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バスツアーに参加しての2泊3日、大坂湾の周りの9名城巡りの紹介です。9カ所の名城には日本百名城が四つ、続日本百名城が三つ含まれる、兵庫県、徳島県、和歌山県と大阪府の4府県巡りです。(ウィキペディア、日本百・続百名城公式ガイド)

2017暮、大阪湾の名城(1/42):12月5日(1):有岡城(1/8):黒田官兵衛の幽閉地

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2017/12/05 - 2017/12/07

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旅人のくまさん

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バスツアーに参加しての2泊3日、大坂湾の周りの9名城巡りの紹介です。9カ所の名城には日本百名城が四つ、続日本百名城が三つ含まれる、兵庫県、徳島県、和歌山県と大阪府の4府県巡りです。(ウィキペディア、日本百・続百名城公式ガイド)

交通手段
観光バス

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  • バスツアーの出発は12月5日、絶好の天候に恵まれたようです。集合場所に近い、名古屋駅西の前の街路光景です。既に12月に入りましたが、この日は秋晴れといってもよい好天でした。12月ですから、小春日和、インディアン・サマーと呼ぶべきでしょうか。ただし、天気予報では、この後、に日本列島に寒波の襲来があることを告げていました。(同上)

    バスツアーの出発は12月5日、絶好の天候に恵まれたようです。集合場所に近い、名古屋駅西の前の街路光景です。既に12月に入りましたが、この日は秋晴れといってもよい好天でした。12月ですから、小春日和、インディアン・サマーと呼ぶべきでしょうか。ただし、天気予報では、この後、に日本列島に寒波の襲来があることを告げていました。(同上)

  • 最初の見学地、『有岡城』に到着しました。南北朝時代に摂津国人の伊丹氏によって築城され、『伊丹城』の名前でも呼ばれています。文明4年(1472年)に改築されるまで、伊丹城が日本最古の天守台を持つ平城とされました。(同上)

    最初の見学地、『有岡城』に到着しました。南北朝時代に摂津国人の伊丹氏によって築城され、『伊丹城』の名前でも呼ばれています。文明4年(1472年)に改築されるまで、伊丹城が日本最古の天守台を持つ平城とされました。(同上)

  • 広い通りに面した有岡城の東面の石垣光景です。切込み接ぎと言ってもよいこの石垣は、時期は分かりませんが近年に積み直されたような新しさでした。有岡城の年表を見ますと、明治26年(1891年)、鉄道敷設のために有岡城の東側が破壊された記事がありました。(同上)

    広い通りに面した有岡城の東面の石垣光景です。切込み接ぎと言ってもよいこの石垣は、時期は分かりませんが近年に積み直されたような新しさでした。有岡城の年表を見ますと、明治26年(1891年)、鉄道敷設のために有岡城の東側が破壊された記事がありました。(同上)

  • 広い通りに面した、有岡城の東面の切込み接ぎの石垣のズームアップ光景です。鏡石とまでは言えませんが、大きな石材も使われた石垣光景です。(同上)

    広い通りに面した、有岡城の東面の切込み接ぎの石垣のズームアップ光景です。鏡石とまでは言えませんが、大きな石材も使われた石垣光景です。(同上)

  • 同じく、大きな石材も使われた石垣のズームアップ光景です。伊丹城が有岡城に改称されたのは、天正2年(1574年)11月、荒木村重(1535~1583年)によって攻め落とされた後のことです。村重は、伊丹氏の伊丹城を大改修し、惣構えの造りの有岡城に改称しました。(同上)

    同じく、大きな石材も使われた石垣のズームアップ光景です。伊丹城が有岡城に改称されたのは、天正2年(1574年)11月、荒木村重(1535~1583年)によって攻め落とされた後のことです。村重は、伊丹氏の伊丹城を大改修し、惣構えの造りの有岡城に改称しました。(同上)

  • 東側の石垣の下から眺めた、有岡城址の紅葉と黄葉の光景です。紅葉はカエデ、黄葉はイチョウでした。利休十哲の一人にも数えられている荒木村重について、簡単に紹介しておきます。摂津国池田で池田家の家臣・荒木信濃守義村の嫡男として誕生しました。荒木氏の先祖は貴族の藤原秀郷、波多野氏の一族とされます。藤原秀郷(生没年不詳)は、平安時代中期の貴族で武将です。(同上)

    イチオシ

    東側の石垣の下から眺めた、有岡城址の紅葉と黄葉の光景です。紅葉はカエデ、黄葉はイチョウでした。利休十哲の一人にも数えられている荒木村重について、簡単に紹介しておきます。摂津国池田で池田家の家臣・荒木信濃守義村の嫡男として誕生しました。荒木氏の先祖は貴族の藤原秀郷、波多野氏の一族とされます。藤原秀郷(生没年不詳)は、平安時代中期の貴族で武将です。(同上)

  • 有岡城址の紅葉の木のズームアップ光景です。村重は、最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となりました。しかし、三好三人衆の調略に乗り池田知正とともに三好家に寝返り、知正に勝正を追放させました。その混乱に乗じ、池田家を掌握しました。池田氏が仕えていた織田信長から気に入られ、三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)に茨木城主となりました。(同上)

    有岡城址の紅葉の木のズームアップ光景です。村重は、最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となりました。しかし、三好三人衆の調略に乗り池田知正とともに三好家に寝返り、知正に勝正を追放させました。その混乱に乗じ、池田家を掌握しました。池田氏が仕えていた織田信長から気に入られ、三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)に茨木城主となりました。(同上)

  • まだ新しい、「史蹟・有岡城址』の石碑の光景です。昭和50年(1975年)から始まった発掘調査の結果を踏まえ、昭和54年(1979年)12月に国史跡に指定されました。現在は、史跡公園として整備されています。(同上)

    まだ新しい、「史蹟・有岡城址』の石碑の光景です。昭和50年(1975年)から始まった発掘調査の結果を踏まえ、昭和54年(1979年)12月に国史跡に指定されました。現在は、史跡公園として整備されています。(同上)

  • 『史蹟・有岡城址』の石碑があった周りの光景です。公園として整備された時の石垣や、石段のようでした。こちらが、現在の有岡城跡の南面になります。城の範囲は南北1.7キロ、東西0.8キロと南北に細長く、主郭は城の東側にありました。ここがその跡になるようですが、東側半分は失われました。(同上)

    『史蹟・有岡城址』の石碑があった周りの光景です。公園として整備された時の石垣や、石段のようでした。こちらが、現在の有岡城跡の南面になります。城の範囲は南北1.7キロ、東西0.8キロと南北に細長く、主郭は城の東側にありました。ここがその跡になるようですが、東側半分は失われました。(同上)

  • 『有岡城主・荒木村重』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左下に、村重の姿図と花押がありました。元亀4年(1573年)、逢坂(大津市)で、細川藤高とともに信長に謁見し、それ以後、信長配下に加わりました。細川藤高(1534~1610年)は、幽斎とも呼ばれた戦国武将で、大名です。歌人でもあり、近世歌学を大成させた、当代一流の文化人とされます。(同上)

    『有岡城主・荒木村重』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左下に、村重の姿図と花押がありました。元亀4年(1573年)、逢坂(大津市)で、細川藤高とともに信長に謁見し、それ以後、信長配下に加わりました。細川藤高(1534~1610年)は、幽斎とも呼ばれた戦国武将で、大名です。歌人でもあり、近世歌学を大成させた、当代一流の文化人とされます。(同上)

  • 有岡城址の主郭跡に残る礎石の光景です。建物礎石と紹介されていましたが、建物の名前までは特定されていないようです。細川幽斎縫いついて、もう少し説明します。足利の幕臣として将軍・義輝に仕えましたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆に討たれ、生活にも困窮しましたが、足利義昭の将軍任官に奔走したとされます。(同上)

    有岡城址の主郭跡に残る礎石の光景です。建物礎石と紹介されていましたが、建物の名前までは特定されていないようです。細川幽斎縫いついて、もう少し説明します。足利の幕臣として将軍・義輝に仕えましたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆に討たれ、生活にも困窮しましたが、足利義昭の将軍任官に奔走したとされます。(同上)

  • 主郭跡に残る礎石のズームアップ光景です。荒木村重は、天正元年(1573年)には茨木城主となり、同年、信長が足利義昭を攻めた時にも信長に従い、若江城の戦いで功を挙げました。一方、足利義昭方に属していた池田知正(1555~1604年)は、信長に降って村重の家臣となり、典型的な下克上となりました。(同上)

    主郭跡に残る礎石のズームアップ光景です。荒木村重は、天正元年(1573年)には茨木城主となり、同年、信長が足利義昭を攻めた時にも信長に従い、若江城の戦いで功を挙げました。一方、足利義昭方に属していた池田知正(1555~1604年)は、信長に降って村重の家臣となり、典型的な下克上となりました。(同上)

  • 同じく、主郭跡に残る礎石のズームアップ光景です。こちらは、礎石の場所の特定のために置かれたらしい、コンクリート製の礎石です。次に紹介するのは、信長に反旗を翻した村重が有岡城に籠城して戦った、『有岡城の戦い』です。天正6年(1578年)7月から、翌天正7年(1579年)10月までの約10カ月の籠城戦になりました。有岡城が堅城であったことは証明されましたが、結局、開城されました。(同上)

    同じく、主郭跡に残る礎石のズームアップ光景です。こちらは、礎石の場所の特定のために置かれたらしい、コンクリート製の礎石です。次に紹介するのは、信長に反旗を翻した村重が有岡城に籠城して戦った、『有岡城の戦い』です。天正6年(1578年)7月から、翌天正7年(1579年)10月までの約10カ月の籠城戦になりました。有岡城が堅城であったことは証明されましたが、結局、開城されました。(同上)

  • 『礎石建物跡』の文字が記された案内標識の光景です。天正6年(1578年)7月、三木合戦に参戦し、羽柴秀吉軍に属していた荒木村重は、突然戦線を離脱し居城だった有岡城(伊丹城)に帰城してしまいました。織田信長に対する謀反です。謀反の原因は、信長の部下に対する苛酷な態度にあったとする説など、諸説があります。決め手はなく、今も謎とされます。(同上)

    『礎石建物跡』の文字が記された案内標識の光景です。天正6年(1578年)7月、三木合戦に参戦し、羽柴秀吉軍に属していた荒木村重は、突然戦線を離脱し居城だった有岡城(伊丹城)に帰城してしまいました。織田信長に対する謀反です。謀反の原因は、信長の部下に対する苛酷な態度にあったとする説など、諸説があります。決め手はなく、今も謎とされます。(同上)

  • 『礎石建物跡』の標識があった付近の全景です。有岡城跡は,猪名川の西岸、伊丹段丘東縁部の一角に位置します。元は伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていた場所です。有岡城の時代は、侍町と町屋地区も堀と土塁で囲んだ惣構の城でした。主郭部は伊丹段丘が東に突出した位置に築かれ、西側と南側に人工の堀を設けていました。ここが、その主郭分辺りになるようです。(同上)

    イチオシ

    『礎石建物跡』の標識があった付近の全景です。有岡城跡は,猪名川の西岸、伊丹段丘東縁部の一角に位置します。元は伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていた場所です。有岡城の時代は、侍町と町屋地区も堀と土塁で囲んだ惣構の城でした。主郭部は伊丹段丘が東に突出した位置に築かれ、西側と南側に人工の堀を設けていました。ここが、その主郭分辺りになるようです。(同上)

  • 『井戸跡』の標識と、複製されたらしいコンクリート製の丸い井戸枠の光景です。残念なことに、明治時代の鉄道工事で、主郭部分の東側半分ほどが失われてしまいました。川辺馬車鉄道や阪鶴鉄道など、現在のJR宝塚線の前身の鉄道工事です。発掘調査が厳密でなかった時代ですから、壊された遺跡部分の記録は残されていないようです。(同上)

    『井戸跡』の標識と、複製されたらしいコンクリート製の丸い井戸枠の光景です。残念なことに、明治時代の鉄道工事で、主郭部分の東側半分ほどが失われてしまいました。川辺馬車鉄道や阪鶴鉄道など、現在のJR宝塚線の前身の鉄道工事です。発掘調査が厳密でなかった時代ですから、壊された遺跡部分の記録は残されていないようです。(同上)

  • 発掘調査で特定された井戸跡でしょうが、遺跡らしい面影と、発掘調査時の図面などの掲示はありませんでした。これだけの再建展示では、どのようにして井戸と特定されたのかも分かりませんでした。伊丹市立博物館のHPにも目を通してみましたが、余り参考になる項目はありませんでした。(同上)

    発掘調査で特定された井戸跡でしょうが、遺跡らしい面影と、発掘調査時の図面などの掲示はありませんでした。これだけの再建展示では、どのようにして井戸と特定されたのかも分かりませんでした。伊丹市立博物館のHPにも目を通してみましたが、余り参考になる項目はありませんでした。(同上)

  • 有岡城址に残る、中央部分が高い遺跡の石垣のようです。伊丹市の公式HPには、『有岡城跡主郭部の史跡公園整備は、昭和58年度から始められ、平成5年度に完了しました』と紹介されていましたから、主郭部からの新しい発見は期待できないようです。また、『土塁の石垣や建物・井戸・堀跡などが復元され』の表現もありましたから、この石垣も発掘された状態ではなく、復元されたものかもしれません。(同上)

    有岡城址に残る、中央部分が高い遺跡の石垣のようです。伊丹市の公式HPには、『有岡城跡主郭部の史跡公園整備は、昭和58年度から始められ、平成5年度に完了しました』と紹介されていましたから、主郭部からの新しい発見は期待できないようです。また、『土塁の石垣や建物・井戸・堀跡などが復元され』の表現もありましたから、この石垣も発掘された状態ではなく、復元されたものかもしれません。(同上)

  • 『有岡城石垣』の文字が記された案内標識の光景です。有岡城跡と伊丹郷町遺跡の発掘調査は、現在も続き、発掘次数は300次を超えています。平成15年度分以降は、伊丹市の公式HPにアップされています。(同上)

    『有岡城石垣』の文字が記された案内標識の光景です。有岡城跡と伊丹郷町遺跡の発掘調査は、現在も続き、発掘次数は300次を超えています。平成15年度分以降は、伊丹市の公式HPにアップされています。(同上)

  • 信長公記に記された、荒木村重と、その妻が詠んだ和歌の歌碑の光景です。右側が荒木村重の妻・たしの和歌で、『霜がれに残りて我は八重むぐら難波の浦の底のみくづに』です。これに対する荒木村重の返歌がその左の『思ひきやあまのかけ橋ふみならし難波の花も夢ならんとは』です。(同上)

    信長公記に記された、荒木村重と、その妻が詠んだ和歌の歌碑の光景です。右側が荒木村重の妻・たしの和歌で、『霜がれに残りて我は八重むぐら難波の浦の底のみくづに』です。これに対する荒木村重の返歌がその左の『思ひきやあまのかけ橋ふみならし難波の花も夢ならんとは』です。(同上)

  • 『懐古園』の題字があった石碑の光景です。ネットにあった『意訳』を紹介します。『この地は、もともと荒木村重の城郭があった跡であるが、次第にさびれて、武内氏の所有するところとなった。氏は城跡が滅していくのを嘆き、修復して永く後世に伝えようと欲したが果たさずに亡くなった。未亡人の奈如女は、その意志を継ぎ、時機が来るのを待った。この丘陵はたいへん風光明媚で葛城・金剛。六甲・池田の山々に囲まれ、足もとを猪名川が流れている。村重から330年にあたり、未亡人は先人の志を生かそうと決意してこの碑を立て、祭りをした。未亡人の貞節と子息利右衛門の孝順を称え、荒木氏の霊も以て冥すべきである。明治34年9月24日 七十五翁 北山撰ならびに書』の内容です。(同上)

    『懐古園』の題字があった石碑の光景です。ネットにあった『意訳』を紹介します。『この地は、もともと荒木村重の城郭があった跡であるが、次第にさびれて、武内氏の所有するところとなった。氏は城跡が滅していくのを嘆き、修復して永く後世に伝えようと欲したが果たさずに亡くなった。未亡人の奈如女は、その意志を継ぎ、時機が来るのを待った。この丘陵はたいへん風光明媚で葛城・金剛。六甲・池田の山々に囲まれ、足もとを猪名川が流れている。村重から330年にあたり、未亡人は先人の志を生かそうと決意してこの碑を立て、祭りをした。未亡人の貞節と子息利右衛門の孝順を称え、荒木氏の霊も以て冥すべきである。明治34年9月24日 七十五翁 北山撰ならびに書』の内容です。(同上)

  • 『懐古園』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『碑文の概要(意訳)』の副題がありました。先に紹介した『意訳』が記されていました。文中の子息の武内利右衛門氏は、明治時代の造り酒屋の当主のようです。その後を、伊丹老松酒造株式会社が引き継ぎ、現在は七代目の武内重治社長のようです。(同上)

    『懐古園』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『碑文の概要(意訳)』の副題がありました。先に紹介した『意訳』が記されていました。文中の子息の武内利右衛門氏は、明治時代の造り酒屋の当主のようです。その後を、伊丹老松酒造株式会社が引き継ぎ、現在は七代目の武内重治社長のようです。(同上)

  • 少しだけ散策した土塁の紹介です。土塁の中にあった踏分け道の光景です。先程の『老松酒造』の話題の続きです。『江戸幕府は伊丹の酒屋のうち大手24軒に帯刀を許し、幕府の「官用酒」としこれを「御免酒」と称した。「老松」はその御免酒の中でも最も格式が高く、宮中奉納酒として又将軍の御膳酒としても名高く、その伝統の技と品質を今日まで保ち続けております』とも紹介されていました。(同上)

    少しだけ散策した土塁の紹介です。土塁の中にあった踏分け道の光景です。先程の『老松酒造』の話題の続きです。『江戸幕府は伊丹の酒屋のうち大手24軒に帯刀を許し、幕府の「官用酒」としこれを「御免酒」と称した。「老松」はその御免酒の中でも最も格式が高く、宮中奉納酒として又将軍の御膳酒としても名高く、その伝統の技と品質を今日まで保ち続けております』とも紹介されていました。(同上)

  • クマザサに覆われた踏分け道の光景です。佐伯泰秀さんの小説、『酔いどれ小藤次』では、幕末に近い江戸が主な舞台です。1升酒ではなく、1斗酒を飲んでしまいますが、それは灘からの『下り酒』です。格式高い伊丹の酒が、大衆酒を標榜した灘に勢力を奪われた幕末頃の酒事情になるようです。この後、『菊水』の『日本酒事情』から、その間の勢力争いを紹介します。(同上)

    クマザサに覆われた踏分け道の光景です。佐伯泰秀さんの小説、『酔いどれ小藤次』では、幕末に近い江戸が主な舞台です。1升酒ではなく、1斗酒を飲んでしまいますが、それは灘からの『下り酒』です。格式高い伊丹の酒が、大衆酒を標榜した灘に勢力を奪われた幕末頃の酒事情になるようです。この後、『菊水』の『日本酒事情』から、その間の勢力争いを紹介します。(同上)

  • 土塁の北側面の光景です。かなりの急傾斜でした。『第8話』の『伊丹から灘へ』の前書きに、次の紹介がありました。『丹醸(たんじょう)、丹醸ともてはやされた伊丹の酒は、近くの池田の酒とともに江戸でも評判になり、3斗5升入りの樽2樽を馬の背に振り分けて灘まで運び、ここから船で江戸送りしていました』それが、江戸中期の宝暦4年(1754年)の米の値段の低落で様相が変わりました。(同上)

    土塁の北側面の光景です。かなりの急傾斜でした。『第8話』の『伊丹から灘へ』の前書きに、次の紹介がありました。『丹醸(たんじょう)、丹醸ともてはやされた伊丹の酒は、近くの池田の酒とともに江戸でも評判になり、3斗5升入りの樽2樽を馬の背に振り分けて灘まで運び、ここから船で江戸送りしていました』それが、江戸中期の宝暦4年(1754年)の米の値段の低落で様相が変わりました。(同上)

  • 横から眺めた、再建されたかもしれまい石垣の光景です。お酒の『第8話』の続きです。江戸幕府は、『酒勝手造り』の令を出して自由競争させました。これがきっかけとなって、『造り酒屋が酒をすぐ船積みできる灘に集まって来ました。その頃から伊丹、池田の酒に翳りが見えはじめ、灘の酒が注目されるようになって来ました』、と紹介されていました。(同上)

    イチオシ

    横から眺めた、再建されたかもしれまい石垣の光景です。お酒の『第8話』の続きです。江戸幕府は、『酒勝手造り』の令を出して自由競争させました。これがきっかけとなって、『造り酒屋が酒をすぐ船積みできる灘に集まって来ました。その頃から伊丹、池田の酒に翳りが見えはじめ、灘の酒が注目されるようになって来ました』、と紹介されていました。(同上)

  • 人が通った後がたくさん残っていましたが、『柵の中で遊ばないでください』の表示がありました。城址を管理するらしい、伊丹市の教育委員会名でした。佐伯泰秀さんの小説、『酔いどれ小藤次』は、青春篇を含めた20冊の文庫本が『新装版』になり、その後の『新酔いどれ小藤次』が続いています。年には勝てず、さすがの小藤次さんも酒の量が減ってきました。(同上)

    人が通った後がたくさん残っていましたが、『柵の中で遊ばないでください』の表示がありました。城址を管理するらしい、伊丹市の教育委員会名でした。佐伯泰秀さんの小説、『酔いどれ小藤次』は、青春篇を含めた20冊の文庫本が『新装版』になり、その後の『新酔いどれ小藤次』が続いています。年には勝てず、さすがの小藤次さんも酒の量が減ってきました。(同上)

  • 現在の本丸跡の西側の石垣の上にあった案内俵識の光景です。『土塁』の文字がありました。石積の形が整った石垣は、その土塁を削った時に設けられたものかもしれません。(同上)

    現在の本丸跡の西側の石垣の上にあった案内俵識の光景です。『土塁』の文字がありました。石積の形が整った石垣は、その土塁を削った時に設けられたものかもしれません。(同上)

  • 少し南側から眺めた、遺跡の石垣と、その背後の土塁に生える木々の光景です。常緑樹、紅葉の木と黄葉の木が混じりあっていました。ところで、黒田孝高(官兵衛)が約1年間投獄されていた場所は、有岡城の西北にあり、後ろは深い沼地、三方が竹藪に囲まれていて、日も差し込みにくく湿気が多い場所だったようです。(同上)

    少し南側から眺めた、遺跡の石垣と、その背後の土塁に生える木々の光景です。常緑樹、紅葉の木と黄葉の木が混じりあっていました。ところで、黒田孝高(官兵衛)が約1年間投獄されていた場所は、有岡城の西北にあり、後ろは深い沼地、三方が竹藪に囲まれていて、日も差し込みにくく湿気が多い場所だったようです。(同上)

  • 公孫樹の黄葉が降り注いだ、伊丹市教育委員会名で設置された、『有岡城跡』の説明碑です。創建から廃城までの略史が紹介され、発掘調査では、中世の城から近世の城への変遷の様子が確認できたと記されていました。(同上)

    公孫樹の黄葉が降り注いだ、伊丹市教育委員会名で設置された、『有岡城跡』の説明碑です。創建から廃城までの略史が紹介され、発掘調査では、中世の城から近世の城への変遷の様子が確認できたと記されていました。(同上)

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