2017/12/05 - 2017/12/07
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旅人のくまさんさん
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『三木城合戦』で三木城に籠城したのは、三木城の兵士だけではなく、別所氏に同調した国人衆、その家族や浄土真宗の門徒など、東播磨一帯から集まった約7500名が含まれる、いわゆる諸篭りでした。(ウィキペディア、日本百・続百名城公式ガイド)
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先程、現地ガイドさんからお話を拝聴していた、休憩所の建物光景です。その左側に稲荷神社の拝殿がありました。周りに落葉の葉が吹き寄せられていました。稲荷神社に祀られるのは稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)はです。稲荷大明神やお稲荷さんとも呼ばれます。本来は穀物・農業の神様ですが、現在は商工業を含め産業全体の神として信仰されています。(同上)
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稲荷神社の狐さんは、稲荷神の神使であり稲荷神そのものではありません。しかし、民間信仰では、稲荷さんと狐さんは、しばしば同一視されています。稲荷神と習合した宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)の別名に御饌津神(ミケツノカミ)があります。狐の古名は『けつ』で、そこから『ミケツノカミ』に『三狐神」と当て字され、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まったようです。(同上)
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役割が違いますから、『狛狐』と呼んではいけませんが、『狛犬』と同様、狐さんの像も一対で置かれています。稲荷神は、元々は農業神ですが、狐は穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の色や尻尾の形が実った稲穂に似ていることから、狐が稲荷神の使いに位置付けられたとも言われます。(同上)
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上の丸稲荷神社の手水舎の光景です。ブロック塀を挟んだ背後に見える建物は、庫裏のようでした。『庫裏(くり)』は、禅宗寺院の庫院(くいん)が起こりとされます。『庫裡』の漢字も使われます。(同上)
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石の柵越しに眺めた、上の丸稲荷神社の側面光景です。倒壊防止か、耐震対策でしょうか、石の柵は金具で補強されていました。(同上)
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地元のライオンズクラブの発注で、中国で製作された、別所長治公の騎馬像のようです。長治公の着物が左前になっているようでした。日本の場合、衿の合わせ方は、男性も女性も同じですが、『右前』に統一されたのは、養老3年(719年)の時とされます。元正天皇により『衣服令」が発令され、衿は先に右を合わせる着装法『右衽着装法(うじんちゃくそうほう)』が定められました。(同上)
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天正8年(1580年)、城兵達の命を助けることと引き替えに、妻子兄弟と共に自害した三木城主の別所長治公(1558?~1580年)のズームアップ光景です。享年23歳とされますが、『信長公記』では26歳とされています。この像では、左前の服の着方であることが、はっきりと分かります。逆の左前にするのは、仏式の葬儀で亡くなった方に着せる着物、経帷子の時です。(同上)
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イチオシ
服の着方はさておいて、横から眺めた別所長治公の騎馬姿です。台座にも『別所長治公像』の文字が記されていました。(同上)
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『別所長治公石像について』のタイトルがあった説明看板の光景です。三木ライオンズクラブが制作し、三木市に寄贈した石像であることが紹介されていました。史実に基づく表現ではないことも記されていました。(同上)
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三木城跡の本丸光景です。元和3年(1617年)に江戸幕府による一国一城令により廃城となりました。この当時の城の規模は、本丸(上の丸公園)、二の丸(図書館・美術館周辺)、新城・鷹ノ尾城(市役所周辺)などからなり、東播磨随一の要害だったとされます。また南に位置する雲龍寺周辺も三木城の一角であったと考えられています。 (同上)
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上の丸稲荷神社の鳥居光景です。『上の丸』はかつての『本丸』に相当しているようでした。今は、上の丸公園として整備されています。(同上)
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先程の鳥居とは別の石の鳥居の光景です。稲荷神社の境内のような場所ですが、400年以上も前の戦いの跡が残されたような、何とも重たい雰囲気がする一角でした。石の鳥居の先には赤い鳥居と石碑群がありました。(同上)
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イチオシ
逆光での撮影になってしまいましたが、何とも重たい雰囲気がする一角に踏み入っての紹介です。赤色と白色の組合せが、稲荷神社の境内であることを示していました。あちらこちらに高低差がある境内でした。(同上)
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二つ並んだ赤い鳥居の光景です。稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社のHPからの紹介です。稲荷神社の鳥居が赤い理由は、『朱色は、魔力に対抗する色ともされていて、古代の宮殿や神社仏閣に多く用いられています。当社に限って云えば稲荷大神様のお力の豊穣を表す色と説明されています。ただ、お稲荷さんだけが朱塗りではなく、朱塗りの神社は他にも多くあります』と紹介されていました。(同上)
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紅白の建物をバックにした、『正一位・垂水大明神』らしい文字が刻まれた石碑の光景です。『垂水(たるみ)』とは、『崖から流れ落ちる水」を意味し、垂水神は古くから水の神として信仰されてきました。つい、籠城の苦しさを連想してしまいました。古代氏族として垂水氏もいたようです。ところで、稲荷神社に赤色が多く使われているのは、個人的な意見では、稲荷神社に繋がる氏族が、渡来系の秦氏であるためと思っています。中国では、蝋燭まで白ではなく紅く着色した物を使っています。中国から伝来した伝統が色濃く残っているために、稲荷神社には赤色が殊更強調されているとの私論です。それだけの影響力を持っていた秦氏と思っています。(同上)
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『正一位・白行大明神』らしい文字が刻まれた石碑の光景です。ネット検索しても、全く意味が掴めなかった『白行』の二文字です。中国の陰陽五行説の中の色彩の『白』に関連しているのかも知れません。西方の守護神が、白虎神です。(同上)
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『玉房大明神』らしい文字が刻まれた石碑の光景です。『玉房稲荷大明神(たまふさいなりだいみょうじん)』とも呼ばれているようです。京都市上京区にあった神仏習合時代の五ノ保社(満願寺)では、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀っていると紹介されていました。(同上)
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『天徳大明神』らしい文字が刻まれた石碑の光景です。この『天徳』の上の文字は、『禾』辺りを読み間違えているかも知れません。『天徳』をネット検索してもお寺の『天徳寺』や、年号の『天徳』がヒットしただけでした。『禾』の文字は、稲や麦など、農業に縁が深い文字です。(同上)
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振り返って眺めた、稲荷神社の不思議な雰囲気があった空間の光景です。別所長治公が、自分の命に代えて守った領民と部下ですが、最近の調査では、三木城が開城された跡に大規模な殺戮があった証拠も見付かっているようです。羽柴方によって大量殺りくが行なわれた可能性が高いとするのは、2010年の三木市教育委員会刊行の『三木城跡及び付城跡群総合調査報告書』です。(同上)
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三木城の本丸跡の光景です。紹介が遅れましたが、『三木』の地名の由来です。『神功皇后がこの地の君が峰で休まれた時、土地の者が壷に入れた酒を献上したことから、御酒(みき)、美壷(みつぼ)と呼んだのが始まりで、御酒⇒三木、美壷⇒美嚢(みのう)に転じた』とされています。(同上)
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天守台に登る階段の光景です。古絵図には、『矢倉』と記されている場所のようです。天守閣を作るには、少し狭い感じもした高台でした。本丸とは、目視で5メートル程の比高差のようでした。(同上)
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イチオシ
三木城の第5代の城主だった、別所長治公の辞世の句が刻まれた石碑の光景です。辞世の句は、『今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば』でした。(同上)
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辞世の句の石碑の脇にあった碑名碑です。『三木城主・別所長治公・辞世の碑』の文字が刻まれていました。自生の歌碑は、次に紹介する城主一族の歌碑と二つが建てられていました。(同上)
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城主一族の辞世の和歌を刻んだ石碑の光景です。全部で六首です。城主の長治の辞世の句は、別の石碑で既に紹介しましたが、長治公の妻の照子の辞世の和歌は、『もろともに消え果つるこそうれしけれ おくれ先立つならいなる世に』でした。(同上)
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天守台跡から見晴らした、三木市街の光景です。かつては城下町だった場所になるようです。天守台跡と呼ばれるこの場所には、物見櫓当たりが建っていた可能性もあります。(同上)
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同じく、天守台跡から見晴らした、三木市街の光景です。伸びた樹木を切り払えば、かなり見晴らしがよくなるようでした。(同上)
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天守台から見下ろした本丸方面の光景です。中央奥に鳥居が見え、その周りは、駐車場になっていました。観光客用の駐車場のようです。(同上)
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天守台から眺めた、カエデ(楓)らしい樹木の紅葉光景です。日光を浴びた葉裏からの眺めが、心地よい色合いになっていました。赤色というより、オレンジ色でした。(同上)
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同じく、天守台から眺めた樹木紅葉のズームアップ光景です。こちらの紅葉はカエデではなく、別種の樹木でした。先程のカエデより、少し色の濃いオレンジ色でした。(同上)
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『天守跡』の文字が刻まれた石標の光景です。天守台に登る石段の脇にありました。江戸時代になって、元和2年(1616年)、小笠原忠真を領主とする明石藩に編入され、元和3年(1617年)に幕府による一国一城令により廃城となりました。このとき、三木城の資材は明石城の建築部材に使用されたと伝えられています。
(追記)平成18年度の発掘調査資料に、『現在の天守跡は堀の推定ライン上に存在することから、廃城後につくられたものと思われます。ただ、平成15年度の調査で天守跡の北側の裾を別所時代の遺構面で確認しており、その地点から堀の北肩の推定ラインまでが約12mで『諸国古城之図』にある「天守台六間四方』に相当するので、堀に沿って12m四方の矢倉台が想定され、その矢倉台を基に後世に盛土されたものと考えています』との記述がありました。矢倉台跡の可能性が高いようです。(同上)
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