とされました。(ウィキペディア、日本百・続百名城公式ガイド)
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有岡城址の紅葉光景です。荒木村重の謀反は、信長にとって衝撃だったらしく、糾明と翻意のための説得の使者が送られました。有岡城に派遣された最初の使者は、明智光秀、松井友閑と万見重元でした。光秀は、娘が村重の嫡男・荒木村次の妻となっていたため、親戚の縁で選ばれたようです。(同上)
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石段の上から眺めた『有岡城址』の石碑が建っていた入口付近の光景です。明智光秀らが有岡城に使者として向かったことを知った高山右近は、村重側ながら、有岡城に説得に向かいました。高山右近は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、代表的なキリシタン大名として知られます。父の影響もあり、永禄6年(1563年)に10歳でキリスト教の洗礼を受け、今はカトリック教会の福者の一人です。(同上)
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有岡城に説得に向かった高山右近は、村重が信長から受けた恩義や、信長に勝つのは不可能なこと、敗北した際には厳罰が下るであろうことを説いたとされます。右近はまた、村重らの疑念を解くために、すでに村重に2名の人質を差し出していたにもかかわらず、更に長男まで人質として預けました。村重は、一旦はこれらの説得を聞き入れました。(同上)
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イチオシ
黄葉のイチョウの木のズームアップ光景です。村重は、釈明のために安土城に向かいました。途中に寄った茨木城で家臣の中川清秀から、『信長は部下に一度疑いを持てば、いつか必ず滅ぼそうとする』との進言を受け、伊丹に戻ってしまいました。フロイスの『日本史」には、村重の家臣らは『自分たちは信長につく気はなく、ただちに引き返してこない場合、他の者を領主とする』と記されています。(同上)
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有岡城址のイチョウの黄葉と、赤い木の実の光景です。信長と対決するにあたり、村重は足利義昭、毛利輝元、顕如のもとに人質と誓書を差し出し同盟を誓いました。顕如上人は浄土真宗本願寺派第11世宗主、武力による天下統一を狙う織田信長を仏敵とみなし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけ、信長包囲網を築き10年以上に亘って激しい攻防を繰り広げました。蓮如上人が8世宗主でした。(同上)
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ドウダンツツジの紅葉の光景です。荒木村重の子・村次の妻となっていた光秀の娘は、離別して光秀の元に帰りました。この報を聞いた信長は、天正6年(1578年)11月に二条城に移り、明智光秀、松井友閑、羽柴秀吉を有岡城に向かわせました。村重はこれに対して『野心はない』と答えましたが、『人質に母親を差し出せ』との信長の命に従わず、亀裂は決定的になりました。(同上)
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有岡城から見下ろした東側方面の光景です。かつては、東側方面も主郭の一部でした。小寺孝隆(黒田孝高)が単身有岡城に来城したのは、信長と村重の亀裂が決定的になった後でした。黒田孝高(官兵衛)は、そのまま村重によって有岡城に幽閉されました。黒田官兵衛は、剃髪後の如水の名でも知られる軍師で、戦国の三英傑に重用され、筑前国福岡藩祖となりました。キリシタン大名でもありました。(同上)
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有岡城址の主郭とされる場所の北端方面の光景です。信長は、石山本願寺に和議を申し入れました。毛利氏との関係があり、すぐには承諾とはなりませんでしたが、11月6日の第二次木津川口の戦いで、織田水軍の鉄甲船が毛利水軍を大敗させ、補給路が途絶えた石山本願寺の戦力は低下しました。11月9日、信長は山城と摂津の国境にある山崎に5万の兵で進軍し、本格的な有岡城の戦いが始まりました。(同上)
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イチオシ
見事な朱に染まった、楓の紅葉です。信長は、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就らで茨木城を攻囲する一方、荒木軍の切り崩しにかかりました。荒木軍の切り崩しの山場だったのが、高山友照・右近のキリシタン大名親子でした。キリスト教布教に関わることでしたから、ルイス・フロイスの日本史に詳細に記録されています。(同上)
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再び紹介する、有岡城址に残る石垣の光景です。苦渋の末に高槻城の高山右近が見出した解決法は、村重から人質、信長からキリシタンの両方を救うため、自ら剃髪して領地・俸禄・家臣全てを返上するというものでした。兵や城をもって信長に加勢するわけではありませんから、村重に差し出している人質は処刑されないだろうとする判断です。右近は父への書状を残すと、この策については伏せたまま『オルガンティノとロレンソを逃がしてやる』という名目を装って家臣と共に城外へ出ました。その時、右近は決心を語り、脇差で髪を切ってしまいました。右近は紙の衣だけになり、宣教師のオルガンティノと肥前国白石(現在の平戸市)出身のロレンソ了斎と共に信長のもとへ向かいました。信長は大いに喜び、右近に着ていた小袖と馬、および摂津・芥川郡を所領として与えました。こうして高槻城は信長の軍門に降り、有岡城の友照と人質が処刑されることはありませんでした。(同上)
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イチオシ
転用石を使った石垣のズームアップ光景です。右下に石標らしい転用石が見えます。その左の正方形の石材も転用石のようです。右近に次いで茨木城の中川清秀も信長に服し、大和田城、多田城、三田城が寝返り、村重は孤立しました。その上、荒木軍の兵は逃亡、1万~1万5千の軍勢は5千にまで減じたとされます。(同上)
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同じく、転用石を使った石垣のズームアップ光景です。正方形の石材が転用石のようです。ここに至り戦局有利と見た信長は、石山本願寺との和平交渉を打ち切り、11月14日、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就、稲葉良通、羽柴秀吉、細川藤孝軍と荒木村重軍の先鋒隊が激突しました。その後信長も有岡城と猪名川を挟んだ古池田(池田城)に本陣を移して有岡城を攻囲しました。(同上)
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遺蹟とされる石垣のズームアップ光景が続きます。本格的な攻城戦は、12月8日の午後6時頃から始まりました。まず織田軍の鉄砲隊が有岡城に乱射し、次いで弓隊が町屋に放火しました。しかし、有岡城は戦国時代の城としては珍しい総構えの城で守りが堅く、信長軍は攻め切れず、逆に2千人ほどの犠牲者を出しました。(同上)
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同じく、遺蹟とされる石垣のズームアップ光景です。有岡城を攻めきれなかった信長は、その後、有岡城の周りを固めて11日には古池田まで陣を戻し、15日には安土城に帰城してしまいました。兵糧を遮断する、持久戦への戦略変換です。(同上)
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立入り禁止の柵が設けてあった土塁の光景です。クマザサの中に、柵が設けられる前らしい、踏分け道がありました。有岡城址の西側になる場所です。(同上)
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落下した銀杏の黄葉です。風でここに吹き寄せられていたようです。こちらは、城址公園として整備された石畳の場所です。(同上)
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自由時間がありましたので、次に有岡城址公園の周りを一回りすることにしました。出発地点は有岡城址碑が建っていた入口です。時計周りに一周することにしました。『信長公記』では、持久戦に入ったことで有岡城の記述が減っていき、信長が鷹狩りを楽しんでいる記述が増えてくる時期とされます。(同上)
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大規模な堀跡の光景です。先ほど見学した有岡城址の西に面した場所です。元々の有岡城は、東西に800メートル、南北に1400メートルからなる大城でしたが、現在の主郭の周りなら、容易に歩いて回ることができます。岸ノ砦、上ろう塚砦、鵯(ひよどり)塚砦などが築かれた堅城でした。北ノ砦跡の土塁は、猪名野神社見学の時に一緒に見学できました。(同上)
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同じく、大規模な堀跡と、主郭跡の西面の石垣光景です。織田軍は、有馬から山崎までの広範囲に布陣して、戦いは長期化しました。村重軍は、毛利軍と石山本願寺軍の後詰を期待していましたが、増援軍は現れませんでした。食糧も欠乏してきた村重軍は、士気を高めるために信長の嫡男・織田信忠隊がいる加茂砦に翌天正7年(1579年)の正月明け夜襲をかけました。(同上)
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西側かあr眺めた、堀跡と、城址後の木々の光景です。村重軍に馬や兵糧を奪われ、加茂砦は炎上しました。信忠は無事でしたが、『荒木村重軍強し』との評判が京都まで伝わり、今様が流行ったようです。『今様(いまよう)』は、日本の歌曲の一形式で、『今様』とは『現代風、現代的』という意味です。(同上)
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更に進んで、北西側から眺めた堀と城址の林の光景です。戦いが始まって、10カ月近く経った9月2日夜半、村重は5、6名の側近を引き連れ、夜陰に紛れて船で猪名川を下り、嫡男・村次がいる尼崎城(大物城)へ移っていきました。『突然城と家族を捨て茶道具と共に夜逃げした』と解釈されていますが、『手土産の茶道具を持って、村重自ら毛利家に援軍を頼みに行った』等との解釈もあるようです。(同上)
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有岡城址の西側のお堀跡に沿った通りの光景です。この辺りから北に向かって、下り坂になっていました。先程の村重の行動は、『毛利からの支援を受ける上で、内陸の有岡城では不利なため、戦略的判断から海岸沿いの尼崎へと移った』と解釈する説もあります。『村重の逃亡』は、暫くは伏せられていましたが、やがて信長の間者に探られてしまいました。(同上)
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有岡城址の西側のお堀跡の西北端付近の光景です。土塁跡に生えたらしい、鬱蒼とした林になっていました。信長は、9月12日に有岡城の攻城軍の半数を、信忠を総大将として尼崎城へ向かわせた一方、滝川一益に調略を開始させました。上ろう塚砦にいた砦の守将の中西新八郎と副将の宮脇平四郎に、村重逃亡の事実を使って寝返りを誘い、それに成功しました。
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同じく、お堀跡の西北端付近の光景です。『滝川一益(1525~1586年)』は、織田四天王の一人とされる武将で、大名でした。『先駆けは滝川、殿(しんがり)も滝川』と称され、信長から厚く信任された重臣の一人です。柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の四人を四天王、さらに羽柴秀吉を加えて五大将と呼ぶことがありますが、後世の呼称です。(同上)
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有岡城址西側のお堀跡のズームアップ光景です。敷石がお堀跡を横断していました。10月15日午後十時頃、織田軍は有岡城に総攻撃を開始しました。有岡城の城兵はただちに各砦へ配置し臨戦態勢を整えました。しかし、上ろう塚砦に押し寄せた滝川隊は、何の抵抗も受けずに入城できました。これは中西新八郎と宮脇平四郎はじめ、中西らの説得に応じた守備兵力の足軽大将らがいたためです。(同上)
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お堀跡の北端近くから眺めた、伊丹市の市街光景です。総構えの有岡城でしたが、砦が抜けた後の内からの攻撃には弱く、守備兵はことごとく討ち取られていきました。北ノ砦の渡辺勘太郎、鵯塚砦の野村丹後の両大将は降伏を申し出ましたが、受け入れられず、切腹して果てました。増援軍の雑賀衆も白兵戦には弱く、ほぼ全滅したとされます。(同上)
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逆光での撮影になりましたが、お堀跡の北端の西側からの撮影です。確認はできませんでしたが、かつての武家屋敷跡らしい石垣の光景がありました。左側が有岡城跡です。総構えの城には、城内に百姓、町人の住居も多数あります。織田軍は城内を焼き討ちにし、郷町から侍屋敷へと火の手が広がっていきました。(同上)
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現在の有岡城跡の北東角付近の光景です。織田軍の焼き討ちに遭い、女性や子供、町民などの非戦闘員は二の丸に逃れたようです。しかし、そこに織田軍が突入してきたので主郭に引いていきました。主郭は三方を堀で囲まれ、南側は空堀を隔てて二の丸に面しており、さすがの織田軍も本丸へはすぐには侵入出来ませんでした。(同上)
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ここからは、有岡城址の主郭跡の東面になります。この石垣の左手になる東側部分は、鉄道建設のために失われた本丸部分とされます。11月19日、城守をしていた荒木久左衛門は開城を決意、津田信澄が接収部隊を率いて主郭に入城しました。ここに『有岡城の戦い』の戦闘は終結しました。津田信澄は、織田信長の甥にあたる武将です。(同上)
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有岡城址の主郭東面の石垣光景です。『有岡城の戦い』の終了後、荒木一族と重臣衆36名をはじめ、670名が 打ち首、磔や、焼き殺しで処刑されました。その後、村重は12月中に尼崎城を抜け出し、花隈城に移動しました。そして花隈城の戦いへと続き、ここでも敗れると毛利氏の元に亡命しました。(同上)
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