2017/12/05 - 2017/12/07
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旅人のくまさんさん
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大阪湾周りの名城巡りの紹介です。この日2箇所目の三木城の紹介の締め括りです。この後、この日最後の見学地の明石城に向かいました。廃城後の三木城の資材も使われたお城とされます。
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曹洞宗のお寺で、別所氏三木城との所縁が深い、『高源山・雲龍寺』の本堂光景です。大風の碑が猪でしょうか、大屋根の左側に青いシートがありました。寺伝によれば天徳2年(957年)、天台宗の僧良源によって創建されたお寺です。その後、平安時代後期の保元年間(1156~1159年)に兵火にあって荒廃しましたが、鎌倉時代後期に赤松氏によって復興されました。赤松氏は、別所氏の本家筋です。
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『高源山・雲龍寺』の境内と、周りの堂宇の光景です。本堂の左手には金比羅宮と羅漢堂、右手には庫裏があります。こちらは、右手の庫裏の建物光景になるようです。お寺の縁起紹介の続きです。元亨2年(1322年)、後醍醐天皇により現在の山号に改められ、室町時代には別所氏の帰依を得ました。天正6年(1578年)、三木合戦の兵火により焼失しましたが、秀吉から寺領を安堵されました。
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同じく、『高源山・雲龍寺』の境内と、周りの堂宇の光景です。本堂の左手にある羅漢堂と金比羅宮の光景です。左手前の金比羅宮は姿が見えていません。別所家の本家筋になる、赤松氏について少し紹介しておきます。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した氏族で、赤松氏は村上源氏の堀川大納言定房の孫の源師季に始まるとされますが、信憑性については疑問があるようです。
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『高源山・雲龍寺』にも神仏習合の時代があったのでしょうか、境内の一角に鳥居が建ち、金比羅宮が祀られていました。山門を潜った、左手になります。羅漢堂と渡り廊下で繋がっていました。
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鐘楼の光景です。『高源山・雲龍寺』は曹洞宗のお寺で、御本尊は釈迦如来とされますが、雲龍寺のパンフレットには、『十一面観世音菩薩』と記されています。明治時代までは『公寺』とされ、檀家は置かれなかったとされます。
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梵鐘の光景です。寺域の外れに、この後紹介する別所長治の首塚があります。毎年1月17日の別所長治公の命日には、秀吉の2年近い兵糧攻めで、城内では壁土の中の藁を食べたと言う言い伝えにより、藁を見立てたうどんを食べて当時を偲ぶ会が催されているようです。
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これで、一旦は『高源山・雲龍寺』の参拝はおしまいです。振り返って眺めた、山門からの本堂光景です。別所公の首塚には、外回りで向かいました。かつての三木城の縄張り図には、雲龍寺は二ノ丸の南側にあり、東には『鷹の尾」という物見櫓が配されています。三木城が築城される以前に、雲龍寺が創建されていました。
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雲龍寺山門に向かって右手にあった、一回り小振りで質素な造りの通用門の光景です。庫裏への出入口として使われているようでした。
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庫裏への出入口らしい門から眺めた寺内の光景です。周りに庫裏の建物が並んでいました。ここからは首塚に入れないようでしたから、門に沿って外回りで向かいました。
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庫裏への出入口らしい通用門の前から眺めた、山門方向の光景です。中央付近の屋根が鐘楼、その左奥が山門の屋根です。
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『高源山・雲龍寺』の前から眺めた、三木市街光景です。お寺に向かって緩やかな登り坂になっていましたが、道が見えなくなったその先からは、急な下り坂になっているようでした。
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『高源山・雲龍寺』の庫裏の建物光景です。唐破風の入口を持った、立派な二階建ての建物でした。白塀の横に古い石標がありましたが、文字は読めませんでした。
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イチオシ
『向うべの林拓かれ丹生を望むなぞへにうぐいすなくも 津玖紫』の文字が刻まれた、まだ新しい歌碑の光景です。同じ三木市内の本要寺には、『すみ色の薄れたれども秀吉の制札花押のあとたしかなり』の歌碑も建てられているようです。
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歌碑の傍らに建ててあった、『丹生短歌会主宰・原津玖紫化碑』の文字が刻まれた歌碑を紹介した石碑の光景です。ネット情報では、『原津玖紫先生は1902年の地元三木の生まれで日本歌人クラブ会員、「丹生」主宰』と紹介されていました。
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『三木城主・藤(?)和(?)長治公義所』らしい文字が刻まれていた石碑の光景です。『参(?)議院議員・三(正?)木与(?)志郎』らしい落款がありました。別所長治公の官位は、従四位下・侍従、通称は小太郎、戒名は、英應院殿剛覚性金大居士、『長治』の前の二文字を読み解くヒントが見つかりませんでした。『清和』源氏とも読めないようです。
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『三木城主・別所長治公・照子夫人・首塚』の案内看板の光景です。三木城開城にあたって、別所長治及び一族は、城兵と領民の助命の為天正8年(1580)1月17日、自刃しました。その後、長治の首級は安土の織田信長のもとに送られました。それを雲龍寺の住職春泰和尚が受領して埋葬したものです。
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正面から眺めた、別所長治公夫妻の首塚の光景です。五輪塔形式の墓石で、昭和17年(1942年)に補修され、昭和48年(1973年)、照子夫人の霊が合祀され、玉垣が築かれました。 因みに、長治公の遺体は、同じ三木市にある法界寺に埋葬されたと伝えられます。
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イチオシ
首塚とも呼ばれている、別所長治公夫妻の五輪塔のズームアップ光景です。季節の花が手向けられていました。五輪塔の文字は、何も読み取れませんでした。
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横から眺めた、別所長治公夫妻の首塚の光景です。首塚のエリアが新しい石柱で囲われ、その前に、立礼の礼拝所が設けられていました。
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『首塚記』のタイトルがあった木製パネルの光景です。末尾に、『帝国在郷軍人会三木町分会』の名前がありました。戦前・戦中の士気高揚に、長治公夫妻が担ぎ出されていたようです。
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少し離れた場所から眺めた、別所長治公夫妻の首塚があった方面の光景です。石垣が積まれ、少し高くなった場所に首塚がありました。背後に見える建物は、雲龍寺の庫裏の建物のようです。このお寺の住職の春泰和尚が、信長の安土まで実検が済んだ長治公夫妻の首を受取りに向かわれました。
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赤い花を咲かせた山茶花と、その下の石碑の光景です。石碑には『首塚由緒碑』のタイトルがありました。この後、その内容を紹介します。
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『首塚由緒碑』のタイトルがあった大きな石碑の光景です。カタカナを平仮名に置き換えた碑文の紹介です。『天正戦史の華とも言うべき三木合戦は、激戦二十有二箇月に亘った。天正八年正月十七日、府君別所長治公は遂に城を開き、辞世の歌を残し自刃さる』で始まっていました。その後の碑文の内容は、『首塚記』のタイトルがあった木製パネルとほぼ同じでした。この碑は、昭和34年(1959年)、三木市長名で建てられたものです。
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イチオシ
移築されたものかもしれませんが、三木城で使われていた石垣と、その上に置かれた記念碑の光景です。記念碑からは、碑文が記された銅板が剥がれ落ちていました。
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銅板に記された、『由緒の記』のタイトルがあった碑文です。『羽柴秀吉の軍勢を迎えうつこと1年10ヶ月、天正8年正月17日申の刻、三木城主別所長治公は将兵、領民の身がわりとなり、一族とともに自刃、その壮烈なる最期は武士の鑑みとして永く語り継がれ、その遺徳は正に永遠にして不滅であります』で始まっていました。
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碑文の後段部分の紹介です。『昭和17年、帝国在郷軍人会三木分会によって当首塚の補修が為され、さらに昭和48年3月、別所公奉賛会はさきに三木城再建の構想趣意に賛同され寄進された浄財と首塚修復に当たり寄せられた市民有志の浄財を以て茲に玉垣を建立、併せて照子夫人の霊を合祀いたしました。これは実に公の遺徳を偲ぶ三木市民の強い心のあらわれでありまして茲にその由緒を刻み、永くこれを顕彰するものであります。 昭和48年3月25日 別所公奉賛会』
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『真言宗高野山・月輪寺』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。三木大宮八幡宮と月輪寺は、神仏習合時代に一体だった寺社とされます。鬼追い之追儺は、月輪寺の本堂での法要で始まり、法要ののち、赤鬼、黒鬼、小鬼が法螺貝を吹き鳴らす山伏に先導され、大宮八幡宮の本殿へと向かうようです。
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『高野山・月輪寺』の文字が刻まれていた門柱光景です。境内には、毘沙門天像がありました。右手に櫓のような建物を持ち、足の下には餓鬼らしい像がありました。毘沙門天は、仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神です。独尊像としては『毘沙門天』、四天王では『多聞天』として表わされます。
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大宮八幡宮への登り道の石段です。立寄る時間はありませんでした。三木市本町二丁目にある神社です。この神社の創建年代については不詳ですが、赤松氏の一族の別所氏の崇拝を受けたと紹介されていました。(ウィキペディア)
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小山の樹木の褐葉光景です。この後、三木市文化会館で小休止し、次の見学場所の明石城に向かいました。元和4年(1618年)に築城された明石城には、廃城となった三木城の資材も使用されています。
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